ノヂシャとルナトリア
星が降って来た。空に架かる星が、滑り落ちて、地上へと真っ逆さまに降って来た。
流れ星は夜空を駆ける。けれど、流れ落ちた星の行方はようとして知れない。流れ落ちた星の行く末を、見届けた者はいるのだろうか? そんな話は聞いたことがない。
銀の炎を纏った星が、神の加護あつきブレンネンに堕ちる。そんなことは、前代未聞だ。
とある発想がノヂシャの、霧がかった夜のような、漫然とした頭の片隅に閃く。瞬く星のように。ニーダーの耳に入れば、彼の激しい怒りを買うこと請け合いの発想だ。
(銀の炎を纏った星は、光の矢だ。神がこの地に矢を放った。ブレンネンは神の怒りを買った……考えられる原因は、たった一つ)
ノヂシャの口角が吊りあがり、耳にひきつけられる。炯炯と光る瞳も、荒い息遣いも、濃密な血臭漂う暗闇の住人。夜走獣のそれだった。
ノヂシャは歯を剥いた。白い歯が、暗がりの中で、血に濡れたように、ぬらぬらと浮かび上がる。
(だから言っただろうが、ニーダー! あんたとラプンツェルの子供は、魔がさした子だ。生まれて来ない方が良かったのさ! 誰も、あんたの大切な息子を歓迎しない。あんたを愛してやまないこの俺も、憂国の臣下も……あんたに祝福を授けた銀の神さえも!)
大いなる意思が力強く、ノヂシャの背中を押していた。その先は断崖だ。身を躍らせれば、ノヂシャがこよなく愛する悪魔が、ノヂシャの体を八つ裂きにして、心を噛み砕く。
ノヂシャは哄笑していた。迷いも躊躇いも、最初から用意されていない。ノヂシャを後押しする神への信仰心も持ち合わせていない。
そんなことは関係ない、ノヂシャは昂った。ブレンネンを惜しみなく愛する神でさえ、ニーダーを見放したのだ。転げ回りたいくらい、頭をかち割りたいくらい、堪らなく愉快だった。
味方なんか要らない。ノヂシャにも、ニーダーにも。寄り添えないのなら、二人とも、凍りつく程に孤独であるべきなのだ。
ニーダーについて考えると、心が火のように熱くなる。凍りついた棘のように、巡る血が小さな痛みを体中に齎す。感覚を喪失した体の末端は、つくりものめいていた。
はっきりとした形を為した幸福、或いは辛苦。ノヂシャにとって、それがニーダーだった。ブレンネン王国の未来なんて、どうなっても構わない。神の放った矢が、ブレンネン王国を焼きつくすなら、それで良い。
(どうにでもなるが良い)
ノヂシャの預かり知るところではない。誰が泣こうと、苦しもうと、構わない。すじりもじり死んだところで、どうでもいい。
ニーダーと、彼に与えられるものだけを見つめて死ぬと決めたのだ。その他のことからは、体を捩って、無理をしてでも、遠ざかる。そうすれば良い。これまでだって、そうしてきた。
今回ばかりは、その選択が間違っているかもしれないと言う懸念がちらりと頭を過る。けれどもすぐに、迷いを打ち消した。
間違っているからどうした。もうこれきりなのだ。これで終わりにするのだ。間違っていたとしても、今更になって気がついたところで、どうしようもないことだ。
脇目も振らずに、ラプンツェルとその息子を探す。焼きつくされる前に、苦痛を与えて殺してやろう。そうすれば、望む結末を迎えることが出来る。
ノヂシャは空を仰いだ。ブレンネン王国をまるく包み込む空の、青い輝きを待ちわびる。
愛する妻子を喪えば、遺されたニーダーは、瞳に憎しみの青い炎を燃やし、ノヂシャを焼きつくすだろう。最期の瞬間に見詰める色は、その青になる。それこそ、ノヂシャの最も望むところだ。
ならば時間は限られている。すぐに行動を起こすべきだ。
だけどもう少し。あと少しだけ、空を見上げていたい。青空にさようならを告げる時間が欲しい。
これで、最後になるかもしれない。いや、最後になるだろう。最後にするのだ。
朝日が地平線から光を放ち、輝く空は夢幻の青さでブレンネンの地を照らし出す。
