失ったもの2
母様みたいな立派な家政婦を目指して頑張るあたしは、お仕事の選り好みなんかしていられない。なんでもかんでも、すすんで請け合う。苦手なお料理でも、お裁縫でも、頼まれたら断らない。荷物の運搬なんかの力仕事だって、兄さま達に混じってやった。ご主人様は汗みずくになって頑張るあたしを「高い塔で一番の働き者だ」って褒めてくれた。「シーナの仕込みが良いんだな」って言われた母様は満更でもなさそうで、あたしは誇らしかった。
小母さま、小父さまは「しっかり者のリーナ」を頼もしく思ってくれていて、あたしは色々とご用命を受ける。それだけだったら何とかなるんだけど、残念ながら、それだけじゃない。あたしの妹「ちゃっかり者のアンナ」が厄介事をあたしに丸投げしてくる。
あたしはアンナの姉様だから、アンナの面倒を見てあげるのは当たり前のこと。でも、お仕事をいっぱい抱えているのに「あれもこれもそれもお願ぁい」なんて甘えられたら「なんでもかんでも、あたしに押し付けるんじゃないわよ!」って、叱りつけたくなることもある。
だけどあたし、アンナの潤んだ上目遣いには、どうしても敵わないのよね。渋々請け合ったところで「ありがとぉ、リーナ! 流石は未来の家政婦、頼りになるぅ」なんておだてられて、気が付いたら、結局やってあげてる。
アンナは早起きが大の苦手。だから、早朝のお仕事は、たいてい、あたしにお鉢が回って来る。本当は、あたしだって、早朝のお仕事は勘弁して欲しい。朝はほんの一時でも長く惰眠を貪りたいもの。だけど、頼まれたら断れないし、それに、苦手な早起きが苦にならない、素敵なお仕事もある。お花摘みがまさにそれ。
草の葉に白い露があたわれて消えるまでの、ほんのいっときの間に、高い塔の暮らしを彩る、綺麗なお花を摘んで来るお仕事だ。
高い塔の女は、お花が絨毯みたいに群生する場所と、盛りの時期を熟知しているから、要領良く森を巡れば、朝食の準備に間に合う。
手早くお花を集めるコツは、どんなお花をどんな風に飾るのか、あらかじめ決めておくこと。大まかにでも決めておけば「このお花の取り合わせだと、どの花瓶が良いかしら?」なんて悩んで、お花と花瓶を相手に睨めっこする時間を省けるんだ。間に合わないって、困っていた姉様に教えてあげたら「感心な子ね」って持ち上げられて、くすぐったかったな。アンナにも教えてあげたけど「リーナがコツを掴んで、てきぱきやってくれるからぁ、あたしは出来なくても、大丈夫なのです」なんて調子の良いことを言われちゃった。何よ、せっかく、良い方法を教えてあげようって言うのにさ。
得意になって「良い方法を教えてあげる」なんて言うけど、実はこれ、母様の受け売り。
お花摘を摘んで花瓶に生けたら、お部屋に飾る前に、家政婦の母様に確かめて貰う。これ、高い塔の女使用人達の決まり。だから、あたしはお花摘みの役を買って出るの。忙しい母様が貴重な時間をさいて、色々と教えてくれるんだもの。こんなに良いお役目って無いわ。季節のお花の色、形、香りの上手な組み合わせ方とか、それぞれのお花の美しさを活かした生け方とか。だから、早起きなんてちっとも苦じゃない。
それに何より、お花を飾れば姫様にお褒めのお言葉を頂ける。これが、何よりの役得ね。皆、母様に厳しい事を言われるからって、お花摘みのお仕事を倦厭するけど、損してるわ。皆が意気地なしでいてくれるおかげで、あたしはこの役得を、殆どひとり占め出来るわけだから、ありがたいっちゃありがたいけど。
姫様はお花がお好きだ。庭師の小父さまが丹精込めて育てたお庭のお花を、しばしば、うっとりと眺めてる。あたしが森で摘んだ野の花を生けた花瓶をお持ちすると、大好きな読書の手を止めて、お花を愛でてくれる。
姫様のお部屋にお持ちするお花には、殊更、気を使うようにと、母様に言いつけられている。高い塔の外に出ることを禁じられている姫様のお暮しは刺激が少ない。姫様が退屈だとか、窮屈だとか思わないように、心を砕かなきゃいけない。
お花を花瓶に生けるとき、姫様のお花にだけ、少し青い蕾を混ぜることになっている。ゴーテルが失踪して、塞ぎ込んでいた幼い姫様を慰める為に、母様が始めたことだ。
