深淵
ノヂシャの抱擁は、ニーダーの背中の、傷ついた天使の翼を抱いている。目には見えず、手で触れることも出来ない翼の存在をノヂシャはありありと感じている。痩せた背中に浮き出した肩甲骨のふたつの膨らみ。この中に隠れているのかもしれなかった。皮膚を破り、骨を砕いて肉を抉り出せば、白銀に輝く神々しい翼が姿を現す……そうであっても不思議ではない。何故ならば、ニーダーはノヂシャの、奇跡の天使なのだから。
ノヂシャは夢想する。激痛に歪む血に塗れた美しい顔を見つめ、逸らされた白い喉から迸る苦鳴を聞き、血肉を纏った翼を体内から引き摺り出す。そんな、血沸き肉踊る素晴らしい場面を。悪寒によく似た快感が背筋を駆け上がり、ノヂシャは恍惚とした。ただし実際のところ、ノヂシャの手はニーダーを傷つけることない。優しくニーダーの背を撫でている。
夢の中のニーダーは優しい。大人しくノヂシャの腕の中に収まっていてくれるし、ノヂシャを拒まない。ノヂシャの心も体も、傷つけない。そんな優しいニーダーを、ノヂシャは大切にしたかった。弾け飛んでしまいそうなくらい、愛おしいから。
優しいニーダーと再びめぐり合えた僥倖を噛みしめ、ノヂシャはニーダーの固い首筋に濡れた頬を擦り寄せた。こうしていられるなら、夢でも良い。素晴らしい奇跡の訪れを、ノヂシャは散々唾を吐きかけてきた神に感謝した。
ノヂシャは、ニーダーの優しい笑顔が好きだった。優しい声で紡がれる、優しい言葉が好きだった。触れる体温の優しさが好きだった。
ニーダーの優しさが、夢か幻のように消え失せてしまった時、ノヂシャの世界は闇に閉ざされた。
大好きなニーダーの、心と魂に拒まれている。傷つく度にそぎ落としたノヂシャの心は、とうに限界を超えていた。ノヂシャは目を閉じ、幸福な夢の海の底に沈んだ。
水底で殻に閉じ籠り、深い眠りにつく真珠になりたい。
そうして、幸福な夢に囚われてしまえれば良い。現実では、ノヂシャの望みは叶わないし、ノヂシャは幸せになれないのだ。だからいっそのこと、優しい夢に身をゆだねてしまいたかった。夢の中のニーダーは、切ないくらい優しい。
本物のニーダーへの未練を断ち切れたと言えば嘘になるだろう。ニーダーの憎悪という鎖に繋がれ、弄ばれ、飼い殺しにされる日々は虚しいばかりだった。それでも、気紛れな優しさや、垣間見せる躊躇う仕草が、飽きもせずに繰り返される苛虐の行為が、ノヂシャを一抹の希望に縋らせる。ノヂシャを虐げて得意気なニーダーは、彼自身が気付かないうちに、ノヂシャから離れられなくなっているかもしれない。だとしたら、どんなに苦しくとも、ノヂシャは躊躇いなく、体がすり減って無くなるまで、耐え抜く道を選びたかった。
ラプンツェルさえ居なければ、ノヂシャは死ぬまで、耐え続けただろう。
目覚めることが怖い。ニーダーはノヂシャを愛さず、慈しまないだけでは飽き足らず、ノヂシャのことなんて、眼中になくなってしまった。
ニーダーに捨てられる。それだけは、絶対に駄目だった。捨てられるくらいないなら、いっそのこと、激しく憎悪されて、その結末として殺されることを選ぶ。
けれど一度、ニーダーの優しさに触れてしまうと、ノヂシャを突き動かしていた苛烈な衝動と悲壮な決意は音をたてて瓦解した。憎まれるのは辛いことだと、思い出してしまった。
ノヂシャは懐にニーダーを抱き込み、背中に回した腕で抱き寄せた。体中でニーダーを感じている。至福の満足感を得ると共に、震えるほどに飢餓感を煽られる。
抱擁とは、なんと曖昧で、もどかしい繋がりだろう。もっと深く強くニーダーと繋がりたい。二人を隔てる肌が、別々の肉体が邪魔だ。惨たらしく癒着してしまえれば良いのに。どんなに足掻いても、決して離れることが出来ないくらい、深いところまで混ざりあって。
