ゴーテルの横暴
ヨハンはゴーテルに俺の身柄を引き渡した。荷物を運搬するみたいに、ひょいっとさ。ゴーテルの肩に担がれた俺は、死に物狂いで暴れた。熊みたいなヨハンより、さらに屈強なゴーテルは、その肉体そのものが頑強な鎧みたいなもので、ひ弱なガキの抵抗なんて、まるで意味を為さない。
それでも、俺は諦めきれなかった。あの女が、俺を待ち焦がれる部屋を訪ねることは、俺にとって、血に飢えた人喰いの獣が、舌なめずりして獲物を待ちかまえる檻に放り込まれることと、殆ど同じ意味合いを持っていた。
俺はゴーテルの広い背中を、握りしめた拳で滅茶苦茶に殴りつける。堅固な石造りの壁を叩いているみたいに、手が痛むばかりだったけど、殴り続けた。手足をばたつかせて、喚いた。
「嫌だ、おれ、あそこには行きたくない! あのひとには会いたくない! 嫌だ、嫌だ、絶対に嫌だ!」
俺は抗った。だけどどんなに粘ったところで、ゴーテルが相手じゃあ、どうしようもない。そんなことは、わかりきっていた。暴れたところで、無駄。脅したところで、無駄。懇願したって、無駄。
だけど、どうしても、あの女の部屋には行きたくない。俺は頭を働かせた。大きく揺れる視界の端に、立ち尽くすヨハンの姿がうつりこむ。俺は、考えるより先に声を上げていた。
「ヨハン! ゴーテルを止めて! 助けて、ヨハン!」
ヨハンの眉間によった縦皺が、その苦悩を物語る。俺はヨハンに向けて短い腕を伸ばした。藁にもすがる気持ちだった。
ヨハンはゴーテルに逆らえない。必ず俺を守ると嘯くが、ゴーテルに連れて行かれる俺を、助けてくれた試しがない。だから、助けを求めたところで、どうせ、骨折り損のくたびれ儲けだろうと、半ば諦めていた。でも、縋る手の先には、ヨハンしかいなかったんだ。
助けを求める俺を見るヨハンの瞳に、痛切な色が過った。ヨハンは俺の視線を避けるように、首筋を固くして俯いた。そのまま、俺が視界から消えるのを、俺の声が聞こえなくなるのを、待つつもりだろうと、俺は思った。ヨハンを求めて振り回していた腕が、ぱったりと落ちる。失望が、俺の目の前に陰を落とした。
諦念が、俺の目を伏せさせようとする。ちょうどその時、思いもよらないことが起こった。ヨハンが昂然と顔を上げたんだ。引き結んでいた唇を突き破るように解いて、飛び出した言葉はよく響いた。
「閣下、お待ち下さい!」
ヨハンに呼び止められることを、ゴーテルは想定していなかったんだろう。淀みない足運びが、ほんの一瞬、滞る。好機を逃さず、ヨハンは一陣の風みたいに駆けつけて来た。ゴーテルの行く手を遮るように跪いて、頭を垂れる。
空気がぴんと張り詰めた。ゴーテルの狼の目が強い牙みたいに、ヨハンの垂れた頭顱に食らいついていたんだ。ヨハンは緊張に強張っていて、声は微かに震えていた。
「恐れながら……妃殿下が慰めを必要としていらっしゃることを、重々承知の上で申し上げます。ノヂシャ殿下は、未だほんの小さな……あどけないお年頃。小さなお体に御負担をおかけすれば、健やかなご成長の妨げとなりましょう」
「妃殿下が、王太子であらせられるノヂシャ殿下と、親しく交際を結ばれる……そのどこが、殿下の健やかなご成長の妨げとなろうか」
ゴーテルは雄偉な体躯の隅々まで、力を漲らせている。凄まじい迫力だ。気の弱い奴だったら、失神するかもしれない。さしものヨハンも、きっと、ぐっしょり冷や汗をかいていたと思うぜ。ゴーテルの気性の苛烈さは、城中の誰もが知っていた。思い知らされていたんだ、嫌って程に。
それでも、ヨハンは食い下がった。恐怖に締め上げられる喉から絞り出す、掠れ声でヨハンは言った。
