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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十三話『独白』
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あの女の部屋2

 俺の銀髪を絡めていたあのひとの指が、ねっとりした執拗さで、首筋を撫でる。

 襟を詰めるボタンを弾くように外した。まるで、そうすることが予め決められていたかのように、手際が良い。ぼやぼやしていたら、あっと言う間に裸に剥かれちまう。


 俺は俊敏に飛び退いた。腕がつかえたら、あの女を思いっきり突き飛ばしてやれたのに、残念だ。俺にしなだれかかっていたあの女は、支えだった俺に避けられると、体制を崩して床に倒れ込んだ。ナイトドレスの裾がしどけなく広がり、足の付け根まで露わになっていた。俺の腰に跨り、蛇がネズミを絞め殺すみたいに、俺に絡みつく二本の白い脚を目の当たりにして、俺の正気は吹っ飛びそうだった。俺は震えて叫んだ。


「おれに触るな!」


 俺の強烈な拒絶は、あの女にはまるで伝わらなかった。あの女は不思議そうに、目を丸くして、小首を傾げている。俺は震えあがった。あの女には、感じる心がないんだ。あるのは爛れた欲望だけ。間違いない。あんたがいくら否定しても、俺を叩きのめしても、それはれっきとした事実だ。


 怖い女だ。暗い目に射抜かれて、俺は底が見えないほど深い湖に突き落とされた気分になった。


 俺は、さながら、皿の上に饗された生贄だ。あの女は恍惚として俺を見つめている。血に飢えた人喰いの獣と変わらない。俺を舐めまわして骨の髄まで啜りたくて、うずうずしている。


 俺は逃げられない。逃げたら、ヨハンとマリアにとんでもない迷惑がかかる。わかっているのに、俺は耐えきれなかった。完全に、恐怖に支配されていたのさ。


 俺は身を翻す。足は扉に向いている。踏み出しかけて、はたと気がついた。ダメだ。扉の外にはゴーテルが控えている。扉からは逃げられない。俺は胸をはやらせて、ぐるりと部屋を見回す。逃げ場を探していた。もたもたしていられない。あの女が迫っている。逃げ場はない。


 王城にはいたるところに、秘密の通路がある。そのすべてを知ることは、王族と『墓守』にのみ許されている。ヨハンは当代の墓守で、秘密の通路のいくつかを教えてくれていた。だけど、すべてじゃない。「殿下がご成長遊ばされ、悪戯をして皆を困らせてしまわれるようなことが無くなれば、その時に、すべてをお伝え出来るでしょうな」と、ヨハンは苦笑していた。


 もしかしたらあの部屋にも、何処かに、秘密の通路へ通じる出入口があったかもしれないが、俺には分からない。


 俺は日頃の行いを悔やんで、半べそをかいていた。その時だ。俺の視界の端を、何かが素早く過った。


 窓の外で、鳥が飛んだ。白っぽい小鳥が群れを為して、空へ舞い上がって行く。重なる羽音が、閉ざされた部屋にいても聞こえてくるようだった。俺は思い出した。この冬の、初雪の日の夜更け。俺とニーダーが雪ウサギをつくって、手摺の上に飾った。その次の晩、俺が訪ねると、ウサギの目にしたナンテンの実を小鳥たちが啄んでいた。俺は窓の下で、大声を上げて鳥を追い払って、ニーダーの度肝を抜いたんだ。新しいナンテンの実を可哀そうな雪ウサギの眼窩に埋め込んでやりながら、俺の機嫌は最悪だった。雪ウサギの目が抉られることがないように、ちゃんと見張っていると、ニーダーに約束させた。


 ニーダーの部屋は、この部屋の真下にある。ちょうど今、ニーダーが窓を開けて、雪ウサギの目を狙う小鳥を追い払っているかもしれない。


 俺は一目散に窓辺に向かって走った。あの女が伸ばした腕をすり抜ける。窓を開け放とうとして、そこで、両手が使えないことにやっと気がついた。気が動転していたにしても、間抜け過ぎる。

