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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十五話「回帰」
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食らいつくしてしまいたい

男性が男性に親密な接触(撫で回す、嘗める)を行う描写、また、暴力描写(膝蹴り、足払い、押し倒し、爪で抉る)、さらに、カニバリズム発言が御座います。ご注意願います。

 ノヂシャに抱きしめられながら、ニーダーは震えていた。ノヂシャの温もりが怖い。焼き尽くされてしまいそうだった。


「ニーダー……俺の、兄上。あんたを、心から愛している」


 ニーダーの右肩に、涙に濡れた頬を擦り寄せるノヂシャは、両腕の力強さに反して幼気で、愛くるしいまでに哀れだ。


 ノヂシャは兄を、ニーダーを愛している。ノヂシャには、それしかない。ブレンネンの幸福そのものと謳われた、誰からも愛される小さな太陽は、いつの間にか完全に、ニーダーの手に堕ちていた。灼熱の塊はずっしりと重く、ニーダーの手に余る。


 ノヂシャの心は壊れた。破裂して、粉々に砕けた。元には戻らない。だからこそ、ノヂシャは崇拝と愛を混同してしまうし、支配される不条理に抵抗することが出来ない。心が壊れて、まともではなくなったから、ノヂシャはニーダーの全てを受け容れ、彼の全てをニーダーに明け渡す。


 ニーダーはこれまでに、大勢の人々の命と魂の尊厳を蹂躙してきた。ノヂシャのことを、足元に転がる死屍のうちのひとつに過ぎないと考えるなら、ノヂシャが差し出すものを平然として受け取り、使い捨てることに何の痛痒も感じなかっただろう。


 しかし、ノヂシャは有象無象の輩とは違うのだ。ニーダーを兄と呼び慕ってくれる、たったひとりの血を分けた弟。その事実からは、逃られない。

 罪の意識は嵐の夜のような唸りを上げて迫り来る。ニーダーの心は細い梢のようにそよぎ、縺れ合っている。このままでは耐えきれず、圧し折れてしまいかねなかった。


 壊れた弟の狂おしい愛。その重圧に恐れを為して投げ出せたなら、どんなに楽になれるだろうと言う忸恥たる怯懦きょうだが心の底で頭を擡げる。


(これが、私の罪深さが招いた結果だ。壊れたノヂシャの心の歪みだ。ノヂシャの愛を、否定することはしたくない。否定すれば、これまで培ってきたノヂシャの全てを否定することになる。ノヂシャは逆上するだろう。底なしの絶望の淵からわきだす怒りと悲しみ、憎しみと狂気は、燃え盛る地獄の火車のように、何もかもを巻き込んで、破滅へとひた走り……もう、誰にもとめられない)


 不思議な確信を持って、断言することが出来る。ノヂシャの心の叫びを受け止めたニーダーの中で、ノヂシャは不気味で不吉で不可解な狂人ではなくなったのだ。ニーダーとノヂシャ、二人の心の飢餓は酷似した波長で響き合い、孤独を奏でていた。


 茨の道を往くことはない。ノヂシャの愛と献身を粛々と受け容れれば良いのだと、心の隅で膝を抱える臆病な己が囁く。

 作られた夢の中で甘いまどろみに埋もれて眠りを貪り続け、そのまま息絶えたなら、ノヂシャは幸福だ。ニーダーだって、もしも母がニーダーの愛を受け容れてくれたなら、至上の喜悦に満たされただろう。それが偽りであったとしても、騙されていると、薄々、感づいていたとしても。真実なんて、知らない儘で良い。これで満足だと、虚ろな形骸を抱きしめたまま、行き場のない魂となっただろう。朽ち果てるまで、幸福な思い出をかき集めながら、彷徨い続けただろう。それはきっと、幸福な終わりのひとつに違いなかった。


 されど、それは真実の愛を知らない、侘しい者の妥協なのだと、真実の愛を知ったニーダーは思う。奇跡の天使ラプンツェルは、ニーダーに素晴らしい幸福とアクレイギアを授けてくれた。


 真実の愛と幸福が、きっと何処かで、ノヂシャの迎えを待っている。それを知らない儘の可哀そうな弟を、狭い檻の中で朽ち果てさせて良いのだろうか。


(良い筈がない。これまで、私の都合でノヂシャを振り回し、苦しめてきた。弟の為に何一つ、してやれないなんて……そんな、不甲斐ない私には、ノヂシャの兄である資格がない)


