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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十七話 《喪失》
166/227

間違った選択

残酷な描写を含みます。ご注意願います。

 あたしはアンナの疑問に応えようとして唇を開く。だけど何も言えず、魚みたいに、口をぱくぱくさせた。罪の意識が、あたしから言葉を奪ったんだ。


 熊男は目敏く、あたしの躊躇いを見抜いていた。口籠るあたしに変わり、嬉々としてアンナの疑問に応える。


「なにも。このお嬢ちゃんはここでずっと、何をするでもねぇ、何をされるでもねぇ。特別に、お勤めを免除されているのさ。よく食ってよく寝て、時々は癇癪を起こす。やることはそれだけだ。不公平だと思うだろうが、陛下のご意向ってやつだからよ。こればっかりは、どうしようもねぇ。なぁ、アンナちゃん。どう思う? お前らが汗みずくになって、せっせとお勤めに精を出す間、このお嬢ちゃんは日がな一日、隅っこで膝を抱えて、ぼんやりしてやがる。まったく気楽なご身分だよなぁ? 羨ましいだろう。俺だってたまに羨ましくなる。そうだそうだ、アンナちゃんよ。お前らがどんなに苦労してるのか、呑気に暮らすお嬢ちゃんに、もう話してやったか?」


 熊男はアンナの牢の格子に背を預け、腕組みをして体を落ちつけると、窄めた肩越しに振り返った。可哀そうなアンナに同情する様な素振りに腹がたつ。熊男は、アンナに酷いことをした張本人ではないのかもしれない。だけど、同じ穴の狢だ。機会があれば、この野蛮な男は嬉々として、アンナを責め苛むに違いない。そんなゲス野郎に、アンナに馴れ馴れしく話しかける資格はない。


 だけど、あたしには熊男を怒鳴りつけることが出来なかった。熊男の羞恥心なき厚顔無恥に義憤を感じるより、あたしは突きつけられた自身の厚かましさに気をとられ、狼狽していたから。


 この狭い檻の中で、あたしが膝を抱えてめそめそしている間に、家族の皆に……あたしの可愛い妹のアンナに課せられた「お勤め」はきっと、無慈悲で残酷で、地獄の責め苦に等しかった。あたしだけがそれを免れた。免れてしまった。


 沈黙は、限界まで引き絞りはちきれそうな弦のよう。アンナの視線は、あたしに狙いを定めた矢の矢尻のよう。それらはまるで、あたしの裏切りを責め詰るかのよう。不安があたしの心に投じた波紋は、瞬く間に広がって恐怖になる。磔にされたかのように、あたしは身動ぎも出来なかった。




 熊男が去り、あたしとアンナは二人きりになった。あたしは淀みなく流れるように喋り続けた。高い塔の家族の素敵な思い出は、きっと、アンナを笑わせてくれる。アンナが笑ってくれたら、あたしの不安は消えて無くなる。今のあたし達に必要なのは、残酷な現実じゃなくて、優しい思い出だから。


 あたしの呆れちゃう失敗談、その他にも色々ある、家族の笑い話を面白おかしく語る。話していると、あたしは愉快な気持ちになる。アンナも愉快な気持ちになれると思った。だけど、アンナはくすりとも笑ってくれない。アンナはちょっとしたことでよく笑う娘で、あたしをしばしば呆れさせていたのに。焦ったあたしには、アンナの沈黙の意味を考えられなかった。

 あたしはとっておきの話をした。ヒルフェ坊ちゃまの仕掛けるくだらない悪戯の話だ。そうしたら、アンナは顔色を変えた。


「やめて」


 あたしはしばらくの間、ぽかんと口を開いて、間抜け面を晒していた。冷たく突き放すアンナの声を聞いたのは生まれて初めてだった。絶句するあたしに、アンナは重ねて言った。


「やめて。そんな話、しないで」


 アンナが纏う苛立ちが空気を伝いあたしを痺れさせる。あたしは胸を抑えて、息苦しさに喘いだ。


(ヒルフェ坊ちゃまは家族の誰よりも、アンナを笑わせていたのに、どうして? どうして、いやがるのよ? どうして?)


