夢のような幸せ2
グロテスクかつ非人道的な描写を含みます。ご注意願います。
ニーダーが身動ぎすると、ラプンツェルの熱い体がふるりと震えた。振り落とされることを怯えているかのように、慌てて小さな額をニーダーの肩に押しつけ、小さな手で夜着の袷をきつく握りしめてくる。か弱いラプンツェルは精一杯の力をこめて、ニーダーに縋りついていた。震えから伝わる根源的な恐怖が、ニーダーの心をも震わせる。悲嘆と煩悶と、それらを掻き消して余りある多幸感によって。
ニーダーはもぞもぞとラプンツェルの背に腕を回すと、不器用な手つきで、華奢な肩をそっと抱き寄せた。巣から転がり落ちた小鳥の雛を掌に掬い上げるような庇護欲が湧き、緊張と興奮に胸は高鳴る。
高い空で幸せを歌っていた天使は、ニーダーが落ちたこの地獄で、愛の名を冠した恐怖と苦痛を骨身に刻みつけられた。自らを地獄に引き摺りこんだ悪魔しか頼るものがないラプンツェル不幸は、ニーダーにとって最上の幸福だった。
この世界に散らばる幸せをすべてかき集めて、ラプンツェルに捧げたい。この世界を蝕む苦しみのすべてから、ラプンツェルを守りたい。ラプンツェルを、愛している。愛する心が翼になった。地獄の底で蹲っていた呪わしい悪魔が、鋭く射る光と冷たく斬りつける風に立ち向かい、空高く舞い上がったのは、輝く雲間の切れ間にラプンツェルがいたから。
ニーダーは愛するラプンツェルの幸せを、心から願っている。その一方で、ニーダー自身がラプンツェルの不幸そのものであることを自覚している。何を引き換えにしても最愛の女性を守ると誓うなら、ラプンツェルを雁字搦めに繋ぎとめる、歪んだ愛という灼熱の鎖から彼女を解き放つべきだった。
しかし、ニーダーがラプンツェルを解放することは在り得ない、絶対に。彼女の幸せの為に諦めてしまえる程度の愛ならば、そもそも、地獄の業火と化してラプンツェルの幸福を焼き払うことは無かった。
ニーダーはあやすようにラプンツェルの髪を撫でながら、もう片方の手で、まんじりと父親を見上げるアクレイギアを構う。腹を擽るとひっひっひ、とおかしな笑い声をたてて短い手足をばたつかせ、頬をつつけばあんぐりと口を開ける。愛くるしさに見惚れているうちに、ニーダーの指はアクレイギアに捉まって、彼の良い玩具にされた。アクレイギアはぎゅっと掴んだニーダーの指を、口に含んでみたり、吸ってみたりして遊んでいる。ニーダーの手はあっと言う間に涎塗れになったが、アクレイギアが夢中になっているので、好きにさせておくことにした。剣術の稽古の為に爪を短く整える習い性が、こんなところで功を為すなんて思わなかった。無性におかしくて笑える。
ぴったりと密着したラプンツェルの体から振動が伝わってきて、ニーダーの爪をあぐあぐと食むアクレイギアから視線をうつすと、その先で、ラプンツェルは穏やかに微笑していた。
「ご機嫌だね。お父様に遊んで貰えてうれしいね」
ニーダーの指を口にいれたまま、アクレイギアが不明瞭な声を上げる。小さな赤ん坊に言葉はないけれど、アクレイギアは母親に調子を合わせているように思えた。良い返事だった。ニーダーとラプンツェルは視線を交わし、笑いあう。笑声の余韻が残る柔らかな沈黙に包まれて、アクレイギアを微笑ましく見守っていると、出しぬけにラプンツェルが言った。
「あなたたち、まるでアクレイギアの花みたいよ」
目を上げると、ラプンツェルの笑顔は明るい。大きな花が小さな花を抱いているように咲く、アクレイギアの花を思い浮かべているのだろうか。図鑑の白黒の挿絵はどれも同じに見えると、幼いノヂシャがつまらなそうに言っていた。ラプンツェルは本物のアクレイギアの花を見たことがあるのだろうか。
ないな、とニーダーは小さく溜息をつく。それは、ラプンツェルはアクレイギアの花を見たことがない、と決めつける意味の否定ではなくて、見たことがあるかどうか、という思索に耽る意義に対する否定だった。そんなことよりも大切なことは、愛する家族と共に居られる、この瞬間を慈しむことだ。
ラプンツェルは、青い瞳を細めてアクレイギアを見守っている。触れられなくても、優しい視線で我が子を愛撫している。
ニーダーは親指の腹でアクレイギアの頬を撫でた。鞣されたような固い皮膚に覆われた手による無骨な愛撫は、母親のそれが与えられる心地よさには遠く及ばないだろう。それでも、アクレイギアはふんわりと笑ってくれる。ラプンツェルによく似た、大きな赤い瞳を輝かせて、ニーダーが込めた愛情を余さず受け容れてくれる。我が子を愛する喜びを噛みしめながら、愛しい息子の額にキスをしようと額を寄せた。無垢な喜びにきらきら光る瞳が、至近距離からニーダーを見つめ返す。その眼差しに既視感を覚えた弾みで、ニーダーの心が追想へと飛んだ。
真正面から懐に飛び込んできた年の離れた弟が、ニーダーを見上げる。無益な強情さをかなぐりすてた、素直で無垢な眼差しはニーダーの胸にしみとおり、心を鷲掴みにする。
『ニーダー、あんたって、最高だよ!』
(違う!)
