ノヂシャとルナトリア2
性交を匂わせる表現、流産に関する描写を含みます。ご注意願います。
壁をつたい降りる途中で落っこちて、ひっくり返ったノヂシャの体を、ルナトリアは心配していた。大丈夫、心配ないと宥めたけれど、ルナトリアは聞く耳を持たず
「大切なお体ですもの。お怪我がないか、きちんと診ておかなきゃいけません」
と言い張った。
ルナトリアに医術の心得は無い。激昂したニーダーの刃によってノヂシャは右の手首を切り落とされたが、その断面に包帯を巻くルナトリアの手つきは不慣れで、おぼつかないものだった。そうであっても、一生懸命に手当てを施してくれるルナトリアの健気な心遣いに、嫉妬に狂い、荒んだノヂシャの心は幾分か癒されたのだ。
幼い頃に遡行した今、ルナトリアがノヂシャに触れる手つきは、流産のショックによって正体を失くしていた頃よりも、さらにたどたどしい。ぺたぺたと、体中を触れられるのがくすぐったくって、じっとしていられない。ルナトリアの神妙な顔つきから察するに、大真面目に触診をしているつもりらしいが、これでは、擽られているのと変わらない。
ノヂシャが困っている隙に、ルナトリアは躊躇いなく、ノヂシャが着ているシャツの裾を引っ張り出した。ずぼりと冷たい手を差し入れて脇腹をなぞられて、ノヂシャはとうとう溜まらなくなる。身を捩りルナトリアの手から逃がれた。
「我慢しなきゃいけません!」
追いすがって来るルナトリアの肩を押し返しながら、ふと、思い返す。ルナトリアが正気を保っていた頃、ルナトリアに導かれる儘、肌を合せる最中にも、こんなことがあった。
『ノヂシャ様はくすぐったがりでいらっしゃるのね』
そう言って、ルナトリアはそれこそ、擽られたかのように、くすくすと笑った。控えめに肩を揺らす白い裸体は、暗い夜空にぽっかりと浮かぶ月のようだった。
青空の下、ニーダーを想うルナトリアは向日葵だけれど、夜の暗闇で、ノヂシャを求めるルナトリアは月だと、ノヂシャは思っていた。
ルナトリアは特別な女性なのだ。あの女と同じことをルナトリアに求められても、汗ばむ肌を、纏わりつく長い髪を、口付けと抱擁の情熱を、ノヂシャが汚らわしく感じたことは皆無だった。
ルナトリアは神々しいまでに美々しい、夜の女神だった。背伸びをして、腕をぴんと伸ばしても、手が届かない。ルナトリアはまさに、夜空から見下ろす月だった。
『大好きです、ノヂシャ様。あなたのことが、大好きなの。あなたはとても綺麗……お顔も、お体も、お心も。わたくしが、この薄汚れた手で触れても、少しも穢れに染まらないあなたの美しさを、とても貴いものと存じます……ほんの少し、寂しいけれど』
熱い吐息と甘やかな嬌声に潜ませた、ルナトリアの囁きを覚えている。俺も大好きだ、と応えると、ルナトリアは瞳に涙をいっぱい溜めて微笑み、あなたは綺麗だと応えると、礼を述べながら言葉に詰まり、さめざめと泣いた。結局、ノヂシャはルナトリアの正答に辿りつくことはなく、切なさに胸を焦がしながら、震える彼女を抱きしめることしか出来なかった。
以前のルナトリアの艶かしくも儚い姿態を追想すれば、目の前にいる幼いルナトリアが可愛くて、可哀そうで、切なくなる。仔猫のように抱き上げて、頬ずりしたくなる。
ノヂシャは、衝動のまま奇行を働く変わりに、腰を折った。ルナトリアと視線の高さを合わせ、噛んで含めるように言い聞かせる。
「怪我はないから。本当の本当、嘘じゃないから。だからもうダメ。勘弁して。擽られるのは、苦手だ」
ルナトリアは釈然としない面持ちで「でも」と食い下がった。
「殿下、本当に、大丈夫ですか? お怪我はないのですか? ルナの前だからって、格好をつけて、無理をしていらっしゃるのではありませんか?」
「俺はそんなに見栄っ張りじゃないぜ」
弧を描いた唇で軽やかに言葉を紡ぐ。ルナトリアの手前、格好をつけたがるニーダーを想像すると、おかしくって、少し笑った。