 ニーダーが心から愛した母は、ニーダーを愛してくれなかった。それどころか、息子であると、認めてさえくれなかった。頑なにニーダーを拒む母を、恨みたくなかったけれど、恨まずにはいられない瞬間があった。けれど、母の頑なさに、今では感謝しているのだ。母が徹底して、ニーダーを突き放していたから、ニーダーはいつまでも母の愛を得ることに拘泥せずに済んだ。ラプンツェルに巡り会い、彼女を愛した。それが奇跡の始まりだった。母がくれた、唯一にして最高の贈り物だった。


(私は、ノヂシャの兄になりたい。血だけではなく、心も繋げて、本当の兄弟になりたかった)


 ニーダーは今、とても幸せだ。ノヂシャの兄でありたいなら、ノヂシャの幸せを願うなら、ニーダーもまた、母と同じようにするべきだ。身を切るように辛く、悲しくても。


 ニーダーはノヂシャの肩をむんずとつかみ、突き飛ばした。五指に力が籠らず、ノヂシャの体は殆ど離れて行かなかったけれど、ニーダーの意図はノヂシャに伝わったようだ。きょとんとして、平易に驚きを示すノヂシャの、丸い瞳の奥に滲む翳りを、ニーダーは正面から見据えた。


 ノヂシャの幸せを、諦めないこと。それが、せめてもの罪滅ぼしだ。ニーダーは自身が、兄として失格だと思っているけれど、それでも慕ってくれる弟の前途が幸多きことを、兄として、心から願っている。


 ニーダーは眉を潜め、口角を僅かに吊り上げた。そうすることで氷像染みる容貌が、見る者の目には、背筋が凍る程に冷たくうつることを、承知した上で浮かべた冷笑だった。


「好きにしろと言ったか。この私に指図をするとは、偉くなったものだな? 少し、甘くすればすぐにつけ上がる……まったく呆れた奴だよ、お前は」


 酷薄な唇が紡ぎ出した言葉の冴えた切れ味が、心を通わせた兄の豹変に戸惑うノヂシャに斬りかかる。


「ここを脱出したら、すぐに……私の前から消え失せろ。二度と、その腑抜け面を晒すな」


 冷たく言い放ち、ニーダーは己の性急さと迂闊さに鋭く舌を打った。


 今この場で、ノヂシャを突き放す利点は無い。厄介事は、甘い言葉で宥めすかし、この窮境を脱出した後に回すべきだ。そんなことは分かっていたけれど、突き放すと決めているのに、受け容れたふりをすることが、ニーダーにはどうしても出来なかった。希望や期待は痛みを強くする。ノヂシャを傷つけることが避けられないならば、せめて、少しでも痛みを和らげる。今のニーダーには、それしか出来ない。


 ノヂシャはニーダーを凝視している。小首を傾げる幼い仕草は、理解を伴っていないようだ。案の定、ノヂシャは困惑した様子で、おずおずと言った。


「いきなり、何を言い出すんだ。俺が必要なんだろ? 傷だらけになっても諦めずに、俺を連れ出したのは、その為だろう」

「そのつもりだったが、考えが変わった。お前のような狂人には、もううんざりだ」


 ノヂシャはぽかんと口を開けたまま、硬直する。ぴりぴりとした苛立ちを紫電のように纏わせるノヂシャの眉間に皺が寄った。


「知ってる。だから、殺せばいいじゃねぇか。俺や父上に遠慮して、鬱々としていたこの十年に、蹴りをつけろよ。それで、清々するだろ?」


 心の底まで見透かしたような言葉の刺々しさが、演じる迄もなく、ニーダーの眉を圧し、目つきを険しくさせた。


「貴様の薄汚い血で、この私に手を汚せと? 笑止だな。そんなに死にたいならば、何処か遠くの地で野垂れ死ねば良い。私の目を汚さぬよう、私の手を煩わせぬよう、勝手に死ね」


 ノヂシャは唇をわなめかせる。返す言葉に迷っているのか、それとも、言葉を失っているのか。何も語らずに、ノヂシャは俯いた。思考に霞がかかり、ぼんやりしているのかもしれないし、茫然としているのかもしれなかった。


 冷酷な言葉を重ねるニーダーの胸中を、緊張と不安と躊躇が撫で回す。


 ノヂシャの沈黙が、嵐の前の静けさに思えてならない。このまま続けていたら、突然、ノヂシャの心が破裂して、跡形も無く消し飛んでしまわないだろうか。そんな不安を、危惧せずにはいられなかった。けれど、後には引けない。ニーダーは口腔に溜まった、血と唾液の混ざりものを、痛みを堪えて飲み込むと、苦々しく言った。