叶わぬ望みであることは弁えている。夢で良いのだ。夢の中なら、このままひとつに溶け合うことも出来るだろう。
ノヂシャの髪に優しい手が触れた。ニーダーがノヂシャの髪を撫でている。旋毛から項を伝い背から腰にかけて、まるで長い髪を丁寧に梳くように、ゆっくりと慈しみをこめて撫でてくれる。心地よさに目を細めるノヂシャの耳元で、ニーダーが囁いた。
『君が心配で、心配で堪らない。君は私の命だ。愛してる……愛してるよ』
ノヂシャは涙ぐむ。そんな言葉は信じられない。けれど、これは夢だ。夢なのだから、信じて良い。
ふと気がつくと、ニーダーの声質が変わっていた。少年時代の澄んだ幼さの名残が消え、低く豊かに響く声に変わった。今現在のニーダーの声だ。それに伴い、ニーダーの体が一回り大きく膨らんでいる。抱きしめていたつもりが、いつの間にか、抱きしめられている。ニーダーの腕の中にすっぽりと収められている。ニーダーが大きくなっただけではなくて、ノヂシャが小さくなったようだ。
ノヂシャはなんとなく気恥ずかしくなって、もぞもぞと身じろいだ。まるで子供になってしまったようだ。ニーダーにじゃれついて、受け止められ、甘やかされていた、幸せだったこどもの頃に。そう思うと堪らなくって、ノヂシャはニーダーの胸に縋りついた。
「ニーダー……俺も愛してる。好きだ、大好きだよ……兄上」
兄上。いつまでも口の中で転がしていられる、甘美な言葉。ノヂシャはうっとりと、ニーダーの胸板に頭を預けた。
ニーダーの手は、ノヂシャ後頭部から腰にわたる線を、繰り返し撫でている。まるで女体の円やかな曲線をなぞるような手つきである。女扱いは流石に不本意だったが、抗議して、せっかくの親密な時間に水をさすことは憚られた。
ニーダーの触れる掌は熱い。ノヂシャが戸惑ってしまう程の情熱を佩びている。その一方で、抱擁はたどたどしく、遠慮がちだった。溢れんばかりの愛情を込めながらも、腕におさめた体を、抱き潰してしまうことを恐れている。
冷水を頭から浴びせられたかのように、ノヂシャの頭は冷えた。そうして、血の気が引いた。まさか、まさか、と何度も繰り返す。ニーダーの胸にひっしと張り付く。けれど、体の奥から、何かが引き剥がされようとしているのを、止められない。
ニーダーは、豊かに輝く長い髪を丁寧に慎重に梳いていた。ノヂシャが決して与えられることのない、ありったけの愛情を込めた甘く蕩けるような笑顔で、声色で、ニーダーは愛する少女の名を呼ぶ。
『ラプンツェル』
ニーダーは、抱きしめていた少女を軽々と抱き上げた。ノヂシャの体を満たしていた、暖かく優しい感情が、根こそぎ引き抜かれる。幸福が、引き剥がされる。
ただひとり、地べたに取り残されたノヂシャは、愕然として見上げた。まるで羽が生えているかのように軽々と抱き上げられた少女が、ニーダーの熱い眼差しを当たり前のように独占した少女が、ノヂシャを冷やかに見下ろしている。冷酷無慈悲な氷の心をもつニーダーの天使……ラプンツェルは、ニーダーの首筋に頬ずりをして媚びを売りつつ、魂まで凍らせる氷の息吹のような言葉を吐く。
『すぐに部屋に戻るよ。ニーダーも一緒に。ね、ニーダー?』
ラプンツェルの擬態の出来栄えは素晴らしい。演じる必要は少ない。ラプンツェルはありのままで十分なのだ。ニーダーを憎んでいる癖に、ニーダーの愛情と真心を粗末にする癖に、ニーダーを頼りしなだれかかる恥知らずな真似を、自然体でやってのける。卑しい娼婦のようだ。嫌悪感に、ノヂシャの肌は泡立った。
何処からともなく、赤ん坊の泣く声がする。耳を聾する、甲高い泣き声。
(やめろ、五月蠅い、五月蠅い……! 頭が割れそうだ!)