「姫様はご存知でしょうか? 蕾は愛に満ちて初めて花咲くとか。ですから姫様、どうか、この固く閉ざした花の蕾に微笑みかけてやってくださいませ。姫様に愛情をかけて頂ければ、この可哀想な花の蕾は、夢のように美しく咲き誇ります」
母様はそんなお伽噺を、幼い姫様に話して聞かせたらしい。姫様は、素直に母様を信じた。母様はご主人様だけじゃなくって、姫様にも信頼されている。
母様の気遣いの甲斐もあって
「ゴーテルに会いたい。ゴーテルはいつになったら私に会いに来るの?」
と、しくしく泣いてばかりだった姫様は、少しずつ、笑顔を取り戻した。ゴーテルの名前を口に出すことも少なくなっていった。大人たちは、うまく姫様の気を逸らせて良かったって、ほっとしていたみたい。あたしはまだ小さかったけど、大好きな姫様が泣いてばかりいるのは悲しかったから、元気になってくれて良かった。母様はやっぱり凄いって、単純に喜んだ。
だから、たまたま、夜遅くに喉が渇いて、螺旋階段を降りて行った真夜中。大人たちの息の詰まる話し合いを、扉に張り付いて聞き耳を立てて盗み聞きしたあたしは、衝撃を受けたんだった。
「油断は禁物です。姫様には高い塔に身も心も捧げて頂かなければならないのですから。私達は、姫様の限られた世界を天井の楽園にしなければなりません。姫様が、外の世界に関心を持たれないように……ゴーテルの存在も、あの者の妄言も、すっかり忘れてしまわれるように。私達は力を尽くしましょう」
ぴしゃりと言った母様は、きっと怖い顔をしていたんだろう。ご主人様は、呻くように母様に同意した。
「ラプンツェルは高い塔の娘。ミシェルのように、させてはならぬ」
その後、しばらくの間、誰も喋らなかった。痛いような沈黙に追い立てられるように、あたしは階段を駆け上った。
姫様はお優しい方だ。あたしは一度だって、姫様の我儘に困らされたり、意地悪をされたり、したことがない。それどころか、褒めて貰ったり、慰めて貰ったり、してばかり。失敗しちゃって迷惑をおかけしても姫様は怒らない。ご主人様のお言いつけをよく守って、お外に出たがる素振りすら見せない。
姫様のお暮しは、あたしに言わせれば、とっても窮屈で、退屈。だって、一歩も外に出られないのよ? お部屋から出るのさえ、誰かに付き添われなきゃいけない。姫様はまるで籠の鳥。歌はあまりお上手じゃないから、鳥って言うのは、なんか違う気もするけど……つまり、あたしが何を言いたいかっていうと、姫様は信じられないくらい、不自由だってこと。
それなのに、姫様は文句のひとつも言わない。ゴーテルが甘い言葉で唆しても、姫様は一度だって、一緒に連れて行って、なんて言わなかった。姫様の「一緒に居て」は「一緒に高い塔に残って」って意味だった。家族は皆、そのことをわかってた筈だ。まだ小さかったあたしにだってわかったんだから。
それなのに、ご主人様も母様も、姫様を信じない。
ゴーテルが失踪した次の年。お花摘みを任されるようになったばかりのあたしは、行った先で、綺麗に咲いたお花を見つけられず、蕾ばかり摘んで帰って、母様にこっぴどく叱られた。悔し泣きするあたしを姫様は「愛情をこめて微笑みかければ、綺麗に咲くんだよ」と言って、慰めてくれた。
あたしは、姫様が教えてくれたお伽噺をすっかり気に入って、その日の晩、母様に伝えた。そうしたら、母様はものすごく嫌そうな顔をして
「子供騙しの与太話です。真に受けてはいけません」
あたしを叱った。
母様の「与太話を真に受けた」当時の姫様とそう変わらない年頃だったあたしは、納得できずに、母様に抗議した。そうしたら母様は噛んで含めるようにして、あたしに言った。
「お前と姫様は違うでしょう。お前は高い塔の家族の為によく働く、しっかり者でなければならないの。高い塔の家族を殖やす為だけにいらっしゃる、姫様とは違うのよ」
母様は口が酸っぱくなるくらい、繰り返し、繰り返し、あたしに言い聞かせた。知恵や労働で家族に貢献することのできる女は、多くの子を産むべきじゃない。妊娠と出産は、女の肉体を消耗させる。だから、その役目は、知恵や労働で家族に貢献することの出来ない女に任せれば良い。それが、母様のお考え。だから母様の子はあたししかいない。