ニーダーが強く否定すると、愛すべきものの結晶のような、幼いノヂシャの笑顔が霧散した。違う違う違う、と否定の言葉を執拗に重ねた。下地の色が見えなくなるまで、黒の絵具を塗りたくるように。ようやく落ち着いた頃には、何を如何して、あんなに躍起になって否定していたのか、よくわからなくなっていた。
アクレイギアはニーダーの指を舐めしゃぶる遊びに没頭している。父親の心がここにないことを、敏感に感じ取ったのかもしれなかった。ラプンツェルの物言いたげな凝視を避ける為に、ニーダーは白く結晶する窓硝子に視線をうつす。ラプンツェルが傍にいなかったら、舌うちをしてもおかしくはない程に、機嫌は傾いてしまっていた。
アクレイギアとノヂシャを重ねるなんて、どうかしている。あり得ない、あってはならない。ノヂシャの愛らしさを紛い物だ。周囲の愚かな人々の目を欺くものだ。わかりきっている。だから、動揺する理由はない……ない、筈だ。
(もう良い、考えるのは止めだ。余所事を考えるな。ラプンツェルを心配させてしまう)
案の定、不安にかられた様子のラプンツェルが遠慮がちに声をかけてくる。
「ニーダー……大丈夫?」
「もちろん、大丈夫だ。君は何も心配しなくて良い」
打てば響くように、ニーダーは答えた。この言葉が近頃のニーダーの口癖である。一拍置いて、ニーダーはラプンツェルを振り返った。家族団欒を愛おしむ夫の微笑を正しく表現していた筈だけれど、ラプンツェルの表情が曇る。可憐な唇から溢れた溜息が、重く落ちる。
「あなたって、いつもそれね」
言ってから、ラプンツェルは微笑んだ。取り繕う為の微苦笑だった。
口では事もなげに「本当のことだ」と言いつつ、内心忸怩たるものがある。ラプンツェルを不安がらせてしまった。よりによって、ノヂシャの為に上の空になって。愛する妻と子を目の前にして、憎らしい弟に心奪われてしまうなんて。ニーダーはやや強引に、ラプンツェルの頭を己の肩口に押し付けた。
(私は幸せだ。愛するラプンツェルとアクレイギアに囲まれて、穏やかな時を過ごす今が一番、幸せだ。二人がいない過去に価値はない。忘れてしまえ、すべては過ぎたこと)
忘れられないのは、憎いからだろうか。確かに、憎悪は強い感情だ。けれど、愛はそれに輪をかけて強い。愛こそは至高。愛がなければ万物が虚ろになる。ニーダーは、ラプンツェルとアクレイギアを愛することに持てるすべてを注ぎたい。この狭い心にノヂシャの居場所など要らない。
(どうせ……そう遠くない未来……ノヂシャの存在そのものが過去になる)
ノヂシャに惑わされ、ノヂシャを愛していた過去など、懐かしんだところで詮無いこと。重要なのは、この先の未来。ラプンツェルとアクレイギアの為に、ノヂシャをどうするかということだ。
壮絶な産みの苦しみを乗り越えて、ラプンツェルはアクレイギアを産んでくれた。母子ともに、出産という険しい試練に打ち勝ったのだ。諸手を上げて喜ぶべきことだった。ところが、ブレンネン王家に付きまとう厄介な事情が、無上の喜びに水を差す。
アクレイギアは銀の祝福を授からなかった。髪は澄んだ夜の色、瞳は燃え盛る炎の色。稀有な色彩を宿して産まれても、アクレイギアの尊さは変わらない。しかしそれは、ニーダーにしてみれば、という話。頑冥な老人たちは、そのように好意的には考えない。
王位継承者は、銀の祝福を授かりし王子のみ。王の子であっても、銀の祝福を授からなければ、王太子にはなり得ない。
ただし、アクレイギアが王太子でなくとも、ニーダーは国王なのだ。
高い塔の女は、ブレンネン王家に銀の祝福を齎す。ところが、高い塔の姫であるラプンツェルが産んだアクレイギアは銀の祝福を授からなかった。
国政を担う大臣たちが、秩序を護る兵たちが、石礫を投げ込まれた鳥の群れのような混乱に陥った。