ルナトリアは不服そうな上目遣いで、じっとりと見上げてくる。でも、でも。と口の中でもごもご繰り返すルナトリアの頭を軽く押さえつけた。ルナトリアが、ひゃっと小さくおめく。じたばた足掻いてノヂシャの手の内から逃げ出して、ルナトリアはがばりと顔を上げた。ルナトリアの不満顔を、ノヂシャはにやりと意地悪な微笑みで迎えた。
「お陰さまで、この通りぴんぴんしてる。実を言うと、降りる途中で落ちたのは、わざとだった」
「……まぁ、殿下!」
ルナトリアは目を丸くして絶句している。ルナトリアが衝撃から立ち直るまで、ノヂシャはルナトリアの頭の上で手を弾ませていた。
ゆっくりと十を数える間を置いて、ルナトリアはノヂシャの左手をすげなく振り払う。ぷっくりと頬を膨らませて、そっぽを向いた。
幼い仕草が微笑ましかった。こう言う時は、笑うものだ。ルナトリアは、ノヂシャが戸惑い、おろおろしていると「微笑ましい」と言って笑っていたから。
ノヂシャが笑うと、ルナトリアはさらに頬を膨らませた。ノヂシャは払いのけられた左手の甲を唇に押し当て、笑いを抑える仕草をして見せる。
ルナトリアは不機嫌を露わにして鼻を鳴らした。ルナトリアは心優しく温厚で、たおやかに振る舞う大人の女性だったが、幼い頃は、素直で溌剌としたお転婆だったらしい。
ルナトリアはぷりぷり怒っているが、まだ、怒りが臨界点を突破した訳ではなさそうだ。その証拠に、ちらちらとノヂシャを盗み見てくる。視線で「はやくご機嫌をとってください」と催促してくる。
引き結んだ唇を割って漏れ出しそうな笑声を、咳払いで誤魔化す。不機嫌そうに唸って睨みつけてくるルナトリアの頬を人差し指でつくと、可憐な唇から間抜けな音をたてて空気が抜けた。ルナトリアの臍を曲げさせるとわかっていたけれど、ノヂシャは敢えて笑った。
ひとくさり、ふざけてじゃれ合うことに決めたのだ。
ルナトリアの気が済むまで、付き合ってやった方が良い。幼いルナトリアは、言い出したら聞かないのだ。大人のルナトリアも、控えめに見えて、頑固なところがあるようだった。根本的なところは、大人になっても変わらないものだ。
このままルナトリアを抱えて、護衛の兵士に押し付けたら、ルナトリアはごねるだろう。ルナトリアを放り出せないのであれば、時間をとられることは確定だ。それならば出来るだけ、早く解放されるよう、努めるしかない。
それに、これが最期になる。ノヂシャの心はニーダーのことでいっぱいだけれど、ルナトリアを名残惜しむ気持ちは、いくらか存在する。
月が纏う雲のように、薄く透き通るナイトドレスは、ルナトリアが元気に動き回ったため、着崩れている。大きく開いた襟元から、豊満な乳房が半ば零れそうだ。ノヂシャは淡々と、成熟した肢体を包む着衣の乱れを直しながら、軽口を叩いた。
「なぁ、ルナトリア。あんまり拗ねるなよ。君は本当に美人だし、膨れっ面も可愛いと俺は思うけどさ。頬袋いっぱいに詰め込んだ、食い意地張ったリスみたいで」
「ルナはリスさんじゃありません! ルナはルナです!」
ノヂシャの指に噛みつかんばかりの剣幕でルナトリアが言い返す。ノヂシャは動じず、ルナトリアの頬を摘まんで引っ張った。
「おっ、柔らかくて、よくのびる、のびる。これなら、いっぱい詰め込めそうだ。良かったな、ルナトリア。これなら、立派なリスになれるぜ」
「でーんーかー!」
ルナトリアが甲高く怒鳴った。もうかんかんだ。手を叩き落とされてもへらへらしているノヂシャを睨み上げ、地団駄を踏んで悔しがっている。流石に殴りかかっては来ないけれど、ナイトドレスの裾を翻して地団駄を踏む行儀の悪さは、公爵令嬢として如何なものか。幼さも免罪符にはならないのではないだろうか。
ノヂシャはちっとも気にならないし、寧ろ、他愛ない怒りん坊を可愛いと思うけれど。
「やめろ、やめろよ。そんなことしたら、地面がぐらぐら揺れるだろ」
茶化しながら、ノヂシャはけらけらと笑った。愉快で堪らないと、ルナトリアのはしばみ色の瞳には、そのように映るように意識して。ルナトリアに触れた指先が得た感触に、悲しみと憤りを感じていることを、悟らせてはならない。
