償い※4月24日に加筆しました
残酷、グロテスクな暴力描写を含みます。ご注意願います。
痛みには慣れたつもりだ。慣れなければ、生き残れなかった。尠くも、肉体の痛みに心を乱されることは、滅多にない。傷は癒え、痛みは遅かれ早かれ、消えてなくなる。忘れてしまえる。それまで耐えれば良い。
しかし、いくら耐えても耐え難い、肉の痛みがある。ニーダーの右肩に埋もれた石の心臓は、命の源であることを主張するかのように鋭敏で、衣擦れにさえ痛痒を覚えるのだ。
肩の肉を焼かれ、裂かれる痛みは激しいけれど、歯を食い縛れば耐えられる。それだけの忍耐力を培ってきた。けれど、石の心臓を灼熱の切っ先が掠めた、壮絶な苦痛の前には、長年の努力の蓄積も霞む。ニーダーがこれまで、死に物狂いでかき集めた、忍耐も意地も矜持も、なにもかもを吹き飛ばしてしまう。
ニーダーは支えを失い、冷たい夜露に濡れた地面に膝をついた。命の根源を揺るがす恐怖が縛鎖となり、苦鳴も喘鳴も、喉を塞ぐ氷塊となる。指一本、動かせない。
刮目した双眸がうつしだす視界の端、血の尾をひいた煌びやかな銀影が、流れ星のように過った。
しなやかに宙を踊り、鋭く風を切るそれは、まさしく銀の鞭だった。銀の神の意思がニーダーを打ったのだ。
さぁっと音をたてて血の気がひいてゆく。恐慌は体を蝕む銀の毒と共に、血潮にのって体の隅々まで駆け巡る。焼けつく痛みは心を、恐怖と絶望で塗り潰そうとする。
ニーダーの命に、研ぎ澄まされた冷たい死の予感が突きつけられている。遠いあの日、暗い森で人喰いの獣に抑え込まれ、死を強く意識したあの時より、今この瞬間。死は肉薄していた。
(死にたくない。だが、どんなに足掻こうと無駄だ。神には抗えない。私は死ぬ。殺される)
ノヂシャを乗せた銀の花は、美しく咲き誇る。花を支える、顔のない銀の人影が踊り巡っている。そうしながら、ニーダーを凝視している。顔がないのに、笑っていた。嘲笑と憫笑がつるりとした顔を生々しく彩っている。彼らは火に入る羽虫を見ている。とるに足らない、つまらないものの、愚かな死を眺めている。
ニーダーは戦慄していた。生きて帰る、なんて、とてつもない驕慢だった。神の前では、人はあまりにも脆く儚い。
(銀の巣に飛び込む直前に、神が人の命を軽々しく刈り取る様を目の当たりにしたではないか。それなのにどうして、私だけはその限りではないと、思い上がっていた……! 銀の神の祝福など、まやかしだった。人々を欺き、ブレンネンという鳥籠に囲い込む為の偽証だ。私のような弱い男が、銀の神の祝福を授かり、生まれたことが、その何よりの証明だった!)
無言の死の宣告がもたらす絶望は、生きて愛する家族のもとへ帰ると言う、強い決意さえ凌駕した。狂った鼓動は葬送の太鼓となり、ニーダーの中で鳴り響いている。
指先までぴんと伸ばした左手が、撃ち落とされた鳥のように真っ逆さまに堕ちて、地面に叩きつけられた。その手を取ろうとしていたノヂシャが手を伸ばすけれど、間に合わなかった。
ノヂシャに名前を呼ばれた。けれど、ニーダーは呼び掛けに応えることが出来ずにただ、腑抜けた顔面をノヂシャに晒していた。
ノヂシャがはっと息をのむ。ノヂシャの視線が、ニーダーから逸れた。ニーダーの背後に何かがいる。ニーダーの命を刈り取ろうとする何かが。呼吸が切迫する。
ノヂシャはぶんぶんと頭をふると、身ぶり手ぶりを交え、大声で訴えた。
「ごめん……違う、違うんだ! 俺は残る、あなたと一緒にいる。あなたを独り残して逃げたりしない。信じてくれ、嘘じゃない!」
ノヂシャが掻き口説くと、ニーダーの背後に迫る死の気配がぴたりと止まった。ノヂシャの懇願を聞き入れたらしい。ニーダーの背後に潜む何者かは、おそらくは銀の巣の主。つまりは銀の神の化身だろう。
(ノヂシャ、お前はこのような、とんでもないものに……神にまで、愛されるのか?)
