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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十五話「回帰」
144/227

ノヂシャの想い

 

 遥か頭上では、星が瞬く明るい空を、白銀の円蓋が塞いでいる。銀の瀑布の雫は、その巨体を蜘蛛手に張り巡らせて、中庭を占領していた。


 白銀に輝く火の子が浮塵子うんかのように飛び交う中、ニーダーは一心不乱に疾走する。風を切って駆け抜けると、銀の火の子が舞い上がる。ニーダーが通り過ぎるとまた、ふわりと降りてきて、寄り集まりひそひそと囁き合う。振り返らないニーダーの足跡が、白銀に塗りつぶされてゆく。


 銀の恐ろしいものが張り巡らせた巣の内部構造は、鍾乳洞に良く似ていた。壁や天井の網目から垂れ下がる氷柱石、床面から円錐状に突きだす石筍。天井と床を連結させる石柱が、巣の内部を仕切り、迷宮を作り上げていた。ただし、それらは鍾乳石とは異なり、ひとつひとつが生きて、脈動している。ニーダーが避けて横を通り過ぎると、それらはもぞもぞと蠕動する。鎌首を擡げ、獲物に狙いを定める毒蛇の気配。ほんの少し掠めただけで、皮膚が削げ落ちる。悪寒に粟立つ肌は、白銀の火の子に焼かれ赤らみ、風に逆なでされる疼痛を絶え間なく訴えていた。


 進む道が、囚われたノヂシャへ至る道だと信じて、前を見据えるニーダーの瞳には、無数の細かな針を突きたてられるような痛みが染みていた。湧きだす涙は瞳をいくらかは守るけれど、視界が悪くなっては歩調を緩めざるを得ない。走り続ける為に、ニーダーは手の甲でぞんざいに涙を拭った。乱暴な仕草が目許の薄い皮膚を剥がしてしまうのか、手の甲が血に濡れている。


 はやる心が急かす鼓動と呼吸を、ニーダーはぎりぎりまで抑えようとしていた。幽かに光る銀の火の子は、ニーダーの身に流れる影の民の血をおかす猛毒である。噎せる毎に吐血の頻度と量が増してゆく。


 銀の巣は蠢き、ニーダーの為に道を開いた。ノヂシャに辿りつける確証は何処にもないけれど、躊躇わずに進む。そうするより他に、道はないのだ。口腔に溜まった血を吐き捨てて、ニーダーは自嘲する。


(利は無きに等しいのに……後先考えず、死地に飛び込んだ……最低の悪手だな)


 ニーダーは後悔していた。ノヂシャなど、見殺しにしてしまえば良かった。ノヂシャを救う為に自らの命を危険に晒すなんて、間違っているのだ、絶対に。間違っていると知りながら、抗えぬ衝動に突き動かされ、ニーダーは愚行を犯した。挙句の果てがこのあり様で、死ぬ思いをしている。


 死地において、確固たる決意がニーダーの脆弱な心を強くしていた。


(私は死なない。絶対に死なない、死んでたまるか。生きて、帰るんだ。ラプンツェルとアクレイギア、愛する家族のもとへ!)


 後悔も、迷いも、躊躇いも。前進を妨げるものは、何もかも振り切って、ニーダーは前へと踏み出す。これまで、酷く難しかったことだが、今のニーダーには、いとも容易いことだった。帰りを待っていてくれる、家族がいる。その確信が、ニーダーの精神を支える絶対的な支柱となっていた。


 不安を強い気持ちでねじふせて、信じて進むしかない。この先には必ず、ノヂシャがいる。愚かなニーダーの、愚かな弟。何の為かなんて、誰の為かなんて、問い掛けても答えは出ないけれど、とにかく、生きて連れ帰る。そうしなければ、気がおさまらない。


 ニーダーは霞む瞳を細く絞り、前だけを見据えた。銀の神がニーダーを導く。


 ニーダーは銀の神に祝福を授かり生まれた。銀の神は影の民の血を厭わず、ニーダーに加護を与え、正しい道へと導いてくれる。そう信じてひた走る。


 息を切らせて走りながら、ニーダーは何処からか視線を感じていた。銀の巣の主が、ニーダーを見ているのかもしれない。見張っているのではなくて、見守ってくれているのだと、ニーダーは自分自身に言い聞かせた。例えそれが、白く残光をひいて、人を射殺す矢のようであったとしても、気付かないふりをして。