 後ろ手に留め金を外そうにも、留め金の位置が高すぎて届かない。右往左往している間にも、あの女がじりじりと迫って来る。


 俺は恐慌に陥って、絶叫した。


「ニーダー!」


 あの女がぴたりと動きを止める。今のうちだと思った俺は、窓硝子に額を押し付けた。俺の思った通り、ニーダーの部屋の窓は開け放たれていた。ニーダーの手がにゅっと伸びてきて、俺のつくった不格好な雪ウサギを掴む。ナンテンの実の位置を微調整した。


 ニーダーの手が俺の目には、暗闇の中の唯一の光源みたいに、輝いて見えたんだ。声を張り上げれば、ニーダーの耳に届くかもしれない。俺は胸いっぱいに息を吸い込んで、叫んだ。


「ニーダー! おれだ、ノヂシャだ! あんたの窓の、ちょうど真上にいる! 気付いてよ、ニーダー!」


 必死に呼びかける俺の肩に、あの女のほっそりした手がかかる。悲鳴をあげる俺の唇に人差し指を押し当てて、あの女は、赤ん坊をあやすような声調で言った。


「危ないことをしてはダメよ、ノヂシャ。さぁ、母上と一緒に、こちらへいらっしゃい。母上があなたを守ってあげる。さぁ、ノヂシャ」


 あの女が促す視線の先に、寝台がある。俺は死に物狂いで身を捩り、絶叫した。


「ニーダー、助けて!」

「おやめなさい!」


 俺の叫びを打ち消すように、あの女は甲高く叫んだ。信じられないような力で、俺の体を窓から引き剥がす。次の瞬間、右頬に衝撃を受けると同時に、耳の奥で鈍い音が響いた。視界が揺れる。痛みは這いずるように、頬から体の末端まで駆け巡った。

 右の頬がじんじんと痺れて、熱を持つ。俺はあんぐりと口を開けていた。目の前の女の、白魚のような手が、俺の頬を張ったんだ。


 生まれて初めて、打たれた。初めての体験がもたらした衝撃は大きく、俺は混乱の荒波にのまれちまった。

 衝撃から立ち直れないでいる俺の前で、あの女は泣き崩れた。


「やめて……お願いだから、もう、やめて……もうやめてください……あの子の名を呼ばないで……あの子のことは忘れて……貴方と一緒にいるのは、この私です。お願い、今だけでも、私を見て、私だけを……!」


 あの女は意味不明なことを口走って、さめざめと泣いた。この世界の不幸を一身に背負ったとでも言いたげに。俺の憐憫を欲しがっていたんだろう。くれてやらなかったけどな。やりようがないだろ? そんなもの、持ち合わせちゃいないんだから。


 困惑する俺のスラックスの裾を、女の細い指が掴んだ。咄嗟に足を引くけど、踵が壁にあたってそれ以上退けない。あの女が蛇のように頭を擡げる。俺は怖くなって、目を逸らした。


 あの女は、飢えた獣のように俺に飛びかかった。後頭部と背中を窓硝子にぶつけて、硝子が派手な悲鳴をあげる。痛かった筈だけど、痛みに頓着している場合じゃなかった。あの女が俺の胸に縋りついている。焦点のずれた瞳を濡らして、切々と訴えた。


「違う! 違うわ、そうじゃないの! 私だって努力した、愛そうとしたわ。愛せる筈だった。あの子は、愛する貴方との間に授かった子だもの。何よりも大切にしたかった……けれど、どうしても、出来なかった。あの子が私に、それを許さないの! あの子がいけないの! 貴方と私をさらに深い愛で結びつけてくれる筈だったのに、二人を引き裂こうとするから!」 


 まるで意味がわからない。わからないから、首を横に振った。あの女も首を横に振った。違うの、違うの、とあの女は喚き続ける。


「よちよち歩き始めたばかりのあの子は、私が目をはなしたほんの一瞬の隙をついて、階段から転がり落ちてしまった。忘れもしない、あれが私の苦難の始まりだった! 優しかった貴方が、初めて私を酷く責めて、私を打ったわ。この世界の何よりも私を愛すると、この世界の何ものからも私を守ると誓った貴方が……すべてをなげうって、あなたに身も心も捧げた私を」