 どうして? どうして? 頭の中を、答えが得られない疑問がぐるぐると駆け巡る。何がいけなかったのか、考えるべきだったのに、出来なかった。思い出に裏切られたと感じて、身勝手な傷心を隠しもせずに、あたしは問い掛ける。


「どうして?」

「アンナ……何も知らないんだね」


 アンナは気力を振り絞り、赤黒く腫れあがった顔をあたしに向ける。灼熱の怒りが渦巻く双眸に射られ、あたしは震えあがった。極寒の氷の湖に放りこまれた心地がした。アンナが告げた真実は、あたしの鼓動さえ凍りつかせる。


「ヒルフェ坊ちゃまなの。あたしを傷つけたのは、ヒルフェ坊ちゃまなの!」


 雷電にうたれたようだった。胸に穿たれた黒い穴に体中の熱が吸い込まれて、魂が体から剥がれかける。感じられる世界には、色も形も重みもなくなる。朦朧としながら、あたしは否定の言葉を繰り返す。


 嘘だ。違う。そんな筈はない。だって、ヒルフェ坊ちゃまだもの。いつも目をきらきらさせて楽しいことや愉快なことを探している、いつまでたってもこどもみたいな、ヒルフェ坊ちゃま。アンナと結託して、バカみたいな悪戯をあたしに仕掛けては、あたしを喚かせていた。


 思い出の中で、悪戯を成功させたヒルフェ坊ちゃまとアンナが手と手を打ち合わせている。怒り狂ったあたしが追いかけると、二人は手を取り合ってはしゃぎながら逃げてゆく。あたしはすぐに二人に追いついて、二人の首根っこを掴んで捕まえていた。


 だけど、心に思い描く二人の背中はどんどん遠ざかっていって、白く霞んで見えなくなってしまった。


 あたしは頭を振った。信じられない。悪い夢を見ているとしか思えないわ。


「……そんな、そんなわけ……」

「あるんだよなぁ、それが」


 いつの間にか、熊男が戻って来ていた。流動食が盛られた器を左手に持ち、右手の人差指に引っ掛けた鍵束の輪をくるくると回している。熊男は頭を擡げてあたしを睨みつけるアンナを見て、口笛を吹いた。


「食い物を持って来てやったんだが……こいつは驚いた。アンナちゃん、だいぶ良くなったな。これならすぐにでも、お勤めに復帰できるんじゃねぇか」


 熊男が気楽に言うと、アンナは声にならない悲鳴を上げ、不自由な身を捩り半狂乱になる。男の言葉はアンナにとっては死の宣告よりも過酷なものだった。あたしははっと我に返ると、慌てて熊男に食ってかかった。


「待って、待ちなさい! アンナに何をさせるつもり!?」

「おいおい、アンナちゃんが、ぼろぼろの体に鞭打って、一生懸命話してくれただろうが。ちゃんと聞いてやれ。坊ちゃまと熱烈に愛し合って、元気な赤ん坊を次から次へとぽこぽこ産むのが、アンナちゃんのお勤めなんだよ。なぁ、アンナちゃん? 坊ちゃまにまた会えるぞ、嬉しいなぁ? お前、あの小僧に熱を上げてんだろうが? ま、小僧のせっかくの結構な面構えは見る影もねぇし、頭はいかれちまっているけどよ」


 あたしは黙りこくっていた。言葉が出てこなかったんだ。ただ、震える吐息が唇を震わせ、情けない言い訳が漏れ出した。


「知らない……あたし、そんなこと知らない」

「そうだろうな? 特別なお嬢ちゃん」


 熊男はアンナに目配せをする。アンナは何も言わない。瞼に閉ざされた眼差しが、あたしに向けられているのを感じる。無言の非難と深い落胆が、胸を締め付ける重い痛みとなって迫ってくる。


 あたしはへなへなとへたりこんだ。母様のカメオが力を失った指の間からこぼれおちて、冷たい床に転がった。




 あくる日、熊男が告げた通り、アンナは連れて行かれた。あたしはどうしていいか分からず、途方に暮れていた。熊男が言っていた通り、あたしは部屋の隅で膝を抱えて、ぼんやりしていた。どれくらいの時間が経過したのか分からない。戻って来たアンナは酷く憔悴していた。あたしは弾かれるように立ち上がり、格子に駆け寄る。すると、アンナは鋭くあたしを睨み上げた。


