幸せ
銀の輝線が縦横に輪を描き、複雑な輪郭を形成する。空駆ける銀の星は糸状に解け、互いに絡まり、結束し、目まぐるしくその姿を変える。睥睨する猛禽、猛々しい獅子、夢幻の怪物……そのいずれも、鋭利な鉤爪を備えており、ノヂシャに狙いを定めていた。
蒼褪めた空を背負う銀色の流動体は、流れ星のように空を駆けながら、絶え間なく変容を続ける。滑らかな表面が微風にさざめく水面のように揺らめき、日の光を跳ね返して煌めく。
神々しい程に美々しい銀色の星を、ノヂシャは仰ぎ見た。そうすることしか、出来なかった。銀色の星が放つ殺気が幾千の矢のように、ノヂシャの一身に向けられている。深く強く縫い止められて、身動きがとれなかった。
ノヂシャに倣い、空を振り仰いだルナトリアが大きく息を呑む。驚愕に双眸を瞠り、蒼褪めた頬には恐慌の兆しがあった。誓いの指輪を嵌められたノヂシャの左手を握る繊手に、力が込もる。
ルナトリアはノヂシャを頼りにしている。意識した途端に、ノヂシャの頭の中で白く弾ける想いがあった。心に深く根ざした、愛執も切願も、何もかもを塗りつぶすのは、ルナトリアを守りたいという、強い思いだった。
本能的にノヂシャは動いた。突き飛ばすことで、ルナトリアを窮地より逃がした。
地に伏したルナトリアが、驚き、狼狽して、ノヂシャを見上げる。優しい瞳が、ノヂシャの為に焦燥と恐怖に黒く塗りこめられる。それを瞥見し、ノヂシャは漫然とした頭の隅で考えた。ルナトリアは、死にたかったのかもしれない。だとしたら、ノヂシャはルナトリアを逃がす為ではなく、自らが逃げる為の努力をするべきだったのだ。
(こんな処で、死にたくない)
迫りくる銀色の星は、死神が命を刈り取らんとして振りかぶる大鎌だ。その軌道上にノヂシャの命がある。ノヂシャは、本能的に察した。もう間に合わない。死ぬしかない。ノヂシャは自嘲した。
(俺は、死にたくない。本当は、死にたくなんかない。俺は、生きなきゃいけないんだ。ヨハンと約束した……でも、ニーダーに捨てられたらもう、どうしようもないから……せめて、ニーダーに殺して欲しかったのに……それすら、叶わないのか)
美しくも寂しい雲ひとつない青空を、美しくも冷酷な銀色の星が駆け降りる。その殺意が諦念と無念に締め上げられるノヂシャの心を刺し貫く。
目の前に広がる美しい光景と、差し向けられた冷たい感情が、長年をかけてノヂシャの心に堆積した、報われない思慕という埋火を燃え上がらせる。
ノヂシャはニーダーの名を呼んだ。けれど、唇からはか細い喘鳴が漏れただけだった。
胸を突くあまりの衝撃に、手足が根本から外れ落ちたような錯覚に陥った。体中を血に飢えた獣に舐めまわされるような、不快なぬめりに覆われる。仰臥した総身が痺れて動かず、凍えるように冷たい。ルナトリアが絶叫している。
しかし、そんなことは、たいした問題ではないような気がした。
意識が混濁する。誰かに手を引かれるように、魂が体からはがれてゆく。そのすらりとした手の先に、懐かしい笑顔があると信じて、ノヂシャは形骸より飛び立った。
***
真っ白だ。まるできれいな雪の中のいるかのような、見渡す限り、白銀の世界。けれど、胸が締め付けられるような寒さも、手足がかじかむ冷たさも、感じない。
ニーダーの秘密の友達でいられた、幸福な子どもの頃を思い出す。ニーダーを慕う心を躍らせて、新雪の中を駆け抜けた。胸をときめかせた子供の体は、火を含んだかのように熱を帯びて、寒さを一切、寄せ付けなかった。
ノヂシャは夢遊病者のような足取りで歩きだした。瞼は伏せている。真っ白な世界では、目を開けていようと閉じていようと、同じことだ。
目指したのは、本と絵と、インクと絵具が散らかった、夢のように、暖かな場所。「よく来てくれた」と、笑顔のニーダーが迎えてくれる、奇跡のように、優しい場所。ノヂシャは手探りで探していた。彼にとっての天国へ続く、シーツを結びつけた白いロープは何処に垂れているのか。
「ニーダー、ニーダー、ニーダー」