 ひらけた道を進んでゆくと、遠鳴りの雷鳴が轟いた。そのように思った。正しくは、雷鳴のような轟音だった。銀の神の導きに従い角を右に折れて進むと、銀の網目に遮られていた視界が、ぽっかりと円く開けた。


 その場に足を踏み入れた途端、ニーダーは動けなくなった。胸を強く叩かれたように、呼吸も忘れて、目を剥いた。


 顔のない銀色の人影が手を繋いで輪になり、くるくると踊り巡っている。彼らは繋ぎ合せた手を掲げ、白銀に光輝く大きな蕾を支えていた。小さな彼らが投げかける影は巨人のそれで、ニーダーを鷲掴みにするように、繰り返し頭上を通り過る。小さく鈴が鳴るような音が、不思議と強かに、澄み渡る空気を震わせた。


 首を捩って、銀色の人影が捧げ持つ花の蕾を見上げる。ニーダーの視線に呼応するように、蕾は柔らかく綻んだ。天使の纏う衣のように、軽やかに花弁は翻る。膝を抱えて縮こまったノヂシャの姿が露わになった。


 白銀の頭髪、乳白色の肌、白いシャツに、ベージュのズボン。傷一つないノヂシャは、洗いたての太陽のように白く眩しい。ニーダーは血と土埃にまみれた惨めな姿で、それを呆然として眺めていた。


 強烈な劣等感に苛まれると、魂が体に戻ってきたように、ニーダーは動けるようになった。呼吸を忘れていた分を補うべく、大きく息を吸い込む。肺がさし込むように痛み、ニーダーは胸を抑えた。痛みは、体と心の膠着を完全に解く。幻想の光景を目の当たりにして、真っ白になっていた頭に、真っ赤な血の気がのぼる様子が、目に見えるようだった。

 ニーダーはこみあげる怒りを、血でぬめる唇から押し出した。


「ノヂシャ!」


 ニーダーは怒声を鞭の如く効果的に使ってきた。ニーダーが怒鳴りつければ、ノヂシャはきりきり舞いして、ニーダーの意思を推し量り追従する。それが、当然だった。


 それなのに、ノヂシャの反応は緩慢だ。やおら顔を上げたかと思えば、ごしごしとこどもじみた所作で目許を擦り、寝惚けた表情で、ぼんやりとニーダーを見下ろす。


「……ニーダー……」


 ノヂシャは焦点の甘い眼差しをニーダーに向ける。ノヂシャの白い顔に浮かんだのは、恐れでも焦りでもない。夢見心地のままの、ふわりと柔らかい微笑みは、ニーダーの神経を逆なでした。


(なんだ、その表情は。心から嬉しそうな微笑みで……また偽るつもりか、欺くつもりか? どこまで、私を愚弄すれば気が済むのだ……!)


 腹の底で怒りがぐらぐらと煮え滾る。それによって震える体が痛みを訴え、怒りをさらに煽られる。ニーダーは米神に青筋を浮かべ、憤慨した。


「貴様……これは一体如何したことだ! 夢を見ながら徘徊でもしていて、逃げ遅れたか!? 愚か者奴が! 余計な手間をかけさせてくれる!」


 ニーダーの憤怒はノヂシャを包み込む銀の花弁に波紋を投げかけ、ノヂシャに届いた。ノヂシャはぱちぱちと瞬きを繰り返す。長い睫が、煌びやかな光を跳ね返し、星が瞬くようだった。


 夢の世界を遊んでいた瞳が、怒りに駆られるニーダーを見る。安らかにまどろむ笑顔に、亀裂がはしった。ノヂシャはみるみるうちに色を失った唇を震わせる。


「ニーダー……あんた、本当に? ……なんで、どうして……」


 ノヂシャの瞳がうつしだす、ブレンネンの青薔薇が凍りついている。冷たいものがノヂシャの体にしみ込んでゆくのが見て取れた。


 ノヂシャとニーダー、目と目が合った、その瞬間。飛び散った火花が、ノヂシャの心に火を点けた。瞬く間に燃え上がり、ノヂシャは身を震わせて立ちあがる。


「このっ……バカ! どうして来たんだよ! あんた、わからないのか? 銀の星は、俺らみたいなのを喰うんだ。ここに長く留まれば、俺らは死ぬ! それなのに……バカ、ニーダーのバカ野郎! なんで、来ちまったんだよ! 俺、もう二度と……あんたに会いたくなかったから、ここにいるのに……!」