「ルナトリア・アルル・ルース夫人と共に、ヴァロワが恵みし白銀の国へと護送する。あとは、お前の好きにするが良い。ただし、二度とこのブレンネンの地を踏むことは罷りならぬ」


 決別を告げると、ノヂシャの瞳が光を失くした。理解しても感情が追いつかず、ノヂシャの顔は死面のようにつるりとした無表情のまま。「兄上」と囁く声の、抑揚のなさがかえって痛ましい。頭を抱き、慰めてやりたいという衝動を、爪が掌に食い込むほど強く握りつぶし、ニーダーは吐き捨てるように言った。


「貴様に兄と呼ばれる筋合いはない。家族ごっこなど、虫唾がはしる」

「ごっこ、なんかじゃない! 俺たち、兄弟だろ!」


 内側に火がついて爆ぜるような、凄まじい剣幕で、ノヂシャが叫んだ。言葉の刃がノヂシャの核心に届いていたことに、安堵と悲嘆を等しく覚えながら、ニーダーは傷ついたノヂシャから、ほんの僅かに目を逸らした。思いつく限りで、最も弟の心を打ちのめすだろう言葉を吐くに際して、その目をまっすぐに見つめられるだけの勇気が、ニーダーには無かった。


「お前を、血を分けた弟だと思ったことは、唯の一度も無い」


 ニーダーはついと顔を背けた。ノヂシャは絶句している。


 惨い宣告だ。愛する人に存在を認められていなかった、なんて。そんなことを打ち明けられては、目も当てられない。あまりにも悲惨だ。


(だが、こうでもしなければ、ノヂシャの夢は醒めない)


 ノヂシャに教えなければならない。肉親を大切にする愛だけが、全てではないのだと。いつか必ず、巣立ちの時は訪れる。力強く飛び立ち、真実の愛を見つけなければならない。


 輝く翼があるのに、飛べない鳥になって、古びた巣の中で朽ちてゆくのは、悲し過ぎるのだと、ニーダーはノヂシャに伝えたかった。


 背けた頬に火矢のような視線を感じる。しかしそれも暫くたつと、力を失い、放物線を描いて地に堕ちた。悄然とした呟きがぽつりぽつりと、雨垂れのように落とされた。


「酷い……酷いじゃねぇか、ニーダー……酷過ぎる。なんでだよ、どうして」


 ノヂシャは左手で目許を覆い、項垂れていた。嗚咽は聞こえてこないけれど、肩が震えているから、泣いているのだろう。


 ニーダーは長息をついた。胸に重く積み重なる後悔は、少しも軽くない。それでも、いつまでも、立ち止まってはいられない。ノヂシャを連れて、逃げるのだ。この場所は守られているけれど、絶対に安全という保証はない。


 二ーダーは素早く呼吸を調えると、ノヂシャに向けて右腕を伸ばす。ノヂシャの左手首を掴もうとするニーダーの右手をまんじりと見詰めて、ノヂシャは淡く微笑んだ。


「どうして、今になってそんなに……優しくしてくれるのかな」


 ノヂシャは俊敏に動き、ニーダーの右手を捕まえる。虚を突かれてぽかんとするニーダーを、ノヂシャが強く引き寄せた。踏ん張りが利かずに、ニーダーはノヂシャの懐に引き摺り込まれる。


 ノヂシャの骨張った肩に額を打ちつけ、驚きの為に薄く開いた唇から、喘ぎのような吐息が漏れた。反射的に傾いだ上体を立て直そうとして、ノヂシャの胸に左手をつく。傾倒するニーダーの体を掬うようにして、ノヂシャの固い膝はニーダーの腹にめりこんだ。


 背から突きぬける衝撃に、息が詰まる。無意識のうちに、腹筋に力を込めた甲斐があり、不意打ちを喰らいながらも辛うじて、転倒することは避けた。慄き、後退しようとして浮いた踵が、ノヂシャによって難なくはらわれる。後傾する体に、ノヂシャはすかさず圧し掛かって来た。不安定な体制では大の男二人分の体重など支えきれず、ニーダーは無防備な背から地面に倒れこんだ。


 後頭部と背を強かに打ちつけ、背骨が軋み、総身を痺れが駆け抜ける。目の奥で星がちかちかと明滅する。喘鳴は咽頭の奥に引っ掛かり、短い呼気が唇を割り押し出された。


 ニーダーは苦しみから逃れる為に、深深と息を吸いこもうとした。ところが、うまくいかない。喉と鳩尾が圧迫されている。ノヂシャは右の上腕でニーダーの喉を扼し、膝をニーダーの鳩尾に突き立てていた。身を捩ろうとしても、身動きがとれない。両膝をたてるとノヂシャはすかさずその間に体を滑り込ませてきた。