 あの子がいけないの! と、あの女は叫んだ。あの女は俺の胸に顔を押し付ける。振り払われた涙が、シャツにしみ込んでくるのを、肌で感じた。ぞっとした。気持ちが悪い。


「あの子がいけないの。あの子のせいで、私は誤解してしまいそうになる……あなたの愛は、私のものではなくて、あの子のものではないか……貴方が神に誓ってくれた愛は、あの子を手に入れる為の偽りだったのではないか……。疑ってしまう。あの子が私にそうさせる! 私を醜い疑心暗鬼に駆り立てる! 卑屈に媚び諂う……鏡に映る、私とよく似た青白い顔をした、あの子がいけない……! わかるの。あの子は私によく似ている……愛に焦がれて、切望して、追い求めて、癒えることのない乾きに悶えながら、生きるしかない。愛するひとに愛される為なら、すべてを犠牲にしてしまう。わかるの、私がそうだもの!」


 あの女は俺の胸にひっしと縋りつく。俺は吐気を催していた。吐いちまいそうだった。首を巡らせて、窓の下を覗きこもうとすることで、気を逸らす。あの女の、焼けつくような視線が痺れる頬に突き刺さる。あの女は嫌悪に満ちた言葉を吐き捨てた。


「あの子は……貴方の愛を、私から奪おうとしている。階段を転がり落ちたのは、不慮の事故なんかじゃない。わざとやったんだわ。貴方の気をひこうとして、私を陥れたのよ。そうよ、そう決まっているわ。あの子はそういう子なの。騙されてはだめ。あの子は貴方を騙している。私から貴方を奪おうとしているのよ」

「あんた、おかしいよ」


 俺は吐き捨てるように言った。あの女の言葉を理解することは愚か、声を聞くことすら嫌だった。あの女から少しでも離れようとして、窓に背中を押しつける。不快感を逃がそうと、硝子を引っ掻く。俺は強く瞼を閉じて、吠えるように言った。


「あんたが何を言っているのか、おれには、ちっともわからない……わかりたくもない!」

「……わからない。私にも、わからないの。なぜ、愛する貴方の子を……」


 あの女の目が、火を吹き消されたように、虚ろになる。震える顎を引いて、あの女はぽつりと落とすように呟いた。


「ニーダーを、憎まずにいられないのか」


 嗚呼、ニーダー。あんたと俺が兄弟だって、俺はこの瞬間、初めて知った。


 俺は何も知らなかった。自分自身のことすら、よくわかっていなかった。


 俺の父上は国王陛下。母親は俺を産んですぐに死んでしまった。ゴーテルとヨハンは俺にそう教えた。ところが狂った王妃は俺を我が子と呼ぶ。父上と彼女の間に生まれた息子だと言う。


 所詮は、俺と父上の見分けもつかない、頭のおかしな女の戯言だ。それでも、聞き流すことは出来なかった。それは、ニーダー。あんたと初めて出会った瞬間に、俺は深いつながりを感じていたからだ。それが、血の繋がりだと言うのなら、それ以上にふさわしいものはなかった。


 あんたと俺は、同じ父親と母親の間に生まれた、兄弟なんだ。


 俺に真実を告げた女は、俺を重い鎖のような両腕に閉じ込めて、恍惚としていた。抵抗を忘れた俺に、受け入れられたとでも思ったのかな? そんなこと、天地がひっくり変えたってあり得ねぇのによ。


「愛しています。貴方の為なら、苦しみも悲しみも、喜びに変わる。私の心は貴方を求めて跪いているの……さぁ、貴方の微笑みで、私を永遠の夢に連れ去って。ずっと抱いていて。ずっと、ずっと、ずっと……」


 あの女の指が、シャツの裾を引き出して、肌着の下に侵入してくる。ひんやりした指が俺の素肌に触れる。


「やめろっ!」


 俺の体が逃げを打つ。窓硝子に背中を押しつける。ぎしぎしと、窓枠が悲鳴を上げて軋んでいる。俺もまた、悲鳴を上げた。


「おれはノヂシャだ! あんたは間違ってる! おれはノヂシャだ、ノヂシャなんだ!」


 あの女が口角を吊り上げる。微笑みと呼ぶには苛烈で、そして、いやらしい。


「ノヂシャ……ええ、ノヂシャ……貴方にそっくりな、私の可愛いノヂシャ……いずれ、貴方そのものになる……。ええ、そうよ、ノヂシャ……あなたはノヂシャ。愛しいノヂシャ。私の大切な子。ノヂシャ、あなたは私の、たった一人の愛しい息子。あなたは」

