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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十六話『日蝕』
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月は満ちる2

 ルナトリアの血はつるりと喉を通り、すとんと胃に落ちたところで、弾けた。体内で異物が蠕動を始める。銀の血は幾千の獰猛な蛇と化し、粘膜を食い破り、肉に食い込み、骨を軋ませた。侵略者の蹂躙が齎す苦痛は、苦痛には慣れたと自負するノヂシャの思考が白く発火する程の、凄まじいものである。


 いつの間にか、ルナトリアに放り出された体は冷たい地面に転がっていたけれど、ノヂシャの総身は苦痛と言う太いピンに磔にされ、完全に自由を奪われている。手足は勝手に跳ね上がり、悲鳴になり損ねた喘鳴がひっきりなしに震える唇から毀れる。明減する視界の端に、びくびくと痙攣するノヂシャ自身の左の手の甲がうつりこむ。おぞましい蹂躙が駆け巡る血管は膨張し、肌の下から静脈が透けて見えていた。まるで全身に青白い罅が奔ったかのようだ。


 ノヂシャを責め苛むルナトリアは、柔らかく微笑みながら、ノヂシャの髪を撫でている。優しいく柔らかな手つきは、だからこそ、致命的におぞましい。


「抗ってはいけません。苦しむが増すばかりです。良い子にしていてくださいませね。良い子にはご褒美を、悪い子には鞭を。それがブレンネンの習わし。殿下もよくご存じでしょう? 体の力を抜いて、良い子にしてくださったなら、ルナの殿下。うんと可愛がって差し上げます」


 ルナトリアの囁きは、それさえ身をくねらせる耳孔に潜り込む蛇のように、ノヂシャを苦しめた。体の内側から別の生物に侵蝕されている。銀の焔に焼かれ、貪り喰われている。我が身に降りかかる、酸鼻を極める惨劇。あまりのおぞましさに、苦痛が倍増しになる。


(苦しい、死ぬ。殺されるのか、ルナトリアに? そんなの嫌だ、死にたくない。こんな風に死んだら、ニーダーから引き離される。喰われるなんて御免だ。俺はニーダーじゃない奴に奪われるなんて、絶対に嫌だ!)


 焦点の定まらない視線を彷徨わせて、ニーダーを探す。視界は苦痛に喰われ、端から徐々に欠けてゆき、意識は朦朧とする。苦痛の濁流が渦をまき、ノヂシャの意識を暗い底へ引き摺り込もうとしていた。苦痛に喘ぎ、意識を手放しかけるノヂシャの耳に、ニーダーの声が届いた。


「ノヂシャ……!? おい、ノヂシャ、大丈夫か!? どうした、しっかりしろ……ノヂシャ!」


 ニーダーの叫びと切迫する呼吸は、その姿を捉えることが出来なくても、ニーダーの焦燥を過たずにノヂシャに教えてくれる。ニーダーは本心からノヂシャの身を案じていた。上ずった声は、優しい兄でいてくれた少年の頃と変わりなく、ノヂシャの心に響いた。


 ノヂシャの心は歓喜に震えた。ニーダーを愛おしく想う心が、ノヂシャを突き動かす全てだという真実が、ノヂシャの胸の内に、石の心臓よりも燦然と輝いている。


 苦痛など問題では無い。ニーダーがノヂシャを求め、呼んでいる。四肢が引き千切れようが、体が消し飛ぼうが、魂だけになったとしても、ノヂシャはニーダーの傍に在るべきだ。


 ノヂシャは溢れる愛の活力を満身創痍の体に漲らせた。指一本動けない程に憔悴していた体が寝返りを打つ。ルナトリアは小さく驚嘆の声を上げたが、ノヂシャはルナトリアを顧みなかった。

 腹這いになり、痛みを堪えて頭を擡げると、ニーダーの姿が見える。揺れる青い瞳と見詰め合う。ノヂシャの意識があることに、ひとまずほっとしたらしいニーダーの強張りがほんの僅かに解けた。色を失くした唇が吐きだす安堵の溜息を、触れ合って感じたいとノヂシャは狂おしく切望した。


 ニーダーが愛おしい。ノヂシャの心は儘ならない肉体という形骸を捨て、翼を得て羽ばたこうとする。肉体の苦痛などに煩わされることなく、ニーダーを愛していたいのだ。けれど、生ある限りは肉体を離れることは叶わない。


