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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十三話『独白』
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あの女の部屋1

 ちっぽけな俺の心を占めていたのは、気がすすまない、なんて生易しい拒否感じゃなかった。処刑人の前に引き摺りだされた死刑囚の気分、に喩えるとしっくりくるんだけど、こういう不謹慎な表現の仕方は、あんたの好みに合わないだろう。わかっちゃいるけど、他に何て言い様があるのか、俺にはわからない。


 ゴーテルは俺を抱え起こした。俺はまるで命のない人形だった。指一本でも、自分の意思で動かそうものなら、俺は脱兎の如く逃げ出そうとするに決まっていた。だから、力を抜いて四肢を投げ出すより他になかったんだ。


「御理解いただけたご様子、ようございました。では、参りましょう」


 ゴーテルはいけしゃあしゃあと言い放ち、俺を隣に立たせた。鹿爪らしく俺の身なりを整える。ぜんまい仕掛けの樞みたいに、淀みなく動き、表情は無感動に固定されていた。


 襟元のボタンまでしっかり留められる。首が締まる息苦しさを訴えたが、ゴーテルは聞かなかった。扉一枚隔てた向こう側に、あの女がいる。ゴーテルは気もそぞろだった。


 小さく咳払いをして喉の調子を整えてから、頑丈な扉を礼儀正しくノックする。


「ご無礼仕ります、妃殿下。ノヂシャ殿下をお連れしました」

「どうぞ」


 応えたのはあのひとだった。間違いようがない。耳孔に注ぎこまれる、毒々しい蜜のようなあの女の声が、嫌がる俺に思い出させる。噎せかえる、爛熟した果実のような匂いを。しっとり吸いつき、触れたところから蕩けてしまいそうな冷たい肌の感触を。


 俺は歯を食いしばった。溜飲が喉を焼いていた。あの女のせいで、焼け爛れた俺の心が、性懲りもなく叫んでいた。誰か助けてくれ! 


 目と鼻の先で、重い扉が開かれる。地獄の門だ。魂を侵すどす黒い瘴気と、心を凍らせる冷気が漏れだすようだった。

 逃げ出そうにも逃げ場なんて何処にもない。泣き叫んでも助けてくれる人はいな。この扉を潜るたびに、思い知らされるのさ、何度でも。


 あの女の部屋は、太陽が力をみなぎらせる夏の暑い日でも、薄暗くて冷え冷えとしていた。すべての楽しそうな、喜ばしいものに見放されたみたいに、空気が淀み、沈んでいた。


 あの女はいつも通り、寝台に浅く腰かけていた。長い黒髪は結い上げず、背に垂らしていた。ゴーテルに言わせると、流れる夜のような、見事な黒髪らしい。俺には、呪わしい檻のように思えたけどな。あの女が俺に覆いかぶさると、あの長い髪は重く垂れ下がり、俺を囲い込むんだ。逃げられない俺を延々と弄ぶ、あの寝台の上で。


 思い出すだけで、俺の目は光を失くす。あの女の、洞のように虚ろで暗い瞳が、俺を凝視している。氷に彫ったような冷たい顔に亀裂がはしる。それがあの女の微笑みだった。


「ようこそいらっしゃい、愛しい私のノヂシャ。どうしたの? さぁ、もっと近くへいらっしゃいな」


 言うに及ばず、出来ることなら行きたくはない。だけど、退路はゴーテルに断たれてしまった。引き返せないなら、前に進むしかない。ゴーテルに突き飛ばされるより、俺自身の意思で一歩を踏みだした方が、紙一重でマシだ。俺のなけなしの意地だった。


 俺は部屋に踏み込んだ。寝台のある方へは目を向けず、真っ直ぐに進む。寒々とした部屋の真ん中で、俺は立ち尽くした。

 あの女が俺を手招いているのが、視界の端にちらりとうつる。俺は頑として動かない。俯いたまま、絨毯の模様を焦げ付く程に見つめる。

 色彩豊かに咲き誇る花と装飾的な蔦葉が描かれた、複雑な模様だ。贅沢品に囲まれて育った俺にとって、特別に見るべきものとは思えなかったけれど、他に正視に堪えるものがない。


 あの女の望む通りにしない俺に業を煮やしたゴーテルが、背後で動く気配があった。俺の体が強張る。ゴーテルの両腕が、狼の顎みたいに俺に食らいつこうとする。ところが、ゴーテルが俺に触れる寸前に、あの女の咎める声が鞭声のように鋭く響いた。


