表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十六話『日蝕』
153/227

月の裏側1

 美しい女性ひとの繊手が頭上から伸びてきて、ノヂシャの頬を包む。甘美な血の香にくらくらと酩酊する心地で、ノヂシャはされるがままに首を反らし、天を仰ぐ。利き手を失い呆然とするニーダーの姿が視界から外された。傷ついたニーダーを目の当たりにして、悲喜交々の昂りによって粟立つ肌を、掻き毟り剥ぎ取りたくなる衝動は、視界いっぱいに広がる澄み渡った夜明けの空に渦巻いている。


 空の彼方を飛ぶ鳥の群れのように、叢雲が天高く吹き抜ける青い風に乗って流れて行く光景を、ノヂシャはこよなく愛している。ニーダーと共にあった幸福な過去によく似ているからだ。ニーダーと額を寄せあってその瞳の奥を覗き込むと、ノヂシャの姿は白い雲のように、輝く瞳の青空に浮かび上がる。


 不意に、頬を挟む両手に力が込められ、ノヂシャはさらに仰け反った。引き攣る喉笛を、優しい手に愛撫される。氷刃に撫でられたと錯覚して戦慄する自身の体が、ノヂシャには不可解だった。息苦しさに喘ぎながら見上げた先には、陽の下で健やかに咲く向日葵の笑顔がある。ノヂシャの花を摘み、綺麗だと笑った、心優しいルナトリアの愛すべき笑顔が。


「素敵。こうすれば、殿下の瞳にはルナしか映らないのね」


 鈴振る声で含み笑い、ルナトリアの笑顔は熱い溜息にうっとりと蕩ける。ルナトリアは強い眼差しでノヂシャを縛りつけた。見上げる空の涯に潜み、冷笑する月にすら勝る美々しさが眩くて、ノヂシャは目を細めずにはいられない。


 ルナトリアは、幼い少女そのもののあどけない仕草で小首を傾げた。


「震えていらっしゃるわ。怯えているのかしら? 大丈夫よ、何も心配は要らないの。ルナがお傍に居ますもの。ルナが殿下を守って差し上げます!」


 ルナトリアは莞爾と微笑む。花咲く向日葵の笑顔は、明るい陽の下において最も映えた筈だった。けれど、力強い日差しに照らし出されれば、赤い血をすっかり流し尽くしてしまった肌は白蝋と見間違う程に痛々しく、異端であった。お伽噺の姫君に似合う白いドレスと仄かな花の香を、暖かなその身に纏っていたルナトリアが今は、失われた温もりで真紅に染め上げたドレスと振りまく恐怖を、冷たい肌に纏わせている。大切な宝物のように抱きしめてくれる優しさだけが変わらない。ところが、変わらない確かなものでさえ、ノヂシャの漠然とした不安を拭いさってはくれない。冷たくなるヨハンにすがりついて泣いた幼い頃に、心が引き戻される。


 最も暗い記憶の底で幾度、踵を返そうとも、絶望に慣れることはない。ノヂシャを庇い、酷い傷を負ったルナトリアの傍らに跪いたとき、ノヂシャは温もりを失くしてゆく手を握り、優しい人を喪う、褪せない恐怖に震えていた。


(でも……ルナトリアは、生きている)


 ルナトリアは銀の星によって、ひとの体を巡る赤い血を奪われた。そうして、かわりに新しい銀の血を与えられた。堕ちた銀の星は蛇のようにルナトリアに這い寄り、潰れた腹部を膨らませ、波打たせた。永遠に閉ざされる運命にある瞳に光を取り戻し、唇に下弦の月の如く美しい弧を描いた。ノヂシャが目の当たりにしたのは、死を覆す秘術。まさしく神の御業であった。


(ルナトリアは生きている。瞳の色は変わって、温もりを失くして、それでもルナトリアは……こうして生きている)


 ルナトリアの頬に触れることで、ノヂシャは記憶に留めたルナトリアの輪郭をなぞろうとしていた。ルナトリアは擽ったそうに笑い、ノヂシャの掌に頬を擦り寄せる。滑らかさは冷たさと相俟って、氷に触れているかのようだと思う。奇妙な違和感が這いあがってくる予感がして、ノヂシャはそれを振り払うように身震いした。ノヂシャが触れているのはルナトリアだ。氷の人形などではなくて。

 ルナトリアは屈託なく笑い、ノヂシャの髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜて、ノヂシャの思考を散らかしてしまう。