最愛のひとの名を疾呼する。心細い、迷子のようだ。ニーダーを求める腕は虚しく宙を掻いた。駆けだそうとすると足が縺れて、ノヂシャはその場にへたりこんでしまう。
ここは何処なのだろう。ニーダーがいない。即ち、地獄だろうか。耐え難い恐怖の鉤爪がノヂシャの心に食い込み、魂を握りつぶしてしまう。
(もう二度と、ニーダーに会えなかったら……どうしよう)
『ノヂシャ……ノヂシャ? しっかりしないか、ノヂシャ』
控えめに肩を揺すられる。柔らかな声調が、ノヂシャの心に羽で触れるように、語りかけてくる。
ノヂシャは緩慢に、瞼を持ち上げた。ノヂシャの顔を覗きこんでいたのは、ニーダーだった。
現在のニーダーより幾分か丸みを帯びた輪郭。瞳に鋭く凍える険はなく、憂いを孕み揺れている。子供の頃、大きく立派だと思っていた彼の手は、今のノヂシャよりほっそりしている。
ニーダーが眉を顰める。不躾に眺めまわすノヂシャの視線を咎める為ではなく、憂いの為。子供の頃のノヂシャに接したのとまったく同じように、ニーダーはノヂシャの頭を撫でた。
『ぼうっとしているね。大丈夫かい?』
ノヂシャは応えられない。唇が無為にはくはくと開いたり閉じたりを繰り返すだけだ。ニーダーは小首を傾げると、ノヂシャの前髪を掻き上げた。鷲掴むのではなく、そっと、少しの痛みを与えることもなく。そうして、露わになったノヂシャの額に、ニーダーは自らの額を押しあてた。
ノヂシャは驚愕した。心臓は高く跳ね、ぴたりと鼓動を止めただろう。呼吸もとまった。ニーダーの匂いだ。絵具と油と、インクと古紙の匂い。懐かしくて、なんだか無性に泣きたくなる。唇に、ニーダーの吐息を感じた。肌が泡立つ。不快ではなくて、寧ろ……。
へどもどするノヂシャに、ニーダーは気がつかない。思考に沈むと、なかなか浮上してこないのだ。ニーダーはうーん、と唸った。
『熱はない……けれど、本調子でもなさそうだ』
ニーダーはすっと身を引くと、戸惑い顔で、ノヂシャの背後に視線を巡らせる。林立する本棚に目を向けていた。蔵書に答えを求めているのだろう。ニーダーらしいと、ノヂシャは思った。ニーダーは困ったことがあれば、本の知識に頼るのだ。他に頼れる物が、ニーダーにはないから。
ノヂシャはいつの間にか、ニーダーの部屋にいた。温もりの灯が消えた、寂しい部屋ではない。ニーダーとノヂシャが優しい時間を共に過ごした、懐かしい部屋だ。もう二度と、戻らない筈なのに、何故。
ノヂシャが落ち着かず、きょろきょろしている間も、ニーダーは思索にふけっていた。小さくひとりごちると、軽やかに立ち上がる。足は本棚に向いていた。
ニーダーが遠ざかって行ってしまう。そう思ったら、じっとしていられなかった。ノヂシャは跳ねあがるように腰を上げた。ニーダーの腕を掴んで、引きとめていた。
「……心配、してくれるの?」
疑問がひとりでに、口をついて飛び出した。ニーダーが振りかえる。丸く見開いた瞳は、青空の覗き窓だ。手が届かないくらい高い位置にあった綺麗な瞳を、ノヂシャはほんの少しだけ、高い位置から見下ろしていた。そのことに、ひどく狼狽した。
火に触れてしまったかのように、手を引っ込める。崩れ落ちるように、再び寝台に腰を降ろす。心臓が早鐘をうっていた。
ニーダーはノヂシャを凝視している。そこに悪い感情は汲み取れず、さしあたって、ほっと胸を撫で下ろす。わざとニーダーの怒りを買うことで、ニーダーに触れて貰うきっかけを作るのがノヂシャの定石だけれど、昔のように穏やかで、優しいニーダーを怒らせることは、なんだかとても恐ろしく思われた。
ニーダーはノヂシャをしげしげと見つめている。そして、ノヂシャの足元に跪いた。ノヂシャは驚いた。ノヂシャがびくりと肩を跳ねあげると、ニーダーが困り顔で固まる。
ニーダーの態度によって、思い出した。昔はこれが当然だった。ニーダーは何の気負いも躊躇いもなく、俯くノヂシャの顔を覗きこみ、微笑みかける為に膝を折った。ニーダーは、そんなひとだった。