 囁くような衣擦れの音がして、視界が真紅に遮られる。ルナトリアが居上がり、華奢な背中でノヂシャとニーダーを隔てていた。


「近寄らないで。ノヂシャ様は『ルナの殿下』になるの。邪魔をしないで」


 ノヂシャは憤然とルナトリアを睨みつけた。逸らせた首が千切れんばかりに痛んだけれど、ニーダーと交わした視線を断ち切られた怒りの方が大きかった。頭に血がのぼり、ごうごうと風が猛り狂い、吼えるような耳鳴りが、頭の奥で鳴り響く。


「ルナ……ルナトリア……君は、一体、何を……」


その最中でも、蚊のなくようなニーダーの声を、ノヂシャは聞き逃さなかった。ルナトリアは怪訝そうに目を眇た。


「異なことを仰います。つい先刻、他ならぬ貴方様が、ノヂシャ様を殺めようとなさいましたのに」

「答えろ! 君はノヂシャに何をしたのだ!?」


 ニーダは激昂してルナトリアに食ってかかった。利き手を喪い、両脚の腱を切られ、体の内側も外側も傷だらけの、あとひと押しで死んでしまいそうな状態なのに、必死に虚勢を張っていた。


 ルナトリアは呆れ果てて失笑した。ノヂシャも、笑えるものなら笑っていただろう。しかし笑みの種類は、ルナトリアとノヂシャでは大きく異なっていた。ノヂシャは嬉しくて、嬉しくて嬉しくて、笑うのだ。


(ニーダー、嗚呼、ニーダー! 強がっちまって、まぁ! 本当は怖いんだろ。悲しいんだろ。切断された右の手首を抑える左手が震えてたの、俺は見逃さなかった。ルナトリアに責められて、涙を堪えてたの、俺はちゃんと知ってる。本当は、もう堪らないんだろ。今直ぐに、逃げ出してしまいたいんだろ。それなのに、あんたはここに残って、どうにかなっちまったルナトリアに立ち向かってる。俺の為だ。俺のこと、本気で殺そうとしていた癖に、俺を見捨てられないんだな? ラプンツェルの為に、俺を殺さなきゃならないのに、俺がむざむざ殺されるのを、黙って見ていられないんだな! 今、あんたが感じている恐怖も苦痛も、全部全部、俺の為か!)


 猛烈な多幸感がノヂシャを打ちのめす。じっとしていられなくって、ノヂシャは身を捩って哄笑しようとした。実際に喉をせり上がり、唇をついて飛び出したのは、笑声ではなく、夕暮れの空を焼くような朱銀の血塊だった。銀と赤が混じり合った血は、地面に堕ちると弾けた。細かな粒は蟲のように跳ねまわり、右手の創部や顔に飛びつく。解けかけた包帯の隙間や、噛みしめた唇の隙間から、ノヂシャの中に押し入ろうと蠢いていた。化物の断片が身をくねらせるおぞましい有様を目の当たりにして、怒りが沸き起こった。頭蓋の中身が倍に膨れ上がったかのような強烈な頭痛と眩暈を覚える。右手首の創部を地面にしたたかに打ちつけ、ノヂシャは歯を食いしばった。


 ニーダーだけで満たされているのに、最高の気分だったのに。忘我の恍惚に水を差された。ニーダーと、彼に与えられる物を奪われることは、ノヂシャにとって最も許しがたいことだ。


(やめろ、ルナトリア。俺たちの邪魔をするな。貴女が好きなんだ、本当に。今だって、俺は怒ってはいるけど、貴女に酷いことをしたくない。何処かへ消えて欲しいだけだ)


 ノヂシャの心の声が聞こえたかのような、絶妙の間で、ルナトリアが肩越しに振り返る。ルナトリアは何とも言えない瞳の色でノヂシャを一瞥し、目を伏せた。


「……わたくしはただ、ノヂシャ様を愛していたいだけ。貴方様のお心こそ、わたくしにとっては不可解ですわ。ノヂシャ様を殺めると、残酷にも仰った、その舌の根の乾かないうちに、ノヂシャ様の御身をご心配召されるなんて。お心の移ろいがあまりにも激しくて、わたくしのような愚鈍な女には、とても追いつけません」


