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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十四話『婚姻』
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神に誓う

 

 呼吸に合わせて、ルナトリアの薄い腹部が波打つ。ノヂシャが頬で感じていたその微かな動きが、ぴたりと止まる。訝しく思い見上げた先には、ルナトリアの玲瓏れいろうな美貌がある。僅かに潜められた柳眉の下、変わることのない暖かな慈悲を湛える榛色の瞳に、くっきりとした翳りが見てとれた。


(しまった。失言、だったか?)


 ルナトリアの心中を慮り、しかし想像力が及ばなくて、気遅れをしてしまう。ノヂシャはひとと親密に接することに慣れていないのだ。ずっと唯一人、そうすることを渇望してきた相手は、ノヂシャを頑として寄せ付けなかった。


 逡巡の為、微妙な空白の間が生じる。繕いきれない。ルナトリアの笑顔は空洞になる。

 誤魔化さなければいけない。そんな焦燥に駆られたが、何を如何するべきかわからない。そもそも、さっきの発言の、どの部分を訂正するべきなのだ。それがわからなければ、手をこまねく他にない。


 否、ルナトリアを思考停止に追い込んだのは、ノヂシャが発した言葉の根本……ルナトリアの幸せを願うノヂシャの想いそのもの、なのだろう。ルナトリアが深くニーダーを愛していると知りながら、彼の許を去り幸せになれと、ノヂシャは言った。ルナトリアが困惑して、悲しむのも無理はない。


 ノヂシャは悩んだ。なんと言って、誤魔化そう。或いは、言い包めよう。発言を撤回するという、最も安易な選択肢はない。ノヂシャがそれを望まないからだ。

 ルナトリアの幸福を願うその想いは複雑で、ノヂシャ本人にすら不可解だ。彼の知り得る、如何なる感情にも当て嵌められない。


 ひたむきにニーダーを慕うルナトリアを好ましく思う。どれほどの辛酸をなめようと、一途な想いを失わないルナトリアを不憫に思う。


 ルナトリアのいじらしさは、不動と思われたノヂシャの心をも動かした。しかし、ノヂシャの心はニーダーへの愛を下地に成り立つもの。ルナトリアへの好意が芽生えても、その根本にあるのは、ニーダーへの愛でしかない。


 本当は、ずっと前からわかっていた。ルナトリアが幸福になるには、ニーダーへの想いに終止符をうつしかない。ルナトリアの恋は死に至る病で、彼女の心を体を、人生を蝕む。ルナトリアの幸福を願う気持ちが本物なら、どんな手をつかってでも、ルナトリアをニーダーから遠ざけるべきだった。


 それなのにノヂシャは、ルナトリアが足を踏み外す瞬間を傍観していた。止められたのに、止めなかった。


 だから、ルナトリアの心を殺したのは、ルナトリアの理想を裏切り、蹂躙したニーダーではない。ルナトリアの希望を悪意で粉砕したラプンツェルでもない。ニーダーに顧みられない孤独と絶望……そんな益体の無い感傷を慰める為に、ルナトリアを利用したノヂシャだ。掴んだ手に縋りつき、放せなかったノヂシャなのだ。


 優しく親身に、気兼ねなく接してくれるルナトリアに対して、この仕打ちはあんまりだ。惨すぎる。ルナトリアは、その他大勢のどうでも良い人間ではない。ヨハンやマリアがそうであったように、ノヂシャの特別なひとだ。それなのに、ここに至るまでルナトリアの手を放さず、ずるずると引き摺ってきた。


(ルナトリアが一緒に居てくれて、俺は……嬉しいとか、楽しいとか……そんなような気持ちを、思い出せた気がする。俺はニーダーへの意趣返しに、ルナトリアを巻き込んだのに……ルナトリアは優しくて、俺に素敵なものを与えてくれるばかりで……俺は最後までルナトリアを振り回している。俺は……最低だ)