だけど、あたしには母様のお考えに、賛同することは出来ない。役割分担をするのは理にかなってる。だけど、母様みたいにお仕事を頑張る女も、アンナの母様みたいにたくさんの新しい家族を産む女も、どっちも、高い塔を支える大切な家族じゃないか。母様は、はっきりとは言わないけど、アンナの母様みたいな女を「子どもを産むしか能の無い女」だって、こっそり軽蔑してた。その考え方は、どうかなって思う。だからって、母様のことを嫌な女だと思ったり、嫌いになったりはしないけど。
可哀想な母様。母様がそんな偏見を持ってしまうのは、ゴーテルとミシェル様の所為だ。何もかも、あの二人が悪い。あの二人の所為で、母様は高い塔の大切な姫様のことを好きになれなくて、苦しんでいるんだから。
姫様は心からお優しい方だ。幼いころから今でもずっと、青い花の蕾を傍らに置いて、愛情をこめて微笑みかけて、花咲かせることを楽しみにしている。綺麗に咲いたお花を、あたしやアンナの髪にさして、似合うね、可愛いね、って褒めてくれる。
一日の終わり、あたしは寝る前に、一度も読んだことのない、分厚い本を開く。姫様が髪に飾ってくれたお花を押し花にして、とっておいてある。ひとつひとつ確かめてから、姫様が髪にさしてくれた、瑞々しいお花に触れる。本の頁に挟まれて、ぺしゃんこに潰れた押し花にも触れる。色のくすんだ萎れた花弁を撫でて、あたしは溜息をついてしまう。
「こんなに綺麗なのに……どうして、何時までも綺麗なままじゃいられないんだろ」
このお花と同じように、姫様の優しい心もまた、萎れてしまうって、母さま達は思っているのかしら。
姫様は、あたしたち家族を、とっても大切に想ってくれる。家族の安心は、姫様の不自由と我慢の上に成り立っている。
それなのに、ご主人様も母様も、姫様を信じてさしあげないなんて酷い。姫様が高い塔の家族を疎み、捨ててしまうなんて、あり得ないのに。姫様の産みの母様がミシェル様だからって、ミシェル様みたいになるなんて限らない。そうだ、ミシェル様にお会いしたことは無いけど、ミシェル様と姫様はちっとも似ていない。あたしには分かる。
だって、そうじゃなきゃ、あたしだって、いつかは高い塔の家族を裏切ることにされちゃうじゃない。そんなこと、あたしは絶対にしないのに。
「家族を裏切って、母様を傷つけて、姫様を悲しませた……あたしは、ゴーテルみたいにはならない。絶対に」
アンナがぐっすり眠る部屋で、あたしは自分自身の心に誓った。
花が輝かしければ輝かしいほど、失われた時の虚しさは耐えがたい。だけど、変わらないものもきっとある筈。
そう信じていたあの頃のあたしは、失われた時の虚しさを、本当の絶望を、まだ知らなかった。
あたしたちの生家は悪魔によって焼き払われ、生き残ったあたしたちは「ブレンネン王のお膝元」に聳える塔に連れて行かれた。
腫れあがった瞼に邪魔されて、見え難かったけど、荒々しい石作りの四角ばった塔には、窓が殆ど無かったと思う。宵闇に染まった霧を纏って、空を塞ぐ気味の悪い佇まいは、いかにも牢獄らしかった。
同じ、空に向かって真っ直ぐに伸びる塔でも、あたしたちの「高い塔」とはまるで違う。家族が望まれて生まれ、幸せに生きて、安らかに永久の眠りつく筈だった「高い塔」には、もう二度と帰れないんだって思い知らされる。
親衛隊はあたしたちを牢獄に運び込もうとした。悲鳴を上げて逃げ惑う姉さま達が、嘲笑う下品な男どもに担ぎ出されてゆく。あたしは震えるアンナを背に庇って、親衛隊の連中を睨みつけていた。芋虫の真似みたいに、のたうつしかない、自分自身の無力が酷くもどかしい。下卑た笑みを浮かべる男どもの頭を叩き潰してやりたいのに。
姉さま達は皆、連れて行かれてしまった。闘うことはおろか、逃げることも隠れることも出来ないあたしは、親衛隊の男どもがあたしとアンナの存在を忘れて、行ってしまえば良い、なんて虚しい期待を捨て切れずにいた。もちろん、そんな奇跡は起こらなくて、親衛隊の男どもはあたしたちを連れに来た。
先頭に立っていたのは、熊のような毛むくじゃらの大男だ。忘れもしない、あたしの耳を切り落とした奴。熊男はにやにやしながら、あたし肩を掴んだ。
「お別れの挨拶はすんだか? 可愛いお友達とはここでさよならだ。お前は特別待遇だぞ。持つべきは偉大な親父だな」
あたしは目の色を変えた。アンナとさよなら? 偉大な親父って……ゴーテルのことを言ってるのか? ゴーテルのせいで、あたしとアンナが引き離される?