 満足な抵抗ができない。苦痛のためにぐるぐると目が回る。散々に傷つき、良いだけ血を流し、弱った体が軋んでいた。


 ニーダーは苦しみながら、ノヂシャを見上げた。銀色の影の中で、上限の月の容をした青い瞳は炯炯と輝いていた。


「なぁ、ニーダー。俺には、わかるんだ。あんたが冷酷なふりして、俺を突き放すのは、俺を大切に想ってくれているからだってこと。……ん? 何を驚くことがあるんだ? 当然だろ? 俺は、あんただけを想って生きてきた。それくらい、わかるさ」


 頑是ない笑顔で言い切って、ノヂシャはぐっと額を寄せてくる。熱い吐息が、はくはくと呼吸を求めるニーダーの唇に触れる。ノヂシャは陶然と細めた双眸で、ニーダーの苦しみを熱心に見つめている。


「ニーダー、あんたは本当に優しい。だが、バカだ。何もわかっちゃいない。俺は、あんたを愛している。生きている限り、自分の意思で鼓動を止めることは出来ないのと同じように、俺は生きている限り……いや、死んでも、あんたを愛することをやめられない。だから、あんたが、俺の望みを叶えてくれるなら……俺に笑いかけてくれたら、俺を終わらせてくれたら、最期まで見届けてくれるなら……それで、満足しようと思ったんだ。本当だぜ? これ以上、あんたの邪魔をしないように、あんたを傷つけないように、消えてやりたかった。それなのに……バカだなぁ、ニーダー」


 ノヂシャが吐息で笑う。がっしりと捉えていたニーダーの右の手首を放すと、ノヂシャは血塗れのその指に、己の指を絡める。力無いニーダーの右手を口元に運んで、愛おしそうに頬ずりをした。喉を撫でられた猫のように、心地よさそうに目を細めながら。


「命の危険を冒してまで、俺を迎えに来てくれてさ? 昔みたいに、優しくしてくれてさ? しまいには……兄上らしくなっちまってさ……はは、あんたが悪いんだぜ、ニーダー。ここまでされて、この俺が……あんたを愛してやまない、この俺が……」


 ノヂシャはニーダーの、赤剥けの右手を恍惚の表情で眺め、鮮血より赤い舌で、ニーダーの手を舐めた。手の甲を舐め、握り込んだ指の一本一本にまで、丹念に舌を這わす。ささくれた神経を逆撫でされるような傷みを凌駕する、生理的な嫌悪感に総毛立つ。ニーダーの、蒼褪めた顔を視線で舐めまわし、ノヂシャはうっとりとして微笑んだ。


「諦めきれるかよ」


 喉を扼すノヂシャの左腕を引き剥がそうとしていた左手で、ニーダーは無意識のうちに、右肩を抑えた。石の心臓が大きく跳ねあがる。うろたえるあまり、思考が停止する。胸と背から、それぞれ汗が噴き出て、濡れた衣服が肌に冷たく纏わりついた。


 銀の光が揺れて、ノヂシャの輪郭を仄白く浮かび上がらせる。重なる胸に、ノヂシャのはやる鼓動を感じて、ニーダーは無様にうろたえていた。


 ノヂシャが分からない。ついさっきまでは、魂の袷鏡のように、ノヂシャの心の繊細な機微をかなりの精度で、手に取るように分かったつもりになっていた。それが突然、闇の帳が落ちてきて、一切の光を遮られてしまった。確かなものは何一つなくなった。


 何の取り柄もない、ちっぽけでつまらない男に生まれついたニーダーと違って、ノヂシャは特別な魅力をもって生まれた。ノヂシャには、彼が他者に愛されていることがわかるらしい。

 それで、ノヂシャは如何するつもりなのか。ニーダーが本心から、ノヂシャを突き放している訳ではないことを見抜いたから、だから、諦めきれなくて……それで、如何するつもりで、こんな真似をしているのだ。


「ノヂシャ……?」


 不安で瞳が揺れてしまう。声が震えてしまう。ニーダーの中指を舐め上げたノヂシャの舌が、銀糸をひいて離れた。ニーダーの手に寄せた唇で、ノヂシャは陶然として「甘い」と呟く。


「甘い。嗚呼、あんたは、なんて甘いんだ……ふふふ……震えがとまらねぇ……想いが、溢れて、止められねぇ……ははは……なんで、だろう……あんたは、甘くて、苦いけど、甘くて……昔のまま……ははは、あはははは!」