 滅多にないことだが、一度、悔悟の念に捕らわれてしまうと、ノヂシャは何処までも深く、ずぶずぶと沈んでゆく。暗闇に呑まれかけたノヂシャの意識を掬いあげたのは、ルナトリアの白くほっそりとした手だった。ノヂシャの頬を挟み、俯く顔を上げさせる。ルナトリアは、ノヂシャの頬に冷えた頬を擦り寄せてくる。


「殿下は、ルナと離れ離れになってしまっても、良いのですか?」

「……寂しくなる」

「それだけ?」

「君の後ろ姿を見送って、泣くかもしれない」

「当たり前です。ルナだって泣いてしまいます。それで?」


 ノヂシャはとうとう、答えに窮した。ルナトリアに嘘を吐きたくなかったけれど、ルナトリアを傷つけない真実など何処にもない。ノヂシャは項垂れた。意図せず、ルナトリアの親密な接触を避ける容になってしまい、ルナトリアはショックを受けたようだ。

 しばらくの間、呆けたように立ち尽くしていたルナトリアだったが、やがて、ノヂシャの膝先でへたりこんでしまった。


 気詰まりな沈黙が二人を包む。吹き抜ける風は、身を切るように冷たい。ノヂシャはまるで、身動きの出来ない立ち木にでもなったかのような、無力さと孤立感で胸を締め上げられた。悪寒がはしり、体ががくがくと震える。


 突然、ルナトリアが跳ね上がった。飛びつくように、ノヂシャに抱きつく。突き崩そうとするかのような勢いに、ノヂシャは尻もちをついた。ルナトリアはノヂシャの背を掻き毟るように抱いて、大声で叫んだ。


「いや! いやです、ルナは何処にも行きません。ずっと殿下のお傍にいるの、ずっと、ずーっと!」


 言葉を失うノヂシャを責めるように、ルナトリアはぽかぽかとノヂシャの背を叩いた。はじめから、たいした力が込められていなかった拳は力なく解け、細い五指はノヂシャの背を滑り、俯くルナトリアの顔を覆った。罪悪感は無数の鋭い針のように、ノヂシャの感覚を鈍らせる分厚い膜さえ突き破り、心を突き刺す。


「今は、傍にいるだろ」


 空隙を埋める為だけに口をついて出たのは不実な言葉だった。

 ルナトリアが顔を上げる。瞳は乾いている。ほっと撫でおろしたノヂシャの胸に、ルナトリアは無言で体を寄せた。


 先ほどとは打って変わって、遠慮がちに慎ましく、ノヂシャの胸に体を預けている。甘ったれた様子はない。閉じた瞼は震え、眉は切な気に潜められている。

 ルナトリアはぽつりと言った。


「あなたと一緒が良いの。あなたの優しさが、唯一つの、心の拠り所なの」


 ルナトリアの語調は思いがけず大人びていて、ノヂシャは目を瞠る。


(まさか、ルナトリア……あなたは……そんな、やっと逃げ切れた筈だったのに)


 ノヂシャは唇を開いた。だが、ノヂシャが発語するより、ルナトリアの動きの方が素早かった。ルナトリアはノヂシャの胸ポケットをまさぐり、中身を取り出して……頬を寄せたときに違和感があったのだろう……ノヂシャの鼻先に突きつけた。


「あら、これは……まぁ、可愛らしいお花! 殿下がお花を摘んでいらっしゃるなんて、お珍しいこと」


 にこにこと微笑むルナトリアの指には、野ヂシャの花が摘ままれている。ルナトリアが右手の人差し指と親指の間でくるくると茎を回すと、浅葱色の小さな花が首を振る。うふふ、とルナトリアは喜んでいる。幼い少女そのものの無邪気な仕草は、ノヂシャの心に萌した疑念を、直截的な言葉にして問いかけることを許さない。


 だからノヂシャの物言いは、奥歯に衣着せるようなものになった。


「……珍しいか?」


 そこらに生える草木など、どれも同じように見えて、ノヂシャには殆ど区別がつかない。けれど、ニーダーは違う。植物学に精通し、花言葉まで嗜むニーダーのことだ。綺麗に咲いた花を摘んでルナトリアに贈るくらい、儘あることに思われる。実際、<あの女>やラプンツェルの為に、手ずから花束を用意していた。


(ルナトリアは知っていた。ニーダーが不器用な、危なっかしい手つきで、一本一本、薔薇の棘を抜いているのを、遠くから見守っていた。ラプンツェルの為に……どんな気持ちだった? どんなに、辛かった……?)