影の民の血に犯されたのではないか、と囁く者がいた。王子の瞳は血の色だと、呻いた者もいた。王子は銀の神の祝福を授からず呪いを賜ったと騒ぎ立て、終末論を唱える者までいた。
ニーダーは毅然とした態度で、妄言を喝破し、懸念を一蹴し、不敬を咎め、叛逆を粛清した。恐慌は鎮静化したに見えたが、不安と不満が燻ぶるブレンネン王城は依然として不穏な気配を潜ませたまま、ざわめいていた。
憂国の臣を黙らせるには、銀の祝福を受けた王太子をもうけるより他にない。ところが、運命は悪戯者だ。ラプンツェルは産後の肥立ちが思わしくないとのことで、長いこと伏せっていた。そうは言っても然程、深刻な事態ではない筈だった。ラプンツェルは元気そうだったから。それなのに、ある日突然、ラプンツェルはシーツを鮮血に染めた。
ラプンツェルの命は助かった。安堵のあまり膝が笑い、崩れかけた体をゴルマックに支えられるニーダーに、顔面蒼白の医師は蚊の鳴くような声で宣告した。
『王妃殿下には、もう……御子をお望みになれないでしょう』
みっともなく、うろたえることは無かった。ラプンツェルの出産に立ち会い、難産の苦しみを目の当たりにして、既に覚悟はしていたのだ。医師の宣告が無くとも、今一度、ラプンツェルに命の危険を冒させるつもりにはなれそうになかった。
ニーダーはゴルマックに緘口令を下し、自らも固く口を噤んだ。ラプンツェルが子供を産めないという事実を、限られた人しか知らない絶対の秘密としたのである。ラプンツェル本人にすら知らせていない、今はまだ。
率直に言って、ニーダーとしては、ラプンツェルとアクレイギアがいてくれればそれで良かった。ラプンツェルに良く似た姫は惜しいけれど、ラプンツェルと同じ目をしたアクレイギアに見つめられたら、これ以上は望むべくもないと思える。
ブレンネン王国には王太子が必要だ。王妃に王太子を望めないと判断される場合、然るべき血統の若く健康な女性を妾として迎えるのが筋である。けれど、ラプンツェルではない女を抱くなんて、考えただけで怖気が走る。よしんば上手く事が運び、妾が王太子を産んだとしよう。そうなれば、ラプンツェルは王妃の座から蹴落とされてしまう。ラプンツェルを愛妾として手許に残すことは可能だ。立場が変わったところでニーダーの心はラプンツェルだけのもの。しかし、王太子を産んだというだけの女が王妃として大きな顔で隣に侍るのも、ラプンツェルに日陰の身を強いるのも、ニーダーが望むところではない。
王太子が産まれた後、妾には何らかの方法で消えて貰うというのも一つの手ではあるが……王に仕える大任を担うのは、門閥貴族出身の姫君だろう。それを、利用するだけ利用した後に打ち捨てるとなれば、悶着は必至。厄介事を惹起して万が一でも、ラプンツェルとアクレイギアが脅かされるようなことはあってはならない。
だからと言って、身分の低い女を召し上げて子を産ませたとなると、外聞が悪い。
身分の低い女に産ませ、名もなき女が産んだ子である、と言い通すという手もある。名もなき女と言えば、ブレンネン王家では高い塔の女を意味する暗喩であり、ノヂシャを産んだのもこの「名もなき女」であるとされた。
しかしニーダーの場合、この手は使えない。高い塔の女を犯し孕ませたなどと、偽りであっても、ラプンツェルの耳には入れられないからだ。
ニーダーは高い塔を焼き払い、高い塔に住まう人喰いの一族は皆殺しにした。表向きには、そうなっている。しかし真実は違う。ラプンツェルが弟として可愛がっていた少年と、これまた妹のように可愛がっていた二人のメイド以外の家族は皆殺しにした、とラプンツェルに告げたが、それも真実ではない。
高い塔の主であるビルハイムを始めとした年嵩の者は始末したが、若い男女の命は奪わなかった。生かして「罪人の塔」へ連行した。そうして「罪人の塔」を人外の牧場としたのだ。交配し、産ませ、育て、殖やす。その為だけに、ニーダーは人外の若者たちを生かした。