呑気にひとりごちて笑ってしまう。恐怖を感じる心が麻痺してしまった。
(神に愛されると言えば、聞こえは良かろうが……愛されるあまり、天に連れ帰られては、堪らないではないか。なんとも厄介な奴だ)
ニーダーの弛緩した表情を見たノヂシャは、死の恐怖に晒されたニーダーが発狂したとでも思ったのだろうか。前傾させた体をぐいっと起こすと、叩きつけるようにがなりたてた。
「帰れ、ニーダー! 俺は残る。このひとをひとり、残してはいけねぇから……あんただけなら、引き返せる。さぁ、行け。ぼさっとしてんじゃねぇよ、さっさと行けったら……立て、ニーダー! はやく、行けっ!」
勃然となったノヂシャの怒声がニーダーは強かに打ち据える。反射的に竦み上がったことで、体の硬直が解け、呼吸が出来るようになった。
ニーダーは、厳しく自身に命じる声の主を見上げる。常に高みから命じるべき王であるニーダーは、しかしながら、下される命令に恭順することに、何の躊躇いもない。そうすることが当然であるように思い、そうすることが懐かしいと思った。この人は絶対に正しい。この人の言う通りにすれば間違いない。
信じられない自身の決定を疑い、怯えずに済む。
ニーダーは少年の頃に戻ったように、素直な気持ちで頷いた。凍てついた瞳が、ブレンネンの青薔薇が綻ぶように細められると、それだけで誇らしい。この感覚は、随分と久しぶりのものだ。
ニーダーは大きく息を吸い込み、立ち上がろうとした。ところが、萎えた脚は自重を支えきれずに、崩れ落ちてしまう。どうしたら良いかわからない。叱られてしまう。失望の眼差しに、心をずたずたに切り裂かれる。
途方に暮れたニーダーは痺れた頭を擡げて、高所から己を見下ろす人物を仰視した。ノヂシャがニーダーを見下ろしている。その瞳には、情けない姿のニーダーがうつりこんでいる。幼い迷子のように、不安に揺れる眼差しで、年の離れた弟に縋りつく醜態が曝け出される。ニーダーははっと我に返った。同時に、こみあげる羞恥と自己嫌悪が胸を締め上げる。ニーダーは喘ぎながら、俯いた。歯を噛みしめるあまり、顎骨が軋みを立てる。
(私は、一体何をしている。あれは、ノヂシャだ……父上ではない)
在りし日の母が、ノヂシャについてこう語っていたのを、聞いたことがある。
『年齢を重ねれば、ますますあの人に似て、大人になれば、あの人そのものになるでしょう』
母の言った通り、ノヂシャは父王の足跡を辿るようにして、成長している。しかし、いくらノヂシャが亡き父の面影を色濃く宿していると言っても、ノヂシャと父王は別人だ。父王を渇望する熱に浮かされた母は、そんな当たり前のことすら、わからなくなっていた。正気ではなかった。
(私も同じだ。死の恐怖に慄くあまり、正気ではなかった)
ただ、それだけのことなのに。この逼迫した状況において、背後の気配の動向を探るよりも、ノヂシャの瞳の奥の感情を探ってしまう。凍りついた水底のような瞳と見つめ合うと、時がとまって、そこに滲む失望だけが恐ろしくなる。
(もしも、父上がご覧になっていらっしゃったら……無様な私に、失望なさるだろうか)
ノヂシャの瞳の奥に、父王が透けて見える。初めてではない。複雑な感情を隠し、ノヂシャを弟として愛していた頃も。ノヂシャを恨み妬み、虐げていた頃も。ノヂシャの中に父王が見え隠れしていた。それを認めたくなかった。何よりも、ノヂシャには見抜かれたくなかった。ニーダーは瞑目する。呼吸を調える。鎮まりつつある鼓動を聞きながら、自身に言い聞かせる
(とにかく、立ち上がらなければ。立ちあがったところで、ノヂシャを連れて逃げ切れるかどうかわからないが……それでも、今直ぐに立ち上がらなければ、私もノヂシャも、ここで死ぬしかない)
「ニーダー」
ノヂシャがニーダーの名前を呼んだ。ニーダーとは対照的な、焦りも苛立ちもない、凪いだ海原のように穏やかな感情で。ニーダーは掬い上げられたように顔を上げる。ノヂシャの表情を見て、目を瞠った。
ノヂシャは相好を崩していた。雨上がりの青空にかかる虹のように、見る者の心を鬱ぐ暗雲を消し去ってしまえる笑顔。ノヂシャのこの笑顔には、見覚えがあった。
始めて見たのは、幼いノヂシャがまどろみながらむにゃむにゃと、殆ど寝言のように、ずっと一緒にいたいと言ったとき。次に見たのは、いつか王になったら、ニーダーを海へ連れて行くと、胸を張って約束したとき。
ノヂシャは長く息を吐いた。胸に溜まった何かを吐きだして、空っぽにしようとしているように見える。ノヂシャは安らかに眠るような面持ちで言った。