 ノヂシャは胸の中で沈鬱に呟く。けれど、目の前ではルナトリアが満面の笑みを浮かべてこっくりと頷いたので、ノヂシャはそれ以上、考えることをやめた。


 ルナトリアの安らかな微笑みは、夢や希望や幸せ、そんな素敵なものばかり、はちきれんばかりに詰められた宝箱だ。大切に守られるべきだ。絶対に、傷つけてはいけない。ルナトリアが笑っていられるようにするのだ。せめて、今この瞬間だけでも。出来る限りのことをしたかった。


 ノヂシャはルナトリアの手のなかで、小さな踊り子のようにくるくる回る野ヂシャの花をちょんとつついた。出来る限り朗らかに、ルナトリアに向かって微笑みかける。笑顔には笑顔を返す。それが習い性となっているルナトリアだが、ノヂシャと野ヂシャの花を見比べる顔に笑顔はない。かといって、憂いの気配もない。首を捻って考えて、ノヂシャにはピンと来た。知らない単語だらけの難しい本を読めと言われた少女は、こんな表情をするかもしれない。ルナトリアも、何らかの閃きを得たようだ。満面に笑顔を咲かせてノヂシャの手をとると、ノヂシャを手招く。求められる儘に腰を屈めて顔を近づけると、ルナトリアは野ヂシャの花を、ノヂシャの右耳の上あたりに当てた。


 ノヂシャは面食らう。成人を迎えた男の髪に花を飾る理由はわからない。ルナトリアの悪戯だろうか。しかし、悪戯にしては、ルナトリアの笑顔は眩しく、無邪気で善意に溢れている。


「素敵! 思った通り、殿下にぴったり、お似合いですわ。このお花は、殿下のお花です。ねぇ、殿下。このお花、わたくしに下さらない?」


 ルナトリアは可愛らしい上目遣いでノヂシャに強請る。ノヂシャは詰めていた息を、ゆっくりと吐きだした。


「良いけど……そんなので良いのか? たいして綺麗な花じゃないぜ。温室に、もっと綺麗な花がいくらでも咲いて……」

「このお花が良いのです! 野ヂシャのお花は、殿下のお花ですもの」


 ルナトリアは野ヂシャの花にキスを落とすと、鈴を振るような声で笑った。ちょこんと地面に座りなおし、いそいそと指輪作りに取りかかる。


 ノヂシャは、ルナトリアの隣に腰を落ち着ける。足を前に投げ出して手を腰の後ろについた。ルナトリアは作業に没頭している。美しい青空を見上げながら、ノヂシャは跳ねまわる心臓が鎮まるのを待った。


 ルナトリアは、野ヂシャの花を知っていた。それで、野ヂシャの花を「殿下のお花」だと断言した。ルナトリアが、ノヂシャの耳元に野ヂシャの花を飾り「殿下にぴったりお似合い」だと微笑んだとき、ノヂシャの胸の内側で、大きな鳥が羽ばたいたようだった。


(ひょっとすると……ルナトリアは目の前にいる「殿下」が、ニーダーじゃない……ノヂシャだって、わかっているんじゃないか?)


 ノヂシャはさり気無く胸を抑え、ゆるく頭を振った。


(……違う。これは自意識過剰だな。ルナトリアの大好きな「殿下」と言えば、ニーダーを置いて他にはいねぇ。ルナトリアが好きなのは、泣く程に別れを惜しむのは、ニーダーだけだ。俺じゃない。ニーダーだ、ニーダーだけだ。ニーダーじゃなきゃ、ダメなんだ。そうだよ、ルナトリア。この花は、俺は、ニーダーのものなんだ)


