星が降る夜明け
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色を失った暗がりで、ノヂシャの青白い頬が、澎湃と溢れる涙に濡れていた。発達した犬歯が下唇を突き破り、淋漓と流れ出た血は尖った顎先で涙と結びついて、滴り落ちる。
みっともなく泣き喚くより。惨めにすすり泣くより。唇を強く噛みしめ、堪えようにも耐えきれず咽び泣くノヂシャの様子を、ニーダーは殊更好んでいた。
ニーダーの歓心を買いたい一心で、習い性となり、ノヂシャは嗚咽を噛み殺すようになった。しかし、どんなにニーダーの好みに沿って振る舞っても、ニーダーを喜ばせることは二度と叶わないのだろう。ニーダーはもう、ノヂシャを見てくれないのだから。
一途に想うあまりに、その身に刻み込んだありとあらゆる痕跡は、捨てられた今となっては、心の虚しさに拍車をかけるだけだが、それでも生涯、消えることはないのだ。
ニーダーの憎しみが発露し、ノヂシャはすべてを奪われた。縛り付けられ、言葉と鞭で酷く嬲られた。ニーダーを憎んだこともある。けれど、気持ちを切り替えることが、ノヂシャには出来なかった。ニーダーが、嘲弄の意図をこめてノヂシャの頭を撫でる仕草に。ノヂシャの無様さを喜ぶ嘲笑に。気紛れな優しさめいたものを感じる度に。ノヂシャは、ニーダーの吐いた嘘を、親密な優しさを思い出さずにはいられなかった。
現実は辛いばかりだけれど、過去は夢のように優しい。ニーダーが憎悪を剥きだしにして、ノヂシャを呵責すればする程に、ノヂシャの意識は現実を離れ、甘く優しい過去を夢見る。その在り方はまるで亡霊のようだった。
(俺は過去の亡霊だ。だから、なんだ。豹変したあんたを憎むよりも、優しいあんたが恋しかった。バカなノヂシャはあんたのことが大好きで、どうしようもないままに死んだから、魂がそこから動けない。だから、俺は今……この通りだ)
苛烈な焔に幾度となく焼き払われ、心は焼け野原となっても、灰に咲く花のように、ニーダーへの想いは何度でも芽生える。
流した涙が、想いを育てるのだろうか。ノヂシャは血と涙に濡れた冷たい床に、頬を擦りつけた。
どうして、涙には色が無いのだろう。ノヂシャはずっと、不思議に思っていた。切り裂かれた体の流す血は赤いのに、引き裂かれた心の流す涙が無色透明なのは、どうしてなのだろう。
(赤は血の色。俺は……赤より、青が好きだ)
ノヂシャは肘をついて上体を起こすと、やおら立ち上がった。夜露に濡れた窓硝子は、氷のように冷たかった。
開け放った窓から、厳しい冬を予感させる、凍えた風が氷刃のような鋭さで吹き込んでくる。ノヂシャは、首を竦めることも、身震いすることも、しなかった。現実の手触りは鈍く、虚ろで、ノヂシャには殆ど届かない。
遠くの星が儚げに瞬く瑠璃色の空をノヂシャはひとり、見上げる。深い夜の裾が徐々に持ち上がり、遠い山々の向こうから、真新しい朝が顔を覗かせつつある。夜明けが近い。
(俺は、綺麗な空……綺麗な、青空の色が好きだ)
ぐっと上体を乗り出して、冴えた大気に身を包む。おろした瞼の裏側に、いつか見た、美しい青空を思い描く。
(青く輝く空に、落ちてゆきたい)
大きな青空が、ノヂシャの視界いっぱいに広がる。呆気なく逸らされ、冷たく突き放す、酷薄な青い瞳と違って、空は見上げれば、いつだって、そこにある。
ノヂシャは亡霊だ。その世界は鈍色で、空しい。そこで唯一つ、鮮烈に輝いたのはニーダーだ。
ニーダーの罵倒だけがノヂシャを苦しめ、ニーダーの暴力だけがノヂシャを痛めつける。優しかったニーダーとの思い出が、苦痛をさらに強くする。ニーダーの氷のような手のなかでのみ、ノヂシャの心臓は息を吹き返した。
ふと気がつけば、ニーダーだけがノヂシャの現実となっていた。ニーダーがいなければ、ノヂシャにはもう、自分が生きているのか死んでいるのかさえ、分からない。
捨てられるくらいなら、ニーダーの憎悪に殺されたいと願うのは、ノヂシャにとっては当然のことだった。双子の姉と、その息子を手にかける事に、躊躇いも葛藤もない。
双子の姉ラプンツェルは、ノヂシャが忌み嫌う〈あの女〉のようだ。ラプンツェルが〈あの女〉のようにニーダーの愛を独占しなければ、〈あの女〉のようにニーダーの愛を粗末にしなければ、ノヂシャがラプンツェルに対して、殺意が芽生える程の強い憎悪を抱くことはなかっただろう。
ラプンツェルはノヂシャの分身であったが、二人は完全に切り離された。ラプンツェルなど取るに足らない、つまらない存在に過ぎない。
ラプンツェルだけではない。ニーダーでなければ、今のノヂシャの世界においては、影に色がついた程度の存在でしかないのだ。
ノヂシャは薄目を開けた。瞼の裏を、美しい女性の、雛鳥のように愛らしく温かで、か弱い女性の笑顔が、過ったからだった。
(俺には、ニーダーだけだ)
振り切ろうとして、ノヂシャは頭を振った。
(ニーダーだけで良い。他のことは気にしない。ニーダーに殺されて、終わりにする)
握りしめた拳を、おろした瞼に押し当てる。祈るように、心の中で繰り返す。閉じた瞼を透かす程に、眩い銀色の光が閃いたのは、その最中だった。
腹の底を震わせる、地を這うような轟音を伴い、大地が大きく揺れた。ノヂシャはよろめき、窓枠にしがみつくことで体を支えた。
揺れはすぐに収まった。ノヂシャが体制を立て直した頃には、銀色の閃光も消えていた。ノヂシャが茫然と佇む窓の下で、兵士たちが何処からともなく、わらわらと湧く蟻のように、行ったり来たりしている。
我に返り、ノヂシャは耳をそばだてた。混乱した兵士たちの、怒声や蛮声を辛抱強く拾い集め、支離滅裂な断片を繋ぎ合せて意味を探る。そうして、首を捻った。
(星が……降って来た?)