狂った魔物
暴力的な描写、グロテスクな描写を含みます。また、幼い少年を虐待する描写を含み、幼い少年を性的に虐待しようとする人物が登場します。ぼかして描写しておりますが、苦手な方はご注意願います。
親衛隊どもの、耳を塞ぎたくなるくらい下品な侮辱と嘲笑に晒されても、ノヂシャは落ち着いていた。むきになった熊男に小突かれても、胸倉を掴まれても、眉ひとつ動かさなかった。この年頃の男の子は皆、多かれ少なかれ、怖いものなしを気取るものだと大人たちは言うけど、ノヂシャの無反応は、そんな微笑ましい虚勢の範疇にない。
ノヂシャを罵倒することは、静かな湖の水面に小石を投げ込み続けることに似ている。
水面に落ちた小石は束の間、小さな漣をたてるだけ。あとは暗い水底に沈むばかりで、湖の水が溢れかえるなんてことは……つまり、ノヂシャが激昂するなんてことは……あり得ない。あり得るとしても、気が遠くなるくらい先のこと。
ノヂシャは口を噤み、両腕を体の脇にだらりと垂らしている。脱力したノヂシャを目を血走らせた熊男が激しく揺さぶる様子は、まるで、癇癪を起こしたこどもが人形に八つ当たりをするみたい。いくら怒りをぶつけられても、静かなままの人形と、ノヂシャはまったく同じ。熊男はノヂシャを甚振ることに飽きて、ノヂシャの痩身を無造作に放り出した。ノヂシャは猫みたいに四つん這いになって着地すると、すっくと立ち上がり、くるりと踵を返した。かっとなった熊男が、怒声を轟かせる。
「失せろ、女女しい腰抜け! 男の下でケツと尻尾を振って媚びる男娼! 尻尾をまいて、その軽い尻に帆をかけて、とっと消え失せろ!」
ノヂシャは振り返らない。熊男の怒声は負け犬の遠吠えだった。ノヂシャは恐れを為して逃げ出した訳じゃない。親衛隊の男どもがノヂシャの質問に答えなかったから、立ち去っただけだ。
何処から来たか知らないから、何処へ帰るのかも知らないけど、ノヂシャの後ろ姿はあっと言う間に暗闇に滲んで見えなくなった。
ノヂシャの姿が見えなくなっても、熊男を始めとする男どもの怒りはおさまらなかった。ノヂシャは嗜虐心を催した男どもの稚拙な思惑をぶち壊したんだ。ノヂシャは敗走したどころか、抵抗もままならない小娘を甚振って有頂天になっている連中の、バカげたお楽しみに水を差して、台無しにした。そうして、颯爽と去って行った。
ノヂシャは、ニーダー・ブレンネンに弄ばれる為だけに生き恥を晒すことを強いられた、惨めな、虐げられる者。あたしたちと一緒。だけどノヂシャは一切の抵抗をせずに、嗜虐者の勝ち誇ったせせら笑いに罅をいれて見せた。
あたしは驚嘆していて、ある種の憧憬さえ心に抱いて、ノヂシャに想いを馳せていた。
それから、あたしは暗くてじめじめしていて、お世辞にも清潔とは言えない独房に放り込まれた。床にはごつごつした石がびっしりと敷き詰められている。壁も天井も、同じ石材を組み合わせて築かれているんだと思う。目を凝らせば、床や壁の低いところに、赤黒い斑の染みが点々とついていた。寒気がする。
親衛隊どもは、無様に転がるあたしを指差してげらげらと哄笑した。
「いいぞ、お嬢ちゃん。なかなか色っぽい格好じゃねぇか!」
「たまんねぇな。ほら、もったいつけるんじゃねぇよ、そら、もっと尻を突き出しな! スカート捲り上げて、可愛い下着を見せてみろ!」
「だ、そうだぜ。お嬢ちゃん。しょんべん臭ぇ下着はとっとと脱ぎ捨てちまって、この野郎にでもくれてやれ。そんでもって、尻たぶひらいて、可愛い尻の穴を見せてくれや。歴史に名を残す、悪魔宰相ゴーテル様のご息女に、指一本触れちゃあならねぇとは言われたが、尻穴の皺の数を数えちゃならねぇとは言われちゃいねぇからな!」
親衛隊どもがどっと沸く。あたしは奥歯が砕けそうなくらい強く噛みしめた。
悔しい。こんなゲス野郎どもの良いようにされて、侮辱されて、それなのに何もできないで、耐えるしかないあたし自身の無力が悔しい。
(……ダメ。ここで癇癪を起しちゃ、連中の思うつぼだわ)
男どもはノヂシャにこけにされたと思っている。その鬱憤を、あたしを甚振って、晴らそうとしている。反応するな。無視するのが一番、効果的な反撃だ。ノヂシャみたいにするんだ。