 くん、と袖をひかれる。片膝を立て、腰を捻る上体の正面をルナトリアに向ける。得意そうに胸を張ったルナトリアの掌の上には、小さな環状に纏められた野ヂシャの花が載っていた。ルナトリアの手の中にあると、小さな浅葱色の花が、ちりばめられた宝石のように煌めいた。


「ご覧になって、殿下! 殿下のお花で指輪をつくりました。とても可愛いらしいでしょう?」


 ノヂシャは相槌を打った。ルナトリアはにっこりして頷く。期待に満ちた目でノヂシャを見つめている。ノヂシャは少し考えてから「上手に出来たな」とルナトリアを褒めて、頭を撫でてみた。ルナトリアは擽ったそうに笑う。嬉しそうだ。それでもまだ、他の何かを待っているようだ。


 何を如何して欲しいのか、わからないノヂシャに打つ手はない。かと言って「何を如何して欲しい?」と聞いたら、ルナトリアは無粋だと臍を曲げてしまうだろう。

 首を傾げるノヂシャをまんじりと見詰めていたルナトリアは、ついに苛立ち、掌をノヂシャの脇腹に押し付けた。ルナトリアの意図をはかりかねて戸惑うノヂシャを、ルナトリアはぴしゃりと叱りつけるように言う。


「指輪は、殿方が嵌めてくださるものだと決まっています!」

「へぇ……そうなんだ」


 ノヂシャの返事は素直で間が抜けていた。ルナトリアの眦が吊りあがりかけたので、ノヂシャは素早く小さな指輪を摘まみ上げる。


 指輪だの花だの、女性に贈り物をする作法が、ノヂシャには分からない。分からないが、ルナトリアがやれと言うならやろう。

 こんな他愛もない要求は「最後のお願い」にはなり得ないけれど。


 ルナトリアが左の手をすっと差し出してくる。ノヂシャはその手を壊れ物を扱うより慎重に受け取った。どの指に嵌めて欲しいと聞いたら、また機嫌を損ねるだろうか。とノヂシャが悶々と悩んでいると、ルナトリアが言った。


「ねぇ、殿下。ルナのこと、本当に好き?」

「もちろん」


 ノヂシャは反射的に応えた。心に問う迄もない。好きでもないひとの為にあれこれ心を悩ませる義務を己に課す必要性はないと、ノヂシャは考える。

 ルナトリアは、ノヂシャの瞳を食い入るように見詰めている。ルナトリアの優しい瞳に見つめられることは心地良い筈なのに、何故だか今は、居心地の悪さを覚える。榛色の瞳が暗く渦を巻いているようだ。


「殿下。なんでもしてくださるって、おっしゃったわね」


 ルナトリアはノヂシャの手に右手を添える。すると、ノヂシャの手をルナトリアの両手が挟む容になった。ルナトリアの、榛色の優しい瞳が覗かせる心の内は、霧の彼方に霞む影絵のように謎めいている。目を凝らせば凝らすほどに、真実は輪郭を失っていく。まるで、蛹が蝶になるように、ルナトリアは変容を始めている。好悪はわからなずとも、その変容は恐ろしく美しい。ノヂシャはごくりと喉を鳴らした。


(あなたは……夢から醒めたのか? 可哀そうなルナトリア。あなたの憂いがほんの少しでも晴れるのなら……俺は出来る限りのことを、してやろう)


 己の決意を後押しする為に、ノヂシャは力強く頷いた。心中してやることは出来ない。ニーダーと心中させてやるなど論外だ。それ以外の望みなら、なんだって叶えてやりたい。彼女の望みがたとえ終わりであったとしても、手を貸そう。ルナトリアには生きて、幸せになって欲しいが、それは悪魔でノヂシャの願望でしかない。ルナトリアにノヂシャの利己主義を押しつけることは出来ない。


 ルナトリアはノヂシャの手を握る手に力をこめた。夏、原色の空に君臨する太陽のように強い眼差しで真正面からノヂシャを捉え、ルナトリアは言った。


「それならば、今ここで誓ってください。この手を決して放しはしないと、誓って頂きたいの。幸福を求めてここを去れと言うのなら、どうぞこの手をとり、お連れください。この世界の果ての、その彼方まで!」


