ノヂシャの幸せ
白銀の花弁が舞い踊る光に、二人は包まれている。銀色の円蓋に閉じ込められて、世界から切り取られていた。時間の概念はすっかり失われ、不思議な高揚感と充足感に満ちている。ノヂシャの深い呼吸音だけが聞こえていた。ノヂシャが身じろぐと、彼の頬が石の心臓を擦るけれど、たいした痛痒は感じない。夥しい傷が一斉に訴える痛みに掻き消されてしまったからなのかもしれないし、ノヂシャの頬ずりする仕草に愛情がこめられていたからなのかもしれない。
ノヂシャはニーダーの背を探るように撫で回して、ほうっと熱い息を吐いた。
「あんたの体、すごく熱い。まるで、火を含んでいるみたいに。変わらないな。俺さ、よく覚えているんだ。あんたが傍にいてくれれば、暖かかったってこと。あんたが抱きしめてくれたから、凍てついた心が息を吹き返したんだよ」
「……そうか? 私は寒気がして堪らないが」
少しの沈黙を挟んでから答えを返す。沈黙の間に、ニーダーは慎重に言葉を選んでいた。十年前、幼いノヂシャにどのように言葉をかけていたのか、思い出していた。
まぜっかえす言葉を選び口にすると、ノヂシャは愉快そうに笑う。こどもの頃とまったく同じ笑い方だった。ノヂシャは少しも変わらない。ニーダーもまた、なんとかして、十年前の自分になろうとしていた。
ノヂシャはニーダーの弟だ。ちゃんと眼を凝らしてその真実を見極める度胸がニーダーにはなかった。つい先刻までは。
多くのことを経験し学ぶべき貴重な時間を、十年もの長い年月を、ニーダーはノヂシャから奪ってしまった。だからノヂシャは、ニーダーに懐いていた幼いこどもの頃のまま、変われない。本当なら、ニーダーを遥か高みから悠然と見下ろしていただろうに。小さなノヂシャは精一杯の背伸びをして、ニーダーを見上げている。昔と変わらずに。
取り返しのつかないことをしてしまった。後悔と自責の念が、唸りを上げて襲いかかって来る。
ニーダーはぶるりと身震いした。寒気がする。血を流し過ぎたのだろう。ノヂシャの温もりによって、辛うじて立っていられる有様だ。まだ出血しており、頭の中に苦痛と疲労がぐるぐると回っている。
ニーダーの肩に頭を預けているノヂシャが、ぽつりと呟いた。
「幸せだなぁ……あんたと、こうしていられるなんて、夢みたいだ。俺、いつもあんたの夢ばかり見ていたんだぜ。寝ても覚めても、あんたのことばっかり考えてた。俺が起きている間、あんたは俺を嫌って、俺を打っていたけど、あんたが一緒に居てくれるから、嬉しかったよ。もしもこの世界に、他の何も存在しなかったら、最高だろうなって、いつも願ってた。ただ、あんたと俺がいれば、完璧だ。他には何も要らない」
罪の意識に軋む心から放射される痛みが、ニーダーの体内を駆け巡った。幼いノヂシャは、鉤の部屋へ連れ込まれることを恐れ、身を捩り手足を突っ張って抵抗し、泣き叫んでいた。けれど、やがて大人しくついてくるようになった。ニーダーの歓心を買う為に怯えて見せながら、軽やかに弾む心を押し殺して。
理不尽に暴力を振るわれ、罵倒される。そんな苦痛に満ちた時間でさえ、兄と過ごす掛け替えのないひと時だったのだと、ノヂシャは言うのだ。
ニーダーは言葉を失っていた。しばらく沈黙が続いた。しばらくしてから、ノヂシャは頭を振って言った。
「ごめん。あんたを、困らせるつもりはない」
ノヂシャには何の落ち度もないのに、憎悪されて然るべき仕打ちをしてきたニーダーの心の痛みを、ノヂシャは慮っている。ノヂシャの健気な気持ちは、彼の意図に反して、ニーダーを責め苛むじりじりとした痛みの威力を強める。
(謝るのは、私の方だ)
想いは言葉にならない。犯した罪が重すぎて、軽々しく謝罪の言葉を発することは出来なかった。臆面も無く許しを乞えば、ノヂシャは満面の笑みを浮かべて受け入れるだろう。そんなことをしても、救われるのはニーダーの心だけで、ノヂシャの心は救われない。ノヂシャはとっくに、全てを受け容れ、許してしまっているのだから。
