決別
残酷な描写、男性同士の親密な接触の描写を含みます。ご注意願います。
ノヂシャは力尽きたふりをした。ぐったりして、ルナトリアの胸に凭れかかる。優しく包みこんでくれる、柔らかさは優しかったあの頃のままなのに、情熱を喪った肌はひんやりと冷たく、大胆な触れ合いにどきりと高鳴る鼓動は聞こえない。それらはルナトリアが変わってしまった証拠で、ノヂシャの決意を後押しするものだ。必要に迫られた、そうするより他に無いと、躊躇いが燻ぶる心を言い包める根拠になる。
(違う、そうじゃない。そもそも、躊躇ってなんかいない。俺はニーダーを愛する為に存在する。ニーダーを手に入れる為なら、俺は何でも出来る)
胸が詰まって苦しいのは、きっと、流し込まれたルナトリアの血の所為だ。瞼の裏にルナトリアとの思い出が駆け巡るのも、血の責め苦の一環なのだ。ルナトリアが見せてくれた、小動物と戯れてはしゃぐ少女のような愛くるしさも、ノヂシャの腕の中で恥ずかしそうに頬を染めて微笑む可憐さも。ノヂシャを抱擁し癒す優しさも、生まれる前に逝ってしまったお腹の子を想って悲嘆に暮れる儚さも。何もかも好きだったけれど、だからと言って、ニーダーより愛せる人なんてノヂシャにはいない。
ノヂシャの心はニーダーへの愛でいっぱいだから、迷ったり、躊躇ったり、するべきではない。付け入られる心の隙間を残しておく余裕はない。それに、ルナトリアはもう、ノヂシャの知るルナトリアではない。ノヂシャの寂しさを優しさで埋めようとしてくれたルナトリアは、ノヂシャを庇って……。
「……死んだ」
ニーダーの低い呻きは、まるで、ノヂシャの心を読み上げたかのようだった。苦渋に満ちた面持ちで、ニーダーは肩を落としていた。
「私が対峙しているのは、我が友ルナトリアではない。神の力を授かった天使でもない。ルナの血肉を喰らい彼女の抜け殻に潜り蠢く、おぞましい化物だ」
ニーダーの血塗れの唇が、氷刃で斬りつけるような言葉を滔々と紡ぎ出す。ノヂシャはたじろいだ。ルナトリアはニーダーに対して殺意を抱いている。容赦するべきではない。ニーダーが殺意に殺意を返したところで、薄情だとは責められない。寧ろ、激しい葛藤の末、断腸の思いで下しただろう、ニーダーの英断を讃えるべきだ。ぐずぐずと迷っている間、ルナトリアは待ってくれないだろうから。
それでも、ニーダーが揺るぎない冷たい目でルナトリアを睨みつけて、憎々しく呪詛の言葉を吐く様を目の当たりにした衝撃は大きかった。
ノヂシャはいつも遠くから、ニーダーとルナトリアの、二人の世界を眺めていた。ニーダーと美しい女性が、優しい微笑みと慈しみの言葉を交わす穏やかな世界は、苦痛に満ちた現実の中でノヂシャが見つけた、貴重な慰めだった。それが消え失せてしまったことを、悲しまずにはいられなかった。
高らかに放たれたルナトリアの嘲笑が、感傷的な気分に浸っている場合ではない現実にノヂシャを引き戻す。
「まぁ、酷い。神の力を授かった身ではありますけれど、傷つく繊細な心は持ち合わせておりますのよ」
弄うように嘯いて、ルナトリアがふと、胸に抱き込んだノヂシャの顔に視線を向ける。目と目が合って、ノヂシャはぎくりとする。にっこり微笑むルナトリアの銀色の双眸は乾いていて、そこにノヂシャの胸を掻き乱したような感傷の気配は微塵も無い。
「良いの、ちっとも気にしませんから。あんなひとに何を言われたって、ルナの心は傷つかないわ。そうよ、あんな方、ルナにとっては何者でもない。ルナの殿下だったら、あんな酷い悪口は仰らないもの、絶対に」
ルナトリアは眠れぬ夜を恐れる幼子をあやすように、ノヂシャの髪を優しく撫でる。ルナトリアの優しく囁きは、子守唄のようだった。
「殿下、ルナの殿下。あとの事はルナがお預かりいたします。万事、殿下のよろしいようにして差し上げますね」
ノヂシャは微笑むルナトリアをじっと見つめた。真っ直ぐに目を見て愛を語られれば信じそうになる。でもきっと、ルナトリアの瞳は本当の意味でノヂシャを見つめてはいない。ルナトリアの瞳の色が優しい榛色でも、恐ろしい銀色でも、ルナトリアの視線の先にいるのは、過ぎ去りし日に取り残されたニーダーだ。
