追憶の悪夢
グロテスクな描写、男性と男性の親密な接触(覆い被さる、舐める、噛むなど)が御座います。ご注意願います。
窓の外には凍てついた夜明け。だが寝台に身を横たえるニーダーは、僅かな肌寒さすら感じない。優しく燃える暖炉の熱と、安らかに眠る妻子の温もりに守られていた。
静かに、慈しみを込めて見守る先には、アクレイギアがぐっすりと眠る天蓋つきの揺籠がある。背には、ひっしと縋りつくように身を寄せるラプンツェルの温もりがある。瞳を閉じた暗闇の中でも、妻子の寝息が聞こえる。静寂が孤独に呑まれることはない。
ニーダーは信じられないような幸福を噛みしめていた。この瞬間、ニーダーはどのような不幸とも無縁だった。この完全無欠の幸せが、波打ち際の砂で築いた、脆く危ういものであっても。
不安定なのは、ニーダーの幸せの在り方が酷く歪なせいだろう。
決して届かない詮無い想いを、反響すら返さない虚ろな深淵に、募る儘に注ぎ込む無為の日々があった。地獄の底で、業火の熱に焼かれる苦痛と絶望を余さず食らい尽くした狂気の日々があった。その末に辿りついた幸福である。愛情ではなく、支配によって。
色褪せた遠い日の記憶がよみがえる。馬術の稽古を始めて間もない頃だった。稽古の進捗を確かめる為に、忙しい合間を縫い馬場にやって来た父王の前で、ニーダーは失敗してしまった。うまく馬を駆ることが出来なかったのだ。馬が退屈そうに蹄で土を掻く音と、父王の幻滅の嘆息を聞き、馬上で竦むしかなかった。
失態を犯したニーダーは、その夜遅く、父王に呼びつけられた。人払いをした父王の私室で、ニーダーは殻に閉じこもる亀のように委縮していた。羽ペンで羊皮紙に何やらさらさらと書きつけて、合間に目頭を揉む父王の言葉を、固唾をのんで待つしかなかった。ニーダーがふらつき始めてやっと、父王は言った。書き綴る手は止めず、目も上げず。
『……あれは特別に気性の優しい馬だ。あれですら満足に御せぬ輩に、乗りこなせる馬などこのブレンネンには存在し得ぬ。鞭で馬を撫でろと教えられたか?』
父王の痛烈な皮肉は、それこそ、力の限り振り下ろされる鞭のように、ニーダーを打ち据える。ニーダーは胸を詰まらせる恐怖に喘ぎながら、掠れ声を絞り出した。
『いえ……ゴルマックは正しく指導をつけてくれました。あの、その……申し訳ございません』
ニーダーは深深と頭を垂れた。反省を示す方法が、これしか思いつかなかった。父王は何も言わない、ちらりと父王の顔色を窺うと父王の眉間に、深い皺が刻まれていた。その威圧感は、ゴルマックを擁護しなければならないという、ニーダーのなけなしの意気込みなど、ぺしゃんこに潰してしまった。
『すべての生き物が共通して持っている感情がある。何だかわかるか?』
唐突な父王の言葉に、ニーダーは呆気にとられた。きょとんと目を丸くして、父王を見つめる。書面から目を上げた父王は、ニーダーと目が合うと、屹然と溜息をついた。そこまでされて、ニーダーはようやく、己の無礼に気付く。慌てて目を伏せると、これ以上の失態は犯すまい、と必死になって、鈍い頭を回転させた。大急ぎで捻りだした答えには、当然の如く、確信がもてない。しかし、沈黙は刺々しくニーダーの肌をさし、急かしている。止むを得ず、ニーダーは口を開いた。
『……愛情、かな?』
消え入るような声で言った。次の瞬間にはもう、後悔していた。早く答えなければと焦るあまり、言葉を整えることすらしていなかった。泡を食って言い繕おうとするも、父王が反応する方がはやい。
『なに?』
『え? あっ、いえ、これは、ちが……も、申し訳ございません!』
『何と申したか問うたのだ』
食言しようにも、父王に聞き咎められてしまった。後には引けない。ニーダーは今一度、思いつきの頼りない解答を繰り返すしかなかった。ニーダーは緊張で乾いた唇をしきりに舐めて湿らせ、言った。