夜明けの空気は冷たく冴えていて、風が生きている。ノヂシャの髪を、顔を、腕を、心を撫でて行く。
「ああっ、殿下がいらっしゃったわ! よかった、殿下!」
窓の真下で、弾けるような高い声が上がった。見下ろした先に、純白のナイトドレスを身に纏った、妙齢の美女が立っていた。ノヂシャと目が合うと、優しいはしばみ色の双眸は細めて、頬を赤らめ、白い歯を見せて、屈託なく笑う。少女のように背に流した亜麻色の髪が、風と遊ぶように靡いた。大きく手を振る、淑やかさとは対極にある「はしたない」と非難される仕草は、幼い少女になら辛うじて許される……かもしれない。
ノヂシャは罪の無いいとけなさを、ただひたすら、微笑ましい、愛すべきものだと感じる。
不幸の底の、さらに底まで堕ちた、美しく哀れな彼女が、心から笑えた輝かしい頃に戻ることが出来たのだ。それは彼女――ルナトリアにとって、絶対に幸福なことで、ノヂシャが手放しで喜ぶべきことであった。
ノヂシャは窓枠に右肘をつき、ルナトリアに見えやすいように上体を傾げると、左手をひらひらと振り返す。ルナトリアは歓声をあげて、その場で飛び跳ねた。微笑みを絶やさず手を振りながら、ノヂシャは密かに溜息を吐く。
混乱に乗じて、ルナトリアは守られた部屋を抜け出したのだろう。身の危険など、露ほども考慮せずに。軽率にも程があると、小言の一つも言いたくなるが、今のルナトリアに、思慮深さを求めるのは酷な話だ。ノヂシャは莞爾と微笑んだ。
不幸な現実から逃れる為に、ルナトリアは幸福な過去を遡った。善良なルナトリアの、優しく、そして脆い心は壊れても尚、残酷な現実に耐えられなかった。
ニーダーは狂った愛に溺れてもなお、掛け替えのない友情への未練を振り切れないらしい。実の娘であるルナトリアを家の恥と見なし始末しようとした、冷酷なイレニエル公爵を宥めすかし、ルナトリアの身柄を手厚く保護している。その甲斐あって、ルナトリアが逃げ込んだ楽園の平穏は保たれているのだ。
そうであっても、ルナトリアが完璧に守られていると断言することは、残念ながら、出来ない。
ニーダーの手の内にある、下品で下劣な男どもの中には、美しい大人の女性の体と、無邪気な幼い少女の心を併せ持つルナトリアに、下卑た関心を寄せる者が少なからずいる。ニーダーの意思はルナトリアを守ろうとするが、猛狂う獣の欲を抑えられる程の求心力がニーダーにあるとは、考えにくい。
ルナトリアが宛がわれた部屋で大人しくしていれば、彼女を守護する役目を担う兵士がルナトリアを守るだろう。しかし、部屋を抜け出しふらふらしていたら、欲に目が眩んだ獣の浅知恵が、ルナトリアに牙を剥きかねない。
星が降って来たという混乱に加えて、このような懸念材料もあった最中、お伽噺の姫君のように愛らしいナイトドレス姿のルナトリアが無事にノヂシャの許に辿りついたのは、まさに僥倖だった。
ルナトリアによく言い聞かせ、彼女が置かれた、立場と状況を理解させることが出来れば良いのだが、幼い少女の旺盛な好奇心をおさえることの出来る魔法の呪文をノヂシャは知らない。ルナトリアを部屋に縛りつける為の脅し文句は色々と思い浮かぶけれど、ルナトリアはようやく、怯えることも悩むこともなくなれたのだ。彼女の凪いだ心にほんの些細な波紋すら、落としたくない。
ルナトリアの、幼子らしい、あけっぴろげな笑顔を見ていると、抱きしめて守りたくなる。せっかく取り戻したこの笑顔が、二度と失われることがないように、美しいものと楽しいことだけで囲い込んでやりたくなる。
(俺がぬかりなく、ルナトリアを守ってやれたら良い)
ひとつ頷いた直後、ノヂシャははたと気がついた。ルナトリアを守ることは出来ない。ノヂシャはもうすぐ死ぬのだから。