そのことで、虚しいとか、寂しいとか、そう言う風に感じる資格はノヂシャには無い。心が傷つく筈も無い。ノヂシャにはたったひとり、ありのままのノヂシャを見てくれるニーダーがいればそれで良いのだから。
ルナトリアは笑顔でノヂシャの凝視を交わし、ノヂシャの体を地面に横たえて立ち上がった。振り向きざまに、ルナトリアの冷淡な言葉が鞭声のように響き渡る。
「無駄だった。何もかもが無駄だった。ルナトリアの人生の全ては無駄だった。ですから、生まれ変わったわたくしが、ルナトリアの人生を始めます。その為にはまず、過去の亡霊にはご退場願わなければなりません」
美しい脚に纏わりつく、ずたずたに裂けた血塗れのドレス裾を慣れた様子で華麗に捌き、ルナトリアはニーダーとの距離を詰めて行く。ニーダーは身構えたようだった。しかしあの傷では、身じろぐことも儘ならない。
ノヂシャは息を潜めて成り行きを見守っている。逸る鼓動がノヂシャを急かすけれど、今は未だ、好機では無い。急いてはことをし損じる。ヨハンに教わった狩りの鉄則を忠実に守らなければ、先ほどの二の舞になってしまう。
ルナトリアは両腕を翼のように広げた。血染めのドレスの袖を揺らし、裾を翻すルナトリアの背後で白銀の大蛇が鎌首を擡げる。ニーダーを見下ろすルナトリアはまさしく、大鎌を携えた死神だ。
「さぁ、死んでおしまいなさい。苦痛の死をもって、貴方が蹂躙した人々の慰めにおなりなさい。貴方が消えて無くなれば、お気の毒なお妃様の憂いもきっと、晴れることでしょう」
ニーダーは唇を噛みしめて、ルナトリアを真正面から睨みつけている。為す術は無く、甚振られ、殺されるだけの獲物としておとしめられても、ニーダーは毅然とした態度を崩さなかった。それはなけなしの意地だったのかもしれないし、最期まで諦めはしないという決意の表れだったのかもしれない。ばかばかしいから、そうではないと信じたいけれど、もしかしたら、ルナトリアがラプンツェルの名前を出したから。ただそれだけの、つまらない理由かもしれない。
「好きでもない男に娶られた女同士、心が通じ合うとでも言いたいのか」
「いいえ、陛下。好きでもない男に娶られ妻となったのではありません。わたくしも、お妃様も……胸が焼け焦げる程に憎い男に隷属することを強いられた、哀れな魂の奴隷なのです」
ニーダーが口ごもれば、ルナトリアはさらにたたみかける。
「お気の毒。心の底からお気の毒なお妃様。大変なご苦労の末に、次の御子様をお望みになれないお体になってしまわれたそうですね。子宮が爛れ腐り堕ち、お妃様の白い肌を真っ赤に染めたとか。お労しいことですわ。……夫の悪趣味な蒐集品のひとつに、女の幸福を潰してしまう、恐ろしい代物があったことを思い出します。服毒した女の子宮は腐り、爛れ堕ちる……そんな忌まわしい毒薬を、夫は恥知らずにも、誇らしげに見せびらかしておりましたわ」
ルナトリアは美しい眉を潜めて沈痛な面持ちをつくると、慎み深く目を伏せた。長く豊富な睫の影で、銀色の瞳が鋭く光り、ニーダーを流し見る。ニーダーは目の色を変えていた。
「ラプンツェルは、毒薬に侵されたと……?」
ニーダーの視線が旋毛に突き刺さるのを感じる。ニーダーはノヂシャを疑っているらしい。
確かにノヂシャには、ラプンツェルに堕胎の毒を煽るよう迫った前科がある。けれど、今度のそれは、ノヂシャの預かり知らぬことだった。そもそも、ラプンツェルが子供を産めない体になっていたことを、ノヂシャは今、初めて知ったのだから。
ノヂシャは飛び上がりそうになった。辛うじて堪えたけれど、出来る事なら無実を叫びたかった。
ラプンツェルは憎い。憎い娘の胎から這い出す赤ん坊もまた憎い。母子ともども、永遠にニーダーの前から消し去ってしまえたら、どんなに胸がすくだろう。
だからと言って、謂われの無い罪を着せられ、ニーダーに憎悪されるのは嫌だった。愛して欲しいけれど、どうせ憎悪されるのなら、ノヂシャ自身の考えに基づいたノヂシャ自身の行動の結果として、呪われたいし、傷つけられたい。ニーダーとノヂシャを結ぶ絆は、誰の干渉も受け付けない。
(どういう心算だ、ルナトリア。俺に濡れ衣を着せようってのか? そんな、悪辣極まる謀略を、優しかったルナトリアが巡らせるなんて、考えたくねぇけど……そもそも、ラプンツェルに毒を盛ったのはルナトリアなのか? でも、一体どうやって?)