『愛情……ではないかと……』
喘鳴のような、掠れた声が紡いだ言葉を、父王は耳聡く聞き取った。そのことを、ニーダーは父王の表情の変化により察した。父王はせせら笑う。なんと愚かな、と言葉にせずとも蔑んだ瞳が雄弁に物語った。
その途端、ニーダーを縛めていた緊張と恐怖が、ばらばらになって足元に落ちた。
(やっぱり、そうだ。この方には、愛がわからないんだ。愛する心がないんだ。だから、あんなにも、母上に想われているのに、母上に酷いことばかりするんだ)
心に芽生えた憤懣は、雨雲のように厚く垂れこめ、心を覆い尽くす。それらはみるみるうちに黒く濁り、ぴりぴりと苛立ちの紫電を纏った。
『馬は人を背に乗せ、人の意に添い地を駆けます。人に命を預けているのです。愛情と信頼の賜物ではないのですか?』
ニーダーが張り上げた声は、意図したよりもずっと、挑発的に響いた。
『鞭で打って、痛みを与えて、怖がらせて。それで、どうなります? 恐ろしい相手を、信頼出来ますか? 好きになれますか? 苦痛と恐怖による支配なんて、いつまでも続きはしない。無理やり繋いだ絆は、必ず、失うことになります』
一言一言を噛みしめるようにして、はっきりと、ニーダーは言いきった。父王は呆気にとられていた。まじまじとニーダーを見つめて、羽ペンをとり落とす。ニーダーは反抗的に目を逸らした。
おかしな気分だった。胸がどきどきする。むかむかする。腹の底で煮え滾る淀みが、胸にまでせり上がってきて、苦しい。しきりに口をついて出る溜息が熱い。
大変なことをしてしまった。こんな生意気をしたのは、初めてだ。それにしては、度胸が良すぎた。
おずおずと父王の動向を窺うと、父王はちょうど、椅子から立ち上がるところだった。冷水を浴びせかけられたかのように、高揚の熱が醒める。さぁっと血の気がひく音が聞こえるようだった。
父王が歩み寄ってくる。ニーダーの両足は震えていた。出来ることなら逃げ出したかった。
父王がニーダーの傍らに立った。遥か高みから見下ろす眼差しは、相変わらず、高圧的だった。辛うじて膝を屈することなく居られたのは、父王から怒気を感じられなかったからである。
父王は真剣な顔つきで、ニーダーの瞳を見据えていた。揺るぎない筈の瞳が、ほんの僅かに揺らいでいるように見えて、ニーダーは虚を突かれた。躊躇いのような、迷いのような、おおよそ、父王には似つかわしくない感情の片鱗が垣間見られた。
『すべての生き物が共通して持っている感情とは、愛情ではない。恐怖だ。獣は強者、即ち上位の存在にのみ従う。獣の世界において、強いか弱いかは生存を左右する容赦のないものなのだ。向かい合えば、互いの力を測り優劣をつけようとするのは、獣にとって常に、至極当然のこと。良いか、ニーダー。鞭は強く打ち込め。お前という存在の優位性を叩きこむのだ。恐怖が獣を従える。それがお前の身を守る』
父王の手がニーダーの肩を叩く。反射的に跳ね上がる肩を、強い力で抑えつける。呆気にとられて上目遣いに見上げるニーダーの顔を、父王が覗きこむ。
『お前の言う事も一理ある。だが、情けをかければ、侮られる恐れがある。そのことを、ゆめゆめ忘れるな。振るい落とされ、踏みつけにされたくなければ、強く在れ。いずれ、お前は乗りこなさねばならぬ……最悪の暴れ馬を。まずは、その為の手段を会得するのだ。優しさを示すのは、その後でも遅くはないのだから』
父王はいつも、自信に満ち溢れていた。威風堂々とした佇まいは、己こそが唯一無二の正しい指針であると豪語しているようだった。
どうすれば良いのか決め兼ねて、いつもおろおろしているニーダーには、その傲慢な迄の自負心が恐ろしく、眩しかった。