「何をしているの? ゴーテル、お前はお下がり」


 ゴーテルがぴたりと静止する。流れるような動作であの女に向けて拝跪すると、抑揚なく言った。


「私奴のことは、陰と思召しください。決して邪魔にはなりません」

「どうだか。お前はこの間、私とノヂシャが愛し合っているところに飛び込んできて、ノヂシャを連れ出してしまったじゃない。信用ならないわ」


 あの女が鼻先で笑う。ゴーテルは礼節をもって伏せていた顔を上げた。心を傷つけられた、と言わんばかりの表情で、ゴーテルはあの女を仰ぎ見た。


「その子が君に害を為そうとしたから……!」


 言葉の途中で、ゴーテルははっと我にかえり、口を閉ざす。噛みしめた唇は白く、悔悟の苦渋に満ちていた。だが、もう手遅れだ。あの女は憤慨して、弾かれたように立ち上がる。ナイトドレスの深い切れ込みから覗く太股の生々しさに、ゴーテルは動揺を隠しきれずに目を伏せたけど、あの女自身は気にも留めない。足音も剣呑に響かせて、ゴーテルに詰め寄ると、凄まじい形相で金切り声をあげた。


「誰に向かって口を利いているの!? その子が何者かわかっているの!? ブレンネン王国の偉大なる国王となる王太子よ。口のきき方に気をつけなさい!」


 空っぽの部屋に響き渡る、派手な打音。俺の肩は跳ねあがった。あの女の小さな掌が、ゴーテルの頬を張ったんだ。


 もちろん、ゴーテルにかかればあの女の渾身の平手打ちなんて、羽で優しく撫でられたようなもんだ。ただし心の方には、多大な打撃を与えたらしい。


 ゴーテルはうろたえた。普段の暴君ぶりが嘘みたいに、蒼褪めた顔をして、おろおろしていた。ゴーテルに背を向けて、俺に近づいてくるあの女の痩せた背中に、縋るような視線を送っている。俺の情けなさを散々バカにしてくれたが、このザマじゃあ、俺のことをとやかく言えやしないと思わないか? 俺は思ったね。バカにされた分、バカにしてやりたかった。だけど、そんな余裕はなかったんだ。あの女が、俺の傍にやって来た。


 あの女は俺の一歩手前でくるりと反転する。ナイトドレスの裾が、うちよせて砕ける波のように翻る。ゴーテルは眩しげに目を細めていたが、あの女の厳しい眼差しにはっとして、床に額を擦りつけて平服した。


「申し訳ございません。お許しを」

「許しが欲しければ、さっさと退室することね」


 あの女の言葉はにべもない。ゴーテルは平服したまま、謝罪の言葉を繰り返した。ゴーテルは、俺とあの女を二人きりにしたくないんだ。この前、俺があの女を突っぱねて、殺してやるって叫んだから。弱いガキを縛り上げても、まだ、心配なんだ。誰にも傷つけさせたくないってくらい、あの女のことが好きなんだろう。頭がおかしい奴にしかわからない魅力が、あの女にはあるのかな?


 だけどあの女、ゴーテルの思いやりなんて、知ったことじゃねぇ。ゴーテルがグズグズしていると、さらに腹を立てた。


「いい加減にして! あの子に惑わされたんだと、必死に訴えるお前の言葉を信じてあげたのに……私の邪魔をするのなら、お前のことを信じていられません!」


 ゴーテルは目を剥いた。ぽかんと開いた口から、断末魔めいた悲鳴が上がらなかったのが不思議だったな。

 ゴーテルは魚みたいに口をぱくぱくさせていた。しばらく経つと、どんよりと俯いて、のろのろと立ちあがる。逞しく実った肩を落とし、広い背を悄然と丸めて、踵を返した。


 ゴーテルに萎んだ背中を向けられて、俺の絶望は決定的なものになった。二人きりにされる。今日は両腕を縛られているから、この前みたいに抵抗出来ない。


 今にも部屋を出ようとするゴーテルを、不意に、あの女が呼びとめた。ゴーテルは丁寧に、体ごと振り返る。あの女は、声調を和らげて言った。


「ゴーテル、私の心強いお友達。あなたは時々とても無礼で、不適切な言葉を口にするけれど、そういう不注意は、不幸な生まれと育ちのためよね。私もそうだったもの。お前が真実の愛と献身を誓ってくれたことは、決して忘れはしないし、疑いたくはないの。だからお願い、ゴーテル。私の一番の味方であり続けて。お前だけが頼りなの」


