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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十五話「回帰」
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殺意

残酷な描写、グロテスクな描写が御座います。また、男性同士の親密な接触の描写も御座います。ご注意願います。

 ノヂシャが微笑むと、双眸は綺麗な虹の弧を描く。それでも、蒼穹を思わせる青い瞳を覆い隠す、殺意の暗雲は晴れない。蜘蛛の糸に絡まる獲物のように、ニーダーはただひたすらに、捕食者の笑顔を仰いだ。逸る鼓動は不安を煽る、恐るべき運命の足音のようだ。無様な慄きを、兄の意地でどれだけ隠せただろう。ノヂシャは兄の弱弱しさまじまじと見つめていたが、貶すことも蔑むことも、論うことも揶揄することもせず、落ちついた声調で言った。


「俺はあんたを愛している。世界中の誰よりも、あんた自身よりも。それなのに、あんたの描く綺麗な世界にいるのは、ラプンツェルとその子どもだけだ。俺はあんたの世界には入れて貰えない。ガキの頃から、そうだった。俺達は二人きり、あんたの部屋に閉じこもって、すごく幸せで……朝が疎ましくて、永遠の夜を求めていた、あの頃でさえ。あんたは俺とあんたの世界を描いてはくれなかった」


 ノヂシャは言葉を切り、唇を噛んだ。破けた唇から、赤い血と悔しさが滲む。ノヂシャは親指で唇に紅をさす血を拭い、呻吟しながら言った。


「こんなの、不公平だと思わないか? 俺はあんたの弟だ。あんたは、俺を大切に想ってくれている。優しくしてくれる。でも、それでも……あんたの一番は、ラプンツェルとその子どもなんだ。なぁ、ニーダー? 俺は間違っているか? 間違ってねぇだろう? ……悔しいけど、俺は正しいんだよな」


 ノヂシャの指先がニーダーの首筋をなぞる。肌に触れる指がノヂシャの血を佩びて滑っていた。

 ノヂシャは彼自らが刻みつけた噛み痕に触れた。塞がりかけた傷口を優しく慰撫したかと思えば、名残惜しんで爪を立てる。そうして、軽やかに踊る指先に弾き出されるニーダーの動揺を愛でながら、刮目した瞳には激情の稲妻が閃いた。


「そんな、ふざけた結論は許さねぇ。あんたの大切な世界が俺を受け入れず、俺の愛を弾き飛ばすなら……そんな世界、果てまで壊しつくしてやる。俺はあんたを愛している。あんただけを愛している。だから俺が、あんたの一番にふさわしい。あんたの全てになるべきだ。俺はあんたを、俺のものにして良いんだ。あんたの心が、ラプンツェルとその子どものものだって言うなら……二人を殺してでも、奪い取るしかねぇだろうが」


 ニーダーの心を跪かせていた恐怖は、ノヂシャの殺意の矛先が最愛の妻子に向いたことで、憤怒にとってかわった。血潮を滾らせ全身に行き渡る。凍りついていた体が自由を取り戻す。ニーダーはノヂシャの胸倉を掴み、強引に引き寄せた。互いの額がしたたかにぶつかったけれど、視界を血の色に染める怒りは痛みを撥ねつける。

 目睫の距離で目を回すノヂシャを、ニーダーはあらん限りの気力を振り絞って怒鳴りつけた。


「私を独占する、唯それだけの為に、私の妻子を殺めようと言うのか!? それがどれ程卑劣で、罪深く、忌避すべき所業か、わからぬお前ではあるまい!」


 激しく喀血しつつ、ニーダーは険しく尖らせた瞳でノヂシャを睨みつけた。


 かつて、ニーダーは己の力を誇示し、復讐の愉悦に酔い痴れる為だけに、何の罪も無い女……ノヂシャの育ての母であるマリアを蹂躙し、死に追いやった。あのような悪魔の所業、堕落しきった悪魔にしか為し得ない。ノヂシャはところどころ狂っているけれど、その魂は、持って生まれた気高さを失わない筈だ。堕胎の毒をもって、胎児であったアクレイギアの命を狙った忌むべき前歴はあれども、あれとて未遂だったのだ。ルナトリアとの子を亡くしたばかりで、絶望の淵に立たされていても、思い止まる理性が働いたのだ。


 毒に侵され発狂し、理性の失せた獣と鳴り果てた父王もまた、心の内では最期まで、誇り高くあった筈だから。そう、信じたい。ニーダーのように、悪魔に身を窶し、取り返しがつかないところまで堕ちてしまっていたら、もう、制止の声は届かない。


 ノヂシャはすぐには応えられず、焦点の甘い瞳を彷徨わせていた。割れた額から流れる血が唇に達したとき、ノヂシャははっとしたように、ニーダーの怒れる瞳を見返す。血の雫を舐めとり、赤く濡れた唇を開く。


