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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十七話 《喪失》
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母を亡くした子

 華奢な金の鎖に吊るされた真紅のカメオの揺り戻しを、目で追う。格子の隙間からいけぞんざいに放り込まれたカメオが仄暗い牢獄の陰鬱な空気に描く放物線を、目で追う。カメオは高く澄んだ音を立てて石畳の上に落ちて、跳ねて、また落ちた。


 命のきらめきをなくした虚ろな輝石に浮き彫りになるのは、鋭く冷たく拒絶する、寂しい横顔。あたしの母様だ。見間違えるわけがない。あたしはこの横顔をずっと、ずっと、見上げてきたんだもの。

 あたしが頑張って背伸びをするのは、母様の視界に入りたいからだ。母様を追いかけるんじゃなくって、母様の隣に並びたかったからだ。


 母様とあたしは、はたから見ると、しばしば、為さぬ仲に見えるらしい。母様はひとり娘のあたしを厳しく躾けた。母様に褒められたり、優しく励まされたりした記憶はない。母様の本物の笑顔をあたしは見たことがない。小母さまや小父さまがこっそり、母様とあたしの仲を心配していることは知っていた。あたしが高い塔の家族を捨てたゴーテルの娘だから、母様はあたしに辛く当たるんだろうって、ご主人様が心を痛めていらしたことも知っていた。皆の心配はまんざらの杞憂でもないってことを察してもいた。だからって、あたしは母様を恨めしく思っちゃいない。


 あたしがまだ小さかった頃。母様のお誕生日に、あたしは母様には内緒で、母様のお部屋に忍び込んだことがあった。きれいにお掃除して、母様に喜んでもらおうって魂胆だった。

 きっかけは、きっと些細なこと。お節介な小母さまが「どうしてそんなにリーナに厳しくするの。たったひとりの娘が可愛くないの?」って母様に詰め寄っているところを見てしまって、小さいなりに、思うところがあった。あたしが良い働きをして、母様に褒めてもらえたら、母様をやりこめたぞって得意になってた小母さまを見返せると思ったんだ。


 几帳面な母様のお部屋は、あたしがお掃除するまでもなく、清潔で整理整頓が行き届いていていた。だけど、あわよくば母様に褒めて貰えるかも、なんて浮足立ったあたしはそんなことお構いなしで、気合いを入れて腕まくりをして、母様のお部屋をひっくり返した。


 そして、机の抽斗の奥に仕舞いこまれた、押し花を見つけた。しまい込まれて、それきり、忘れ去られたってわけじゃなさそうだ。台紙の端は少しだけよれていて、陽に焼けて変色している。母様はこの押し花を頻繁に取り出して、手にとっているんだ。あまり物事に執着しない性質の母様が、そんなことをするなんて珍しい。あたしは興味を惹かれて、押し花を眺めまわした。


 二股に分かれた細くかたい茎と、小さな葉に抱きかかえられるようにして咲いた、浅葱色の小さな花。台紙の裏に、短いメッセージが添えられていた。


『やさしいシーナ姉さんへ、おれの好きな花を、愛を込めて』


 あたしは訝しんだ。こんな下手くそな字を書くのは、いったい誰? 間違いだらけの、ぶっきらぼうなメッセージと睨みっこして首を傾げていたら、母様が部屋に戻って来た。しまった、見つかった。って、あたしが慌てる暇も無かった。血相を変えた母様は、あたしから押し花を取り上げると、あたしの頬を張り飛ばした。母様に手を上げられたのは、後にも先にもこれきりだった。


 母様の部屋を追い出されたあたしは、母様の部屋の扉に張り付いて離れなかった。母様の怒りは尋常じゃなかった。あたしはすっかり震えあがっていて、母様のお許しがあるまで、梃子でもその場を動かない心算だった。ところが、いくら謝っても、言い訳しても、かき口説いても、泣いても喚いても、母様は扉を開けてくれない。見るに見かねた小母さま達が取り成そうとしてくれたけど、母様は頑としてあたしの謝罪を聞き入れなかった。心配したアンナに袖をひかれるまで、あたしは扉の前でずっと泣いていた。アンナを連れて部屋に戻る間も、悲しかったし、悔しかった。腹を立ててもいた。