ニーダーはノヂシャをぎゅっと抱きしめた。ノヂシャの頭に手を置き、柔らかい頭髪を梳く。血塗れの手で髪に触れられても、ノヂシャは少しも嫌がらない。ニーダーの背に縋るノヂシャの手に力がこもった。
「ニーダー、ありがとう」
ノヂシャの声は波打ち、それでも話を続けようとして引き攣った。
「俺、あんたの弟で良かった。あんたと出会えてよかった。あんたを愛せたことは、俺の人生で、最高の幸せだ。もしあんたを愛せないなら、俺は無駄に生きている。あんたのおかげで、腹を括れたよ。俺は、この愛にすべてを捧げる。俺のすべてだ」
ありがとう、とノヂシャは繰り返した。それを聞いているうちに、ニーダーの視界は滲み、歪んでいった。
(ノヂシャ、お前は愚かだ。お前を幸福から遠ざけたのは、この私なのに。私はお前に苦痛を与えるだけだったのに……何もわかっていない。可哀そうなノヂシャ)
心を鎧うあらゆるものが、心から剥がれ落ちてゆく。ノヂシャの愛情が、真っ直ぐに胸に飛び込んでくる。
ノヂシャと一緒にいると、誇らしかった。慕われていると、必要とされていると、感じられた。実際には愛を知らないこどもの幻想だと決めつけていた。しかし、愛しい妻と息子を得て、やっと、真実の愛を知った。そして、わかった。振り返れば、ノヂシャはニーダーが持った初めての、家族だった。
熱くこみあげるものを堰き止めようとして、ニーダーは歯を食いしばる。泣いてはいけない。ニーダーには泣く資格はない。ニーダーの涙はノヂシャの涙のように、綺麗なものではないから。
体を密着させたノヂシャには、押し隠そうとしたニーダーの強張りが伝わったらしかった。ノヂシャははっとして上体を起こすと、ニーダーの頬を両手で挟み、俯けた顔を引き上げて覗きこんでくる。
「……なぁ、おい、ニーダー? 大丈夫か? もしかして俺、重い? ……重いよな。あんた、怪我してるんだった。悪い、気がつかなくて。もう大丈夫だから、降ろしてくれ」
まるで見当違いな心配して泡を食ったノヂシャが、ニーダーの頬をぺちぺちと軽く叩いてニーダーを急かす。ノヂシャは幼いこどもの頃と変わらず、ニーダーを長閑な気持ちにさせて、笑わせてしまう。
地面に降ろすと、ノヂシャはしっかりと立つ。左手はニーダーの頬にあてられたままだ。ノヂシャは一歩下がると、ニーダーの頭のてっぺんからつま先まで眺める。ノヂシャの上気した頬が青ざめていく。ノヂシャが何か言う前にニーダーは先手を打ち
「見た目ほど、酷い怪我ではないぞ」
と、見え透いた嘘をついた。頬が引き攣るのを自覚していた。
ノヂシャには、ニーダーの強がりも、何の為の強がりなのかも、お見通しらしかった。悲壮感は瞬きの後には消えていた。ノヂシャは微笑み、その直後、左手でニーダーの背後を指差して大きな声を出した。
「あっ、ニーダー! あれ、見てみろよ! ほら、あそこ!」
ニーダーがぽかんとしていると、焦れたノヂシャの左手は、平手打ちでニーダーを振り向かせる。
(……そうだった。ノヂシャにはこういう、配慮も容赦も無い、荒っぽいところがあるんだった)
流石に、負傷したニーダーを気遣う素振りを見せた直後に、こうくるとは思わなかったが。と、ニーダーは頬の痺れに顔を顰めながらひとりごちる。そこまでされたのに、振り返った先には、銀の流線が複雑に絡み合い、形作られた壁が聳えている。壁の中には小さな泡が無数に漂っていた。背後で、ノヂシャが不満そうに唸る。
「……あーあ、見過ごした。相変わらず、鈍間だなぁ、ニーダーは。すごく、綺麗だったのに。まるで、人魚のお姫様みたいでさ」
ノヂシャの視線を辿ったその先で、無数の泡が弾けて消えてゆく。ノヂシャはニーダーと目を合わせると、にっこりと微笑んだ。
「なぁ、ニーダー。ルナトリアは素晴らしい女性だな」
ニーダーは鋭く息をのむ。眉間に皺が寄った。ノヂシャは何故、今ここで、ルナトリアについて言及するのか。
(……ノヂシャはルナを、愛しているのか?)
