壊れたアンナ
残酷な描写、倫理に反する描写を多く含みます。ご注意願います。
アンナに呼び止められたとき、あたしの驚愕は異常なものだった。あたしを探し求める、弱弱しいアンナの呼び声が、あたしの耳には裏切りを憎む険しい弾劾の声のように聞こえた。その声はあたしの胸の内に、良心の呵責と罪の意識を呼び醒ますと同時に、耐え難い恐怖で支配した。
その瞬間、あたしはアンナに背を向けて逃げ出してしまいたかった。恥をしのんで告白をすると、悪魔の化身があたしの心臓の上に圧し掛かっていて、あたしには払い落す力も残っていなかったんだ。
あたしは悪疫の息吹から逃れるように、あたしを責める断罪者から、無言のままで逃げようとした。なけなしの良心の呵責と罪の意識が、卑怯な罪人の足枷にならなかったら、あたしが転倒することはなく、啜り泣きに続く、アンナのきれぎれな独白を聞き逃してしまっただろう。
「リーナ……怒ってる? それとも呆れてる? あたしのことなんか見捨てて、何処かに行っちゃったのかな。リーナに置いて行かれちゃった。あたしの態度が酷いせいで。いつも怒って、大切なリーナに当たり散らしてばっかり……ごめんね、リーナ。……あたしね、リーナが変わらないでいてくれて、嬉しかった。本当に。嘘じゃないよ? だけど、すごく苦しくて、耐えられなくって、なんて不公平なんだろうって考えてばっかりで……それで、あんな、酷いこと……ごめんね。許して、なんて、言えないよね。リーナの優しさに、甘えられないよね。わかってる。わかってるの。でも、でも……ごめんね。お願い、許して」
アンナの罅割れた唇から溢れ出る、震える懺悔を聞きながら、あたしはあたし自身の正気を疑っていた。だって、信じられない。アンナは悔悟の涙を流さなくて良い。アンナは不幸を嘆き、運命を呪い、あたしを恨んで良い。泣いてお詫びをしなきゃいけないのは、あたしの方だ。アンナじゃない、このあたし。こんなことはあり得ないし、あってはならない。とうとう、あたしの頭はおかしくなったのか?
あたしは幻聴を振り払おうとして頭を振る。混乱し縺れた思考を解いて、あたしは愕然とする。妄想なんかじゃない。これが現実だ。可哀そうなアンナが、虚ろな眼窩に血の涙を溢れさせて、懺悔している。あたしの為に……そんな、まさか。
「ごめんね、ごめんね。あたし、やっと、わかったの。あたしは高い塔の家族の皆が好き。あたし達は傷つけ合ったけど、誰も悪くない。あたしは高い塔の家族の皆が大好き。リーナを妬んだり、ヒルフェ坊ちゃまを怖がったり、姫様を疑ったりして、ごめんなさい。あたしは高い塔の家族の皆を愛してる。あたし、やっと、わかったの。全部、あいつが悪いんだよね……ねぇ、リーナ……あたしはこれからもずっと、変わらずに、リーナのことが大好きだからね……」
膝の上に熱い雫がひっきりなしにしたたり落ちる。あたしの頬にとめどない涙が流れていた。膝の上で握り合せた両手にも涙の雫がしたたり落ちて、指の隙間をすり抜ける。母様のカメオにあたしの涙が伝う。閉じた瞼の裏に母様の苦々しい顰め面が浮かび上がり、突き放すような溜息が微かに聞こえた。幼いあたしが妙に甲高い声で、あたしを叱りつける。
(泣くなんてみっともないわ! 意気地なしね!)
唐突に、こどもの頃を思い出した。大きな失態を犯して、母様に呆れられてしまったら、あたしは独りきりになれる場所を探して、声を殺して泣いていた。失敗をしてしまったことも、母様を失望させてしまったことも、しくしく泣いていることも、情けなくって仕方が無かった。
そんなときはいつだって、アンナはあたしを探し出してくれた。何も言わずに寄り添って、一緒に泣いてくれた。悔しくって恥ずかしくって、堪らなかった筈なのに、顔を真っ赤にして泣きじゃくるアンナが隣にいると、あたしはいつの間にか立ち直っていた。アンナより先に泣き止んで、アンナを宥めれば、あたしは「しっかり者のリーナ」になることが出来た。
アンナが傍にいてくれるから。昔から、今だって、そう。
泣き虫でチビのアンナ。心から優しい娘。あたしの大切な妹。どんなに辛くても苦しくても、アンナが一緒なら、あたしは頑張れるんだ。
(意気地なし、意気地なし。あたしの意気地なし)
アンナの嗚咽は幾重にも重なる何かで包まれるかのように、細く小さく消え入りそうになる。あたしは跳ねるように立ち上がり、アンナとあたしを隔てるカシママの格子に飛びついた。
「アンナ!」
格子を強く揺さぶって、あたしは叫んだ。だけど、いくら呼びかけても、寝台から転がり落ちてしまったアンナは、啜り泣くばっかりだ。どうして、と目を凝らして見て、総毛立った。アンナの耳殻は血で真っ赤に染まっている。耳孔からとめどなく血が流れていた。酷い。アンナはきっと、耳が聞こえなくなってしまったに違いない。アンナは自由ばかりか、光も、音さえ無くしてしまったんだ。
「アンナ、アンナ……なんてこと……なんてことなの、嗚呼、アンナ……」
へなへなとへたり込んだあたしの背後に覆面の大男が立つ。大男は、あたしとリーナを隔てる扉を開き、半身をずらしてあたしの為に道をあけてくれた。
あたしはお礼も言わずに、独房に転がりこむと、冷たい床にうつ伏せに倒れこんだアンナを抱き起こした。
アンナの体は悲しい程に軽かった。右手で支えた頭は、艶やかな黒髪が無残に引き千切られ、ところどころ斑に頭皮が露出している。痩せ細っているのに、お腹だけが大きく膨らんでいて、恐ろしく、痛々しい。あたしはアンナを抱きしめて、華奢な肩に顔を埋めた。
「アンナ、ごめんね。ごめんね……アンナ」
あたしは号泣した。もう届かない謝罪の言葉を、ただ只管に繰り返す。
あたしはバカだ。あたしが恐れるのは、裏切り者になってしまうことじゃない。アンナに恨まれることじゃない。大切な家族に傷つけられることじゃない。あたしが最も恐れるべきことは、家族を失うこと。大切な妹のアンナを守れないことだった。
それなのに、嗚呼、それなのに! あたしはなんて愚かなんだろう!