『小母さまの言う通りだ。母様はあたしのことなんか、可愛くないんだ。だから意地悪するんだ。あたしだって嫌いだ。優しくない母様なんか、大嫌い!』


 あたしは不貞腐れて、捨て鉢になって、金切り声をあげて喚き散らした。あたしの剣幕に怯えたアンナがおろおろしていて可哀想だったけど、あたしの心はささくれていて、アンナに構ってなんかいられなかった。あたしは母様に捨てられたと思い込んでいた。


 だけど、皆がぐっすり眠り込む夜更けに、母様が足音を忍ばせてあたし達の部屋にやって来た。母様は狸寝入りを決め込むあたしの、赤く泣き腫らした瞼に慰めるようなキスを落とす。びっくりして硬直するあたしの髪を撫でながら、母様はあたしの耳元で囁いた。


『ごめんなさい、リーナ。私はずっと、素直になれなくて、優しくしてあげられなくて……本当にごめんなさい。愛しいゴーテルの贈り物、あなたは私の宝物よ。あなたには誰よりも幸せになって欲しいの……愛しているわ』


 最初、あたしはこれが夢だと思った。だって、母様がそんなことを言うなんて、まったく想像も出来なかったんだもの。上掛けの中でもぞもぞ身じろいで、太股を思いっきりつねってみて驚いた。物凄く痛かったから。


 アンナがむにゃむにゃと寝言を言って寝がえりをうつと、母様は音も無く身を翻して部屋を出て行った。だけど、母様の唇の優しい感触はいつまでも瞼の上に残っている。つねった太股の痛みが消えても、母様の温もりはいつまでも消えない。

 あたしはがくがくと体を震わせて泣きじゃくった。目を覚ましたアンナが、リーナが大変、って大騒ぎしたけど、とめどなく溢れる涙と嗚咽を堪えられなかった。


 次の朝、いつもの顰め面の母様は、いつも通りで、余所余所しくて、厳しかった。だけど、どんなに素っ気なくあしらわれても、きつく叱責されても、あたしはもう、へこたれない。母様が置いた適切な距離を間違えることもない。


 あの夜、あたしは謎めいた母様の心の中をちょっとだけ覗いた。母様は可哀そうなひとだ。母様と結ばれることが決まっていたのに別の女性に夢中になった不誠実な男を、身重の母様を捨てた情け容赦のない男を、ずっと想い続けてきた。あたしのことだって、本当は愛してくれていた。母様を氷の棘を纏って凛と咲く漆黒の薔薇に喩えた庭師の小父さまも、同調する家族の皆も、誰も知らない。本当の母様は誰よりも感じやすく、情の深い女性なんだ。


 あたしは母様に憧れていた。母様みたいになりたかった。母様みたいな立派な働き者になって、家族の皆に認められて、頼りにされたかった。母様が胸を張って誇れる娘になりたかった。そうすれば、叶わない恋を忘れられなくたって、お腹を痛めて産んだ娘を素直に愛せなくたって、誰も母様を非難できない筈だもの。


 それなのに、それなのに、どうして? あり得ない、あり得る筈が無い、こんな、こんな酷いこと。


 あたしは震える両手でカメオを掬い上げた。手にしてみれば、わかってしまう。これは、土から掘り出される石ころなんかじゃない。これは、石の心臓の抜け殻だ。石の心臓はあたしたちの命の源。あたしたちの命は、石の心臓の中で燃え上がるもの。命の焔が儚く消えてしまった抜け殻は、氷よりも冷たくて、羽よりも軽い。