「俺を何に利用しようとしているのか、知らねぇし、知りたくもねぇけど……俺がいなくたって、なんとかなるだろ。なんとか出来る、あんたはなんでも出来るんだ。だって、あんたはこんなにも、俺の心を奪って、とらえて放さない。他の誰にも、こんな真似は出来ない。あんたは、特別なんだよ」
「特別……?」
ノヂシャの不可解な言葉を鸚鵡返しにして首を傾げると、ノヂシャは小さく声をたてて笑った。
「……信じられないって顔。そうだよな、あんたは、そうだ。あんたは、あんた自身のどうしようもない、弱さをよく知っている。でも、その反対はさっぱりだ。あんたは知らない。あんたが、俺の最高の兄上だってこと、知らなかっただろう?」
ニーダーはノヂシャを凝視した。ノヂシャの笑顔は揺るがない。
過去に二度、この笑顔を見せたとき。ノヂシャはいずれの時も、この先ずっといつまでも、ニーダーと一緒にいることを望んでいた。それと同じ笑顔で、ノヂシャはニーダーと永遠に別れようとしている。愛していると言いながら、捨てて行けと言う。その心理を紐解こうとすると、自ずと、己の心に目が向いた。
ニーダーは母を愛していて、同じ親をもつ弟でありながら、母に愛されるノヂシャに嫉妬していた。それでも、母とノヂシャの仲を取り持とうとした。父王の他に、母を幸せに出来るのは、ノヂシャだけだから。母の愛を諦めたニーダーの唯一の望みが、愛する母の幸せだった。
(ノヂシャも、同じなのか? 私には母上だけだったように、お前には、兄である私だけ……?)
ニーダーはノヂシャの笑顔から目を逸らした。苦々しい渋面で口にする言葉は、それ以上に苦い。
「……そうだとしても、昔のことだ。私が善き兄であったなら、お前はそんな有様ではなかっただろう」
「そうかもしれない。だけど、今のあんたから、あの頃の素晴らしい美点がひとつ残らず、消え失せていたとしても、俺はいつまでも……あんたのことを、愛している。あんたはありのままで良いよ。他の誰でもないこの俺が、ありのままのあんたを愛するから」
ノヂシャの唇から歌うように紡ぎだされる言葉には、魔法がかかっているようだった。受け入れられている。許されている。愛されている。ノヂシャはニーダーが求めてやまなかった奇跡を、すべて差し出していた。
まさに奇跡だ。この世界には、存在しない。
ラプンツェルを愛して、憎まれて。愛を欲するあまり身も心も深く傷つけ、苦しめた。苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて。そうして、わかったことがある。
慈悲深い天使でさえ、罪深い悪魔を許しはしない。罪は消えず、罰は必ず下される。愛を乞うだけでは、愛されない。愛される為には、愛されるに値する自分にならなければならない。
それが真理だ。そこから外れた愛は、最早愛ではなく、狂気だ。かつて、ニーダーの愛は狂っていた。
(ノヂシャ……私がお前を壊したのだな)
ニーダーが食い入るように見詰める先で、ノヂシャはついと目を背けた。強く噛みしめ色を失くした唇が、震えている。
「行ってくれ、振り返らずに。行って、ラプンツェルと幸せに暮らせば良い。嫌だけど……許せねぇけど……あの娘じゃねぇと、だめなんだろう? 俺じゃあ……だめなんだろう……?」
ノヂシャは血を吐くような面持ちで言い、項垂れた。晒された細い首筋は、命が断たれる瞬間を心待ちにしているようだった。ノヂシャの心が手に取るようにわかると、ニーダーはこの時、はじめて思った。
(まるで、過去の私のようだ)
ただひとり、母だけを想っていた。母を愛していた。疎まれ、憎まれ、存在を否定され、それでも、心の底から母を愛していた。狂っていても良い。優しさがすべて偽りでも良い。母のすべてを愛していた。母は決して、ニーダーを愛してはくれない。けれど、ニーダーは決して、母を愛することをやめなかった。愛する心を、とめられなかった。母への愛に狂っていた。
ノヂシャは父王にそっくりだ。ニーダーとは正反対の人間だ。眩しい太陽だ。遠くかけ離れているから、わかりあえない。ニーダーはそう決めつけていた。ところが、ノヂシャはニーダーと同じ、狂おしい愛を抱えていたのだ。
愛に包まれて育った、誰からも、神にさえ愛される、奇跡のような子が。嫉妬に焦がれる羨望の眼差しの先にいたノヂシャが。ニーダーより遥かに上等に生まれついた、父王にそっくりな弟が。