ノヂシャには人を愛する心がない、と言うのは、ニーダーの勝手な思い込みだった。哀れなルナトリアは、ノヂシャの狂気に巻き込まれたのだと決めつけていたけれど、そうではなかったのかもしれない。ルナトリアはノヂシャの子を身籠っていたらしいのだ。ルナトリアは慰みを求めて、夫ではない男に体を開くような、品性に欠ける女性ではない。ルナトリアはノヂシャに心を預けていたからこそ、身をもゆだねたのだろう。ノヂシャもまた、ルナトリアを愛していたのか。
(しかし、二人の子は喪われてしまった、永遠に)
ニーダーに現実の重圧が圧し掛かってきた。愛し合う二人が子をもうけ、家族となること。それが素晴らしい至福であることを、ニーダーは知っている。その幸福を、弟と友人は永遠に取り上げられてしまった。
ノヂシャの視線はニーダーに据えられていたが、その目は霞む遥か遠くを見つめているようだった。ノヂシャは唇を開いた。紡ぎだされる言葉は、ニーダーが覚悟していた類とはまったく異なる衝撃を、ニーダーにもたらした。
「ルナトリアは、俺を慰めてくれた。俺に優しくしてくれた。俺を守ってくれた。俺を……愛してくれた。俺は、ルナトリアを愛するべきだったんだろう。どんな間抜けにもわかる。彼女は素晴らしい女性だ。でも、どうしても……出来ないんだ。俺の心は、ニーダー、あんたのものだから。あんたは最悪の化け物だ。あんたって奴は、本当に厄介だ。こんなにも愛おしいのに、どうしても憎らしい。だけど……あんたの優しい笑顔で、胸の苦しみを残さずに取り除いてしまえた。憎しみさえ、捨てられそうなんだ」
ノヂシャの微笑みが、真っ直ぐにニーダーを見つめている。無邪気な慕情が直に胸に触れる。
奇妙な耳鳴りが始まった。わんわんと唸る音の群れ。猛り狂う攻撃的な響き。ニーダーとノヂシャを取り囲む銀の壁が戦慄くように振動している。
ニーダーは時間の流れに気を配ることに無頓着だった自分を呪った。悠長に話をしている場合ではなかった。ノヂシャを連れて、すぐにこの場から逃げなければいけなかった。今直ぐ、逃げなければいけない。
それなのに、ニーダーは動けない。ノヂシャは迫りくる危機から完全に切り取られている。白銀の光に照らし出されるその姿は、神性さえ佩びて、ニーダーを捉えて放さない。
ノヂシャが左手を伸ばす。ニーダーの右肩、石の心臓の真上に触れる。
「俺は、悲しみに負けたくない。あんたが大好きだ。あんたの優しい笑顔があれば、怒りに打ち勝てる。揺るぎない心で、憎しみも超えられる筈なんだよ」
ノヂシャの左手が、ニーダーの右肩を離れ、腕を撫でておりてゆき、手首を掴む。そうしてノヂシャの胸に導いてゆく。ノヂシャに胸板に触れた掌が、布地越しに、熱く脈打つ鼓動を感じた。
ノヂシャは微笑んでいる。濁りのない瞳が、ニーダーだけをうつしている。
「いいぜ、ニーダー。俺はあんたのものだ。好きにしてくれ。世界中の痛みと悲しみを抱いても、俺はあんたの望みを叶えよう。もう、あんたの幸せの邪魔はしない。憎まれても、利用されても、そこに、一片の愛情さえ無くても……あんたの傍にいられたら、俺はそれだけで幸せだ。この気持ち、二度と忘れない。忘れたくない。だから……だから、用が済んだらさ。あんたが、俺を終わらせてくれ。最期は笑って……あの頃と、ずっと変わらないあんたを俺に残して行って。あんたを装うどんな仮面も、その時だけは外して、最期は……優しくて残酷な、あんたの素顔を俺に見せて欲しいんだ。目を逸らさないで、その眼差しで、見届けてくれるよな? 愛に溺れた愚かな俺が……夢心地のままで息絶えるまで」
歌うように朗朗と語りながら、ノヂシャが一歩を踏み出した。刀の切っ先を喉に突きつけられていたとしても、ノヂシャは躊躇いなく、そうしただろう。ノヂシャは何も恐れない。どんな苦痛も恐怖も絶望も、愛すべき女性すら、ノヂシャを止める理由にはならない。ノヂシャは常軌を逸する愛をこめて、ニーダーに抱きついた。
「俺はあんたのものだ、ニーダー。あんたにやる。あんただけに、全部、やるから」
優しく柔らかい抱擁に、ニーダーは押し潰されそうになる。ニーダーの手がノヂシャの胸にある石の心臓を強く押しても、ノヂシャの微笑みは崩れない。
「愛しています、兄上」
ノヂシャははにかんだような微笑みで愛を告げる。ニーダーは震えた。
(取り返しが、つかないかもしれない)
ニーダーは母を愛していた。母を喪った今でも、母を愛している。けれど、母への愛はニーダーの全てでは無くなった。ラプンツェルと出会い、母を愛するよりも深く熱く、彼女を愛した。ラプンツェルとの間に授かったアクレイギアを愛している。ニーダーを救ったのは、母ではなく、ラプンツェルだった。
ノヂシャはニーダーを愛している。ニーダーがノヂシャの心を歪ませ、壊してしまったから。その愛は呪縛のようで、だからこそ、解き放たれた先に、ノヂシャの幸せがある筈だ。
ニーダーがラプンツェルに救われたように、ノヂシャにも救いが必要だった。心優しく美しいルナトリアが、ノヂシャに救いの手を差し伸べた。ルナトリアはノヂシャを愛していた。ノヂシャは、ルナトリアの素晴らしさを認めていた。ルナトリアを好ましく思っているような口ぶりだった。
それなのに、ノヂシャはルナトリアを愛せなかった。ニーダーを愛することでのみ幸せになれると、ノヂシャは言う。
ニーダーは、ノヂシャに幸福な人生を返してやりたかった。それなのに、ノヂシャの唯一の望みは、どんなに苦しくてもニーダーの傍で生きて、最期はニーダーの手にかかることだった。
ニーダーが思い描いたノヂシャの幸せは、叶わないかもしれない。ノヂシャは壊れている。ニーダーがノヂシャを壊してしまったのだ。