だから、父王がほんの僅かであっても、譲歩を見せたことは、ニーダーにとっては衝撃的な出来事だった。
すべてにおいて、父王が正しかったとは思わない。しかし、間違ってはいなかったのだろう。父王が、母に愛され、民に尊敬されたのは歴とした事実。父王は揺るぎない力による支配により、信望を集め、秩序を保っていた。
そして、ニーダーはそれに倣うことで、王座に君臨し、最愛の妻子を得た。幸福を手に入れたのだ。
後悔はしている。ラプンツェルを狂おしく愛しているから、傷つけたくなかった。出来ることなら、彼女は恐ろしい真実など何も知らず、ただ幸福に微笑んでいて欲しかった。
背にぴったりと寄り添うラプンツェルが、僅かに身じろぐ。目を醒ましたのだろうかと思いきや、ラプンツェルはすやすやと眠っていた。小さな手が、ぎゅっとニーダーの夜着を掴んでいることに気がついて、ニーダーは微笑んだ。
ラプンツェルを愛している。愛する女性には優しく、美しく、輝かしいものだけを与えたい。幸福で包んであげたい。
しかし、ニーダーにはそれが出来なかった。それでも、間違っていたとしても、結果的に、ニーダーは勝ち得たのだ。
(私の強さを鞭で刻みこみ、恐怖で支配することで、ラプンツェルを従えた。けれど、そんなもので、終わりたくはない。慈しみ、優しくして、愛情を注ぎたい。愛する家族には、私を受け容れて欲しい。……僕は、あなたのように終わりたくないのです……父上)
心に広がる海原の、暗い深い底に、ニーダーが注いだ毒杯を空けた父王の最期が見えた。何もかも、恣にし、欠けることなく満ちていた父王が最期に見せたのは、絶望だった。我が子の憎悪に殺められる、そんな末路をつきつけられた父王は、愕然とした後、錯乱し、後に悲嘆に暮れ、やがて悶絶し、そうして、発狂した。
ニーダーは父王を憎んでいた。けれど、父王の悔いと悲しさは、霧雨のようにニーダーの心を煙らせ、波紋を投じている。
(アクレイギアに憎まれるなんて嫌だ。殺されるなんて、絶対に嫌だ)
握りしめた拳が小さく震えた。震えは抑え込もうとすればするほどに、大きくなる。目を逸らさなければいけないのに、真っ白な幸福に落とされた一点の黒い不吉は、じわじわと滲み、目に迫る。そうして、最も恐ろしい懸念をつきつけるのだ。
(ラプンツェルは私を憎んでいる。憎まれて当然の仕打ちを、私は彼女にした。彼女の憎悪が、アクレイギアに受け継がれ、やがてそれは、私を殺すのだろうか)
絶望が胸を塞ぐ。息が出来ない。鼓動さえ止まってしまいそうだ。ニーダーは即座に否定した。
(そんなことにはならない。絶対に。ラプンツェルとアクレイギアを幸せにするんだ。今からだって、遅くはない。恐怖で支配して、手許に置いてからでも、愛情を示すことは出来る。そうだ、陛下だって、そう仰っていたじゃないか。真心をこめて、愛を捧げれば、ラプンツェルはわかってくれる)
『ラプンツェルには無理だ。彼女はいいひとだから、あんたを憐れむだろうけど、あんたはまともな彼女の手には負えない。考えてもみろよ、ニーダー!』
鋭く切り裂く鞭声のように響き渡ったのは、いつかのノヂシャの言葉だった。ニーダーは跳ね起きた。部屋中を見回す。誰もいない。しかし、何処からともなく声がする。ニーダーを嘲っている。
堪らなくなって、ニーダーは耳を塞いだ。それなのに、聞くに堪えない罵声は頭の中に響き渡り、ニーダーの心を滅茶苦茶に掻き乱す。
『まともな神経の女の子が、化け物の唇にキスが出来るか? 血でぬらぬら光る鋭い牙に、いつ、噛み裂かれるとも知れないんだぜ。出来る訳ないだろ、そんな馬鹿げた真似!』
(黙れ、黙れ黙れ黙れ! お前に何がわかる! ラプンツェルは、私の天使だ。心優しいラプンツェル、お前とは違う。お前のような偽物とは違う!)