「嫌だわ、殿下ったら。難しいお顔をなさらないで。そんなことより、ねぇねぇ、殿下。ルナを褒めてください。ルナの剣技、ご覧になったでしょう? それとも、お見逃しになったかしら? もしもそうだとしたら、残念なことをなさいました。ルナの剣筋はね、疾さにかけては、ちょっとしたものなのです! オフィリア皇女殿下は『閃光のよう』だと、褒めて下さるわ。ルナが習ったのは、剣術ではなく剣舞でしたから、実際にひとを斬るのは初めてでしたけれど、上手に出来ました。だから、ほら、ね? 殿下の大切なお体は守られたでしょう? それにね、殿下。ルナは、殿下のお言いつけをよく守りました。ルナの体では、その方を殺めてしまうかもしれませんから、わざわざ、ひとの剣をふるったのです」


 ルナトリアは誇らしげに胸を張り、細身の剣を掲げて見せた。空気さえ赤く彩る、噎せかえるような血臭がより一層、濃くなる。

 ルナトリアは剣を指して、ひとの剣、とノヂシャに説明した。大方、銀色の血から成るルナトリアの新しい体にわらわらと群がる、下品な兵士から奪い取ったのだろう。ルナトリアが手にとった剣の元の持ち主は、大人しく剣と名誉をルナトリアに譲ったのだろうか。いずれにせよ、兵士は剣と名誉のみならず、腕も脚も、命さえも、ルナトリアに差し出す羽目になったかもしれない。そうだったとしても、不思議ではなかった。


 毒針を突き刺そうとする蜂を殺そうとするのは、当然のことだ。優しいルナトリアがそのことで心を痛めるようなら気の毒だけれど、今のルナトリアにそんな心配は杞憂に過ぎないことを、ノヂシャは既に理解している。


 ノヂシャの懸念はニーダーの無事だ。ルナトリアは『殿下』の懇願を聞き入れ、ニーダーの命はとらないつもりらしい。手首の先を切断されても、それは致命傷にはならないことは、自身の体をもって実証済みである。四肢を斬り落とされたとしても、生きていられるだろう。ニーダーもノヂシャも、生半可なことでは死なない体に生まれた。


 ただし、ルナトリアがその気になれば、ニーダーもノヂシャも、赤子の手を捻るより容易く殺される。ルナトリアの新しい体は銀の星で出来ている。ルナトリアは銀の神の力を手に入れたのだ。


(ルナトリアが俺を庇ってくれたとき、ノヂシャって、名前を呼ばれた。ルナトリアは、俺がノヂシャだって気付いているんだ。それなのに、また俺のことを『殿下』って呼ぶのは……俺を喜ばせようとするのは、俺の為になんでもしようとするのは……まだ、ニーダーの欠落を、俺で補填しようとしているから、なんだろうな)


 ノヂシャとラプンツェルの仕掛けた卑劣な罠にかかり、ルナトリアはニーダーへの思慕と失望に心を引き裂かれてしまった。ルナトリアはノヂシャと違い、ニーダーの欠落を知らず、ニーダーを美化し、虚像を愛してしまった。ルナトリアが悪いわけでは無いけれど、それは愛として致命的な欠陥だ。愛が、愛のままではいられなくなる程に。


(ルナトリアは、ニーダーを傷つけることを躊躇わなかった)


 失意のノヂシャを、銀の体で大切な宝物のように包みこんで、中庭中に張り巡らせた銀の巣に隠したルナトリアは、ノヂシャを迎えに来たニーダーを執拗に甚振った。そんな残酷なやり方、心優しいルナトリアらしくないのに。最後には、ノヂシャの懇願を聞き入れて止めてくれたけれど。ニーダーと一緒に生きたいから、ルナトリアと死ぬことは出来ないと伝えても、ノヂシャを責めずに送り出してくらた筈だったけれど。果たして、ノヂシャの認識は正しいのだろうか。疑念は心に不穏な漣となってひろがる。


(ルナトリア、ニーダーを俺の許に導いたのは、君なんだろう。君は俺の為に、ニーダーを連れて来てくれた……君は優しいから。君はそんなになっても、俺に生きる希望を与えてくれる。君がニーダーを連れて来たのは……俺の為にしてくれたことで……奪う為なんかじゃ、ないよな?)


 ルナトリアを信じていたい。それなのに、ニーダーに見向きもしないルナトリアの満面の笑みの裏側に見え隠れする、鋭い刃の気配が、ノヂシャの心を乱れさせる。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