 激して紅潮するノヂシャの険相を見上げ、ニーダーは眉を潜めた。目尻に涙を浮かべて、興奮が極まっているらしいノヂシャを眺めていると、ニーダーの怒りは鎮火していった。変わって、じわじわと心を這う暗い感情が、ニーダーの口角を吊り上げる。


(ようやく……本心を語ったか)


 ニーダーはノヂシャを縛り付け、幼い心を恐怖と苦痛で支配した。ノヂシャは自身を守る為に、狂わざるを得なかった。ニーダーの歓心を買えるなら、どんな恥知らずな真似もやってのけるノヂシャを作り上げたのは、ニーダーだ。ニーダーの狙い通り、ノヂシャは壊れた。けれど、根本は変えられなかった。


 王冠を戴いて生まれた子。他者の敬愛という玉座の座り心地に馴染んだ子。ノヂシャは、ニーダーを愛していると偽り続けた。ノヂシャは己の好意はかならず、与えた以上の好意で返されると確信していたのだ。だからこそ、ぬけぬけと嘯く。ニーダー、愛している、などと。


 紛い物の愛でさえ、何もないあんたは欲しいだろう。そう言い放つノヂシャの、せせら笑いが透けて見える。


 変わらないノヂシャの傲慢さを、ニーダーは最も忌避していた。


 そんなノヂシャが「兄を盲愛する弟」の芝居をやめた。無様に生き過ぎたことに辟易したと言うことだろう。


(流石のお前でも、偽り続けることに嫌気がさしたか、ノヂシャ)


 ニーダーだけではない。ノヂシャ自身でさえ、ノヂシャの死を望んでいる。ノヂシャをお払い箱にする、潮時だ。心優しいラプンツェルは、顔見知ったノヂシャの死を悲しむかもしれないが、我が子の命がノヂシャに脅かされる心配がなくなるのだから、安心するだろう。母親にとって我が子とは、世界中の何よりも大切な宝なのだから。


 先刻、遠くからノヂシャと視線を絡ませた時。思い違いをしてしまった事が悔やまれる。ノヂシャは自らすすんで死に臨んでいた。逸らされた視線は、強がりではなく、正真正銘の拒絶だった。


 ノヂシャがニーダーに助けを求めることなんて、もう、ないのだ。


(この世界で、誰よりも、何よりも……ノヂシャを脅かしているのは、この私ではないか。それなのに、私ときたら……とんだお笑い草だな)


 胸が重苦しく塞ぐ。しかしこの感覚はニーダーにとって、とても馴染み深いものであったから、気付かぬふりをするのも慣れたものだった。ニーダーはたいした苦労もなく冷笑を保った。


 ノヂシャが死を望もうが、知ったことではない。ノヂシャの意思を尊重してやる謂われはない。ニーダー自身をここまで駆り立てた動機など、変えてしまえば良い。嘘も貫けば真になる。


「今度ばかりは貴様の意見に同感だ。遺憾だが、貴様には未だ、利用価値がある」


 鋼のような厳しさで言い放つと、ノヂシャはへなへなとへたりこんだ。膝が笑って、立っていられないらしい。膝を握った左手が小刻みに震えている。


 ニーダーは父の教えの正当性を改めて確かめた。恐怖は全ての生き物を従える。愛情で絆を結ぶことの難しさに比べて、恐怖で虐げることの、なんと容易いことだろう。


 ニーダーは少し顎を逸らし、高所にいるノヂシャを見下ろすつもりで命じた。


「来い、ノヂシャ。勝手に死ぬことは許さん。貴様は私が勝ち取った戦利品、私の所有物ものだ」

「嫌だ」


 ノヂシャは噛みつくように言った。思いがけないことに、ニーダーは呆気にとられたが、ノヂシャに反抗されたと気付いた途端、怒りがこみ上げて来た。


「……何だと?」


 ノヂシャは唇を引き結び、黙りこくっている。ニーダーは鋭く舌を打った。


 ノヂシャが駄々をこねるようなら、仕方がない。力尽でも引き摺り落とし、強かに殴りつけ、気を失わせてから、担いで運ぶ。ノヂシャは細身とは言え、骨格はしっかりとした長身の男の体をもっている。それを担いでこの場を駆け抜けるのは骨が折れるが、やるしかないだろう。


 ニーダーが苦々しく乱暴な決意を固めているうちに、ノヂシャはゆっくりと瞬きをしていた。ぼんやりとした霞の底から熱いもの込み上げているような、苦悶の表情で、ノヂシャは喉を震わせ、叫びを迸らせた。