「妃殿下とのご交際を、望むところではないと、ノヂシャ殿下は常々、仰っておられます。無理強いをなさるのは、如何なものでしょうか。どうか、ご再考願います」
「そう、ヨハンの言う通りだ! おれはもう二度と、あのひとに会いたくない!」
俺は勢い込んで、ヨハンに加勢した。ヨハンが味方してくれたことで、勇気づけられていたんだ。優勢に立ったような錯覚をしていた。
俺の愚かな思い違いは、空気に罅のはしる幻聴を産み、ヨハンに鋭く息をのませる程の、ゴーテルの怒気に押し潰されたけど。
ゴーテルは太い首を捩って、俺を振り返る。俺は振り返れなかった。俺は生意気だけど意気地なしで、ゴーテルの血走った目を真っ直ぐに見返すことなんて、とても出来なかった。
「ほら……はっきりしないでずるずると引き延ばすより、今はねつけた方が親切だろ……だから、おれ」
口の中でもごもご言う。それが精いっぱい。それすら、言いきらないうちに、俺は口を閉ざさなきゃならなかった。危うく舌を噛むところだった。
ゴーテルの巨躯が素早く、力強く躍動した。風を切る音と、派手な打音が鼓膜をふるわせる。一拍遅れて、後方にふき飛んだヨハンの体が、地面に投げ出される。背を逸らして首を捩って、肩越しに振り返った俺は、声にならない悲鳴を上げた。
肘をつき、上体を起こしたヨハンの顔は、酷い有様だった。鼻梁は無残に拉げていて、鼻孔から噴き出した鮮血が、顔中を真っ赤に染めていた。茫然と瞳を彷徨わせるヨハンを眼下に見て、ゴーテルは銅鑼を鳴らすような怒声を張り上げた。
「ノヂシャ殿下が快く妃殿下のお相手をなさるよう、説き勧めるのが貴様の務めであろう! 貴様が、ノヂシャ殿下に阿諛迎合するばかりであるから、ノヂシャ殿下は赤ん坊のように、嫌々と繰り返せば良いと思召してしまわれるのだ! ノヂシャ殿下の最もお傍に侍る栄誉に浴しながら、何と言う体たらく! 恥を知らんか、愚か者奴が!」
「……っ、面目次第も、御座いません」
ヨハンは鞭うたれたように、慌てて平服する。発音が少しおかしかった。舌を噛んだのかもしれない。
ゴーテルは大股でヨハンとの距離を詰めると、剣を脳天に振り下ろすような剣幕で怒鳴りつけた。
「妃殿下はお生まれと同時にお母上を亡くされた、幼いノヂシャ殿下を不憫に思召し、愛情を注いでいらっしゃるのだ! それにもかかわらず、ノヂシャ殿下はどうしたことか、妃殿下の真心を酷く疎まれてらっしゃる! 果ては、殺してやるなどと、高貴なるお方にあるまじき暴言を口になさる始末! 貴様……ノヂシャ殿下に良からぬことを吹き込んでいるのではあるまいな!?」
俺は慌てた。ヨハンを擁護しなきゃいけないと思った。そうしないと、ヨハンがさらに、痛めつけられる。
ニーダー。あんたがあの場に居合わせたら、血まみれで這いつくばるヨハンを見て、良い気味だと嘲笑ったかもしれない。だけど、俺はとても見ていられなかった。だって、ヨハンは俺の為に、ゴーテルの怒りを買っちまったんだぜ。
あんたが言う通り、ヨハンは野心家で、腹蔵に長けていて、不穏な下心をもっていたとしても。ヨハンは俺の求めに応えて、ゴーテルに逆らってくれた。それはとても、有難いことだと思うんだ。
それにしても、ゴーテルは横暴だ。都合の悪いことは他人のせいにして、ちっとも自分を顧みない。
ヨハンとマリアは、俺に乱暴な言葉なんか、絶対に教えない。二人とも、俺に悪影響を与えまいと気を張っていたし、育ちが良いんだ。
俺の言葉遣いが乱暴なのは、ゴーテルを真似ているからさ。ゴーテルは俺が知る限り、一番偉ぶった、大人の男だ。だから、俺はゴーテルに倣っていた。ゴーテルより、尊大に振る舞わなきゃいけないって、妙な使命感にかられていたんだ。俺はゴーテルより偉い筈だった。