耳を塞いで蹲るノヂシャを一瞥もせず、ニーダーは胸に抱いた愛おしい最愛の妻に微笑みかける。
『戻ろう、ラプンツェル。私たちの寝室へ』
ニーダーはあっさりと踵を返す。ノヂシャは狼狽した、必死になって、掣肘をかけようとする。
「待って……行かないで! 俺を、こんなところに、独りで置いていかないで……俺のこと、忘れないで……」
ニーダーは振り返らない。引き留めようともがくノヂシャの姿が見えないのだろうか。引き止めようと喉を切り裂き叫ぶノヂシャの声が聞こえないのか。
それとも、ノヂシャの存在を忘れてしまったのか。これは夢なのに。ノヂシャの幸せな夢なのに。
取り戻そうとして、手を伸ばす。いくらやっても無駄だった。いくら懸命に手を伸ばしても、ノヂシャの夢の幸せなど、泡沫の幻に過ぎず、ただ儚く消えるだけ。
慟哭は声にならずに、ノヂシャは喉を掻き毟る。紅く滴り流れるのは、血か、それとも涙か。
ノヂシャの声は、零落する花のように細り萎れてゆく。耳を劈く赤ん坊の泣き声に掻き消されてしまう。やがて、喘鳴を絞りだすだけが精いっぱいになる。ノヂシャはしわがれた、殆ど言葉にならない声で、遠ざかる背中に呼び掛け続ける。
「に、だ、ニー、ダー……畜生、どう、し、て……ラプン、ツェル……ラプンツェル! やめろ、やめてくれ! 君には、分からない……ニーダーが、どんなに……俺の……俺の大切なひと、なのか……! 嗚呼、頼む、頼むから。どうかお願いだから、俺からニーダーを奪わないで……!」
ノヂシャは、ついには地に伏して訴えた。ニーダーは歩みを止めず、振り返りもしない。けれど、綺麗な作り物の笑顔でニーダーに甘えていたラプンツェルは、肩越しにノヂシャを振り返った。
ノヂシャは息をのむ。ノヂシャを見るラプンツェルの目つきが<あの女>と酷似していたのだ。ノヂシャは総毛立つ。ラプンツェルの可憐な唇をついて出たのは、煮詰め過ぎた糖蜜に毒を混ぜたような、あの女の声だった。
『ニーダーを、憎まずにいられない』
ラプンツェルが俯くと、長い髪が彼女の横顔を隠す。昂然と顔を上げたラプンツェルが髪を掻き上げると<あの女>は消えていた。薔薇色の怒りで頬を色づけたラプンツェルが、憤然として怒声を張り上げる
『嫌い。ニーダーなんて、大嫌い! ニーダーは私の家族を殺した!』
思わず見入ってしまうような暈色は、ラプンツェルが俯いたことでまた、長い髪に隠れる。房の隙間から覗く、怨念に塗りこめられた暗い眼差しは、ラプンツェルのものか、それとも<あの女>のものなのか。あるいは二人が一つに重なっているのか。心臓を握り潰す鉤爪のような怨嗟の言葉が、ノヂシャの耳に届く。
『いっそ、殺してしまえたら』
ノヂシャはニーダーを見た。ニーダーは腕に抱えた愛しい女を見つめている。殺意の氷刃を首に突き付けられているのに、ニーダーは相変わらず、純粋な愛の全てを女に捧げている。
ノヂシャは激怒した。怒りを瞬発力にかえて、跳ね起きる。逃がすものかと、ノヂシャに張り付いていた影が淀む黒い蛇と化して、体中に巻きついてくる。締め上げる力が強い。喉も胸も潰れてしまう。息が出来ない。痛い。鱗の一枚一枚が恐ろしい刃だ。手足がねじ切られてしまう。それでも、ノヂシャは抵抗をやめない。ニーダーに向けて腕を伸ばす。ニーダーの喉元に唇を寄せて、鋭い牙を剥くラプンツェルを喝破する。
「そんなことは、絶対にさせない! 君がニーダーを殺すより先に、俺が……君を殺してやる!」