ノヂシャの心は途方も無く深い闇を湛えている。恥知らずどもの悪意が届かないくらい、ノヂシャは静かな闇に埋没している。思いやりの欠片もない想像だけど、ノヂシャはきっと、何も感じないんだろう。肉体的なものであれ、精神的なものであれ、ノヂシャはどんな苦痛も感じない。獣どもの爪も牙も届かないところにいる。
(懸命になりなさい、リーナ。懸命になるのよ。怒り狂って、暴れたところで、無駄な足掻きでしかないんだから)
あたしはノヂシャと違って、何も感じない訳じゃないけど、ノヂシャみたいに振る舞わなきゃならない。実際に、あたしが黙って、壁に顔を向けて横たわっていたら、親衛隊どもはあたしに興味を失くして、仲間内のお喋りに夢中になった。
奴らは散々、あたしの家族を貶していた。どいつもこいつも、小父さまや兄様、小母様や姉様にした惨い仕打ちの数々を、武勇伝のように披露した。あたしは吐気を堪えるのに必死だった。少しでも気を抜けば、カシママの枷や格子の拘束や、自身の激しい消耗なんてお構いなしに、連中に踊りかかってしまいそう。
熊男は、あたしが狸寝入りを決め込んでいるってことを見抜いているみたいだった。奴はあたしの怒りを煽ろうとして「悪魔の娘をひとり、褒賞として賜りたいと、陛下に上奏するつもりだ」って言った。よりによって、あたしの大切な妹のアンナを!
「俺は気の強い女に惹かれるんだ。このお嬢ちゃんは俺好みだぜ。陛下はこの『悪魔宰相の娘』を特別扱いしていらっしゃるから、下賜されやしねぇだろうからよ。お嬢ちゃんご執心の、あの娘を所望するつもりだ。ガキの癖に女らしい、良い体をしていやがったからな、たっぷり愉しめるだろうよ。あの娘を如何してやったか、話して聞かせりゃあ……へへっ、このお嬢ちゃんがどうなっちまうか、見物だぜ」
男のけたたましい笑い声が忌々しい独房に反響している。怒りのあまり、固く閉ざした瞼の裏が真っ赤に染まる。体中の血が頭にのぼってくる。頭が割れそうに痛い。髪の一本一本に神経が通って、逆立つようだ。
(堪えて、リーナ、堪えなさい! いやらしくおじましい連中には、必ず報いを受けさせてやる。今は耐え忍ぶのよ。いつかきっと、好機は訪れるわ!)
耳を塞いで、目を瞑って、あたしは奮い立った。立ち上がれるのも、掴みかかれるのも、家族の中じゃきっと、あたしだけ。ニーダー・ブレンネンが、どんな邪悪な思惑で「悪魔宰相の娘」を特別視しているのか知らないけど、手心をくわえたことを……あたしを侮ったことを、後悔させてやる。
あたしは想像した。あたしの家族を奪った親衛隊の男どもの首を刎ね、ニーダー・ブレンネンを八つ裂きにする、痛快な妄想に耽った。そうでもしなきゃ、頭がおかしくなりそうだ。
なんとかして、母様に会いたい。母様なら、お知恵をかしてくれる。可哀そうな姉様たちを助けられる。アンナを守ってあげられる。母様、どうかご無事で。あたしに力を貸して、あたしを導いて下さい。
神様。どうか、残された家族をお守りください。
あたしは一心不乱に神に祈りを捧げた。そうして、ふと気が付くと、親衛隊どもの雰囲気が変わっていた。ついさっきまでは、酒場の乱痴気騒ぎみたいだったそれが、今では、葬儀に参列しているみたいに、陰気なそれに変わっている。
親衛隊どもは、ノヂシャの魔性に狂った、ゾルゲという男の話をしていた。
このならず者の集団は、王都の周辺で悪名を馳せていた山賊で、間抜けにも囚われ、処刑を待つばかりだったところを、ニーダー・ブレンネンの目に留まり、親衛隊として組織されたそうだ。この悪党どもが、恩赦と引き換えだとしても、ニーダー・ブレンネンに真の忠誠を誓っているかどうか、甚だ疑問だけど。ニーダー・ブレンネンが飼い犬に手を噛まれて死んでしまう抜け作だったら、どんなに良いかしら。あの悪魔に限って、他愛も無く破滅してくれる筈もないけど。それはそうとして、ゾルゲの話だ。
晴れて牢獄から解き放たれたならず者どもは、ニーダー・ブレンネンが王位につく為、非道の限りを尽くした。ニーダー・ブレンネンが国王に即位した後、親衛隊の役目はもっぱら反逆者の粛清だった。残酷で卑劣な連中お得意の殺戮だ。