ルナトリアははっとして口元を両手で覆う。ニーダーの剣幕に恐れを為したから、ではない。狼狽の演技は不遜な程にわざとらしい。悄然と頭を垂れながらも、隠された唇が弧を描いているのは火を見るより明らかだった。
「つまらぬことを申しました。どうかお忘れ下さい。きっと、わたくしの思い違いですわ。だって、あの毒薬は、とても苦いのですもの。不届き者が、たった一滴でも、お妃様のお食事やお飲み物に垂らしたとしたら、お妃様はそれを一口含めば、あまりの苦味に驚いて、吐きだされることでしょう。お毒見をする者が気付かぬ筈も御座いませんし、在り得ないことです」
「ならば、何か。ラプンツェルが自らの意思で、毒杯を煽ったと言うのか!?」
驚愕に震えるニーダーの問い掛けを、ルナトリアは鼻で笑ってあしらった。
「分かりかねます。わたくしはあくまで、可能性のひとつを申し上げただけ。ことの真偽は、貴方にも分からず仕舞いでしょう。貴方には此処で、死んで頂くのですもの」
ルナトリアは、ニーダーとの問答にこれ以上の時間を割くつもりはいようだった。ルナトリアの脚から影のように伸びた銀の大蛇が身をくねらせ、ニーダーに踊りかかろうとする。結晶化した殺意に躊躇いは無い。だから、ノヂシャも躊躇ってはいけなかった。
向日葵のようにニーダーに恋をしていたルナトリアは、死んだのだ。ノヂシャは跳ね起きた。ルナトリアは致命的な間違いを犯していた。苦痛を与えるだけでは、ノヂシャを止めるには不十分だったのだ。ニーダーを愛する心は、ノヂシャの中では何よりも強大な力になる。
ノヂシャは獣のように跳躍した。殺気を感じとったのだろう、ルナトリアが素早く振り返る。しかし、もう間に合わない。見開かれたルナトリアの瞳に、ノヂシャの左手が……白銀の輝殻に覆われた人喰いの獣の左手が、うつりこむ。
ルナトリアの細い首を正面から掴む。鉤爪が柔肌に食い込む。ぐにゃりと不自然に沈み込み、銀色の血が噴き出す。輝殻の表面が焼け爛れる。ノヂシャの体内では、不意をつかれたルナトリアの血が暴れまわる。苦痛は砂嵐のように荒れ狂うが、ノヂシャは手に込めた力を緩めない。内臓を食い散らかされる恐怖は、万能感に酔い痴れてしまえば忘れられた。
白い骨がぽきりぽきりと砕け、折れてゆく。あまりにも軽い手ごたえが、ルナトリアの儚さをノヂシャに思い出させる。
(そうだな。俺が思い出すのは、この上なく美しい貴女だ。瞼を降ろせば、浮かび上がる。天使みたいな、ふっくらした柔らかい体つき。夜空に輝く月に勝るとも劣らない美貌。世にも見事な、亜麻色の髪。優しい榛色の瞳を細めて、真珠のような前歯を覗かせる、貴女の素晴らしい微笑み。あらゆる魅力を併せ持つ、素晴らしいルナトリア。優しいルナトリア。大好きなルナトリア)
獣の顎が閉ざされるように、ノヂシャの左手は拳を握った。肉片が千切れ飛ぶ。銀の血しぶきは舞い落ちる花弁のようだ。
ルナトリアの長い髪が、裏切りを責めるかのように、あるいは別れを惜しむかのように、ノヂシャの手に纏わりつく。しかしそれも、ノヂシャがだらりと腕を垂らせば、するすると解けていった。
(痛々しくて気の毒な貴女のことは、思い出さないと誓う。俺がそうして、ありのままの美しい貴女を想っていれば、貴女は永遠に美しくて、優しい……ニーダーを一途に想い続ける、幸せな貴女のままでいられるだろう。本当の貴女は、最も素晴らしい女性だって、俺は知っている。……さよなら、ルナトリア。天国があることを、貴女の為に祈るよ)
胴を離れたルナトリアの首は、熟れすぎた果実のように地面に落ちて、ころりと転がった。ニーダーを喰い殺そうとしていた大蛇は、途方に暮れたように静止して、次の瞬間には、波に触られる砂の城のように崩れ去る。銀の残骸の向こうに、呆然とするニーダーの無事な姿を見とめて、ノヂシャは詰めていた息をゆっくりと吐きだした。