 ゴーテルはあの女の言葉を、真顔で聞いていた。俺みたいに、白々しいと、思ったかどうかは知らない。心中を慮るには、ゴーテルは狂いすぎてる。ゴーテルは黙ったまま、扉の前で一礼して退室した。


 扉の閉まる音が、やけに大きく重々しく聞こえた。とうとう、俺はあの女と二人きりになっちまった。ゴーテルのことは嫌いだけど、あの女の気が逸れるから、いてくれた方が有難かった。


 鬱々とする俺とは対照的に、あの女はうきうきしていた。弾むような足取りでやって来て、俺に擦り寄ってくる。


「邪魔者は消えたわ。これで二人きり。ふふふ、嬉しい」


 媚びを含んだ吐息を耳朶にふきかけられて、俺はぶるりと身震いした。息を詰めて、悪寒をやり過ごそうとする。

 あの女は俺の険しい表情を覗きこむと、とろけるような笑顔を引っ込めた。眉根を寄せて、繊細な眉間に縦皺を刻む。


「うんざりするでしょう? 彼ったら、昔からああなの。何かにつけてしゃしゃり出てきて、鬱陶しいったらないわ。あの呪わしく高い塔に囚われた、身の上の不幸を分かち合える、唯一の友だと思えばこそ、大目に見てあげていたけれど……それにしても、あまりに目に余る。あのお方に見初められ、王宮へ召し上げられることを、真っ先に伝えてあげたのに、目の色を変えて怒るのよ。人間の甘言に乗ってはいけませぬ、なんて言って、私を部屋に閉じ込めたわ。あまつさえ、私を迎えに来てくださったあのお方の御前に立ちはだかった! あれにはもう、ほとほと愛想が尽きてしまったわ。私への敬愛に殉じる覚悟だったなんて言うけれど、わかっていないのよ。ええ、本当に、わかっていないわ。私の為を謳いながら、私とあの子を間違えたり、あの子に与してあのお方を害したりして。愚かなゴーテル。何にも分かっていない」


 あの女は苦々しく言った。俺の不快感を、完全に取り違えている。そもそも、俺の本当の気持ちなんてどうでもいいんだろう。あの女は、自分が気持ち良ければそれでいいんだ。


 その証拠に、あの女は苦虫を噛み潰したような俺の頬に頬ずりをして、うっとりしていた。


「でも、いいの。許してあげるの。だって、彼らがあの方を壊してくれたから、私はあのお方を私だけのものにすることが出来た。そしてノヂシャ、貴方を授かった。私は幸せです。だから、許してあげるわ、ゴーテルのことは」


 あの女は執拗に俺に触れる。おぞましい蟲が、皮膚の下を這いまわっているみたいだ。気持ちが悪い。強く頭を振ってあの女の手を振り払う。あの女は何度か瞬きをすると、くすくすと含み笑って、俺の耳を軽く引っ張った。


「まぁ、ノヂシャ。どうしたのかしら、そんなに不自由な格好をさせられて。どんな悪さをしたの? ふふふ、いいのよ。男の子はやんちゃな位がちょうどいいの。あの方も、ご幼少の砌は、手に負えないやんちゃ坊主だったんですって。だから、いいのよ。男の子らしくて良いわ。「姫王子」より、ずっと良い」


 俺はあの女の戯言を、極力、耳に入れないように心がけていた。まともに受け止めていたら、こっちまで頭が腐って、脳みそが蕩けちまいそうじゃねぇか。

 だけど俺の耳は、聞き覚えのある、おかしな言葉を拾い上げた。ニーダー、あんたから訊いたからだろう。「姫王子」は、ヴァロワのオフィリア王女があんたにつけた、屈辱的な渾名だ。


 俺はあの女を凝視した。俺が目を向けたことで、あの女は俺が関心を示したと勘違いした。感極まったように俺を抱きしめる。あの頃の俺より、あの女の方が背が高かったから、俺の体はすっぽり包み込まれる。蛇に丸呑みされたみたいだ。最悪の気分だったぜ。


「ああ、ノヂシャ。あなたはいい子ね。とってもいい子。大丈夫よ。あなたはここにいてくれるだけでいいの。あとは母上が、良いようにしてあげますからね」


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