ルナトリアを守りたい、その気持ちに嘘はない。ノヂシャは何も出来ないけれど、ルナトリアが痛い雨にうたれて泣いているなら、彼女のかわりに濡れることくらいは出来る。ルナトリアの笑顔を守る為に、出来る限り、力を尽くしたいと思う。
ノヂシャが抱くルナトリアへの思いやりは、優しく穏やかで、だからこそ、ニーダーへの限りなく苛烈で激しい想いをふりきれはしない。ルナトリアを守りたいと思う以上に、ニーダーを愛している。ニーダーの許へ辿りつく為に、必要であれば、ルナトリアの亡躯を踏み台にすることすら辞さない。
ニーダーへの変わらぬ愛は、ノヂシャの背骨であり、揺るぎないものなのだ。
思いめぐらせつつ、ノヂシャは苦笑を零した。ノヂシャの心には、ニーダーを愛する情熱と、その他すべてを切り捨てる冷血さが同居している。均衡を保っていた。その筈だった。
喉元までせり上がった苦いものを、唾と一緒に飲み込む。ノヂシャはにこにこ微笑むルナトリアに、軽い調子で問いかけることで強引に、気持ちの舵を切り替えようとした。
「俺を探していたのか?」
「ええ! あちこち、お探ししたのです。お会い出来て、よかったわ」
ルナトリアは胸の前で手を合わせ、こっくりと頷く。それから、思いっきり眉を顰めると、ぶるりと身震いをした。きょろきょろと周囲に視線をはしらせる。多聞を憚っているらしい。声量を落として、それでもよく通る高い声で、ルナトリアは言った。
「あのね、ルナね、夜更けに目が醒めちゃったの。そうしたらね、お部屋でひとりぼっちでいるのが、なんだか……ほんのちょっとだけ、心細くなっちゃったの。それで、殿下のお部屋をお訪ねしたのですけれど、殿下、お部屋にいらっしゃらないのですもの。びっくりしたわ。殿下のことが心配で、いてもたってもいられずに、こうしてお探ししていたのです」
「心配?」
「だってほら。殿下ってば、うっかりしていらっしゃるじゃありませんか。ルナが御一緒してお守りしなきゃ、心配だもの! ね?」
ルナトリアは豊満な胸を張って断言した。瞳が悪戯っぽくきらりと光った。
ノヂシャを、夜が見る夢のように深い瞳で見つめ、儚く咲く花のような唇で殿下、と呼ぶルナトリア。無垢な笑顔に全幅の信頼と絶対の愛情をこめて。
ノヂシャは胸を抑えた。はやる鼓動を、恐怖を煽る警鐘のように感じる。
(素晴らしいルナトリア。可哀そうなルナトリア)
ノヂシャは、意識をルナトリアに集中させた。ノヂシャの返事を待っている僅かな間もじっとしていられず、ちょこちょこと歩きまわる軽い足取り、足元に咲く、浅葱色の小さな花を見つけて、名前も知らない小さな花に、綺麗な色ね、可愛い形ね、と話しかける弾んだ声。透き通った希望と夢の感触に心を躍らせるルナトリアを見つめていたら、ノヂシャの唇の端はふわりと持ち上がり、目許は和やかに微笑んだ。
(ルナトリア、君は本当に素敵だ)
そんな純粋な称賛に変わって、茶化す言葉が口をついて飛び出した。
「結構、言うね。だけどさ、とどのつまり、俺が傍にいなきゃダメってことだろ? そこまで頼りにされるなんて、男冥利に尽きるぜ」
言いながら、ノヂシャは飄然とした態度を繕った。ルナトリアの頬に赤みがさす。思わず見惚れてしまうバラ色の頬を、ルナトリアはぷうっと膨らませた。
「まぁ殿下ったら、なんて意地悪な言い方をなさるのかしら! よろしいですか、殿下。ルナはちっとも怖がってなんか、いません。ルナはただ、殿下を心配してさしあげたのです」
「そう? 残念だ。ひとり取り残されて怖かった、お願いだから一緒にいて……って素直に言えたら、片時も離れず傍にいてやるんだけど」
「えっ、本当に?」
ノヂシャの意図した通り、ルナトリアは期待に目を輝かせる。包み隠さない好意は、ニーダーに向けられたものだ。ルナトリアは幼い頃からニーダーを慕っていた。そうと確認する作業は、何度繰り返しても嬉しくて、ノヂシャはついつい、浮足立ってしまう。ルナトリアを無遠慮に指差して、底抜けに明るく言った。