「何を見てるの? 傷が見たいの? 見たいなら見せてあげる。これをやったのは、ヒルフェ坊ちゃまだよ。信じられる? ヒルフェ坊ちゃまはね、しょっちゅう噛みついてくるの。噛みちぎられるのだって、珍しくない。……どう? 驚いた? そうだよね、リーナには想像もつかないよね。ねぇ、どうして、駆け寄って来たの? どうして、あたしに手を差し伸べているの? どうして見せつけるの? 醜いあたしへのあてつけのつもり? ……ねぇ、リーナ。泣いてるの? あたしのかわりに泣いてくれるの? あたしの涙はね、枯れちゃった。あたし、からからに干からびてるんだ。リーナの涙、きらきら光って、宝石みたいに綺麗だね。リーナは綺麗だもんね。ちっとも変わらない。あたしは、変わり果てちゃった。あたしだけじゃない、家族の皆がそう。変わったってことも忘れかけてた。皆は忘れちゃったのかも。リーナを見ていると思い出すなぁ。あたしも綺麗だった。今はこんな有様だけど。……リーナの嘘つき。なにが『ちっとも変わらない』よ。なにが『可愛い妹』よ。あたしは変わった、変わり果てた! 今日ね、鏡で自分の姿を見せられたの。ぞっとした。まるで、怪物みたい! こんな姿になって……あたし、こんな姿になって、どうしてまだ、生きているんだろう! ……死んじゃダメ? 宿り換えが出来ることを忘れないで? 体を取り戻せる? バカなことを言わないで! どうやって!? ねぇ、どうやって取り戻すの? 逃げることも、死ぬことすら出来ないんだよ! どうやって宿り換えるって言うの!? 気休めなんて聞きたくない。もう放っておいてよ! 殺してくれないなら、放っておいて! これ以上、あたしを惨めにさせないで!」


 あたしは、アンナをまともに見られなくなった。アンナに声をかけられなくなった。あたしは隅っこで縮こまり、震えている。アンナが金切り声で叫んでいる。あたしを呪う言葉かもしれない。あたしは耳を塞いだ。


 あたしはアンナに呪われている。当然だ。あたしは卑怯者だから。あたしは裏切り者だから。


 たぶん毎日、アンナは連れて行かれる。ぼろぼろになって帰って来る。気絶したアンナを寝台の上に放り出した熊男は、ニーダー・ブレンネンから言伝を預かっていると言った。


「私は人喰いの繁殖を試みている。健やかな若者が望ましい。お前の兄、姉、妹はその為に生かした」


 熊男はにやにやして、ニーダー・ブレンネンの口調を真似ていた。


「お前には別の役目を用意してある。だが、先日にお前の口より語られた『決して断ち切れぬ家族の絆』とやらに胸を打たれ、感銘を受けた。大切な妹の為にその身をなげうつ覚悟がお前にあるのなら、尊きその自己犠牲の精神に敬意を払い、お前と妹の役割を入れ替えよう。その場合、妹は厚遇される。今のお前のように。選択はお前に委ねた。綺麗事ばかり並べる輩は、総じて、いざとなれば尻ごみをするが『高い塔の家族の絆は悪魔にさえ奪えない』と豪語するお前は、その限りではないことを期待している」


 さぁ、選べ。と笑った熊男の顔に、悪魔の銀色の嘲笑が透けて見えた。


 アンナが、惨い男どもに嬲られていると思い込んでいた頃のあたしには、アンナの身代わりになる覚悟があった。


だけど、今のあたしには、その覚悟が無い。


 あたしは怖い。壮絶な拷問の末に心が壊れてしまった家族が怖い。あたしは会いたくない。残された家族はあたしの心の拠り所だった。取り返しのつかない崩壊を目の当たりにした時に到来する絶望は、死ぬよりもっと恐ろしい。


 そうして、あたしはアンナを見捨ててしまった。


 それからのことは、何もかも、あたしが悪かった。あたしは臆病になってしまった。家族の皆がどんなに惨いことを強いられているのか、知ろうとしなかった。怖かった。あたしは家族を思い遣るより、あたしの心を守ることを優先してしまった。あたしはバカだ。死ぬ程、後悔はしている。だけど、あたしが死んだって、取り返しはつかない。


 あたしは間違った選択をしてしまった。ニーダー・ブレンネンは本物の悪魔だ。その悪意は猛毒。あたしの心を蝕み腐らせることなんていとも容易い。


 悪魔の顎に捕らわれたなら、諦めて死を待つしかなかったんだ。抗うなんて考えちゃいけなかった。あたしは愚かさのつけを払わされる。あたしは最低最悪の裏切り者になってしまった。



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