闘う覚悟1
ノヂシャの胸を穿つ五指を震わせれば、溢れ出す血は赤い蛇となって、ニーダーの右手を鎧う輝殻の表面を這う。滾る血潮は眩い程に鮮やかな色彩を放ち、玉を結んでぽたりと滴り落ちた。白い夜着の布地を染み通り、素肌に張り付く。青白い肌を呪うかのように、禍禍しく侵食してゆく。
(この手は、無垢なる者の血に塗れた咎人の手)
そう自嘲するニーダーは、血に塗れた手の内に、ノヂシャの命の鼓動はおさめていた。握りしめると、どくんどくんと、力強く脈打つ石の心臓。
輝く面に、幼いノヂシャの花咲く笑顔が浮かんで消えた。
ひと思いに抉り出そうと力を込めた右手が、ノヂシャの左手に抑えられた。はっとして顔を上げると、眉を潜めたノヂシャの、激烈な眼光に晒される。色を失うまで唇を強く噛みしめた唇は呼吸を忘れているが、ニーダーと目が合うと、ぎこちなく弧を描いた。
「お、れの……心臓の、在り処……覚えて、いたのか。こうされるのは、初めてだな。あんたは散々、俺を甚振ったけど……ここには手を出さなかった。あんたが触れたいなら、俺は別に構わねぇけど……一体、どういう、風の吹きまわし?」
震え掠れた細い声は、言葉を紡ぐうちに、平静を取り戻す。小首を傾げて問い掛ける時、ノヂシャは全ての苦痛を忘れたかのような微笑みさえ浮かべてみせた。ニーダーは驚愕する。
命の源を苛む苦痛は、肉の苦痛の比ではない。石の心臓をこのように手荒く扱われれば、痛覚が破裂し神経が焼き切れ、悶絶することも叶わず、泡を吹いて失神してもおかしくはない、それなのに。
ノヂシャの指が、ニーダーの右手を指先でそっと撫でる。輝殻にも触覚がある。優し過ぎる愛撫に込められた情感も伝わる。真正面から受け止めていては、殺意を突き崩されしまいそうで、ニーダーはノヂシャのなじみ深い笑顔から目を背けた。感情を排した声で、切り詰めた言葉を紡ぐ。
「抵抗はするな。苦痛を悪戯に長引かせるだけだ」
ノヂシャは軽やかに笑う。胸の震えが、傷を深く抉る。傷に障る、動くな。と叫びかけて唖然とした。ノヂシャを傷つけるのはニーダーなのに。
ノヂシャは悪戯っぽい微笑みで、まぜっかえした。
「俺がこの程度で根を上げるとでも? 見縊って貰っちゃ困るね。俺は今、ご機嫌な歌さえ口ずさめそうなんだぜ。ご所望とあれば、兄上の為に歌って差し上げましょうか? 俺、音痴だけど」
「……結構だ」
「間に合ってる、ってか? そう言うなよ。俺がどんなに酷い歌い手でも……あの娘よりはマシさ」
軽口を叩く余裕を見せるノヂシャとは対照的に、ニーダーの返す言葉は精彩に欠けていた。
ノヂシャはきっと、ニーダーの動揺を見透かしている。
不意に、ノヂシャが覆い被さるようにしてのし掛かってきた。ニーダーの手に急所を握られているにも関わらず。ずぶりと身の毛のよだつような音をたてて、鋭い爪がノヂシャの肉に食い込んでも、ノヂシャは退かない。痛みより恐れより、ノヂシャが優先するのはニーダーの温もりだと、熱に浮かされた瞳は雄弁に物語る。
ニーダーはノヂシャを追い詰めている。ほんの一挙動で、ノヂシャの自由な命に終止符を打つことが出来る。にもかかわらず、怯んだのはニーダーの方だった。
ノヂシャは笑みを深めた顔を傾けて、ニーダーの右耳に唇を寄せる。
「なぁ、ニーダー……俺が、怖い? 俺が、憎い? 俺が、邪魔? 空蝉の虚しさを守る為に、あんたはこの俺に……たったひとりの弟に牙を剥くの?……失念していたよ、ニーダー。あんたこそ、愛に狂っているんだった。あんたは、呪われているんだった。あの女に……ラプンツェルに……忌々しいことにな。俺は、間違っていた。あんたを喰らい尽くしたところで、あんたの心は俺のものにはならない。声が嗄れるまで愛を叫んでも、息絶えるまで愛を捧げても、あんたの心は変えられない。無駄、無駄だ。何をどうしたって全部、全部全部、全部全部全部、無駄なんだ」