「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 絶対に嫌だ! あんたの気紛れなお遊びには付き合いきれない、これ以上は、まっぴら御免だ! 俺のことは放っておいてくれ! 行け、行けよ、俺を置き去りにして、行けば良いだろう! いつもみたいに!」

「喚くな、喧しい。お前は唯々諾々と私に従えば良いのだ、口答えは許さん。そのことを、長い年月をかけ、たっぷりと教え込んだ筈だが……まだ恐怖と苦痛が足りないようなら、一から躾け直してやろうか?」


 ニーダーは地を這う声調でノヂシャを脅した。生意気な口応えを、掻き消すだけの声量が欲しいところだったが、痛めた喉はこれ以上の負荷に耐えられそうにない。威圧する低い声を絞りだすことさえ、難儀するのだ。

 疲労が重く胸に圧し掛かり、ニーダーは肩で大きく息をした。そこで、この場には喉を焼く銀の火の子が存在しないことに気がつく。長いこと、この場に留まっている筈のノヂシャが、喚き散らせる元気を残しているのは、そう言う理由からだった。この場は守られている。まるで、神の懐に抱かれているかのように。ノヂシャはいつだって守られているのだ。ノヂシャは特別な存在だから。ニーダーとは違って。


 つらつらと巡る詮無い思考を、頭をふって遮ると、ニーダーはノヂシャを睨みつけた。そうすれば、ノヂシャの瞳は落ちつきなく揺れ始め、やがて、すっと逸らされる……筈だった。ところが、ノヂシャはニーダーと睨みあった。ひたっと目を見つめ合ううちに、ノヂシャの瞳の真ん中の、針で突いたような黒い瞳孔に渦巻いているものに、ニーダーは目を奪われた。


 歓喜と悲嘆が複雑に混ざり合いとけて、その先にあるものは、黒々とした、虚ろな絶望。


 そうして、ノヂシャの怒気が破裂した。


「嘘をつくな!」


 瞠目するニーダーの視線を避けるように、ノヂシャは立てた膝を抱き寄せて、顔を埋めた。


「……うそつき。あんたはラプンツェルとその息子のことで手いっぱいで、俺にかまけてなんて、いられない癖に。……頼むから、俺の心を弄ぶのはやめてくれ……頼むよ……」


 ノヂシャのくぐもった声は、涙に濡れているように聞こえる。ニーダーは当惑した。ノヂシャがこの期に及んで芝居を続ける意味がわからない。死ぬ覚悟を決めたなら、ニーダーに阿る必要なんて、ないのに。


「ノヂシャ……?」


 口を突いて出た、ノヂシャへ呼びかける声の頼りなさに、ニーダーは忸恥たる思いを隠しきれない。唇を噛んで顔を背けた。首筋にノヂシャの視線を感じる。突き刺さるような鋭さと、焼けつくような熱さを兼ね備えた視線だった。


 ノヂシャが大きく息を吸い込む。胸の奥に沈んだものがふき上げるように、ノヂシャは声を張り上げた。


「もう、うんざりなんだ! 悪戯に期待をもたせないでくれ。どうせ騙すんだろ、裏切るんだろ? 命の危険を冒してまで、迎えに来てくれても、それは俺の為じゃない。ラプンツェルの為だ! あんたは俺のことなんてどうでも良いんだ。あんたの狭い心は、ラプンツェルへの愛でいっぱいなんだ。あんたは俺のこと、愛してくれない。もう、憎んですらくれない! そのうち、俺のことなんて忘れちまう! そうだろうな、俺は……あんたにとって、ラプンツェルとの幸せを掴む為の、踏み台に過ぎないのさ。踏んで、お望みの一番高いところに実った果実に手が届いたら、俺なんかもう用済みだ!」


 ノヂシャの言葉が涙で詰まる。大粒の涙は真珠のようで、滑らかな頬を降った。一滴目が顎で玉を結び、滴り落ちて固い襟を濡らすと、その後はとめどなく、涙は溢れ出す。ノヂシャは涙を拭おうとしない。泣き顔を隠そうともしない。泣き声を殺そうともしない。こどものように泣きながら、ノヂシャは言葉をたどたどしく言葉を紡ぎ続けた。