いつか<あの女>に叩きつけた、揺るがぬ決意。ノヂシャの魂の叫びは、ニーダーの耳に届いた。ところが、ようやく振り返ったニーダーは、触れれば切れる、殺意を宿した険相でノヂシャを睥睨していた。
ノヂシャは思い知った。ノヂシャの叫びは届いても、ノヂシャの想いはニーダーに届かない。誠意と愛情を込めた言葉なら、ニーダーの心の壁を突き崩し通じるものだと、少しでも期待していたとしたら、途方もなく虚しいことだった。
がっくりと、膝の力が抜けて、ノヂシャの体は崩れ落ちる。そのまま淀みの蛇に引き倒され、とぐろをまく穿穴に引き摺りこまれる。ラプンツェルが、無様にのたうちまわるノヂシャを見下ろしている。可憐な美貌が、憫笑と嘲笑の狭間に歪んだ。
『かわいそうなノヂシャ』
ノヂシャは瞠目した。現実でノヂシャの天使を奪った狡猾な女は、夢にまで闖入して、また、奪うのだ。
唇がわなめく。憎悪は言葉にならず、どす黒い霧となって、ノヂシャの口腔からゆらゆらと立ち上る。閃く蛇の舌のように。
ラプンツェルはノヂシャの双子の姉。元は一つであった存在が、二つに分かれて産まれてしまった。だから、歪んでしまったのだろう。
ラプンツェルはニーダーを愛さないけれど、愛される。
ノヂシャはニーダーに愛されないけれど、愛してしまう。どうしようもなく、愛してしまう。
「返せ……」
ノヂシャは手負いの獣のように唸った。淀みの蛇はくねらせたその身を、ノヂシャの唇に捩じ込む。噎せかえるような汚穢が、苦痛を伴ってなだれ込んでくる。そんなことに構っていられず、ノヂシャは叫んだ。
「返せ! 俺の、俺のものだ! 俺はニーダーを愛している、俺だけは……! 君が手の中で転がして、弄んでいるものが、俺は、どうしても欲しい……魂を売り飛ばしてでも、欲しい……! それを、俺に寄こせ! 俺に、俺に……寄越せぇぇぇ!!」
ノヂシャの絶叫は虚しく、淀む闇に飲み込まれる。ラプンツェルが嗤っている。ニーダーが笑っている。赤ん坊さえ、笑っている。
(頭が割れそうだ。胸が張り裂けそうだ。憎い、妬ましい、悲しい……痛い、痛い、痛い!)
ノヂシャの体が闇に満たされる。眼窩から、口腔から、耳孔から、黒い霧が溢れている。深淵に引き摺りこまれる。けれど、抗えない。支えとなるものが何処にもない。このままでは、何処までも堕ちて行くしかない。
***
ノヂシャは真っ逆さまに堕ちてゆく。一条の光も射さない暗闇をずっと堕ちてゆく。
優しい夢は死んだ。ノヂシャはニーダーの幻影さえ失った。ノヂシャは絶望を叫ぼうとした。声が出ない。もがき、足掻いたが、体は闇に同化してしまった。
『悪魔を、愛するのです』
深淵の奥底から吹き上げるように、懐かしい声がする。ノヂシャに出来ることは、耳を傾けることだけだ。懐かしい声は語り続ける。息も絶え絶えに、血反吐を吐くように。
『どんなに甚振られても、蔑まれても、辱められても……あの悪魔を愛し続けねばなりません、あなた様の父君がそうなさったように。悪魔の凍える瞳にうつるあなた様のお姿が、父君の影と重なれば……悪魔は、あなた様を殺めることが出来ない。あれは残酷な悪魔です。おぞましき化物です。ですが、唯お一人……陛下だけは、あの悪魔……ニーダーを深く愛していらっしゃった。最期の瞬間に至るまで、その愛は変わらず……ですから……ノヂシャ殿下? ノヂシャ殿下、そこにいらっしゃるのか? 闇が深い、何も見えぬ……』
(……ヨハン? ヨハン! ここにいる、ここにいるよ! 俺はここにいる。何も見えないし、動けないんだ。ヨハン、何処にいる? 助けてくれ、ヨハン!)