(やった。うまくやったぞ。ルナトリアを出し抜いて、ニーダーを守った)
首尾よくことを運べたことで、気持ちが高揚している。高鳴る鼓動が苦しい。胸を抑えながら、ノヂシャはニーダーに歩み寄ろうとした。ニーダーの為に戦い、勝利したのだから、祝福が欲しい。
ところが、一歩踏み出すごとに、世界がぐらぐらと揺れるせいで、思うように先に進めない。苦痛に目が回り、膝から崩れ落ちてしまう。
跪いたノヂシャは、苦痛を堪える為に体を丸めた。そうしたら、傍らに転がったルナトリアの生首と目が合う。ノヂシャは息をのんだ。為すべきことを成し遂げたという興奮と血の気がさぁっとひいた。
ルナトリアが最期に残したのは、ノヂシャが大好きだった優しい微笑だった。その微笑みに、ノヂシャはずっと憧れていた。
最初は、遠くから眺めていた。ルナトリアは、夜空に架かる月のような女性だった。ノヂシャがどんなに背伸びをしても、腕を伸ばしても、決して手が届かない。苛烈に燃え上がる太陽のようなニーダーと対を為す、美しい夜空の女神だった。
そんなルナトリアと、共にした時間は奇跡のようだった。ルナトリアは、小動物と戯れ、少女のようにはしゃいだ。ノヂシャの腕の中で素肌を晒し、恥ずかしそうに頬を染めて微笑んだ。生まれる前に逝ってしまったお腹の子を想って嘆き悲しんだ。天国でノヂシャとお腹の子と、三人で家族になって幸せになりたいと、哀願した。全てを忘れた幸せな少女になって、無邪気に笑った。命を投げうってノヂシャを守ってくれた。ノヂシャの無事を確かめたルナトリアが浮かべた笑顔はとても優しかった。
そんな優しいルナトリアを、ノヂシャはこの手で殺したのだ。
「ノヂシャ?」
ノヂシャの耳元でニーダーが囁いた。顔を上げると、思い掛けない至近距離にニーダーの不安顔がある。蝸牛が通った跡がそうなるように、地面に血を擦りつけながら、ノヂシャの許まで這って来たらしい。ノヂシャの為に、傷ついた体に鞭を打って来てくれた。ノヂシャの為に。ノヂシャは嬉しかった。ニーダーの傍にいられるなら、何を引き換えにしても惜しくないと思った。ルナトリアの命さえ、例外ではない……筈だから。
「俺は、後悔なんかしない」
ノヂシャはきっぱりと言い切りたかったのに、ろれつが回らない。きっとニーダーはノヂシャの言葉を正しく聞き取ることが出来なかっただろう。ルナトリアの銀色の血の仕業に違いない。だからこんなにも、胸が痛い。ノヂシャは喀血するように、嗄れ声を絞り出した。
「ルナトリアは、あんたを殺そうとした。俺から、あんたを奪おうとした。この場を凌いでも、ルナトリアは執念深く、あんたの命を狙ったと思う。俺の予感はたぶん、当たっているんじゃねぇかな。いや、間違っていたとしても、やっぱり、後悔しねぇんだ。あんたを奪われるかもしれない。そんな不安を抱えたままでいたら、気が狂う。俺がこれ以上おかしくなったら、あんただって困るだろ?」
「ノヂシャ」
「俺は、ちっとも、これっぽっちも、後悔していない。俺はあんたを愛している。あんただけを愛しているんだ。だから、ルナトリアを殺しても、俺の心は如何なる苦痛とも苦悩とも無縁なんだ。可哀そうなルナトリアが、もう笑えなくても、泣けなくても……幸せになれなくても……俺は無関心でいられる……筈だから」
ニーダーの左手が、ノヂシャの頬に添えられる。ノヂシャはニーダーにしがみついた。息が震えた。胸が激しく浮き沈みする。胸の内側が赤くやけている。ルナトリアの血の所為に決まっている。
(ルナトリアは、もう、いないのに?)