「それなのに……あんたが……強がっていても、本当は誰よりも臆病な、心の弱いあんたが……自ら、危険を顧みずに、迎えに来てくれたら……また、期待、したくなるじゃねぇか! ひょっとしたら、もしかしたら……俺のこと、ほんの少しでも、好きで……いてくれるんじゃないかって……! そんなこと、絶対に、あり得ないのに。期待しても……虚しいだけなのに! ぼろぼろの心の傷をさらに抉られて、うちのめされるだけ、なのにっ……!」


 大きくしゃくりあげるノヂシャを、ニーダーは見詰めていた。見詰めながら、考えていた。


 こんな風に、素直に泣き叫ぶノヂシャを最後に見たのは、いつだっただろう。いつから、だっただろう。ノヂシャが唇を強く噛みしめ、声を殺して咽び泣くようになったのは。よく笑い、よく怒り、よく泣く、あけっぴろげな少年のくるくる変わる表情から、感情が抜け落ちたのは、いつからだっただろう。


 そう仕向けたのは、他ならぬニーダー自身だ。ノヂシャの心が失われたと決めつけて、良い気味だと嘲笑った。それなのに、心の何処かにぽっかりと空いた穴から、掛け替えのない大切なものを失ってしまったと、今更になって気が付いてしまうのは、何故なのだろう。


 きっと、ニーダーは変わったのだ。ラプンツェルとアクレイギアが、ニーダーを変えた。頑なに鎧われた心は解きほぐされ、ノヂシャの言葉は初めて響いた。


 ニーダーは言葉もなく立ち尽くしており、ノヂシャの涙はとまらない。ノヂシャの涙は青い瞳を融かしたようで、白銀の花弁の輝きを跳ね返し、きらきらと輝いていた。

 ノヂシャがぐすっと洟を啜る。目をぎゅっと瞑ると、大きく頭を振った。


「そんな……そんな、怖い顔で俺を見るな! あんたに嫌われてるって、憎まれてるって、そんなこと、今まで散々……思い知らされて来たけど……だけど! 怖いんだよ、俺……本当は……あんたには、あんたにだけは……嫌われたく、ないから……。あんたは、おれの……兄上だから……大好きな、兄上だから……!」


 悲鳴を上げるように言って、ノヂシャは嗚咽を漏らした。涙が胸に閊え、息苦しいのだろう。目を瞑り、口を開け、魚のように喘いでいる。その哀れな様子を見て、ニーダーは愕然としていた。致命的な落雷の直撃を受けたかのような衝撃に、身も心も痺れていた。


 ニーダーはノヂシャの愛を信じなかった。ノヂシャがどんなに訴えても、聞き入れなかった。母に愛されるノヂシャが妬ましかった。母の愛を拒むノヂシャが憎らしかった。父王によく似たノヂシャが羨ましかった。だからこそ、ノヂシャの幼い言葉の暴力が許せなかった。


『あんたには何もない』


 自分に何もないことは、自分が一番よくわかっている。だけど、そのことを、ノヂシャだけには指摘されたくなかった。

 ノヂシャだけが、ニーダーに笑いかけてくれたから。笑わせてくれたから。傍にいることを望んでくれたから。好きでいてくれたから。


 ノヂシャがはじめてだった。ニーダーに助けを求め、必要としてくれたのは。助けだすと小さな体でひっしと抱きついてきて『あんたって最高だよ!』と笑ってくれた。ノヂシャだけが、ニーダーの心で甘い錯覚を育ててくれたのだ。ニーダーは自身が思っているより、本当はもっと、上等な人間なのではないだろうか、なんて。


 ノヂシャが大切だったから、信じられなかったし、許せなかった。胸の奥で大切にしている想いを、踏みにじられることに怯えていた。


 けれど、ノヂシャは本当に、ニーダーを慕っていたのだろう。今だって、ニーダーを慕っているのだろう。たとえ、ニーダーの暴虐によって、歪んでしまった心は救済を求めて、ニーダーに縋りつくしかなかったのだとしても。ノヂシャの慕情は心を歪めて、作られたものであっても。それでもノヂシャの心は、ノヂシャのものなのだから。


 ニーダーとノヂシャは、深い淵を挟んだ岸辺に立っていた。どれだけの言葉を交わしても、触れ合っても。どれだけの涙を流しても、血を流しても。その深淵は決して、超えられない。

 そう決めつけて、背を向けていたニーダーを、しかし、ノヂシャは待っていた。変わり果てたニーダーを、変わらずに待っていた。母でさえ、息子と認めてくれなかったニーダーを、酸鼻を極める惨い仕打ちをしたニーダーを、心の中で兄と呼び慕い、待ってくれていたのだ。