ニーダー・ブレンネンの悪辣さは知れ渡り、表立って、ニーダー・ブレンネンに歯向かう者はいなくなった。ブレンネン屈指の豪族、イレニエル公爵家がニーダー・ブレンネンについたって言うのが、大きかったらしいけど、そこのところの事情はよくわからない。親衛隊の連中も、そんなに詳しくはないみたいだ。頭の中が下劣な欲望でいっぱいだから、お貴族様のややこしい権謀術数なんてわかりゃしないんだ。
屍の上に平穏な時代が築かれてから、親衛隊どもの出番はめっきり減った。ニーダー・ブレンネンの護衛は、イレニエル公爵家縁の騎士が率いる「本来の親衛隊」のお勤めで、ならず者どもの出る幕じゃないってこと。あっちの親衛隊のこっちの親衛隊は、折り合いが悪いみたいだ。お互いがお互いを軽蔑して、見下している。「本来の親衛隊」の気持ちは痛いほどわかる。誇り高い獣が、ムシケラと一緒にされちゃ堪らないってこと。
それで、どう折り合いをつけたかって言えば、親衛隊どもはもっぱら、残酷な弱い者苛めに血道をあげることになったらしい。反逆の疑いをかけられた者の捕縛だとか、拷問だとか、処刑だとか……そういう血腥い汚れ仕事全般。その中には、廃嫡された元王太子ノヂシャの「傲慢な考えを是正する為の教育」も含まれていた。
廃嫡されたノヂシャは、あたしたちがいるこの「罪人の塔」に囚われた。そして、くる日もくる日も、肉体と精神を徹底的に痛めつけられた。
最初のうちは、ニーダー・ブレンネン直々に、ノヂシャに対する「教育」の名を冠した折檻を行っていたけど、いくらお飾りって言っても、国王陛下は暇じゃないみたい。親衛隊どもに、ノヂシャの教育を任せるようになった。
ノヂシャは激しく抵抗した。無理も無いわ。こんなゲス野郎どもに、良いようにされるなんて、高貴な生まれの少年には耐え難いはず。ノヂシャは何度も何度も、ニーダー・ブレンネンに助けを求めたらしいけど、もちろん、ニーダー・ブレンネンは助けに来ない。ノヂシャを苦しめる為にやってるんだから、助けに来る訳が無い。実の弟を相手に、どうしたら、そんな残酷な真似が出来るんだろう。……まさに悪魔の所業だわ。
親衛隊どもに虐待されたノヂシャは苦痛に鋭く反応し、泣き叫んで抵抗していた。素直な反応が親衛隊どもの嗜虐芯を煽ってしまった。
夜のしじまを切り裂く、血も凍るようなこどもの金切り声。足枷や手枷ががしゃがしゃと鳴り響く部屋で、男どもが自由を奪われたこどもを取り囲み、嘲笑い、罵り、痛打する。想像するのもおぞましい。
ニーダー・ブレンネンが臨席しなくても、冷酷な男の悪意は正しく作用して、鋭い時計の針がノヂシャの正気を切り刻んだのだろう。
苦痛に対するノヂシャ反応は、次第に鈍っていった。悲鳴を上げないかわりに、ぶつぶつと独り言を呟くことが増えた。聞きとるのが難しい、不明瞭で意味不明な言葉の羅列。ニーダー・ブレンネンの名前を呼び、愛してる、とか、愛して、とか言っているように聞こえたそうだけど、混濁した意識が生み出したうわ言に過ぎないと、親衛隊どもは決めつけて、聞き流した。そのうち、ノヂシャは親衛隊どもが与える刺激に対して、一切の反応を示さなくなった。
親衛隊どもは訝り、反応を得られないことに不満をもった。手を変え品を変え、ノヂシャを怯えさせ、悲鳴を上げさせようとしたけど、徒労に終わった。
親衛隊どもの憤懣が頂点に達したところで、仲間のひとりの、ゾルゲという男が惨い思いつきを口にした。ゾルゲは「取り返しのつかない傷を負わせてやれ。あれは陛下の玩具だ。女のかわりだ。そうなることで生き延びた。男の風上にもおけねぇ女女しい野郎だ。ふさわしい惨めな体にしてやろう」って言ったそうだ。どいつもこいつも、品性下劣な男だったってことがよくわかる。
親衛隊どもは「これからこうしてやるぞ」ってノヂシャを脅した。それでもやっぱり無反応だったから、親衛隊どもは意地になって、ゾルゲの思いつきを実行しようとした。
ゾルゲがノヂシャのズボンを脱がせたとき、気紛れを起こしたニーダー・ブレンネンが、ふらっとやって来た。男どもが幼い弟を押さえつけ、下肢を露にさせている。その光景を目の当たりにしたニーダー・ブレンネンは激怒して、ゾルゲを殴り飛ばした。ニーダー・ブレンネンは優雅な美貌に不似合いな怪力の持ち主で、ゾルゲは左耳の聴力と左目の視力を失った。