声にならない声で叫ぶ。すると、失くした筈の右手が、何かに触れた。それは、大きな手だった。幼いノヂシャの頭をすっぽり覆ってしまえる、大きな、暖かい手。しかし、それは氷のように冷たく、無機質で、大きな石ころのようだった。
ノヂシャは思い出した。これは、ヨハンの手だ。五指をすべて失くしたヨハンの手だった。ノヂシャはヨハンの、辛うじて繋がっている右手を両手で包みこんだ。ここにいるよ。すぐ傍にいるよ。と涙声で呼びかけた。
こどもの頃の、追憶だった。
『嗚呼、この温み……ノヂシャ殿下、そこにおられるのですね。殿下、よくお聞き下さい。あなた様は、父君におなり遊ばされるのです。悪魔が、あさましくも愛を渇望する限り……父君を二度殺すことは、出来ぬ筈。生き延びるのです、ノヂシャ殿下。このヨハンの無念の死を、愛しいマリアとその腹の子の非業の死を乗り越え……強さに変えて……強く、お生きなさい……泣いてはなりません。強くなるのです。そしていずれ、あなたは……すべてを取り戻す』
(ヨハン? ヨハン、ヨハン? ヨハン……ああ、嫌だ、ヨハン。返事をして、ねぇ、ヨハン……おれを無視するな、応えろよ、応えろ……いっちゃ嫌だ、戻ってきて……おれを、こんなところに、置いていかないで……怖いよ、ヨハン……!)
ノヂシャは泣き叫んだ。こどもの頃とまったく同じように。酸鼻を極めた拷問の末、壮絶な悶死を遂げたヨハンの亡躯に取り縋り、いつまでも泣いていた。
ヨハンの声はそれきり、聞こえなかった。ヨハンはまた、死んでしまったらしい。ノヂシャは号泣した。涙の濁流は心の中の何かを押しながしてしまう。ぽっかりとあいた空隙が、凍える風を通していた。
(ヨハン……俺は珍しく、お前の言いつけをよく守ったよ。俺はニーダーを愛している。これからもずっと変わらない。だけど……俺はもう、これ以上……)
嘆きに満ちた闇の網をくぐり抜け、ノヂシャが堕ちたのは、汚泥の沼だった。痛み、苦しみ、怒り、悲しみ、憎しみ、妬み……そう言ったものが撹拌され、くつくつと煮え滾る、地獄よりおぞましい混沌だった。雪のように降り注ぐのは、粉々に砕け散った美しい夢の残骸。
ノヂシャは沼の底にずぶずぶと沈んでゆく。心の隙間に、流れ込んでくる激しい怒りと悲しみ、妬みと憎しみの業火に、魂を焼かれながら。
(ニーダーが好きだった。初めて会った時から、特別だった。王子じゃない、ただのノヂシャを、笑顔で迎えてくれた。優しくて、ちょっとだけ意地悪で、時々は厳しくて。一緒にいると楽しくて、嬉しくて。何の見返りもないのに、俺の為に危険を冒してくれたあんたが……強引にあの女の許から連れ出してくれたニーダーが……大好きだった。ニーダーの為なら、なんだって出来ると思った。ニーダーは、王子じゃない、ただのノヂシャの……たった一人の、家族だった)
それで? と誰かが続きを促す。心に流れ込んでくるものは、強い酸のように心を焼いた。
(ニーダーを愛している。ニーダーが悪魔でも、最悪の化物でも、俺は、俺だけは、ニーダーを愛している。俺だけが、本当に、本当の本当に、ニーダーを愛している。だから、どんなに酷い仕打ちを受けても、今日まで耐えて、耐えて耐えて耐えて、耐えてきたんだ。愛しているから、ニーダーは俺の唯一人の兄上だから。我慢に我慢を重ねて、耐え忍んでいれば、いつか、わかってくれるって信じてた。俺がこんなに愛しているんだから、ニーダーだって、俺を愛してくれるんだ。愛してくれなきゃいけないんだ。そうだ、そうなんだ、身も心も、何もかも捧げてきたこの俺が、捨てられる筈がない、そんな不条理が許される筈がない! それなのに、どうしてこんなことになっちまったんだ?)