途方も無い罪の意識に揺さぶられる儘に、ノヂシャの咽頭が勝手に吼えた。
「あんたの気を惹きたくて、ルナトリアを利用した俺を……俺達の子供を守れなかった俺を……ルナトリアとの永遠を選べなかった俺を……ルナトリアの優しさに、何一つ報いることが出来なかった俺を……ルナトリアは庇って倒れた! ルナトリアの心をほんの少しでも慰められるなら、喜んで身も心も捧げるべきだって、わかってるのに……変わり果てても俺に助けを求めたルナトリアを、俺は拒んで、邪魔だからってだけで、そんなふざけた理由で殺した! そこまでしても、俺は何も感じないんだ。俺の心には、あんたしか愛せない呪いがかけられている。それは、俺にとってはこの上なく幸せなことで……でも、ルナトリアは、こんな、壊れた俺の為に……死んで良い女性じゃなかったのに!」
ふと、ノヂシャは恐ろしくなった。喚いているうちに、自分が粉々に砕け散ってゆく気がしてならなかった。
「クソ、忌々しい! あんたがくれるものだけを、今はあんたの温もりだけを、感じていたいのに……胸が、熱い、痛い、苦しい……! 畜生、俺は一体、どうしちまったんだ!? こんな感覚、鬱陶しい……! ニーダーを感じる邪魔をされる……! 嗚呼、ニーダー! 俺に苦痛を与えてくれ。今、俺が感じている以上の苦痛を! 俺はあんたのものだ、あんただけを感じていたい。あんたが上書きしてくれ、この身も心も! あんただけで埋め尽くしていてくれよ!」
ノヂシャはニーダーの胸板に顔を埋めた。愛しい兄のにおいに全身がわき立つ。肌を触れ合せると弾む熱さに、ノヂシャの中の獣が猛り狂う。狂おしく体が疼いた。魂がニーダーを求めて騒いでいる。
ニーダーの胸に縋りついているから、兄の鼓動を感じられるから、ノヂシャは心を繋ぎとめていられる。
ニーダーは躊躇いがちに、ノヂシャの頬をひたすら撫でている。目尻を拭われて、ノヂシャは初めて、自分が咽び泣いていることを知った。どうして涙が止まらないのか分からずに、ノヂシャは苛立った。そして、ニーダーの慰撫する手つきが不満だった。羽で触れるような優しさではとても足りない。ノヂシャは焦って、ニーダーの左手首を掴み、手の甲に噛みついた。滲んだ血を反射的に舐めとれば、甘いような、苦いような、複雑で芳醇な滋味が体の隅々まで行き渡り、恍惚とした痺れが頭の天辺まで突き抜ける。この手がくれる痛みが、何もかも忘れさせてくれる苦しみが必要だった。ノヂシャの全てを暴き出し、無茶苦茶に蹂躙するのは、ニーダーにとってはお手の物なのだから、今直ぐそうして欲しい。
ノヂシャの牙に肉を裂かれても、ニーダーはやり返さないし、抵抗しない。ニーダーはノヂシャの背に右腕を回して抱き寄せる。美しい眉間に苦悩を刻み、ニーダーはノヂシャの耳元で呻吟する。
「なんてことだ、ノヂシャ……私の所為で、こんなことになって」