俺は常日頃から、いつかゴーテルにガツンと言ってやろうって、思っていた。だけど、思いきれなかった。認めたくなかったけど、ゴーテルが怖かったんだな。
だけど、ヨハンが理不尽にも、こてんぱんにのされたんだ。黙っちゃいられない。
俺は威勢良く振り返って、ゴーテルを睨みつけた。愚か者はお前だって、一喝してやるつもりだった。ところが、ゴーテルと目が合うと、俺は臆病な子ウサギみたいに、ぷるぷる震えるしかなくなった。そんな俺を一瞥したゴーテルの慍色に、憫笑が上書きされる。ゴーテルはヨハンを爪先で軽く蹴って、嘲弄も露わに言い放った。
「違うか。泣き喚き、他者に縋る無様な真似、まがりなりにも騎士である貴様には、思いもよらぬ術だろう。入れ知恵したのは、妹の方か?」
「そんな……滅相もございません! 私どもは誠心誠意、ノヂシャ殿下にお仕え申しております! ノヂシャ殿下を唆嗾するなど、断じて」
「黙れ。聞きたくねぇんだ、言い訳なんぞ」
ゴーテルはヨハンの顎を蹴りあげて、黙らせる。鍛えようのない急所をガツンとやられて悶絶するヨハンを冷やかに見下して、ゴーテルは唾を吐き捨てた。
「だらしねぇな。ブレンネンが誇る勇猛果敢な騎士様が、聞いて呆れるぜ」
これだ、ニーダー。部屋から出られないあんたが、知っていたかどうか、わからねぇけど。ゴーテルは基本的に、こんな調子だった。傍若無人の暴君だった。病に伏せた父上は、いないようなもので、俺は何の力もないガキで。だからあの頃のブレンネン王城に、実質的に君臨していたのは、ゴーテルって言う暴君だった。
誰もゴーテルの専横を止められなかった。俺は止めたかった。でも、俺にはそんな力がない。せめてもの意地で、俺はゴーテルの顎を踵で蹴りあげようとした。狙いは定まらなかったけど、ちょっと掠った。やってやったぜ、ってほくそ笑んだ直後に、俺は震えあがった。ゴーテルが俺を見ている。ゴーテルの顔を見られない。だけど、やっちまったものはしょうがない。俺は目を固く瞑って、自棄になったように叫んだ。
「ヨハンもマリアも、関係ない! おれが嫌なんだ、あのひとはおかしい! 気持ち悪いんだよ、だから会いたくないんだ! おれがあのひとを嫌うのは、他の誰でもない、あのひとのせいだ!」
言い切った。言ってやった。ニーダー、あんたは怒るだろうな。ゴーテルも、怒っただろうな。
俺は肩で息をしていた。苦しかった。得体の知れない恐怖が俺を締め上げていた。殴られたり、蹴られたりした経験はなかった。俺は王子様だからな。だけど、ゴーテルならやりかねないと思っていた。ヨハンよりも酷く痛めつけられるかもしれない。どうしようって、俺は怯えていた。
ゴーテルは大きく息を吐いた。俺は竦み上がった。両腕で頭を抱えて、体を縮こめて、目をきつく閉じて、身構えていた。
丸くなった団子虫みたいな俺を見て、ゴーテルは屹然と溜息をついた。暴力はふるわず、ゴーテルは俺を抱えなおした。
「ノヂシャ殿下。あなた様はまだ幼すぎる。ご成長遊ばされれば、自ずとおわかりになることです」
まるで意味のわからない言葉を呟いて、ゴーテルは淡々と言った。
「時間を無駄にしました。参りましょう、ノヂシャ殿下」
ゴーテルは颯爽と外套を翻して歩き出す。蹲るヨハンのことは、石ころみたいに無視した。俺はゴーテルの肩口から、ヨハンの背中を見ていた。ヨハンはもう、ゴーテルを引き止めなかった。俺を心配して振り返ることもしなかった。
俺はものすごく後悔したんだ。助けを求めるべきじゃなかった。そんなことをしたって、事態は好転しない。ヨハンも俺も、余計に傷ついただけだ。遠ざかる背中を見つめながら、俺は落ち込んだ。ヨハンに嫌われたらどうしようって、ヨハンが見えなくなるまでは、そればかり心配していた。