それはね。と誰かがひそひそと囁く。心に雪崩れ込んで来るものは、冬の寒空の息吹のように、ノヂシャの心を氷結させる。
(ラプンツェルが、あの娘が、なんだって言うんだ? 家族を殺された可愛そうな娘? 甘ったれるんじゃねぇ、俺だってそうだ! ヨハンとマリアはうんと甚振られて、辱められて、殺された。それさえ、俺は許したんだ。それなのに! どうして、ラプンツェルが愛される? 俺はもう十年も、ニーダーの残酷さを受け止めている。あの娘はあっと言う間に根をあげたじゃねぇか。俺は耐えた。ニーダーを愛しているから、耐え続けた。一度だって、ニーダーを突き放したことはない。俺はすべてを受け容れてきた。それなのに……どうして、あの娘なんだ!? あの娘がニーダーに何をしてやれた!? 俺のように、身も心も捧げたか!? 何かひとつでも、俺の犠牲を上回ったか!? 無い、そんなもの、ひとつたりとも無い! 俺だ、俺だけだ。俺だけがニーダーを愛している。あんな娘が、俺を、この俺をさしおいて……ニーダーに愛されて良い訳がない……!)
その通りだ。と誰かが高らかに宣言する。心を包むものは、燃え盛る地獄の業火のように、ノヂシャの心を焼き尽くす。
(そうだ、誰ひとりとして、俺を超える奴はいないんだ。ルナトリアの献身的な愛でさえ、俺に比べれば、児戯みたいなもんだ。俺しかいない。俺の他に、ニーダーが愛すべき人間は何処にもいない!!)
最後の叫びは断末魔めいていた。ノヂシャの心は燃え尽きて、灰になった。ぱらぱらと、胸の内側から毀れおちた。
ノヂシャは灰になった。虚ろな胸の奥で、空しい言葉がぽつぽつと、雨だれのように毀れる。
(もうずっと、ニーダーだけを頼りにして生きて来た。それ以外は何もなかった。それなのにニーダーは、すべて焼き払う眩しさで、ありのままの虚ろな世界を残し、忽然と消えてしまった。……俺は、ニーダーを愛していた。そして、いつか報われると信じていた。傍にいれば、いつか、きっと……)
(だけど、それは間違いだった)
(ごめんな、ヨハン。俺……もう、これ以上は、耐えられそうにない……)
記憶の底の悲しみが、揺り籠のようにノヂシャを深い眠りへいざなう。
もうおしまいだ。終わりにしよう。もう、少しも我慢したくない。
ノヂシャの空っぽの眼窩から、流れ落ちるのは黒い霧ではなく、涙だった。黒い霧が吐息に散らされ、唇からか細い声が漏れ出した。
「嫌だ……もう嫌だ、こんなの……悲しい。切ないし、怖くて……こんなんじゃ、辛すぎる……」
ニーダーはノヂシャを愛してくれない。憎んでもくれない。無関心……それが愛する人から向けられる感情として、最も残酷なものであると、ニーダー自身、身につまされてよく理解している筈だ。ニーダーは、徹頭徹尾、ノヂシャに惨かった。
ノヂシャの心がザクロのように張り裂けようと、針で突く程度の憐れみも感じない程に、ニーダーはノヂシャを疎んでいるのだろう。跡形も無く、消えて無くなってくれれば、清々すると思われているのだろう。いや、そもそも、ノヂシャがニーダーを「愛している」ことを、ニーダーは信じてくれていないのかもしれない。
いずれにせよ、ノヂシャの八つ裂きにされた心は、さらに踏み躙られた。
悲嘆に暮れながら、ノヂシャの意識は途絶えがちになる。魂が絶望に固定される。もう、ここから動けない。残った涙の最後の雫が頬を伝いおちる。その瞬間、美しい声ががらんどうの心に響き渡った。
『んか……殿下……ノヂシャ様!』
突然、闇が弾けた。光が飛び散った。固く閉じた瞼が白く焼ける。光の渦がノヂシャを飲み込んでゆく。