アンナは今、あたしの腕の中に力無く体を投げ出している。あたしがここにいることすら、アンナに伝えることは出来ないのかしら。
あたしの涙で濡れそぼった、アンナの細い肩を震える。枯れ細った咽喉から、アンナは誰何を絞り出した。
「リーナ……? リーナなの?」
体中が歓喜に沸き立つ。あたしは何度も頷いて、アンナをぎゅっと抱きしめた。あたしの感動はアンナに伝わったんだろう。アンナも体を震わせて泣きだした。
「リーナ……まだ、ここにいてくれた。ありがとう、リーナ。ごめんね、リーナ。好き。大好き、リーナ」
過酷な状況でなお、リーナはあたしを思いやってくれる。あたしは言葉に詰まった。
「……アンナっ! 大丈夫、もう、大丈夫よ! 一緒に逃げよう。今度こそ、あたしがあんたを守るから!」
あたしは嗚咽とともに叫んだ。あたしの心臓は力強く鼓動している。あたしをおさえつけていた悪魔が消し飛んで、心臓は熱い血潮に無限の勇気をのせて、あたしの体の隅々まで行き渡らせた。
燃えるように熱を帯びる指先でアンナの頬を撫でる。アンナの蒼褪めた肌に熱を擦り込む。あたしの言葉は届かなくても、あたしの想いはきっと、過たずアンナに届いただろう。アンナはぎこちなく微笑んだ。
「ありがとう。ありがとう、リーナ。好き、大好き、リーナ。リーナはやっぱり、あたしの自慢の姉様だよ。ねぇ、リーナは、どう? あたしのこと、好き? こんな、怪物みたいになっても、あたしはまだ、リーナの可愛い妹?」
「あたりまえじゃない!」
「ねぇ、リーナ。あたしのお願い、きいてくれる?」
「もちろん、いいわ。なんでも言いなさい。あんたの願いは、なんだって叶えてあげる。これまで、ずっとそうしてきたでしょ。これからも、ずっとそうするわ! 大好きよ、アンナ。あたしの可愛い妹。あんたのことが大切なの。愛してるのよ」
絶対の誓いは、灼熱の焔のようにあたしの心を燃え上がらせる。あたしは気炎を吐いた。
「あんたを守る。もう二度と、アンナには誰も、指一本、触れさせない。傷つけさせない。こんな残酷なことは許さない! 今度こそ、あんたの為の盾になる!」
アンナはあたしの首筋に頬ずりをする。甘ったれた仕草が愛おしくて、胸が苦しい。抱き寄せると、アンナはあたしの、耳殻のない耳孔に唇を寄せて囁いた。
「リーナ、お願い。ニーダー・ブレンネンを殺して」
アンナの囁きは、それから急に高まって、一つの連続した金切り声に変わる。地獄におちて悶え苦しむ亡者の嘆きと、地獄におとして喜ぶ悪魔の哄笑が、咽頭から一緒になって放たれた。
「殺して。刺して、穿って、貫いて、殺して。切り刻んで、細切れにして、八つ裂きにして、殺して。全てを奪って、夢も希望も、安らぎも慰めも、矜持も理想も、焼き尽くして! 最悪の方法で辱めて、最悪の苦痛で責め抜いて殺して! あたし達の犠牲の下に跪かせて、許しを乞わせて。決して許さないで、殺して。もっと苦しめて、もっともっと、苦しめて殺して。汚らわしい肉体を完膚なきまでに破壊して、邪悪な魂を木端微塵にして、ニーダー・ブレンネンを殺して!」
なかば狂気の、なかば恐怖の、慟哭するような悲鳴にあたしはうたれて、極度の恐怖と畏懼との為に、その瞬間、気が遠くなった。
あたしは愛しい妹を胸に抱いている。あたしの腕の中で、アンナは空っぽの眼窩に青白い憎悪の焔をめらめらと燃え上がらせていた。強張るあたしの腕の中で体を震わせて、アンナは魂を削るように叫び続ける。
「全部、あいつの所為なの! 全部、あいつが悪いの! ねぇ、そうでしょう? そうじゃなきゃ、おかしいもん。あいつは悪魔なんだよ。邪悪な魔法で、皆を狂わせた! ねぇ、リーナ、そうだよね? あたし達家族は傷つけ合ったりしない。ヒルフェ坊ちゃまはあたしに酷いことしたりしない。姫様はあたし達の不幸を見て見ぬふりしたりしない。そうだよね、リーナ、あたしの姉様? あいつの所為でしょ? そうでしょ? そうに決まってる。だってそうじゃなきゃ、リーナがあたしを見捨てる筈ないもんねぇ!?」