 ニーダーに対する侮蔑の念を隠しもせず言い放ったルナトリアは、ノヂシャの怒りに燃える眼差しを眉ひとつ動かさずに受け止める。拮抗する視線が火花を散らしたのは一瞬のことで、ルナトリアはニーダーへと視線を戻した。当惑するニーダーを流し見て、傲然と鼻で嗤ってみせた。淑女然としたかつてのルナトリアには考えられない、荒々しい振る舞いだった。


「なんて、嘘です。本当は、お察ししておりますの。ノヂシャ様の愛に触れられて、手放すのが惜しくなったのでしょう? 哀れなひと。望む愛を得られず、愛されるに値するものを、かなぐり捨ててしまわれた。ルナの殿下の心臓を食い破って生まれてしまった、貴方様は呪わしい悪魔。そんな貴方様を地獄に堕ちても愛し続けるノヂシャ様は、奇跡の天使様のよう。惜しむお気持ちはよくわかります。お気の毒なノヂシャ様。貴方なんか、ノヂシャ様の愛に正しく報いることは出来ないのに。忠良なお犬のように、尻尾を振って寄り添うなら、相手は誰でも良いのよ。だから、ルナも心惑わされた……罪なひとね」


 ニーダーを糾す、嗜虐の笑みと赤黒い血糊に彩られたルナトリアの横顔を見詰めながら、ノヂシャは己の腹腔が氷河の水を注がれたかの如く冷え切ってゆくのを感じていた。


 ノヂシャはニーダーを愛している。共有した時間、交わした言葉。与え与えられ、奪い奪われた温もり。悲喜交々のすべてを愛している。その全てをニーダーと分かち合いたいと渇望している。愛憎は糾われる縄の如く、二人を強く結びつけてくれる想いは、二人だけのものだ。他の誰かに、訳知り顔で騙られるなんて、我慢ならない。あまつさえ、その詭弁でニーダーの心を傷つけようだなんて、あさましい。


(ルナトリア……貴女はニーダーを愛する俺の心を、理解して受け容れてくれると思っていた。貴女は生まれ変わって、自由な獣になったのか。俺の知る貴女は、俺を庇って死んでしまったのか)


 ルナトリアが生まれ変わった彼女自身に満足しているなら、それは幸せなことだ。ノヂシャが寂したって、切なくたって、ルナトリアが良いならそれが最良に違いない。ルナトリアの幸せはルナトリアだけが決められる。ノヂシャはルナトリアの意思を尊重したい。


 そして、同じように、ルナトリアにもノヂシャの意思を尊重して欲しかった。こんな風に、ニーダーとノヂシャの関係に干渉して欲しくなかった。それだけは決して、許せないことだから。


「そうだな、君の言う通りだ」


 ニーダーは苦々しくも静かに呟いた。そこには、ある筈の狼狽が殆どないことが不思議で仕方が無くて、ノヂシャは首を巡らせてニーダーの表情を確かめようとする。しかし、体内を我が物顔で泳ぎ回る血の蛇が唐突に暴れ出したことで、頭を支えきれなくなり、額を地面に擦りつける羽目になった。そうしていても、ニーダーの声は聞こえる。


「今の私は大きな矛盾を抱えている。殺そうとしたのに、苦しみ姿は見たくない。殺すべきなのに、生きて幸せになって欲しいと願ってしまう。私はこれまで、逆らう者を悉く亡き者としてきたが、こんなことは初めてだ。だが、こればかりは……無理もないことだと思っている。ノヂシャは私の、弟だからな」


 ノヂシャはニーダーの感動的な言葉を聞いて、陶然と瞳を潤ませた。ニーダーの心中は察していたけれど、確かな言葉として兄の口から聞けば、喜びはさらに膨れ上がる。

 しかし、ルナトリアは違っていた。ルナトリアはしばし絶句した後に、勃然として怒声を張り上げた。


「どの口が言う……! その弟君に、貴方がなさった惨い仕打ちの数々、忘れたとは言わせません!」


 ニーダーは応えない。答える必要性をノヂシャは感じなかった。ニーダーはノヂシャの身も心も深く傷つけ、持てるものを全て奪ったけれど、結果的にそれはノヂシャの望むところだった。空っぽになればニーダーと彼に与えられる物で全てを満たすことが出来るのだから。ニーダーは決然とルナトリアに命じた。