(そんなところも……父上そっくりだ)


 ニーダーは昂然と顔を上げた。見上げれば、ノヂシャが泣きじゃくっている。広い肩を竦めて、伸びやかな四肢を縮こめて、泣いている。


 ふと、思う。ノヂシャはこうして、ニーダーの目の届かないところで、こっそりと涙に暮れていたのだろうか。ニーダーの機嫌をとる為の涙ではなく、傷ついた心から溢れる涙は、こうして密かに流してきたのだろうか。そんな風に考えると、泣き濡れるノヂシャの中に小さなノヂシャの面影が、すっぽりと嵌り込んだ。傷つくことを恐れて、胸の奥に封じ込めていた思いが、堰を切ってあふれだす。胸が熱いものに満たされて、目頭まで熱くなる。


 ニーダーは熱い息を吐いた。心に宿った小さな灯を、吹き消すことがないように、そっと。


「ノヂシャ、お前……そんなに大きくなったのに、泣き顔はこどもの頃と変わらないのか」


 情けないぞ、と付け加えた口唇はごく自然に、柔らかく綻んでいた。そこから紡ぎ出す言葉もまた、角がとれた円やかなものだった。


 ノヂシャが顔を上げる。驚き瞠った青い瞳を真っ直ぐに見返して、ニーダーは手を差し伸べた。ノヂシャが残された左手で、この手をとれるように、左手を。


「ノヂシャ。こちらへ来るんだ」


 促す声は凪いでいた。けれど、ノヂシャは怒鳴りつけられるよりも、動揺したようだった。尻の後ろに左の手をついて、銀の花弁を蹴り、じりじりと後退する。涙に濡れた頬が引き攣っていた。


「嫌だって言ってる。俺は、ここに居たいんだ。ここで、虚ろなままで、死んでしまいたいんだ」


 ノヂシャは引っ繰り返った声で、もつれる舌で、辛うじて言った。


「……良いんだ。俺は、ここで良い……もう、諦めた……俺は、このまま……」

「ノヂシャ」


 ニーダーがノヂシャの名前を呼ぶと、ノヂシャの言葉は途切れた。ノヂシャは、迷いのない足取りで歩み寄るニーダーを、見開いた瞳にうつし、驚愕している。


 近くに寄ると、ノヂシャを抱え込む銀の花は、思いの外、高い所に咲いている。背伸びをしてやっと、指先が萼に触れるだろうか。


 ニーダーはノヂシャを見上げた。酷く怯えた様子のノヂシャを見上げると、思い出す。あの日、ニーダーは母の窓から身を投げたノヂシャを受け止めた。ノヂシャに望まれ、ニーダーも望み、ノヂシャを彼の窮地から救いだした。


 これは、あの日の再現だ。あの日、ニーダーは道を誤った。だから、やり直せるとしたら、あの日からだ。

 ニーダーは両腕を広げた。ノヂシャの面食らった顔を見ていると、笑ってしまう。どうしようもなく、懐かしくて、無性に泣きたくなる。


「酷いことはしない。お前を傷つけない。怖くないよ、大丈夫。大丈夫、だから……おいで」

「……なんだ、それ。そんなの、ずるい。ずるいよ、ニーダー。どうして今更になって、優しくするんだよ。まるで、昔に戻ったみたいに、優しくするんだよ! 今更、遅すぎる……!」


 ノヂシャが鋭くニーダーを睨む。鞭で打つような一瞥をくれる瞳は濡れていて、白銀の花弁の輝きを吸い込み、煌めいている。遠い海の、漣のように。

 ノヂシャはくしゃりと顔を歪めた。酷く不格好な笑顔で、ノヂシャは叫んだ。


「なのに……それなのに、俺……どうして……こんなに、嬉しい……!」


 ノヂシャはずっと、ニーダーを待っていた。恐ろしい深淵の縁に留まって、淵の底に潜む化物に身を落としたニーダーを、ずっと待っていた。限界を何度、乗り越えたのだろう。

 ノヂシャは銀の花弁の上で四つん這いになり、ニーダーの顔を覗きこむ。そろりと、手を伸ばしてくる。


 ニーダーはノヂシャの手をとりたかった。ニーダーの心は思い出を遡り、弟の手を引く兄に戻ろうとしていた。


 しかし、指先が触れ合うその瞬間に、火矢で射られるような苛烈な熱さと痛みが、ニーダーの右肩を掠めたのだった。



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