高い塔に住まう、影の民の末裔たち。その血は、ブレンネン王家に無くてはならないもの。だからこそ、王家は影の末裔たちを暗い森の奥に閉じ込めた。王家の庇護のもと、影の末裔たちは血を繋いだ。ゴーテルは、高い塔での暮らしを家畜の暮らしだと揶揄していたが、その通りだ。影の末裔はブレンネン王家の家畜に過ぎない。
問題は、家畜が分際を弁えぬこと。ブレンネン王家は家畜たちを甘やかしてしまった。
影の末裔たちは、暗い森の奥深く、高い塔に囚われた。そこで、放し飼いにされた。放任を、影の末裔たちは自由と尊厳であると履き違えた。
影の末裔は閉鎖された世界で、独自の価値観を形成していった。それは、ブレンネンの人間の常識から遥かに逸脱したものだった。歪みはニーダーの母ミシェルを壊し、ゴーテルさえも壊してしまった。
ミシェルの悲劇を二度と繰り返してはならない。ならば、どうすれば良いのか。ニーダーはゴーテルから学んだ。ゴーテルはラプンツェルが幼い頃から、ブレンネン王国の常識を教え込んだ。そのお陰で、ラプンツェルは「親兄弟と契り、子を産むのは当然のこと」などという狂った思想をもたなかったのだ。
いずれまた、影の末裔の女をブレンネン王家に招き入れる必要に迫られる。ブレンネンの新しい王と、その伴侶となる影の民の末裔の女の為に、まどろっこしいことは抜きにしよう。放任はやめる。家畜は家畜らしく、管理されなければならない。
影の末裔たちを繁殖させる試みは、今のところ、順調にすすんでいる。
家畜である影の末裔たちは、脆弱な人間の手に余らぬよう、手足を切り落とし、牙を抜いた。ゴーテルのように輝殻を自在に操る者はいないようだが、人喰いの力は人間のそれを凌駕する。用心するに越したことはなかろう。
反抗的な家畜には、更なる処置を施している。ラプンツェルが弟として可愛がっていた、ビルハイムの息子などが、その最たるものである。邪魔な部位を悉く削ると、かつての面影は全く見られなくなった。自我も自尊心も、彼を奮い立たせる憎悪すら失い、終に壊れた。今では優秀な種馬としてよく働いている。ラプンツェルが気にかけていた、まだ幼さの残るメイド……リーナではない方の少女は、臨月を迎えた。無事に子を産めば、すぐにまた新たなつとめを果たすことになる。
種馬。ノヂシャもまた、種馬になるのだ。ノヂシャを立派な種馬に仕立て上げることが出来たなら、問題は解決する。
ノヂシャならば、相手の女は何者でも良い。ノヂシャの気が触れていることは、周知の事実。ニーダーの足元に縋りつき、靴を舐める恥知らずの名誉など、地におちている。どこぞの女に銀の祝福を授かった男児を産ませ、行方を眩ませた弟に変わり、現王のニーダーが王太子の養育を引き受ける。この筋書きならば、ニーダーにしてみれば好都合。
ニーダーの名誉と威厳は守られ、臣下から文句も出ない。王はブレンネン王国の安寧の象徴であり、必要不可欠な存在であるが、必ずしも王の子である必要性はないのである。要は、銀髪碧眼の男が玉座を埋めれば良いというだけ。
アクレイギアを無碍にせず、尊重するようノヂシャの子を躾ければ良い。アクレイギアの立場が守られるのなら、無理をして王位につけることもない。爵位を得て臣下に降りた方が、かえって好都合かもしれない。危険は少なく自由は増すにちがいない。
王冠などくれてやれば良いのだ。そうすればアクレイギアは、国王として玉座に縛られることのない人生を歩める。
アクレイギアの幸福の為、ノヂシャは生かしておけない。ノヂシャの存在はいずれアクレイギアの脅威になる。ひょっとすると、ノヂシャも同じように考えたかもしれない。ノヂシャは胎児であったアクレイギアの命を狙った。
ノヂシャは危険だ。狂人の行動指針ははかれない。
しかし死ぬ前に働いてもらわねばならない。役目を全うしたノシャを、速やかに殺す。もう躊躇わない。ラプンツェルとアクレイギアの為ならば、なにも恐れない。