 抜け殻の表面で、母様の横顔は白く凍りついている。あたしがどれだけ頑張って背伸びをしても、母様の隣に並べるようになっても、母様がこっちを向いて微笑みかけてくれることは無い。母様は、もういないんだから。


 いつか母様に『頑張ったわね、偉いわ』って、褒めて欲しかった。だけど、その願いは叶わないんだ。母様は死んでしまった。もう二度と会えない。


 取り返しのつかない喪失が、あたしの胸の奥にぽっかりと風穴を空ける。あたしを支える強い意思が怒涛の勢いで流れ出してしまうのが分かる。まずい兆候だって、頭では分かっているのに、止められない。あたしの体は末端から、冷え冷えとした絶望に蝕まれてゆく。どっと圧し掛かってくる虚無感に抗えず、心が拉げそうだ。


 もう終わりだ。もうどうしようもない。あたしは瞼を下ろした。何もかもどうでも良い。目を開けているのすら億劫だ。


 閉じた瞼の上に、ふとしも、母様の唇の感触がよみがえる。びくりとして瞼に触れると、火が点いたみたいに熱かった。瞼の裏に、あたしにキスをして、走り去る母様の後ろ姿が浮かぶ。ニーダー・ブレンネンの刃に串刺しにされた母様の姿が浮かぶ。

 熱い塊が腹から胸にせり上がり、鋭い痛みを伴って、喉まで込み上げてくる。涙が溢れた。身を縮め、胸を押し絞るようにして、あたしは泣いた。


 母様に会いたい。言葉なんか要らない。笑ってくれなくても、抱きしめてくれなくても良い。何も要らない。ただ、生きている母様に一目で良いから会いたい。


「シーナは冷たい女だった。そうであっても娘は、母を亡くした悲しみに涙を流すのだな」


 冷淡な言葉が頭上から降ってくる。あたしはしゃくりあげながら、胸いっぱいに息を吸い込み、歯を食いしばった。呻き声と一緒に息が漏れて、激しく咳き込んでしまうけど、泣き止もうとする努力は止めない。涙に滲む視界に捉えた銀色の嘲笑を、睨みつける。腹の底から際限なく湧き上がる憎悪をこめて、あたしは叫んだ。


「悪魔め……よくも、よくもあたしの母様を……!」


 ニーダー・ブレンネンは肩を竦める。少しも悪びれることなく、鷹揚に頭を振った。


「シーナはゴーテルに懸想し、操を立てると誓ったそうではないか。私は、誓いを破るくらいならば死を選ぶと言う、あの女の意思を尊重してやったのだ。さらには、残された一人娘にこうして母の形見を授けてやった。慈悲を与えた心算が、まさか悪魔と罵られようとは」

「黙れ!」


 あたしは怒声を張り上げた。体中が怒りと憎しみの火の玉のように燃え上がっている。猛り狂う激情が誘うままに、罵声を浴びせてやりたかった。だけど、ニーダー・ブレンネンの冷笑を見る限り、千の言葉を尽くしたところで無駄だろう。良心の無い人殺し、残酷な悪魔、最悪の怪物。どんなに悪し様に罵ったところで、ニーダー・ブレンネンはそよ風に吹かれたに過ぎないと受け流すに決まっている。ニーダー・ブレンネンには想像力が無い。人の心の痛みが分からないし、分かろうともしない。


 それでも、どうにかして、鷹揚に構える憎らしい男の心に食い込みたい。この心の痛みを、ほんの一欠片で良いから、思い知らせてやらなきゃ、気がすまない。

 あたしは荒れ狂う感情の激流を祈りで鎮めるように、胸の前で両手を握り合せた。


 ニーダー・ブレンネンがわざわざ足を運んだ理由がわかった。悪趣味極まりない思惑の為だ。この悪魔は、母様を亡くしたあたしがうろたえて、悲しみ嘆く様子を観賞して悦に入りたいんだ。