母とゴーテル、その他の大勢の人々に呪われ、神にさえ見放されたニーダーだけを愛している。
歪んでいる。狂っている。歪ませたのは、狂わせたのは、他でもない、ニーダーだ。
不意に、胸の底から喉元まで、熱いものがこみ上げる。長い時間をかけて、心に降り積もっていた黒々とした感情の堆積が、吹き上げる風に吹き飛ばされる。黒く塞いでいた天井が破れ、裂け目から無窮の青空がのぞく。
ノヂシャは哀れだ。こんな筈ではなかった。この子は光輝く太陽になるはずだった。ブレンネンの喜びそのものだった。それなのに。
(ノヂシャ……すまない。すべて、私が悪いんだ)
ノヂシャを壊した。滅茶苦茶にした。空の高みにいたのを引き摺りおろして、地べたに這わせて、踏みつけた。いい気分だった。そして、安心した。これでもう、心配はいらない。これでもう、冷ややかに見下されることはない。
ニーダーはノヂシャを恐れていた。自分より優れている、恵まれているノヂシャが恐ろしかった。恐怖にひび割れた眼では、ニーダーを兄と慕うノヂシャの愛情が見えなかった。見逃してはいけなかった。見逃さなければ、二人は大切な何かを変えられた筈なのに。
(今からでも、間に合うだろうか)
虚しい期待だ。やり直すには、ニーダーはノヂシャから奪い過ぎている。
(わかっている。それでも……このまま終わりたくはない)
ニーダーはすっくと立ち上がった。しっかりと大地を踏みしめて立つ。
(私は変わった。ラプンツェルが私を変えてくれた。私は救われた。お前だって……救われるべきだ……ノヂシャ)
「こんなところに長居は無用だ」
ニーダーがそう言うと、ノヂシャが前髪の房の影からそろりとニーダーを窺い見る。ノヂシャは傷つき怯えるこどもだ。ニーダーがそうであったように。
ニーダーは、ノヂシャに微笑みかけ、手を差し伸べた。何度も繰り返し夢に見る程に、願っていた。母が、こうしてニーダーを受け容れてくれることを。だからきっと、ノヂシャも願っている。
狂った、歪んだ愛の力でも、今は必要だ。ノヂシャの魂の救済は、この場を切り抜けた後……ニーダーから遠く離れた場所で、きっと得られる筈だから。
「一緒に帰ろう、さぁ」
長い冬に閉ざされた氷がとけるように、ノヂシャの双眸から涙が溢れる。ノヂシャの涙を拭ってやれるのは、今はまだ、ニーダーしかいない。伸びあがった、その瞬間に、銀の影が一閃した。
ノヂシャの触れようとした指先が消えた。人差し指と中指と中指が、同じ長さに切り揃えられている。
辛うじて悲鳴を噛み殺せたのは、少年時代にゴーテルのもとで詰んだ「訓練」の賜物だっただろう。熱と鋭さによって焼き切られた断面は、血を一滴も流さず、かわりに白煙が立ち上っている。
やめろ、とノヂシャが叫んだ。血相を変えたノヂシャが、ニーダーの背後に向かってなにか叫んでいる。内容が聞き取れない。体の一部を欠損した衝撃の為だろうか、水の中にいるかのように、音がくぐもって聞こえる。
しかし、耳が聞こえなくても、なすべきことに変わりはない。ニーダーは精一杯伸びあがり、両腕を伸ばした。ニーダーがノヂシャに触れようとすると、銀の花は怒りを持て余すように激しく震え、滑らかな表面に無数の棘をつきたてる。ニーダーの手を刺し貫き、肉を深くえぐる。血に塗れるニーダーの手を、ノヂシャが振り払おうともがいた。
「だめだ、ニーダー! 俺に構うな!」
ノヂシャは金切り声を上げて喚いた。纏わりつく手を振りほどいても叩き落としても、ニーダーが諦めない。ノヂシャは澎湃と涙を流した。皮膚の殆どが裂け、半ばが剥がれ、赤くぬめるニーダーの両手を、しっかりと両手で握りしめる。ニーダーの手は、そうと分からないくらいにずたずたに傷ついている。血と肉と塩の不気味な塊だ。そこへ、きらきら光る涙が滴り落ちる。ニーダーの手に唇を寄せて、ノヂシャが囁く。
「もう良い、もう十分だ。俺はもう、平気だから……行ってくれ」
ノヂシャがぱっと手を放すと、ニーダーは体制を崩し、尻もちをついた。すぐさま起き上がるものの、銀の花弁はノヂシャを包み込み、渦をまくように閉じてゆく。ノヂシャの姿が隠されてしまう。
「待て、駄目だ、行くな……!」
ニーダーが伸ばした手の先で、血に彩られたノヂシャの唇が、ゆっくりと弧を描く。涙に濡れた笑顔は、父王が最期に浮かべたものだった。父王にはもう二度と会えない。父王は死んでしまった。
ニーダーの心に火が点いた。
(死なせない。死なせたくない。これ以上の過ちは犯さない。私は……変わったのだから!)