ニーダーの絶叫は言葉にならなかった。金縛りにあったように、体が動かない。ふと気がつくと、両手が頭上で一纏めに押さえつけられている。首筋に、熱い息遣いを感じた。
『でも、俺は違う。俺はいかれてる。あんたと同じか、それ以上だ。あんたになら、食い殺されても本望だよ……愛してる、ニーダー』
もう、視線すら動かせなかった。それでも、わかる。首筋にひんやりと冷たい唇が押し付けられる、生々しい感触。手腓に塗った子守粉を舐めとった、熱く濡れた舌が、ねっとりと項を舐め上げる。荒くなる息遣いに合わせて激しく波打つ喉に鋭い犬歯が食い込む痛み。
『ニーダー、あんたって最高だよ。ずっと、ニーダーと一緒にいたい。なぁ、ずっと一緒にいような』
瞼の下で、目玉がぐるんと回転する。固く閉ざされていた瞼が、ニーダーの意思に逆らって持ち上がった。
眼前に迫ったのは、父王の瀕死の形相。刮目した双眸は想像を絶する苦悶に血走り、絶望をとめどない血の涙として垂れ流している。大きく裂けた唇の端を耳にひきつけ、牙を剥いて嗤いながら告げるノヂシャの声は、やけに鮮明に鼓膜を打った。
「俺をここまで堕としておいて、あんただけ這いあがるなんてことは……絶対に許さねぇから」
青白い獣の凶相が哄笑する。牙が喉に食らいつく。骨を砕き、肉を咀嚼、血を嚥下する。恐ろしい鉤爪が腕を脚を圧し折り、捩じ切る。長い舌が剥き出しの眼球を舐める。蕩ける眼球を啜る、身の毛もよだつ音がする。
(よせッ……やめろ!)
総身に刻まれた傷は数える意味もない程に夥しく、痛みはそれに付随する。身動きの出来ないニーダーに覆いかぶさったノヂシャは、悠揚に微笑み、生殺しの苦痛をじわじわと刻みこんでくる。右肩に鉤爪が食い込む。石の心臓を抉られる、恐ろしい苦痛。しかし、恐怖はそれさえ凌駕する。発狂しそうな意識を繋ぎとめたのは、弱弱しく袖をひく手だった。
ハッと我に返ると、ニーダーは寝台に仰臥していた。肌がぐっしょりと濡らすのは、血ではなく汗だった。ニーダーを呵責していた恐ろしい化物の姿は何処にもなく、傷も苦痛も、その名残すらない。
ニーダーの袖を摘まんだまま眠るラプンツェルだけが、隣にいた。
「ラプン、ツェル……」
ニーダーは恐る恐る寝返りを打った。石の心臓がじくじくと疼痛を訴え、悪夢と現実の垣根を曖昧にしようとする。
けれど、ニーダーの心は落ちついていた。ニーダーの袖を掴んで放さないラプンツェルの手をそっと握る。暖かな体温がじんわりと、冷たい皮膚にしみとおる。目頭が熱くなった。
(君達を愛している。守ってみせる。何人たりとも、傷つけさせない。そして決して、放さない。私には……君が必要なんだ。頼むから、どうか……私の手を決して、放さないでいてくれ)
祈るように、心の中で繰り返す。閉じた瞼を透かす程に、眩い銀色の光が閃いたのが、その最中だった。
腹の底を震わせる、地を這うような轟音を伴い、大地が大きく揺れた。