 両手で包み込んだ母様のカメオを強く握りしめる。あたしの母様を殺した悪魔の思い通りになって溜まるものか。


 心を冷気で幾重にも覆って、冷静さを取り戻そうとする。

 だけど、氷の美貌に見下ろされると、冷気は他愛なく吹き散らされた。噛みしめた歯の間から、涙に濡れた呻きが漏れ出してしまう。


「母様からゴーテルの愛を奪ったミシェルの息子に……お命まで奪われるなんて……可哀そうな母様……」


 泣き言を漏らしてしまう。ろくに自制も出来ない、心の未熟さが悔しくて、あたしは歯噛みした。あたしの悲嘆は、ニーダー・ブレンネンを楽しませてしまっただろう。


 ところが、あたしの予想に反して、ニーダー・ブレンネンは顔色を変えていた。


 白銀の煌めきが一閃する。喉元に鋭い痛みを感じて、あたしは息をのんだ。ニーダー・ブレンネンは目にも止まらぬ早技で抜刀して、あたしの喉に刀の切っ先を突き付けていた。


「口を慎め。国母への不敬は許されぬぞ」


 あたしは呆気に取られてニーダー・ブレンネンの暈色をまじまじと見返す。驚愕の波がひくと、何が起こったのか理解することが出来た。暗く淀んだ感情が、あたしの心をじわじわと侵食していった。


 あたしは今、完璧な残酷さに鎧われたニーダー・ブレンネンの心を抉ってやったらしい! ミシェルだ。悪魔の母親。あたしの母様を苦しめた張本人。ミシェルへの悪意が、ニーダー・ブレンネンの心に食い込む!


 あたしは乾いた唇をゆっくりと舐めた。ふつふつとわき上がる憎しみが、歪な弧を描く唇をついて飛び出す。


「その偉大なる国母を輩出したのは、高い塔の家族だってことはお忘れかしら? 高い塔のミシェル。裏切り者のミシェル。ゴーテルを唆して心を盗んで、家族を捨てさせて、自分はまんまとブレンネン王妃の座にさおまった。そうかと思えば、不可解な死を遂げた先王陛下の後を追って自殺したんですって? 窮地に立たされた息子を残して、さっさと死んでしまうなんて、酷い母親。だけどその様子じゃあ、あんたは母親を慕っているみたいで、驚きだわ。あんたの言葉を借りるなら『ミシェルは冷たい女だった。そうであっても息子は、母を亡くした悲しみに涙を流すのだな』ってところね」


 あたしは驚いていた。露悪趣味のないあたしの舌には馴染まない筈の、悪意に満ちた悪口がすらすらと飛び出してくる。それを恥とは思わない。寧ろ恍惚として、あたしは言葉を紡いでいた。


 さしものニーダー・ブレンネンは、激昂したり、取り乱したりする醜態を晒しはしなかったけど、あたしが一言、また一言、悪い言葉を重ねる度に、眉間に寄る皺が増える。それが愉快で堪らない。喉の皮膚を刻まれる苦痛も、切っ先が震えるくらい、ニーダー・ブレンネンの動揺を誘えたと証だと思えば、喜ばしかった。


 あたしの気が済むまで、ニーダー・ブレンネンはあたしの言葉を遮らずに待っていた。妙なところで律儀でおかしい。これが育ちの良さってものなのかしら。だけど、いくら礼儀正しくったって、それが思いやりの心を伴わない、上辺だけのものなら、何の意味もないじゃない。


 会心の嘲笑を浮かべるあたしを睥睨して、ニーダー・ブレンネンは傲然と言い放った。


「それで満足か? 言い残したことがあるのなら、今のうちだぞ。王の威厳を軽視する輩には、たっぷりと思い知らせてやることにしている。私の残酷さは、無礼を働く輩が男であれ女であれ、平等に揮われるのだ。尤も、それがお前の頭上に振り下ろされるとは限らぬが」


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