 けらけらと哄笑していたかと思えば、何の前触れもなく、ノヂシャは少年の笑顔を引っ込める。ニーダーの右手を丁寧に胸の上に置いて、喉を扼す左腕を引いた。咳き込むニーダーの顎に指をかけ、俯く顔を上げさせると、ノヂシャは真剣な顔つきでニーダーの瞳を覗きこんできた。やがて気が済むと、上体を倒して、ニーダーの胸に顔の側面をのせる。そうして、ノヂシャは小さな声で言った。


「ニーダー、俺さ……辛くて苦しくて、怖くて、どうしようもなくなって……もう、終わりにしようと思ったんだ。あんたを愛するこの心は……俺ひとりで抱えるには、少し……重すぎたから」


 ノヂシャの左手がニーダーの頬を撫で、耳朶を擽り、竦む首筋を通って項に触れる。ニーダーの背を地面から引き剥がすように、背筋を辿る。


「俺はずっと、探していた。俺とあんたを繋ぐ絆を信じていたかった。初めから無かったのかもしれないって、諦めかけたこともあったよ。だけど、やっと、見つけたんだ。俺とあんたを繋ぐ絆は、ここにあった。夢じゃなかった。嘘なんかじゃなかった。だから俺とあんたは、輝かしかったあの頃に……二人だけの部屋に、戻れる。戻れるんだ、なぁ、ニーダー」


 夢と現の狭間をたゆたうような、とろんと蕩けた瞳で、ノヂシャは言った。十年も前、ニーダーの膝に頭をのせてうつらうつらとしながら『ニーダーとずっと一緒にいたい』なんて、むにゃむにゃと言ったこどもが、そのままの姿でここに居る。


 ノヂシャの指が、肩甲骨の二つの膨らみを撫でた。びくりと跳ねる肩を見て含み笑うノヂシャは、まだ夢を見ているかのように語り続けた。


「あんたはこの中に、傷ついた天使の翼を隠しているんだろう? 白銀に輝く神々しい翼を広げて、あんたは大空を、何処までも飛んで行けるんだ。たった今、俺を連れて、空高く舞い上がってくれた。……そうして、あんたは一番高い所で俺を独り、置き去りにしようとする。……させねぇよ、そんなふざけた真似。俺を独りにする翼なんて、圧し折って、捩じ切ってやる。ありのままの魅力を損ねるような真似は、俺の美学に反するが、良いんだ。俺のこだわりなんて、つまらねぇなことだ。あんたを傍に留めておけるなら、何も惜しくない」


 夢に夢見る瞳の輝きが失せ、闇が渦巻き淀む。背中に浮き出る骨、軋む程に強く掴まれた。めりめりと、皮膚が破れ、肉が裂ける。足を折り畳んで伏せていた大蜘蛛がゆらりと体をおこし、獲物に忍び寄るように、痛みは広がっていく。ニーダーの額に大粒の汗が浮かんだ。超人的な握力をもって、ノヂシャの指先が背に食い込んでくる。ノヂシャの背に手を回し、シャツの布地を引っ張り、ノヂシャを引き剥がそうとするけれど、とけた爪が指先に癒着した不自由な指先は、血でぬめって思うように役目を果たせない。引き剥がそうとした両手が、痛みを堪えようとして、ノヂシャの背に縋ってしまう。


 すると、ノヂシャはニーダーの背を痛めつけることをやめた。彼自身が刻んだ傷を、労るように撫でる。頭を擡げると、玉の汗を浮かべるニーダーの額に額を押しつけた。血走った碧眼が、刮目して凝視するニーダーの瞳の、奥の奥まで覗きこもうとしている。


「綺麗な青い瞳だ。あんたの瞳に広がる青空を、俺だけが背負っていたい」


 そう言って、呆気にとられるニーダーの頬を撫で、血をなすりつけると、嬉々としてそれを舐めとった。


「あんたは、甘い。俺を甘やかしてくれる手が……甘くて……俺を容赦なく追い詰める手さえ、甘くて……甘い……甘い。俺は、この手に触れて貰えると、今みたいに……嬉しくて、嬉しくて……幸せで、幸せで……震えて、震えて……嗚呼、あんたの全てが欲しい。欲しくて、欲しくて欲しくて欲しくて……俺、もう止まれないんだ」


 ノヂシャは左手でニーダーの背を抱くと、右の肩に唇を落とした。


「あんたの心臓……俺に、食わせてくれよ」


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