変わりたい。愛しい妻と子を得て、心から願った。変わりたい。変われる筈だ。変わったのだ。だから、同じ過ちを繰り返さない。今度こそ、この手を掴んで引き上げる。
ニーダーは大きく腕を広げ、ニーダーは叫んだ。
「跳べ、ノヂシャ! 私が必ず受け止める!」
受け止める。ニーダーはずっと、逃げ続けて来た。もう逃げない。
(だから真っ直ぐにこの胸に飛び込んで来い)
花弁の合間から覗いていたノヂシャの、悲壮な決意によってつくられた笑顔が凍りつく。そこへ、ぴしりと罅が入った。ぼろぼろと剥がれおちる、作り物の笑顔の下の素顔が露わになる。険しく眉間に皺を寄せ、頬が歪んだ険相。どうしようもなく苛立っているようだけれど、それだけではなかった。
「あんたって……本当、どうしようもなく……本当に」
ノヂシャは怒りながら泣いて、泣きながら笑っていた。ノヂシャが膝立ちになる。袖で無造作に涙を拭う。洟を啜り、しゃくりあげながら、ノヂシャは笑った。幸せに満たされた、晴れやかな笑顔で。
「最高だよ。ニーダー」
花弁は、ノヂシャを引き留めるように内側に折れ込む。ノヂシャは花弁を優しく撫でると、目を伏せた。
「ごめん、でも、俺……ニーダーと一緒に行く。ニーダーと一緒が良い」
花弁が静止する。小さな鈴の音が囁きのように木霊していた。ノヂシャは目を閉じ、その不思議な音色に耳を傾けていた様子だった。しばらくすると、ノヂシャは目を開けて、言った。
「心が傷つくのは嫌だ。想いを裏切られるのはもう耐えられない。だけど、それでも、俺は……ニーダーを愛しているんだ。これが最後だ。ぎりぎりの最後に、俺の心が出した答えだ。誤魔化す嘘はつけない!」
銀の花はそれ以上、ノヂシャを引き留めようとはしなかった。銀の花弁ははらりと開く。ノヂシャは弾かれたように立ち上がって、力強く踏切って、飛び降りた。
十年前、母の部屋の窓から飛び降りたノヂシャを受け止めた。
大きくなった体を受け止める衝撃は、幼い頃のそれとは比べ物にならない。ただでさえ、満身創痍の体には堪えた。
けれど、十年後のニーダーも、ノヂシャをしっかりと受け止めた。いくら辛くても、苦しくても、痛くても、ニーダーはノヂシャを受け止めなければならなかった。
ニーダーは、痩身ながら背丈は自分と殆ど変らない大の男の体を、気合いをいれて抱えなおすと、幼子をあやす要領で、背中をぽんぽんと叩く。
「よくやった、良い子だ」
肩口で、ノヂシャが擽ったそうに笑っている。ニーダーの耳に齧りつくようにして、ノヂシャは囁いた。
「バカにしてんのか。俺、もう子供じゃねぇんだけど」
こどもではないと言いながら、肩にぐりぐりと額を押しつけて、背中に回した両腕でぎゅうっとしがみついてくる仕草は、幼いこどもの頃のままだ。
ニーダーは微笑み、大きなこどもの背を撫でた。
(あとは、この場を脱出するだけだ)
ニーダーは密かに失笑する。それこそ、最大の難関だ。
頭が朦朧とする。末端の感覚がない。痛みだけが鋭さを増す。血を流し過ぎた。これがただの傷であれば、持ち前の超人的な治癒力が傷を塞ぐのだが、銀の刃に切り裂かれた傷は、治癒の兆しを見せない。それどころか、傷口が泡立ち、どんどん融けているようだ。
(私は死なない……生きて、ラプンツェルとアクレイギアのもとへ帰る。無事にここを抜けだしたら、なぁ、ノヂシャ。お前に返すと約束するよ。私が奪った……喜びに満ちた、お前の人生を)