ルナトリアの乳白色の素肌は、長年にわたり、白粉を執拗にはたき重ね続けたせいで、すっかり痛んでしまった。乾燥して粉をふき、頬などは特に、肌理が荒くなって、赤みがとれない。
これでも、青や黄の痣をまだらに浮かべていた頃に比べれば、随分と良くなったのだ。
ノヂシャは、ルナトリアの頬を包み込むように触れた。肌は荒んでいても、白くて、ふくっらとしていて、柔らかい頬。今はひんやりと冷たい。無意識のうちに、ノヂシャは眉根を寄せた。
ルナトリアは、暖かくて柔らかい雛鳥を両手で掬い上げるように、そっと慎重に、壊れないように大切に、扱われるべき女性だ。理不尽な怒りや憤懣には耐えられない。まして、暴力なんて以ての外だ。ルナトリアを傷つけることは、決して許されない。それなのに。
ガーダモン・ルン・ルース。卑怯で卑劣な男。ルナトリアを散々痛めつけたあの男は今頃、屍の像そのものの無残な姿で苦しんでいることだろう。ルナトリアを不幸に陥れた残酷な男だ。どす黒い魂は誰にも、何処にも、迎え入れられることはない。そうに決まっている。
猛毒によって、ガーダモン・ルン・ルースは瞬く間に死んだ。伝え聞いたところ、間抜け面を晒して死んだらしい。愚劣なあの男は、己が死んだことすら、理解出来なかったのかもしれない。
出来ることなら、少しずつ体を腐らせる恐ろしい毒薬で、じわじわと苦痛と恐怖を与えて、殺してやりたかった。だが、状況が許さなかった。事態は一刻を争っていた。ルナトリアを守る為には、悠長に、手段を選り好みしてはいられない。
ガーダモン・ルン・ルース。あの畜生にも劣る卑劣漢の裁きは、神の手に委ねるよう、ゴルマックは言った。ノヂシャは歯噛みした。口惜しい限りだった。
(神などいるものか。神がいるのなら、ルナトリアが受けた数々の仕打ちに、腹を立てるに決まっている。ルナトリアは救われなかった。それこそ神の不在の、何よりの証明だ)
「……殿下?」
はたと気がつくと、自らの頬を包むノヂシャの手に華奢な手を添えたルナトリアが、ノヂシャを見上げていた。むずがる赤ん坊のように暴れていたのに、いつの間にか、大人しくなっていた。幼くなっても変わらない、ノヂシャを思いやり心配する優しい心が、不安そうに潜められた眉と、潤んだ瞳から伝わって来る。
ノヂシャは軽く頭を振った。ゆっくりと瞬きをする。瞳に滲んだであろう、殺意を孕む剣呑な輝きを、瞼の裏になすりつけて、消してしまう。再び目を開いた時には、ルナトリアを見守る穏やかさだけを残していた。
親指で、ルナトリアの頬を擦る。熱を擦り込むように。手を頬から首筋に滑らせて、大きく開いた胸元の冷たさに眉を顰めた。
「こんなに冷えて、まるで雪うさぎみたいだぞ。何か、羽織るものがあれば良いんだけど」
生憎と、ノヂシャ自身も軽装だ。着古した白いシャツと、サスペンダーで吊った、黒いズボン。シャツを脱いでルナトリアに羽織らせてもノヂシャは一向に構わないが、たいして暖かくないだろうし、何より、ルナトリアを半裸の男と並んで歩かせるのは、気がひける。
それにきっと、ルナトリアが承知しないだろう。ノヂシャが風邪をひいてしまうと、きっと心配する。ルナトリアは優しいから。
腕を組み、思案に耽るノヂシャの腕を、ルナトリアがひいた。マリアと名付けた小鳥のように小首を傾げる。
「殿下、お寒いのですか?」
「いや、俺は」
寒くない。寒そうなのは、君だ。
そう続けようとした。さして、言い淀んだ訳ではない。けれどルナトリアはノヂシャが言い終えるのを待ちきれなかったようだ。ノヂシャが胸の前で組んでいた両腕を引っ張って腕組みを解かせると、満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ、こうしましょう!」
弾む声を上げると同時に、ルナトリアはくるりと身を翻す。本物の小鳥のように、軽やかに。そうしてノヂシャの懐に、ルナトリアの華奢な体が背から飛び込んできた。ノヂシャの胸に背を預け、首筋に頭を擦り寄せて、仔猫のように白い喉を鳴らして、甘えてくる。