 ルナトリアの魂消るような絶叫が、雲ひとつない、がらんどうの蒼穹に響き渡った。美しくも虚ろな空の下、他から隔絶されたかのような静謐に包まれ、ノヂシャとルナトリアは見つめ合う。言葉はない。


 ノヂシャは返事に詰まっていた。


「世界の果ての、その彼方まで……あなたと、二人で」


 ようやく絞り出した掠れ声で、ルナトリアの言葉を反芻する。そしてノヂシャは目を閉じた。瞼の裏、頁を捲るように、ルナトリアがくれた温もりと優しさの記憶が蘇る。

 ルナトリアの優しさは、ノヂシャの心を慰めてくれた。母のように、姉のように、恋人のように、ノヂシャを慈しんでくれた。嬉しくて、楽しくて……それは幸せによく似ていた。


 似ていたのだ。

 ニーダーを一途に想い続ける頑なな心は、ノヂシャのそれと、よく似ていた。

 ノヂシャを思いやる優しさは、ニーダーが与えてくれた偽りのそれと、よく似ていた。


(似ていたから……似ているから……あなたが好きだ。俺はニーダーを愛しているから、あなたのことが大好きなんだ)


 ノヂシャの口角が不自然な程に吊りあがる。自嘲と憫笑の、両方の意味を併せ持つ歪んだ笑顔を目の当たりにして、ルナトリアの瞳が不安に揺らいだ。

 ノヂシャはルナトリアに握られた手をそっと引き抜いた。見開かれる瞳の悲壮な色から、目を逸らしてはいけないと思った。


 ノヂシャの手の内にあるのは、野ヂシャの花。花言葉は、約束を守る誠実さ。


 誓いを聞き届けるのが神ならば、欺くことに躊躇いはない。だが、この花……ニーダーとの優しい思い出と、天使のように無垢なルナトリアに嘘はつけない。


 ノヂシャはルナトリアの冷え切った左手をとり、野ヂシャの花の指輪を握らせる。そうして、手を放した。


「向日葵みたいに一途でひたむきにニーダーを想い続ける、君のことが大好きだ……だから……ごめん」


 低く掠れた、呻きにも似た呟きを、ノヂシャは漏らしていた。ルナトリアの深い色の瞳が光を失うのを、ちゃんと見届けるべきだと思ったけれど、それが出来る程に、ノヂシャは強くなかった。


 ノヂシャは奥歯を噛みしめた。自分で作り出した感情に苦しむことが理解出来ない。


「お前はひとを愛せない」とニーダーはしばしばノヂシャを詰った。とんだ言いがかりだと思っていた。


(こんなに深くあんたを愛しているのに、どうしてわからない。どうして俺を否定してばかりなんだ。俺は世界中の誰よりも、あんたを愛している。あんたみたいな悪魔を、恐ろしい怪物を、俺は愛しているんだ!)


 ところが、よくよく考えてみれば、ニーダーの言った通りだ。そう、ノヂシャは「ひと」を愛することが出来ないのだ。悪魔に魅入られたノヂシャには、善良な女性を愛して、幸せにすることなど出来やしない。


 ニーダーは悪魔だ。最悪の怪物だ。ノヂシャは呪われている。そうでなければ、誰が想うだろう。ルナトリアを突き放し、打ち捨ててまで、ニーダーの傍にいたいなんて。


(まともじゃない。どうしようもなく、狂っている)


 燦然と輝く憧憬と、焦がれる思慕はノヂシャだけのものだし、楽しかった過去もノヂシャだけのものだ。子供の頃に無邪気に甘えた温もりと優しさは、ノヂシャだけのものなのだ。ニーダーを愛している。例え、それが呪いだとしても。