こんなこと、と言ったニーダーの潤んだ瞳が、ルナトリアの首を見つめていたなら、ノヂシャはニーダーの指を食い千切ったかもしれない。実際には、ニーダーはルナトリアには目もくれず、ノヂシャを熱心に見つめていた。ノヂシャの胸の内で、安堵と不安がぐるぐると渦をまく。繊細な心を覗かせるニーダーの、青い瞳を、不思議な熱情が蕩かせ、潤ませているような気がする。その熱情の正体が杳として知れない。ノヂシャは戸惑いながら、正直に心中を吐露した。
「あんたの所為じゃない。あんたと俺が、一緒にいる為にしたことだ」
「そうまでして、お前は私を……私だけを慕ってくれるのだな」
ノヂシャはこっくりと頷く。なんとなく、会話が噛みあっていないような気がして、小首を傾げた。
ニーダーの認識は正しい。確認する手間をかけているのが、ばかばかしいくらいだ。ニーダーにはちゃんと伝わっていた筈なのに。どうして今更、ノヂシャの愛を確かめて、鋭いその目を輝かせるのだろう。
不意に、強く抱きしめられた。驚き、戸惑ったのは一瞬のこと。胸の奥から込み上げてくる、熱い歓喜の奔流にノヂシャの感情は押し流された。興奮のあまり、ノヂシャは小さな悲鳴を上げていた。ぼろぼろの体を手荒く扱われ、ノヂシャの四肢は勝手に跳ね上がり、末端は小刻みに痙攣していた。けれど、ニーダーは気にしない。強い抱擁はまるで檻のようで、ノヂシャの手足が捩じ切れても、逃がしてなるものかと叫んでいるかのようだった。
(でも、そんな訳がない。ニーダーはそこまで俺に執着しちゃいない。だって、ついさっきまで、俺には遠く離れた何処かで幸せになって欲しい、なんてほざいていたじゃねぇか。それなのに、どうしてこんな風に抱き締めるんだ? これじゃあ、まるで俺が)
混乱するノヂシャの思考を、ニーダーの陶然とした囁きが掻き消した。
「一緒に帰ろう。お前の為の部屋を用意する。望むものは何でも与えてあげよう。一日も欠かすことなく、必ず会いに行くと約束する。何も心配は要らない。もう二度と、お前を傷つけないし、誰にも傷つけさせない。私が守る。大丈夫、大丈夫だ。お前は何も悪くない。全ての咎は、私にある。大切な友の、ルナの心を思いやらず、彼女を絶望させたのはこの私だ。お前は私と、ルナの魂を救ってくれたのだ。だからお前は何の憂いも無く、私の訪れを待っていれば良い」
ニーダーは故人を悼みつつ、それ以上の歓喜に震えているようだった。この常軌を逸した喜びようには覚えがある。これはちょうど、愛しのラプンツェルを、浚って来て閉じ込めて、驕慢と言う牙を抜いて飼い殺しにしたときと同じ。
ノヂシャは勃然となって、不自由な体をよじった。
「よせよ、ニーダー! 勘違いするな、俺はノヂシャだ!」
「ノヂシャ? 訳のわからないことを……苦痛で錯乱しているのか?」
「俺はこれ以上ないってくらい正気だ! あんたの方こそ……錯乱して、幻を見ているんじゃねぇのか? 俺のこと、ラプンツェルと勘違いしているんだろ! そうじゃなきゃ、なんであんたが俺を……こんなの絶対におかしい!」
ニーダーは困惑しながら、ノヂシャを難なく抱えなおし、放そうとはしない。ノヂシャはやがて、無駄な足掻きを止めた。冷静になって考えてみれば、ニーダーはちゃんとノヂシャを認識し、語りかけているようだった。
(でも、だとしたら、なんで?)