「やっぱり図星だろ、意地っ張りの怖がりめ」
ルナトリアは目をぱちくりさせた。少し考えて、ノヂシャにおちょくられたことに気がついたらしい。頬どころか、顔全体、耳まで、ビーツのように真っ赤になった。大きく息を吸い込んで、吐きだした。
「殿下の意地悪! もう知りません」
甲高い声で喚き散らすルナトリア。地団駄を踏んで悔しがる姿が可愛らしくて、ノヂシャのくすくす笑いは止まらない。そうしている間に、ルナトリアは決定的に機嫌を損ねてしまった。
ルナトリアが憤然と肩を怒らせて、くるりと踵を返したので、ノヂシャは俄かに慌てた。ルナトリアを独りで行かせるのは、まずい。飢えた狼の群れに放り込まれた仔羊が無事で済むような奇跡は、そうそう起こらない。
ノヂシャは急いでいた。急いで、ラプンツェルとその息子に会いにいかなくてはいけなかった。ルナトリアのことは、二の次だ。ノヂシャはルナトリアの背中を見送って、踵を返すべきだった。それでルナトリアが死んでしまっても、仕方のないことなのだ。
それなのに、どうしたことか、ノヂシャはルナトリアを引き止める為に動き出していた。
素早く窓枠を跨ぎ超える。石壁の凹凸に器用に手足を引っ掛け、するすると降りて行く。ある程度まで降りると、途中で飛び下りた。
着地は成功したが、ノヂシャはわざとらしく悲鳴を上げて転がる。ルナトリアの足をとめる為だ。狙い通り、ルナトリアは体ごと振り返った。
「殿下! 落っこちちゃったのですか? まぁ大変!」
と叫んで、ぱたぱたと駆け寄って来る。
無様に引っ繰り返ったノヂシャは、傍らに跪き、おろおろするルナトリアの白い顔を見上げた。
殿下という呼称にこめられたルナトリアの真意を、ノヂシャは正しく把握しているつもりだ。ルナトリアが親愛をこめて殿下と呼びかけるのは、ニーダーしかいない。
「殿下、殿下、大丈夫ですか? 痛みますか? 痛いのが何処かへ行ってしまうおまじないをしてさしあげますね! ええと、ええと……何処が痛いのですか?」
ノヂシャを……大好きな『殿下』を心配するあまり、涙目になっているルナトリアの涙を止める術を、ノヂシャは心得ている。腹筋で上体を起こすと、ルナトリアの前髪を掻きあげ、冷えた額に掠めるようなキスをした。「大丈夫」の一言を添えれば完璧だ。
きょとんとしたあどけない表情が、微風にざわめく花のように揺れ動き、笑顔に変わる。雲間から顔を出した太陽をひたむきに見上げる、向日葵のようなその笑顔を、ノヂシャは美しいと思う。
(太陽を一途に慕う向日葵みたいに、ニーダーを一途に想い続けるルナトリアが好きだ)
ルナトリアはきっと、特別なのだ。
ルナトリアには幸せになって欲しい。他人の影を重ねられることを最も嫌うノヂシャが、ルナトリアの為なら、ニーダーの影を被ることを甘んじて受け入れる程に、特別なのだ。
だからと言って、ルナトリアが恋い慕うニーダーの姿を演じることはしない。
ルナトリアをからかって遊んだり、面白がったり、なんてことをニーダーはしなかっただろう。ルナトリアにはひたすら、優しく、親切に接しただろう。
そうと分かっているけれど、そのように振る舞ったことはない。ルナトリアを大切な薔薇のように、丁重に扱うニーダーの姿を思い描くと、否が応にも、ラプンツェルを盲目的に愛するニーダーの醜態を思い出さずにはいられない。無性にやるせなくて、空しい。と同時に、バカらしくて、嫌気がさす。
今のノヂシャは、ありのままの姿をルナトリアに見せていると思う。ルナトリアが心を壊す前よりも、気負うことなく、接していると思う。
そうであっても、ルナトリアは『殿下』を変わらずに慕ってくれる。『殿下』がどれほどに変わり果ててしまっても、変わらない愛情をルナトリアは示している、だからこそ、ノヂシャはルナトリアを心から締め出しきれないのかもしれない。