ニーダー・ブレンネンは、ノヂシャに「取り返しのつかない傷」を負わせることを禁じ、彼を「女のようにして辱める」ことも併せて禁じた。
親衛隊どもは戦慄した。連中はニーダー・ブレンネンのことを、うるさいことを言わない寛大な主だと、心のどこかで侮っていたみたいだ。親衛隊どもはそれ以来、ある程度の遠慮ってやつを思い出したらしい。ニーダー・ブレンネンは相変わらず、ノヂシャの教育を親衛隊どもに任せていたけど、どこからか監視されていると感じた親衛隊どもは、及び腰になった。
だけど、ゾルゲだけは違った。大怪我を負ったゾルゲはノヂシャを逆恨みして、ノヂシャへの教育を率先して行っていた。「取り返しのつかない傷」は負わせることも「女のようにして辱める」こともしなかったが、苦痛の代償をノヂシャの苦痛に求めて、半狂乱になってノヂシャを打っていた。
そうして、変化が起こった。ゾルゲが打ったときだけ、ノヂシャは苦痛に眉を顰め、喘ぐようになった。何か呟き、怯えに潤んだ瞳でゾルゲを見上げるようになった。
親衛隊どもはゾルゲの手腕を褒め称えた。よく効く鞭打ちのコツなんかを、得意になって講釈を垂れていたゾルゲは、ところが、だんだんとおかしくなった。何をしていても上の空、ノヂシャを打つときだけ、目を爛々と輝かせる。打ちのめされたノヂシャが唇を動かすと、這いずるようにしてその口元に耳を寄せて、異様な興奮に目を血走らせる。
親衛隊どもが気付いた頃にはもう手遅れだった。
ゾルゲは仲間たちを鉤の部屋から追い出し、ノヂシャに襲いかかった。程なくして響き渡る、尋常ではないゾルゲの悲鳴。親衛隊どもが内側から閉ざされた扉を破って中に入ると、そこには下肢を血の海に沈め悶絶するゾルゲと、口の周りを真っ赤に染めた半裸のノヂシャがいた。ノヂシャは呆気にとられる親衛隊どもをちらりと見て、深々と溜息をついたて、ぼそりと呟いたらしい。
「まだ来てくれない。遅いよ、ニーダー」
そのときのことを思い出したんだろう、男たちの赤ら顔は真っ青になっていた。
「奴は味をしめたんだ。ズボンを脱がされたところにちょうど陛下がいらっしゃって、ゾルゲを殴って止めさせたから。だからゾルゲを誘惑した。陛下が助けに来てくれるって、そう思ったんだろう」
妖しく誘いこんで、柔らかく身の内にとり込んで、喰らう。ノヂシャはそんな魔物なんだと、男たちは確信している。
ゾルゲは王城を追われた。去り際、ゾルゲはこう言ったそうだ。
「あれは魔物だ。俺の狂気に訴える色気をもっていた。あれは邪眼だ。あの目で、俺の心臓を鷲掴みにする。あれの色香は禍禍しい。あれにあてられて、俺はおかしくなっちまった。あれの魅力は、入ったら最後、永遠に抜けだせない迷宮だ。俺は悔しい。あれを手に入れたかった。あれを滅茶苦茶に壊したかった。それが出来るのは陛下だけだ。俺はあのお方が羨ましく、妬ましい」
やがて重く垂れこめる雨雲みたいな沈黙が訪れた。親衛隊どもはひとり、またひとり、あたしの独房の前を去って行った。残された見張り役も、あたしに不躾に眺めまわしたり、揶揄したりする気分にはなれないらしく、押し黙っていた。
あたしは見張り役に気付かれないように身じろいだ。焼け爛れた手首、足首の痛みから気を逸らせたくて、あたしはノヂシャに思いを馳せていた。
やっぱり、ノヂシャは魔物なんだ。親衛隊どもと同じ物の見方をするなんて不名誉なことだけど、でもきっと、あたしも連中も、正しく物を見ている。
ニーダー・ブレンネンの名を口にすると、ノヂシャの瞳には青い焔が揺らめいた。ほんの一瞬のことで、すぐに虚無が渦を巻く不思議な色を取り戻していたけど、見間違いじゃなかった。あれが、熱烈に恋い焦がれるひとを想う男の目なんだ。
(ノヂシャはニーダーを憎むべきなのに。ヨハンとマリアの、大切なひとの仇なんだもの。それなのに、あんな目をして……ノヂシャは狂っている。ニーダー・ブレンネンは、人の心を壊してしまう。壊して歪めて、狂わせる。あの男は、正真正銘の悪魔だ。姫様がノヂシャみたいにされる前に、姫様をお救いしなきゃ。なんとしてでも)