アンナは陸に打ち揚げられた魚のように、あたしの腕の中で身を躍らせる。アンナはけたけたと笑っている。アンナはいつも楽しそうに笑っている娘だった。こんな風に、誰かを呪って笑える娘じゃない。
あたしは言葉も無く、戦慄し、思い知っていた。
あたしはやっぱり浅はかな小娘だ。これほどの目にあって、どうしてアンナが、正気を手放さずにいられるだろう。優しいアンナにはこんな残酷な運命を耐えることなんて出来ない。
あたしとアンナは、重なり合った胸と胸とが狂おしい動悸を合わせている。体をドロドロととき解してしまったら、ひとつになれるような気さえした。
あたしは口角を吊り上げてみる。頬が引き攣れて痛む。愉快な気持ちなんて微塵もない。だけど、あたしは敢えて笑おうとした。アンナと一緒に哄笑しようとした。アンナの心をおかした狂気を、あたしも受け容れる為に。
「そうね、アンナ。あたし、あんたの剣になる。ニーダー・ブレンネンの暴虐を絶対に許さない。どれだけの時間がかかっても、どれだけの苦難があっても、あたしは復讐を成し遂げる、成し遂げてみせる! どれだけの犠牲を払っても、必ず!」
あたしは叫んだ。血を吐くようだった。
あたしは奇跡の魔法を夢に見ていた。願いはきっと叶う。信じていれば救われる。そんなお伽噺を信じていた。心が砕け散って、ようやく、あたしの子供時代は終わりを告げた。
神様はあたし達の苦しみをご覧になっても、あたし達を救わない。悪魔はあたし達を堕ちるところまで堕としてもまだ、足元を掬って、更なる深みに引き摺り込もうとする。
あたしはちっぽけな小娘だ。思い上がっているけど、本当はそんなに強くない。あたしは卑怯で臆病な裏切り者だ。アンナの心を深く傷つけた。あたしは自分自身の弱さの所為で、掛け替えのない大切なものを失った。
そんなあたしに出来ることは、憎むこと。壊れてしまったアンナと一緒に憎むこと。憎しみだけを、生きる全てにすること。
吊り上げた眦が裂けて、血の涙が流れる。頬を伝い落ちる真紅の雫が、アンナの頬を濡らすそれとひとつに溶け合い、あたしとアンナの思いは一つになった。
アンナがあたしを見上げる。空っぽの眼窩に絶望を覗かせて、アンナは赤黒い涙を流した。
「リーナ、お願い。あたしはもう、こんな苦しみには耐えられない。だけど、ねぇ、リーナ。あたしの変わりに、この子を連れて行って。この子に、あいつの血を啜らせて、肉を食い千切らせて、骨も残さずに奪わせて! ニーダー・ブレンネンの悪意が生んだこの子に、悪魔の血の味を、肉の味を、復讐の愉悦を味あわせてあげて。あたし、この子の目でずっと、ずっと、見てるから。だから、あたしを」
あたしはアンナの大きなお腹に掌を添えていた。かたく張り詰めたお腹の内側から、赤ん坊が蹴っている。ぼこん、ぼこん、とアンナのお腹が波立つ。アンナは顔を歪めて、喉を切り裂くように絶叫した。
「死なせて!」
ダメよ。死んじゃダメ。あたし達は宿り換えが出来るのよ。損なわれた体を取り戻せるのよ。お願いだから、諦めないで。
そんな残酷な慰めは、もう言えない。
宿り替えをして、新しい体を手に入れて。体の傷が跡形も無くなっても、アンナの苦しみは消えない。生きている限りずっと、思い出して、苦しまなきゃいけない。他の家族の皆も、きっとそう。
壊れてしまった魂には、生きている限り、救いが無い。だから、アンナが望む通りにしてあげなきゃ。
「いいわ、アンナ。約束したものね。あんたの願いは、なんだって、あたしが叶えてあげる」
あたしはアンナの肌に爪を立てる。悲劇の赤ん坊が宿るお腹を、こじ開けるように引き裂いた。
 