「嫌だ!」


 俺はあの女の言葉を鋭く遮った。向けられる欲望が怖かった。押し潰されちまいそうだった。俺はあの女から目を逸らして、嫌だ嫌だと、泣きながら頭を振った。ゴーテルに揶揄されたように、俺は赤ん坊みたいだったよ。泣き喚くことしか、出来なかった。臆病な俺は、怯えて、拒んで、助けを求めることしか出来ない。これまでの轍を踏むだけなのに、そんなこともわからなかった。あの女は、俺がいくら嫌がったところで、歯牙にもかけない。


 俺に教えてくれたのは、ニーダー。やっぱり、あんたなんだ。俺の目の前は真っ暗で、頭の中は真っ白だった。だからこそ、記憶の中のあんたの声が、鮮明に蘇ったんだ。


『短気を起こして、感情論を喚き散らすべきではない。支離滅裂な罵詈雑言をぶつけられようとも、辛抱強く耳を傾け、真意を推し量り、慎重に吟味する。いずれ王になると自負するのなら、思慮深くあるべきだ。都合の悪いことから逃げるのではなく、立ち向かわなければいけない』


 あんたの声は魔法みたいに、俺の恐怖と混乱を鎮めた。


 俺はあの女を恐れていた。あの女の言葉を聞く耳をもたずに、あの女から目を背けていた。俺は逃げているだけだった。一度だって、正面から立ち向かおうとしたことはなかった。そんなんだから、ダメなんだ。あの女は、本当の意味で俺を見ないし、俺の言葉を聞かない。俺までそうしていたら、ずっとこのまま、変わらない。


 怖いからって、逃げていちゃダメだ。恐怖に立ち向かい、打ち勝たなきゃダメだ。


 俺は重い瞼を決意で持ち上げた。あの女の瞳を、真っ直ぐに見据える。絡みつく熱情が怖い。だけど、俺はもう、逃げないと決めた。

 深呼吸をする。俺の様子が変わったことを、あの女は気がついたらしかった。柳眉を寄せて、訝しんでいる。

 俺は唇を舐めて湿らせた。たじろいだようなあの女に向き合って、俺は言い切った。


「おれは、あんたのものじゃない。あんたが愛しているのはおれじゃない。あんたは否定するだろうけど……おれは、あんたに愛されているとは思えない。あんたはおれを苦しめている。おれは、あんたが嫌いだ」


 斬りつける俺の言葉が、狂気って分厚い鎧を貫いて、あの女の心に届いた。あの女は目を見開いた。震える唇が、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。


「私のものじゃ、ないですって? それじゃあ、あなたは誰のものなの?」


 あの女の両手が俺の頬を挟み、瞳を覗きこむ。圧し掛かられて、俺はのけ反った。俺の瞳は空をうつす。あの女を睨みつけたかったけど、首を動かせない。

 あの女が唇を開くのが、ちらりと見えた。闇の底へ続く穴が、口を開けたみたいだった。


「ニーダー……? ニーダーなの? あの子が、あなたを誑かしたの? そうなのね」


 あの女は俄かに激昂した。


「なんて、あさましい……生まれついての泥棒猫……! 上目遣いに潤んだ瞳で、憐れっぽく情けを乞うあの醜態は、まるで娼婦だわ……! あの方のご寵愛を奪い、ひけらかし、私の心をずたずたに切り裂く……残酷な悪魔のような、恐ろしい子……! まだ、足りないの? 毟れるだけ毟っておきながら、まだ、奪おうとするなんて!」


 あの女の体が、俺を押しつぶそうとするように、密着してくる。ふたつの胸のふくらみが、俺の胸を押し潰す。呼吸が苦しくて、俺はもがいた。窓枠が軋む。あの女は、苦悶する俺の耳元で、歯ぎしりをして唸った。


「いっそ、殺してしまえたら、楽になれるのに……!」


 あの女がいっそう体を押しつけてくる。そうすることで、ひとつに融け合えるとでも、思ったのか? 俺の体はあの女の体を撥ねつけて、決して、受け入れることはないのに。


 破裂するように、窓が開いた。留め金が、二人分の体重を支えきれなくなったんだ。支えを失った俺の体が傾いて、上半身が宙に投げ出される。


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