ノヂシャが落ち着いた頃合いを見計らっていたのだろう、ニーダーは不自然な隙間を埋めるように、殊更優しく微笑んだ。
『心配だよ。とても。君に万一のことがあったら……皆が、悲しむ』
ニーダーは噛んで含めるように言った。ひたすら優しい言葉に含まれる小さな違和感が棘になって、ノヂシャの心に引っ掛かる。小さな小さな痛みだけれど、ニーダーに……優しいニーダーに与えられるものだから……鮮やかに鋭く痛んだ。
ノヂシャが沈黙すると、ニーダーは小首を傾げた。微妙に視線を逸らすのは、不安を気取られまいとする、ニーダーの癖だと、こどもの頃ははっきりとは分からなかった。おぼろげには、察していたかもしれない。ニーダーは、幼い子供の気を反らそうとする年長者らしい、宥めるような、いらうような調子で言った。
『ニーダーは? って聞かなくて良いのか?』
ノヂシャはまんじりとニーダーを見つめた。悪戯っぽい微笑みをたむけられると、本当の本当に、昔に戻ったような心地がする。胸がむずむずして、掻き毟りたくなる。そのくすぐったい気持ちの名前を、思い出すのに苦労した……幸せ、と言うのだ。
ニーダーの熱い手が、ノヂシャの頬を両手で挟む。優しく目を細めて、にっこり微笑んだ。
『悲しいに決まっているだろう? 僕も、元気いっぱいで、笑顔が眩しいノヂシャが好きだよ。だから、ほら! 笑って?』
ニーダーの手が、ノヂシャの頬をこねあげ、軽くつまみ、口角を待ち上げて笑顔をつくる。ニーダーがノヂシャに触れている。ノヂシャに微笑みかけている。ノヂシャのことを、好きだと言ってくれる。
(これは、思い出と願望が混ざりあった、ふざけた妄想だろう……それで、良い)
ノヂシャの心に、淀んでいたものが渦を巻き、怒涛の勢いで流れて行った。
ノヂシャはニーダーを掻き抱いた。驚き、硬直する痩せた体を腕の中に閉じ込めて、薄い肩に鼻先を擦りつける。
よろめく体にしがみつく。そうしなければ、心と体がばらばらになりそうだった。ノヂシャは咽び泣いた。涙がとまらない。とても幸せだった。ニーダーの耳元で、ノヂシャは涙に濡れた想いを告げた。
「小さい頃、あんたは俺に優しくて、俺はあんたのことが大好きだった。毎日、あんたに会いたくて……あんたが待っていてくれて、迎え入れてくれることが嬉しくて……全部、嘘だったけど……滅茶苦茶に、心を傷つけられたけど……それでも……優しかったニーダーのことが、忘れられなくて……」
拷問部屋で繰り広げられた、恐怖と苦痛と絶望の記憶が、幸福な涙に押し流され、汚穢の渦にまかれていく。かつてニーダーが吐き捨てた憎悪の言葉が、恐ろしい断末魔のように反響する。
『謹んで受け取りたまえ。敗者の烙印こそ、お前には似合いだ』
『よく耐えた。称賛に値する……ただし、いくら耐えたところで、苦しみが長引くだけだぞ』
『私は残酷でね。賛美の歌姫が、どのような音色で絶望を奏でるのか、興味が尽きない。ほらノヂシャ、耳を澄ませてご覧。聞こえるだろう……聞くんだ。母上をさしおいて、お前の母親面をする、厚かましい女の悲鳴を聞け』
『無様に生き永らえたものだな。……目を逸らすな。しかとその目に焼き付けるが良い。この痴れた這い虫こそ……お前が父のように慕った男のなれの果てだ』
憎悪に満ちた呪いの言葉は、長く尾を引いた。耳を塞ぐ変わりに、強ばるニーダーの体を強く抱きしめた。右肩に手を伸ばし、爪を立てる。ニーダーの眉間によった皺から苦悶を、揺れる瞳から後悔を、ノヂシャは読みとった。それでもニーダーの腕はだらりと力なく垂れたまま、ノヂシャを拒絶することはない。
受け入れられた。ノヂシャは歓喜に震える。ご都合主義の妄想は、ひたすら、優しい。
「あんたは、物凄く惨かった。マリアもヨハンも、可哀そうだ。堪らなく憎らしかった、あんたのことが……」
ノヂシャは強く頭を振った。振り払ってしまいたかった。悲しみも、憎しみも要らない。こうして、ニーダーを抱きしめていられるのだから。ニーダーの右肩を優しく慰撫して、ノヂシャは陶然と言葉を紡いだ。