 ひとりよがりな愛を守る為に、ルナトリアを守る幽かな夢を壊すことになっても、諦められない。犠牲にしてきた物くらい、わかっている。でも、もう後戻りは出来ない。


 頬に優しく触れられて、ノヂシャははっと我に返った。ルナトリアがノヂシャの頬を撫でている。ノヂシャは息をのんだ。ルナトリアの美しさが、際立っていた。


 残酷な過去に追わされた傷が癒えることはないが、冷酷な人々の悪意など、高貴な宝石を想わせる美貌に聊かの翳りも落とすことは出来ない。溢れだす優しさが、ルナトリアの眼差しを、微笑みをますます輝かせている。慈しむ微笑みも仕草も、とても優しい。優しすぎるから、泣きたくなる。悪魔に魅入られたノヂシャの心さえ、その優しい微笑みに揺り動かされそうになる。


「あなたは、本当に……お優しい方。ご自分を責めないで。あなたは何も悪くないのです。わたくしの幸せを願ってくださる、あなたのお気持ちは本当に嬉しい。わたくしも、あなたの幸せを願います……けれど、どんな幸福にも対価となる犠牲があるもの」


 ルナトリアはノヂシャを包み込むように抱擁した。柔らかく暖かな胸に抱かれ、甘い匂いに包まれる。感情が痺れたように動かない。涙は流れるが、悲しみはない。くらくらと酩酊したようだ。ルナトリアの優しさが、強い酒のようにノヂシャの正常な感覚を奪っている。それは安らぎだった。揺籠に揺られる赤子のようなまどろみがじわじわと染みいって来る。

 ルナトリアは、ノヂシャの耳元で囁き続ける。左手に触れられたことを、ノヂシャは気付かない。


「陛下は、斯様な世の理をよくご存じですから、手段の是非を問わず、心を凍らせて壊死させて……あの優しい方が、血も涙もない悪魔に成り果てる為に……どれだけの命を弄び、どれだけの血と涙が流されたことでしょうか」

「ルナトリア……?」


 疑問はルナトリアの唇に飲み込まれる。啄むような軽いキス。ルナトリアは微笑んで唇をはなすと、ノヂシャの左手を胸に抱いた。


「誓って頂けないのでしたら、わたくしに誓うことをお許しください。一言、許すと仰って。どうか……お願い」

「……許すよ、なんでも」


 ノヂシャは朦朧としながら言った。自分が何を口走っているのか、よくわからなかったが、ルナトリアが綺麗に微笑んだので、間違いは何もない、ような気がする。何もかも、ルナトリアに委ねてしまえば良い……と言うのは、おかしな考えだろうか?


 ルナトリアは、力無いノヂシャの左手を額に押し戴くと、神聖なる誓いの言葉を口にした。


「美しきブレンネンへ御加護を与え給うた神よ。罪深いことと知りながら、募る想いを止める術を知らない、わたくしは愚かな女に御座います。銀の涙を流し給う神の名の許に、このお方へ永遠とわの愛と献身を誓う身勝手を、どうかお許しください」


 頭をがつんと殴られたような衝撃で、ノヂシャは我に返った。「ルナトリア」と上ずった声で咎めるのと、左手の薬指に野ヂシャの花の指輪を嵌められるのは、ほぼ同時だった。


 ルナトリアはノヂシャの薬指に嵌めた指輪を眺めまわし、うっとりと微笑む。白い指先が、指輪をした薬指を愛撫する。その仕草は、愛おしくて堪らないと、雄弁に物語っている。赤ん坊を宿した母親が誇らしげに腹を撫でさする様に、何処となく似ている。今一度、ノヂシャはルナトリアの名を呼んだ。今度は、みっともなく引っ繰り返った声ではない。ルナトリアは慎ましく目を伏せている。けぶる様な長い睫の影で、榛色の瞳が光った。


「恥知らずな女だと、呆れられてしまうかもしれません。あなたに厭われるかと思うと、胸が張り裂けてしまいそう。それでも、どうしてもわたくしの想いをお伝えしたいの……これで、最期になるかもしれないでしょう? 殿下……いえ……」


 ノヂシャは愕然として、空を仰いだ。ルナトリアの言葉を、最後まで聞き届けることは叶わなかった。劈くような破裂音がして、澄み渡る青空を流れる銀色の星が弾けたのだ。飛び散った欠片が輝線となり迸る。その一滴が、こちらに向かって飛んでくる。


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