彼自身の望みを絶つ言葉を重ね、ノヂシャの笑みは空洞になる。脆く皹割れた笑顔の残骸を歪めて、ノヂシャは喉奥に詰まった言葉を絞り出す。
「それでも、ニーダー……俺は、どうしてもあんたの全てが欲しいんだ。なぁ、ニーダー……俺、どうすれば良い?」
ノヂシャの瞳がキラリと儚く光る。咄嗟に口をついて出ようとした慰めは、愛しい妻子の面影が脳裏を過れば、噛み殺すことができた。ニーダーは冷淡に事実を告げた。
「私はお前の兄にはなれる。だが、兄は弟のすべてではなかろう」
ニーダーはしばしば、己が自身に対して懐疑的になる。しかし今、展開する持論を疑うことはなかった。
同じ場所から始まった、血を分けた兄弟は、生まれながらにして、無条件に、特別に愛しい存在だろう。それに対して、生涯をかけて愛する相手は、自ら見つけ、愛を獲得するものだ。そうして、自らの意思と力で築く新しい家族の幸福こそが人生の目的であり、神に約束された場所なのである。
ノヂシャは、ニーダーのせいで彼自身の人生を生きられなかった。だから、生まれた家族しか知らない。父の顔を知らず、母を嫌ったノヂシャには、慕う家族はニーダーしかいない。
それは傍目から見れば不幸なことだが、その不幸がノヂシャを生かしているのだから、救いがない。
ノヂシャに人生のもっとも素晴らしい慶びを教えてやりたかった。けれど、伝える術がニーダーには分からない。弱い自分を隠すため、強い支配者演じ、他者を踏みつけてきたニーダーには、すがりついてくる弟を冷たく突き放すことしかできない。
ニーダーの拒絶が、ノヂシャを切り裂いてゆくのが、ニーダーには分かった。深紅に染められた心で、ノヂシャがニーダーの優しさを探しているのも、わかった。ところが、ノヂシャのとった行動はニーダーの予期せぬものだった。
ノヂシャは、彼の心臓を握るニーダーの手の甲に強く爪をたてた。されるがままだったノヂシャの突然の抵抗に、ニーダーは面食らう。ノヂシャの苦悶の表情を一目見れば、彼の抵抗は至極まともだったのだが。ノヂシャがニーダーの横暴をひたすら受け止めてきたこの十年間に、ニーダーは気付かないうちに甘えていたようだった。
暫時を経て、気を取り直した後も、無意識のうちに詰るような言葉を吐いてしまう程度には。
「……ノヂシャ、何故、抗う。この場で今直ぐ、お前の望みを叶えてやろうと言うのに」
十年もの間ずっと続けてきた、情け知らずの支配者を振る舞いは流石に堂に入っている。冷笑も習い性だ。
しかし、それに対して返ってくるのは、ニーダーにおもねる作り物の怯えや後悔、混乱などではない。
カリカリと硬い輝殻に爪をたてるノヂシャは、痛いほどに真剣な眼差しでニーダーを見詰めて言った。
「俺の心情は赤裸々に話して聞かせただろう。愛は深くなる程、欲張りになるんだ。今更、妥協なんか出来ない。あんたの描く夢物語に俺の居場所が無いなら、すべて無残に、灰と煙になり果てれば良い。あんたを奪い去る全てを焼き払い、焼け跡にはただ、あんたと、あんたを愛するこの俺だけが残れば良い!」
ぺきり、と軽い音をたてて、白く変色したノヂシャの爪が折れる。
「運命は俺の味方じゃない。だから、闘わないといけない。ラプンツェル……あの娘にあんたは渡さない。あの娘にだけは、絶対に」
 