ニーダーは大人しくなったノヂシャの髪を撫でて、言った。
「今になってようやく、わかったんだ。お前を信じる。お前なら、信じられる。今まですまなかった。ノヂシャ、お前は私の弟だ。これからは、共に生きよう」
ニーダーの言葉を聞いて、ノヂシャはようやく、ニーダーの不可解な心変わりの理由を理解した。
(俺は、俺の愛を証明したのか)
ノヂシャは愛の言葉なら、堆く積み上げてきた。ニーダーがうんざりする程度には。ところがニーダーは、兄を求めるノヂシャが狂おしい想いの丈を、ルナトリアの箱庭でぶつけても尚、ノヂシャの愛を錯覚だと決めつけた。それが今、ノヂシャが憧れ、慕っていたルナトリアをニーダーの為に殺したことで、初めて、ニーダーはノヂシャの愛を信じられたのだ。誰にも愛されないと思い込んでいたニーダーが、ノヂシャの深い愛を知った。
だから、ニーダーは掌を返して、ノヂシャを手許に置こうと……もっと言うなら、鍵をかけて閉じ込めておこうと思いたったのだろう。ノヂシャを幽閉するのは、ラプンツェルとアクレイギアの安全を確保する為と言うのが先立つ理由だろうが、ノヂシャを惜しむ気持ちもそこには含まれているのかもしれない。そう思えば、最高の気分になれる。
ノヂシャの心を、どす黒い情念がじわじわと燃え上がらせていた。
(無理やり奪うまでもない。俺はニーダーを、俺のものに出来る)
今、ニーダーの心は揺れている筈だ。ルナトリアは、ラプンツェルが自らの意思で毒薬を煽り、この先に生まれるかもしれなかった夫婦の子供を殺した可能性がある事をニーダーに知らせた。愛しい天使から裏切りのにおいを嗅ぎとってしまったニーダーは、傷ついたことだろう。ラプンツェルを偏愛するニーダーは、愚かで狂っているが無防備ではない。ラプンツェルがニーダーを憎んでいることは弁えているだろう。ラプンツェルは復讐を諦めておらず、いつ寝首をかかれてもおかしくはない。最愛の息子に危害が及ばないとは言い切れない。そうなれば、ニーダーは疑心暗鬼に陥らずにはいられない。息子を憎む母親が如何に恐ろしいものなのか、ニーダーに分からない訳がない。
ニーダーはラプンツェルを愛している。だが、信じられはしない。疲れ果てたニーダーを迎え入れるのは、ニーダーでさえ信じられる、揺るぎないノヂシャの愛だけだ。
そうなれば、ニーダーの心はノヂシャに傾くのではないだろうか。いずれは、ノヂシャだけが、ニーダーが最悪の化物であっても愛し続けることが出来るのだと、分かってくれるのではないだろうか。
愛に飢えたニーダーの寂しい心に、ノヂシャの愛は無垢な太陽のように燦然と輝く。
ノヂシャの前に、光り輝く道が拓けていた。ルナトリアが切り開いてくれた道だ。
(最後の最後まで、ルナトリアの優しさに付け込んで、彼女を利用して、欲しいものを手に入れる……俺は、最低だな)
最低だ。最低で結構だ。心の奥底で誰かが嗤う。最低なのは百も承知の上。ニーダーを愛する為に、ヨハンとマリアの死を振り切り、可哀想な小動物を殺してきた。この期に及んで、恐れるべき罪など無い筈。
(そうだ。俺はニーダーを愛する。ニーダーを手に入れる。どんなことをしてでも)
ノヂシャはニーダーの背にそっと左手を回す。ニーダーの檻にその身を投じる覚悟を決めた。
ニーダーはラプンツェルを小鳥に喩えたことがある。逃げようとするのなら、翼を毟り取り、二度と飛べなくしてしまおうと、焦燥にかられていた
ラプンツェルが格子の隙間から空を仰ぎ、自由を求める真っ当な籠の鳥ならば、ノヂシャは鳥籠に閉じこもる狂った籠の鳥になろう。それでニーダーに愛されるのなら、自由など惜しくない。ニーダーが望むなら、手足を切られて、目を潰されて、耳を塞がれても構わない。それで、ニーダーと一緒にいられるのなら、伴う苦痛はすべて喜びにかわる。
「ニーダー……ずっと、ずっと……一緒にいてくれる?」
ニーダーの膝の上がノヂシャの場所だった頃のように、上目遣いに見上げて問い掛ける。銀色の光で満たされた場所で、光が透き通るような銀髪が煌めいて美しい。ニーダーの心からの笑顔をさらに輝かしく彩っている。眩しくて、目を開けていられない。
愛しくて切なくて、ふんわりとした優しいまどろみに包まれながら、ノヂシャは瞼をおろす。睡魔に抗えないのは、愛しい兄に求められ、傍にいられて、心が満たされたからだろうか。
ニーダーの胸に凭れかかり、深い眠りに誘われてゆく。心地よいまどろみの静謐に、耳障りな笑声の波紋が幾重にもひろがる。
「まぁ、陛下。甘い言葉で丸めこんで、ノヂシャ様を連れて行ってしまうおつもり? あまりにも、虫が良すぎるのではなくて?」
意識が途絶える刹那、ノヂシャは見た。月のように白い顔が、亜麻色の長い髪を精緻な模様を織り込むかのように広げた上で、悪意に満ちた形相で哄笑する光景を。それがおぞましい幻覚であることを祈ったが、神を信じないノヂシャの祈りを聞き届ける者など、何処にもいる筈もない。