だから、幼い日のノヂシャのことなんて、思い出さなくて良い。思い出したくもない。
守るべき息子に、殺めるべき弟の面影を見るなんてことは、今後一切、したくない。
耳朶を悩ましい吐息に擽られ、ニーダーは肩を跳ねあげた。ニーダーの肩口にほっそりした顎をのせたラプンツェルが、仔猫をからかうような、悪びれない笑顔で待ちかまえていた。半目になってニーダーの指を食むアクレイギアの寝惚けた顔を覗きこんで、ラプンツェルは言った。
「ところで。ねぇ、お父様は、いつまでも君を裸のままでいさせるつもりなのかな? お薬を塗ってくれるって、自分から言いだしたのに、忘れちゃったのかな? 困ったお父様だね」
アクレイギアが、くあ、と欠伸をする。ニーダーははっと我に返り、ヴァロワのオフィリア王女より贈られた子守粉の容器を手に取った。
「そうだったな、うっかりしていた。待たせてすまない、アクレイギア。さぁ、子守粉を塗ってあげよう」
あたふたする父親を尻目に、アクレイギアはうーんと伸びをした。顔を真っ赤にして手足を突っ張る息子の様子を見守って、ラプンツェルが相好を崩す。ニーダーはアクレイギアの腹を、円を描くように撫でながら「大きくなれ」と呟いた。「なぁにそれ?」と小首を傾げるラプンツェルの問いかけに「大きくなるおまじないさ」と答える。
それをニーダーに教えたのは、ノヂシャだったことを思いだした。
『ニーダー、生意気だ! ニーダーの癖に、態度がでかいんだよ、ほんっと、生意気! でかいのは図体だけにしておけっての!』
『ははは、そんなにむきにならなくても、ノヂシャは大きくなれると思うよ?』
『当たり前だろ! おれが赤ん坊の頃、ヨハンとマリアが、大きくなるおまじないをたくさんしてくれたって言ってた。ニーダーよりたくさんして貰ったに決まってるんだ。だから、絶対に大きくなる、あんたなんかより、ずっと、ずーっとな!』
『大きくなるおまじないって?』
『はぁ? おいおい、ニーダー。そんなことも知らないのか? しょうがないなぁ、おれが教えてやるよ。いいか、大きくなるおまじないをするには、のびをしている赤ん坊の腹を、大きくなれ大きくなれって言いながら、撫でさすってやるんだ。赤ん坊がのびをして、体を伸ばす助けになるんだぞ。……なぁ、本当に知らないの? 誰も教えてくれなかったのか? 変なの。そうだ、今度、聞いてみれば良いよ。あんたは赤ん坊の頃に、いっぱいいっぱい、大きくなるおまじないをして貰ったに決まってる。そうじゃなきゃ、そんなに背が高くなりっこないもん。……んん? ニーダー、どうしたの? なんで黙ってんの? おい、おれの話、ちゃんと聞いて……うわっ』
『大きくなれ、大きくなれ』
『わっ、ちょっと、なにするんだ!』
『なにって『大きなるおまじない』だろう? 君が成長を急ぐから、微力ながら助けになればと思って』
『ばかっ、おまじないが効くのは、赤ん坊だけだよ! おれはもう赤ん坊じゃないから、意味がないの! やめろ、やめろって、もう……くすぐったいってば!』
ニーダーは強く頭を振った。子守粉の甘い匂いが辺り一面に充満している。この香りのせいで、ノヂシャのことを思い出すのだろうと、ニーダーは思った。なんでもない言葉の掛け合いを、こんなに鮮明に思い出してしまう。
不意に、白い手がニーダーの視界を横切った。ニーダーが手にする子守粉を指先ですっと掬い取り、自身の鼻先に運ぶと、ラプンツェルはくんくんと子守粉の匂いを嗅いだ。そうして、指を少し下ろすと、ぺろりと舐めた。
「……うわぁ、にがぁい……。なぁに、これ。甘い香りがするから、てっきり甘い味がするんだと思ったわ」
ぱっと居上がり、お水お水、と言いながら小走りで水差をとりにゆくラプンツェルの背から、ニーダーは目を逸らした。
白く結晶する窓の外で、雪も風もない厳寒の夜が凍結している。