柔らかい亜麻色の髪が首筋を撫でる感触が、くすぐったい。けれど身じろぎしてはいけないと思って、ノヂシャは我慢した。ルナトリアが首を逸らして、ノヂシャを見上げる。嬉しそうに頬を染めていた。
「寒ければ、こうして二人、ぴったりとくっついていれば良いのです。ほら、暖かいでしょう?」
もっとくっつきましょう。と誘うルナトリアに導かれるまま、彼女の腹部に手を回す。指先が触れた腹部は平らで、薄い。
空っぽの腹。二度と、命が宿ることはない。ノヂシャの掌がじんわりと熱を帯びる。ここに、ルナトリアとノヂシャの子どもがいた名残なんて、もう、欠片も残っていない。
子の親になることは、とても嬉しいことで、無上の喜びらしい。ニーダーは感動し、すっかり舞いあがっていた。
ノヂシャも一度は父親になった。しかし、嬉しさも喜びも、感動も、ノヂシャには分からず仕舞いだ。ノヂシャが、ルナトリアが己との子を身籠っていたと知った時、その子は既に流れてしまった後だった。
ノヂシャはルナトリアの腹部を撫でさすった。冷たい。氷のように冷たい。ルナトリアは無邪気に笑っている。何もかも、忘れてしまったから、笑えるのだ。忘れてしまわなければ、息も出来なかった。
ごめんなさい、をひたすら繰り返し泣きじゃくる。ようやく眠ったかと思えば、赤ちゃんを返してと叫んで跳ね起きる。狂乱して泣き喚き、わたくしのせい、わたくしが悪いの、と咽び泣いて、自傷行為にはしる。
ついに、ルナトリアはノヂシャに縋りつき、泣いて訴えた。
『一緒に死んでください。そうしたら、わたくしたち、あの子と三人の、家族になりましょう。寄り添い合って……幸せに暮らしましょう』
一緒に死ぬことなんて、出来なかった。ルナトリアのことは好きだし、可哀そうだと思う。だからと言って、ルナトリアの嘆きを終わらせる為に、ニーダーのことを諦める。そんなことが、ノヂシャに出来る訳がない。だから、如何することも出来なかった。
ノヂシャは心中を拒絶した。錯乱したルナトリアが襲いかかってくるのではと警戒した。ところが、ルナトリアは淡く微笑んで言ったのだ。
『羨ましい』
ルナトリアの羨望が、誰に向けられたものなのか、何に向けられたものなのか、ノヂシャにはわからなかった。ただ、無性に切なかった。
ノヂシャにとって、ニーダーが全てだ。ニーダーが齎すものでなければ、現実は灰色の色褪せ、手触りは鈍く、どこまでも虚ろなものに成り下がる。
ルナトリアがノヂシャの子を孕み、産んだとしても、ノヂシャの閉ざされた世界は、ニーダーだけのものだろう。そんなことは、分かり切っている。
それなのに、どうしたことか。ルナトリアが流産してしまったと知らされた瞬間から今に至るまで、ノヂシャは不可解な絶望に苛まれ続けている。
絶望しながら、不思議で仕方がなかった。何故、ルナトリアとノヂシャの子は死んでしまったのに、ニーダーとラプンツェルの子は、産まれてきたのだろう。何故、ルナトリアは母親になることが叶わないのに、ラプンツェルは母親になったのだろう。
ノヂシャはルナトリアの旋毛に鼻先を埋めた。ふわふわの柔らかい頭髪から、ツバキ油の良い香りがする。罪人の塔に身を置くことになっても、この女性は貴婦人なのだから、相応の待遇を用意するようにと、ニーダーが指示したのだろう。胸元、袖口、裾に刺繍とレースが惜しみなくあしらわれた、上等な仕立てのナイトドレスもまた、ニーダーの心遣いなのだろう。
ニーダーは今でも、ルナトリアを唯一無二の親友として、大切に想っている。大切に思うからこそ、ルナトリアと友情を結んだ隣国ヴァロワのオフィリア王女に、ルナトリアを託すことに決めたのだ。
(だけどな、ニーダー。あんたの、親友への思いやりってやつは……欺瞞だ。ルナトリアの為なんかじゃねぇだろう? 結局、あんたが大切にしているのは、ラプンツェルとその息子だけなのさ……クソ、忌々しいことに!)