「ノヂシャを放せ」


 ルナトリアは品良く口元に手を寄せた。そうすることで、野蛮な激情に歪めた顔を隠せると思っているのかもしれなかった。


「まぁ、陛下。どうやら、ご自分のお立場を、まだご理解されておられないご様子。この身は人の理を外れた身。然らば、陛下のご命令に恭順の意を表す道理は御座いません」

「世迷言を……! 目を覚ませ、ルナトリア! 君はノヂシャを愛しているのだろう!? 何故、愛する者を苦しめるのだ」

「呆れた。貴方がそれを言うの?」


 ルナトリアは優し気な眉を険しく潜める。銀色の双眸で射竦めるようにニーダーを一瞥した。


「わたくしが為そうとしていることは、貴方が為したことと、鏡に映したかのように同じことです。愛しているけれど、愛されない。だから奪う。貴方に責められる筋合いはありません。わたくしは『ルナの殿下』をお慕い申しております。ノヂシャ様ならきっと『ルナの殿下』におなり遊ばされます」

「何が同じことだ。私はありのままのラプンツェルを愛している。彼女の心の在り方を、歪めることを是とはしなかった。君は違う。人形師が人形を作るように、君はノヂシャの人格を歪めようとしている。魂を捏ね回すような真似は神への冒涜だぞ」

「力ある者には相応の傲慢が許される。ならば、神の力を授かりし者には、神の傲慢さえ許される。父や貴方がそうであるように。今のわたくしには、女の身ですら、暴君足らしめる力が御座います。わたくしの望みは、わたくし自身が叶える。この力があればそれが出来る。この力さえあれば、誰もわたくしに逆らえない。心の赴くままに生きることが出来る。意に染まぬ者は屈服させれば良い。邪魔をする者は排すれば良い」


 ルナトリアがくるりと踵を返す。小鳥のようにノヂシャの傍らにしゃがみこむと、地に伏して顔を背けたノヂシャの頭髪を鷲掴み、引き上げる。息を詰めるノヂシャの、ぴんとはった喉に唇を寄せ、赤く濡れた舌先を這わせる。かつてルナトリアに口付けられたような擽ったさを伴う優しい気持ちは微塵も感じない。おぞましい悪寒が怒涛の如く押し寄せ、ノヂシャは反射的に歯を剥いた。途端に、体内の蛇が荒れ狂い、ノヂシャの反抗に制裁を加える。ニーダーの叫びは、耳朶を甘く噛むルナトリアの悩ましい吐息に掻き消される。


「ああ、なんて気持ちが良いのかしら。この力があれば、心を偽ることなく、ありのままのわたくしでいられる。素晴らしい……なんて素晴らしいことでしょう。この身に宿りし神の力が、わたくしをブレンネンの呪縛より解き放つ。従順である為の弱さは要らない。わたくしは最も豊かに祝福された。もう、諦めなくて良い。我慢しなくて良い。何も怖くない……わたくしは、自由よ!」


 ルナトリアが高らかに笑う。ノヂシャの頭を抱きしめて、気が触れたように笑い続ける。ルナトリアの新しい体が主の狂喜を体現するように踊りだす。蜘蛛手に張り巡らされた体は小さく震え、大きく波打つ。小さな人型は輪になって踊り、大輪の花は咲き誇る。銀の火の子が舞いあがり、全てのものを眠りに誘う雪のように降り積もる。白銀の光に包まれる。背筋が凍るほどに美々しい光景だった。


 ニーダーが激しく咳き込んでいる。銀の火の子に肺を焼かれているのだろう。苦しそうだ。このままでは死んでしまう。


(ニーダーは死なせない。ニーダーの全てを俺のものにして、味わい尽くすまで。ニーダーは死ぬまで、死んでも、俺のものだ)


 ノヂシャは銀の火の子を嫌って固く閉じた瞼をそっと持ち上げた。ルナトリアはノヂシャを抱いている。左手の五指を握り、ゆっくりと開き、動くことを確認する。


(時間がない、選択の余地もない……やるしかない。失敗は、許されない。うまくやれ、ルナトリアを欺いて、隙をついて……俺はニーダーを連れて行く。ニーダーは、俺のものだ。俺の、愛しい俺の兄上)



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