そんなこと、させてたまるか!
あたしは我武者羅に抵抗した。カシママのこけらの枷に焼け爛れた皮膚が削り取られる苦痛を、アンナと離れ離れになる恐怖が凌駕した。
だけど、後先考えない、怒り狂っただけの小娘は、男どもにとって、なんの脅威にもならない。こてんぱんに伸されて指一本動かせなくなったあたしは、熊男の肩に担がれて、運び出された。泣き叫ぶアンナの姿がよく見えない。あたしは何も出来ない。せめて、みじめな嗚咽を漏らさないように、唇を噛みしめる。熊男の無造作な歩みに揺さぶられて、苦痛が唸りをあげる。
噛み殺せなかった震える吐息を掻き消す筈の、男どもの嘲笑がぴたりと止んだ。そして、男どもの歩みも止まった。あたしを担ぐ熊男をぐるりと取り囲み、囃し立てていた男どもが、一斉に振り返る。その間抜け面の隙間から、男どもの視線が針の束のように突き刺さる先が、あたしにも見えた。
古びた錬鉄扉を挟んだ二つの外灯のちょうど真ん中に、背の高い、痩せっぽっちの少年が、ぽつんと立っている。庭師のような格好をしているけれど、労働者には見えない。ううん、それどころか、この世界に生きている人間じゃないみたい。
二つの影が漆黒の翼みたいに広がっているから?
銀色の輪郭が透き通って、陽炎みたいに揺らいで消えてしまいそうで、儚いから?
そうじゃない。青い瞳が、冷たく凍りついたお空のお星様みたいに瞬いて、謎めいているからだ。遠い世界に住んでいるかのような、夢に夢見る甘い瞳と視線が絡んで、あたしはぞっとした。
目が逸らせない。青い瞳の中央に黒々と渦を巻いているのはなに? 見つめていると、何処までも堕ちてゆくような錯覚にとらわれる。え? 錯覚? 本当に?
少年が唇をひらく。赤い舌が唇を嘗める。何か言おうとしている、ただそれだけで、他意はないのかもしれない。だけど、たったそれだけの動きが、奇怪なくらい艶かしい。
この少年は何者だ? 瞳の奥に奈落の底が見え隠れする、こんな少年が、この世界の人間である訳がない。これはきっと、魔物だ。
「これはこれは、ノヂシャ様! お早いお戻りだ、いったいどうやって? まさか、馬を駆ったんですかい? 乗馬の心得がおありたぁ、驚いた! 乗るより乗られる方がお好きでしょうにねぇ。陛下は馬乗りなんぞお許しにならねぇだろうから……おい、お前ら。まさかこの中に、ノヂシャ様のお馬のお稽古にお付き合いして差し上げた変態野郎はいねぇだろうな!?」
男の濁声に頭を揺さぶられて、あたしははっと我に返った。耳元で銅鑼を鳴らされたみたい。頭がくらくらするけど、そんな場合じゃない。あたしは首を伸ばして、少年の姿を凝視する。
にやけ顔の熊男の屈辱的な挑発に晒されるのは、銀髪碧眼の少年。名前はノヂシャ。考えるまでもなく、ニーダー・ブレンネンの実弟だ。栄えあるブレンネンの王族が、誇りを知る人間なら、耐えられない侮辱に晒されて、ぼんやりとしている。いや、ぼんやりと受け流している。ノヂシャは、熊男が不自然なまでに大きく張り上げた笑い声がおさまるのを待って、ぽつりと呟いた。
「ニーダーは?」