ルナトリアを背から抱きしめて、大きく溜息を吐く。旋毛に息を吹きかけられて、ルナトリアがくすぐったがってじたばた足掻く。ノヂシャは、顔を合わせずに済むこの体制に感謝した。さっきと異なり、凶暴性を取り繕う時間が十分に確保出来る。
はしゃぐルナトリアの腹をあやすように軽く叩きながら、ノヂシャは己の意識を心の内側から引き剥がす為に、ルナトリアに話しかけた。
「さっきの……地震。すごく揺れたな」
「まぁ、殿下。知ったかぶりしちゃいけません。さっきのあれ、地震じゃありませんよ?」
ノヂシャの腕のなかでもそもそと身動ぎ、反転したルナトリアが、ノヂシャの胸にぴったりとくっついて、言った。ノヂシャはルナトリアの艶やかな長い髪をひと房手にとり、弄びながら、聞いた。
「じゃあ、なんだ? 火山の噴火? わかったぞ。ルナトリアが地団駄を踏んだせいだな。間違いない。さっきも、すげぇ揺れたし」
「なんですって!?」
「ほら、揺れた! 凄い揺れだ、こりゃあもう、立っていられねぇ!」
ルナトリアを腕に抱いたまま、大げさによろけてみる。強引なリードでダンスを踊るように、抱き上げたルナトリアを振り回す。ルナトリアは小さく悲鳴を上げると、ノヂシャにしがみついた。くるりと一回転して、ステップを刻む足を止めて、ルナトリアを地面に降ろしてやる。ルナトリアはノヂシャの胸に縋りついたまま、目をぱちくりさせていたけれど、やがて、鶏冠を立てて怒った。
「意地悪な殿下! ルナを怒らせるのは、そんなに面白いですか?」
「うん、とても。いや、かなり。違った、物凄く」
「……まぁ!」
地団駄を踏もうとして、ルナトリアは思いとどまった。腹立たしさが収まりきらず、真っ赤な顔でノヂシャを睨みつけて、戦慄く唇を開き、食いしばった歯の間から唸り声を上げた。
「殿下ってば、ルナのこと、からかってばっかり。嫌だわ。失礼しちゃう」
「俺がルナトリアをからかうのは、好きだからだろ。怒らせるとむくれる君が可愛いから、楽しい」
「にこにこしているルナは可愛くないのですか!?」
「まさか。ご機嫌な笑顔のルナトリアが、世界で一番可愛いぜ。おっと……世界で一番ってのは、流石に言い過ぎたか」
そう言って、ノヂシャはルナトリアの腰に回していた手をぱっとはなし、頭の後ろで組んだ。左足を軸にして、くるりと反転する。背を向けて、ルナトリアが食ってかかってくるのを待った。
ところが、待っていても、ルナトリアは飛びついてこない。不思議に思って、腰を捻って振り返る。と同時に失敗したことを悟った。ルナトリアは俯いてしまっていた。
ノヂシャはうろたえた。
「なーんてね」
ひょうげて、機嫌をとろうと試みても、ルナトリアは俯いたままだ。ノヂシャは痒くもないのにがしがしと頭を掻いた。ぽんぽんと繰り出した、軽口を手繰り寄せて、吟味してみる。何が悪かったのか、さっぱり分からないのが、情けない。
ノヂシャはルナトリアの前にしゃがみこんだ。俯いた顔を覗きこむ。泣いていないことに、とりあえずはほっとした。それから、何の表情もないことに、焦りのような感情を覚える。
「怒っても良いし、拗ねても良いけど……頼むから、落ち込まないでくれよ」
口をついて出た言葉は、殆ど懇願のようで、ノヂシャは驚いた。
ルナトリアには、いつも幸せでいて欲しい。いつだって、笑っていてほしい。何もしてあげられないけれど、ノヂシャはそう、願っている。
ルナトリアが、ノヂシャの頬を両手で挟む。ぐいっと上向かせられて、ノヂシャは初めて、自分が俯いていたことに気がついた。
ルナトリアはノヂシャの額に額を寄せて、囁くように言った。
「落ち込んでなんか、いません。わかっているもの。殿下の一番は、ルナじゃない。わかっているの。だから、いいの」