「それでも……おかしいんだ。あんたの嘘が、俺を放してくれない。あんたが見せた夢は、優しくて、幸せで……俺は深い眠りに溺れたまま……目覚められない。現実は手ひどく、夢を裏切るのに、俺は……」
熱く突き上げる衝動のように、涙を堪えきれない。ノヂシャは嗚咽を漏らした。ニーダーの右肩にノヂシャの涙が滴り落ち、染みこむ。ノヂシャの熱がニーダーの心臓に届く。ニーダーの体が少し震えて、ノヂシャは堪らなくなった。雪解けのように、心を満たしていた想いが溢れだす。
「どんなに嫌われても、どんなに疎まれても……消えて無くなれば良いと願われても……俺は、嫌いになんて、なれなかった。あんたの嘘を紡いで作り上げた夢の世界が、俺の居場所なんだ。本当の答えなんか、要らない。嘘で構わない。あんたの正体が悪魔でも、最悪の化物でも、あんたは……」
(あんたでなきゃ、満たせない)
(俺を閉じ込めて。縛り付けて。踏みにじって。滅茶苦茶にして。どんなに酷くされても、我慢するから……あんたの為に、耐えられるから! だからどうか、お願いだから……あんたの傍にいさせて)
(ニーダー、愛している)
「あんたは、俺の……奇跡の天使だから……!」
初めて言葉を交わした日。ニーダーが語り聞かせてくれた物語は、ノヂシャの心に深く刻まれていた。神様の至宝をその身に宿した、奇跡の天使。幸福の化身。それは、ノヂシャにとってニーダーだった。だから、ノヂシャは大獅子だ。奇跡の天使の為につくられ、奇跡の天使を誰よりも愛した大獅子が、ノヂシャだった。
この想いが、呪いでも、仕組まれた作り物でも、関係ない。心に萌したこの愛情を、心を埋め尽くす程に大きく育てたのは、他の誰でもない、ノヂシャ自身なのだ。だからこの愛は、ノヂシャのもの。ノヂシャだけのものだ。
ノヂシャはニーダーを抱きしめる腕の力を緩めない。もう二度と、失くすことがないように。
ニーダーの手が、そろりと動いた、ノヂシャの目が鋭い険を佩びる。この期に及んでノヂシャを拒絶されるなんて、耐えられない。ニーダーをこの腕の外へ逃がしたくない。この腕の中に、最愛のひとを留めておけるのなら。愛してやまない美しい人の、長い手足を切り落とすことも厭わない覚悟がある。
幸福なことに、それは杞憂だった。ニーダーの腕はノヂシャの背に回ったのだ。
抱擁、と呼ぶにはあまりに頼りないものだったかもしれない。ノヂシャには過ぎた幸福だった。
(優しい、ニーダーが優しい。俺に、優しくしてくれる……! 嬉しい、すごく嬉しい。夢でも、幻でも……嘘でも……幸せだ!)
ノヂシャはあまりにも飢え過ぎていた。だから、ニーダーがノヂシャの愛に報いてくれずとも、愛を受け容れてくれずとも、拒絶しなかった。唯それだけで、ノヂシャには十分だった。欲張りになれる程に、持てるものがノヂシャには無い。
「ニーダー。小さい頃、あんたの部屋で、二人一緒に絵を描いて……約束したこと、覚えてる? ……海を見に行こうって、約束しただろ。行こう。二人、一緒に。俺は、王様にはなれなかったけど、今の俺には、誇れるものは何もないけど……あんたを海に連れて行きたい。あんたを喜ばせたい。あんたを笑顔にしたい。あんたを愛しているから、俺があんたを……幸せにしたい。もし、俺にそれが出来たなら……ねぇ、ニーダー。また、俺に優しくしてくれる? 俺のこと、好きになってくれる……?」
ニーダーを愛していた。報われず、それどころか、憎まれ蔑まれるばかりでも、ノヂシャはニーダーを愛し続けて来た。ニーダーのすぐ傍で、彼を想い続けること。ニーダーの激情をその身に刻みつけ、憎悪に縛り付けられ、また、縛り付けることが出来れば、満足だと自分に言い聞かせて来た。
けれど、そんなものでは足りない。例え嘘だとしても、ノヂシャは知ってしまっているのだ。ニーダーの優しさを。そうして得られる幸せを。だから、諦めきれなかった。本当は、ずっとずっと、願っていたのだ。
(ニーダー。優しくして。俺のこと、好きになって)