「良いな、その目は、何度見ても。あんたに嫌われるのは辛かったけど、悪いことばかりじゃなかった。鋭いその目が好き」


 赤い舌が踊り、どろりと粘り、骨まで染みる程に甘い、蜂蜜のような声色を使って、ノヂシャが囁く。


「もちろん、わかっているさ。ラプンツェルは兎も角、その子どもを殺すのは、正直言って、気が咎める。赤ん坊には何の罪も無い。罪を犯せる筈が無い。だから一度目はちょっと、躊躇っちまったんだな。二度目は絶対に、しくじらねぇけど。あんたみたいに上手くやってみせるさ。あんたが、マリアのお腹の子を殺したように。……なぁ、ニーダー? 一度、聞いてみたかったんだ。流石のあんたでも、あの残酷な『苦悩の梨』で胎児を抉りだす時、少しでも心は痛むのか?」


 あっけらかんとした笑顔で、ノヂシャは小首を傾げる。好奇心旺盛な仔猫のように煌めく瞳の奥でとぐろを巻くのは、怨念のようなものだろうと、ニーダーは思う。同時に、ノヂシャ自身が憎悪の所在に気付いていないのかもしれないとも。


 ニーダーはノヂシャを見つめた。ノヂシャはこどもの頃と変わらない笑顔を浮かべている。けれどその中身は、どす黒く変質して、酷くねじくれてしまっていた。無邪気に笑って、微塵の罪悪感もなく、いたいけな幼子への殺意を語ってしまえる程に。ノヂシャの狂態は、ニーダーの希望を刈り取ってしまう。


(何故、私はこんなに愚かなのだ。何故、私は……大切なひとを壊してしまうのだ)


 出血により額に張り付く前髪を掻き上げるノヂシャの手は、白かった。必死になって腹を庇うマリアの手もまた、暗い部屋で仄白い骨のように浮かび上がっていた。


(ノヂシャ……お前には、幸せになって欲しかった)


 もう手遅れかもしれない。諦念に締め付けられる胸をせわしく波打たせ、ニーダーは掠れた声を絞り出す。


一度ひとたび、無垢なる者の血でその白い手を染めようものなら、魂が朽ちるとも、その罪から逃れることは出来ないぞ」

「んん……? ってことは、魂の牢獄でも一緒にいられるってことか? 永久に苛まれる苦痛なんて煩わしいばかりだが、あんたが一緒なら良い。寧ろ、最高だね! 嗚呼、生まれて初めて、神様がいてくれたら良いと思ったぜ。俺たちを等しく罰してくれるなら、天使だろうが悪魔だろうが、別になんでも良いけどさ」


 神を嘲笑い冒涜するノヂシャの熾烈な愛情は、黒い雨のように降り注ぎ、ニーダーの口唇から紡ぐべき言葉を奪った。


 手に入れる為に奪う、そんなやり方は間違っている。なんて正論を、ニーダーが振りかざせる訳がない。ニーダーが大切に胸に抱いている幸福は、愛する人から奪うことで、手に入れたものなのだ。同じようにしようとしているノヂシャを、糾弾する資格がニーダーには無い。だからと言って、最愛の妻子に魔の手が伸びるのを、指を咥えて見ていられる筈もない。


 ニーダーはノヂシャを見上げた、そっと伸ばした左手の掌でノヂシャの頬に触れると、ノヂシャは猫が甘えるように、うっとりして頬を擦り寄せてくる。胸が疼くように痛む。


 ブレンネンの小さな太陽であった、あどけない頃の面影に一縷の望みをかけて、ニーダーは言った。


「お前は勇敢で優しい心の持ち主だ。脆弱で臆病で、それ故に残忍な私とは違う」

「あんたの為なら、いくらでも残酷になれる」

「ノヂシャ、聞け。お前に相応しい、素晴らしい幸福が世界の何処かでお前を待っている筈だ。兄を想う愛情や執着という縛鎖を振り切り、朽ちるのを待つばかりの古巣を飛び立ち、自由の翼で何処までも、お前なら飛んで行けるだろう」

「あんたを置き去りにする翼なら、千切って捨ててやるさ。俺はあんただけが欲しい。他には何も要らない」


 真心をこめた筈の言葉は、ノヂシャに悉く交わされる。ニーダーは諦念と失望を噛みしめ、思考を巡らせた。


 少年の頃、ニーダーはゴーテルから『彼ら』の体の成り立ちについての教えを受けた。

 影の民の末裔は体のどこかに石の心臓を隠し持つ。それを抉り取られれば、体は塩の柱と化す。しかし、それだけでは死なない。影の民の末裔の命は石の心臓に宿っている。石の心臓を血肉をもつ人体に寄生させれば、体を取り戻すことが出来る。この働きは『宿り替え』と言う。影の民の末裔を殺すのは、殻の病と銀の焔だけなのだ。


 ニーダーやノヂシャのような、王家の人間と影の民の末裔の間に生を受けた半人半魔の者も、体の何処かに石の心臓を隠しもつ。けれど、影の民の末裔のように、宿り替えることは難しいだろう。やって出来ない事はないかもしれないが、不完全な宿り替えには危険が伴う。

 石の心臓を抉り取られれば、体を塩の柱と化し朽ち果て戻らない。心臓が鼓動を続けても、体を得られなければ死も同然である。


 ニーダーは左手でノヂシャの頬を撫でながら、右手をそろりと持ち上げた。鎌首を擡げ、獲物を見定める蛇のように音も無くノヂシャの脇腹に触れる。薄目を開けたノヂシャの顎を不格好に折れ曲がった指で掴み、固定する。澄み渡る青空を宿す、純粋な瞳に見透かされることを恐れながら、ニーダーはひっそりと声を潜めた。


「翼を失い負った傷の為に、命を落とすことになったとしても?」


 ノヂシャの石の心臓は、左胸にある。


 ニーダーの右手がそこに触れても、ノヂシャは身構えず、動じない。衣類の布地越しでも、石の心臓に触れられることは耐えがたい。眼球よりも苦痛を感じやすいのだ。それなのに、ノヂシャは無遠慮に探るニーダーの手に、大人しく身をゆだねている。


 ノヂシャは無防備だ。ニーダーに触れられるのが、嬉しくて堪らないと、身も心も喜びに弾んでいる。

 ニーダーは目を伏せて、軽く頭を振った。ノヂシャがどんな気持ちでニーダーの好きにさせるのか、想像すれば躊躇いが生まれる。だから、いけない。躊躇えば仕留め損ねると、ついさっき、ノヂシャ自身が言っていた。


 ふいに、ノヂシャは左手をニーダーの右手に重ねる。ニーダーはぎくりとした。ノヂシャはニーダーの心を見通してしまう。愛しているのに、ラプンツェルの心がわからないニーダーと違って、ノヂシャには、ニーダーの心が手に取るように分かるらしい。魂の優劣は愛の質にさえ影響を及ぼすのかと思えば、劣等感が深く根付いた心の弱さがざわめくけれど、今、そんなことはどうだって良いことだ。ニーダーの後ろ暗い謀みに、ノヂシャが気付いていたとしたら、一貫の終わりである。


 しかし、それは杞憂だった。ノヂシャの手はニーダーを咎めることなく、ただふんわりと、兄の手に重なる。緊張で伏せていた目で見上げれば、ノヂシャは無邪気に微笑んでいた。


「言っただろう? あんたが一番なんだ。あんたの為なら、何も惜しくない」


 ノヂシャの笑顔は晴れやかだった。一点の曇りも無い。迷わない瞳で誓う、揺るぎない愛は唯一つ、ノヂシャの真実なのだろう。

 ノヂシャの一途な思慕は、ニーダーの心の柔らかいところに深く突き刺さる。きっと、生涯忘れられない傷になる。


 ノヂシャはニーダーの右肩に唇を寄せ、石の心臓に、小鳥が啄むようなキスを落として、言った。


「あんたの、どうしようもなく疼く欲望が満たされるまで、この俺が奪ってやる。だからあんたは、俺だけを愛すれば良い」


 ぞくりと、頭の天辺から爪先まで、付きぬけるような怖気がはしる。それでも、ニーダーはノヂシャを突き放さなかった。

 陶然と語るノヂシャの熱い吐息を石の心臓に感じ、ときめく鼓動を右の掌に感じている。ノヂシャに命を握られ、ノヂシャの命を握っている。刹那の躊躇が命取りになるに違いない。


 もしも、ノヂシャがニーダーだけの命を望むなら、ニーダーは愚図愚図と、決断出来ずにいたかもしれない。その結果として、望まぬ最期を遂げたかもしれない。

 けれど、ノヂシャがラプンツェルとアクレイギアの命を奪おうとするなら、ニーダーは一切悩まない。悩む必要なんてない。答えは決まっている。


 ノヂシャは、ニーダーの為なら何も惜しくないと言った。ニーダーも同じだ。ラプンツェルの為なら何も惜しくない。それがたとえ、兄を健気に慕う、たった一人の可哀そうな弟だとしても。


(ノヂシャ、たったひとりの、僕の弟。君のことが、大好きだった)


 ニーダーは輝殻を、部分的にではあるが、自在に操ることが出来る。これも、ゴーテルに教わったことだ。ニーダーの意思に応じて、白銀の輝殻はニーダーの右の肘から指先を覆う。皮膚を捲り、固く熱い鎧を鋭く抉り込む。熱と苦痛は逡巡に値しない。その為の訓練は積んできた。いざという時……そう、今の為に。


 異変を察したのだろうノヂシャに、身じろぎすることも許さない。ニーダーは輝殻で武装した五指を躊躇いなく、ノヂシャの左胸に突き立てた。探り当てたノヂシャの石の心臓を掴む。


 ノヂシャの体が大きく跳ねた。



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