俺は借りて来た猫みたいに大人しく、ゴーテルに運ばれた。ゴーテルは黙々と歩を進めて、あっと言う間に、あの女の部屋の前まで、俺を連れて行った。
床に降ろされても、脱兎の如く逃げ出そうとは思えなかった。ゴーテルがヨハンに振った暴力は、俺の心を深く抉り、恐怖を刻みつけていたんだ。ひょっとすると、ゴーテルは恐るべき力を誇示することで、きゃんきゃん吠えて噛みつく俺の、柔らかくて丸い牙を、封じようとしたのかもしれない。
俺は為すすべもなく項垂れていた。ゴーテルが俺の背後に回り込んで、俺の両腕を纏めて捻り上げたから、俺は仰天した。両手を拘束された俺は、たまらずに抗議した。
「な、なにするんだ、やめろ!」
「ご無礼をお許しください」
ゴーテルは心にもない謝罪をした。暴れる俺を押さえつけて、何処からともなく取り出した布を俺の両手首に巻く。その上に縄をあてて、複雑に縛り上げる。
俺はうろたえた。跳ねるように暴れる。ゴーテルはゆるゆると頭を振った。
「窮屈でしょうが、しばしの御辛抱を願います。ああ、なりません、そのように暴れてしまわれては、大切なお体が傷つきます」
「だったら、解けばいいだろ!」
「それは出来ません。罷り間違って、妃殿下を傷つけてしまわれることのないように、必要な措置なのです。それがノヂシャ殿下、御身の為にもなります」
つまらねぇ脅しだ。あの女に傷一つつけたら、ただじゃおかねぇってよ。臆病なガキには効果的だが、生憎、縛り上げられそうになって、パニックを起こしていたもんで、せっかくの脅し文句の内容が理解できなかった。
俺が力の限り喚いて暴れても、ゴーテルの作業に支障は無かった。だけど、半狂乱の俺を、あの女にくれてやる訳にはいかない。ゴーテルはあの女にぞっこんだからさ。そこのところは、俺よりもニーダー、あんたの方が詳しいかな。
ゴーテルは、俺を押さえつけていた大きな手を、ぱっと放した。俺は勢い余って、前のめりに倒れこむ。顔面をしたたかに打ちつけちまったぜ。瞼の裏で星が瞬いた。
だけど、痛い痛いって騒ぐのは癪だ。俺は痛みを堪えた。後ろ手に縛められているから、肩を床に押し付けて、なんとか振り返る。ゴーテルは俺の心配なんか一切しないで、冷たく言い放った。
「どうしても、御理解を頂けないのでしたら、止むを得ませぬ。お心の赴く儘に、お行きください」
俺はきょとんとした。「えっ? いいの?」なんて、間抜けにも弾んだ声で訊き返す。
ゴーテルは唇の端をめくりあげた。バカなガキだって、せせら笑っていた。ゴーテルは小鳥を丸呑みにしようとする狼みたいに、真上から俺の顔を覗きこむ。切り口上で言った。
「ノヂシャ殿下の御振る舞いをお諌めするなど、恐れ多いこと。咎められるべきは、ノヂシャ殿下をそのように頑なにさせる無能どもに御座います」
ゴーテルが微笑む。冷たい笑顔だ。背筋が凍る。ゴーテルは猫撫で声で続けた。
「ご心配召されるな。万事心得ておりますとも。諸悪の根源は、ヨハンとその妹です。妃殿下の最愛でいらっしゃる貴方様が、妃殿下の真心を踏みにじって当然だ、などと、冷酷にお考えになるのは、あの二人に唆されたからで御座いましょう?」
ゴーテルは大きな体の重さを微塵も感じさせないで、身軽に居上がる。瞳を凶暴にぎらぎらさせて、獲物の喉笛に食らいつくように、恐ろしい言葉を吐いた。
「お任せあれ。逆賊どもには、罪を贖って余りある罰を。ブレンネンに伝わる拷問の秘奥を駆使して苦しめて御覧にいれましょう。罪びとの惨めさをご覧になれば、殿下のお気持ちもきっと、然るべくして正されます」
ここまで明言されれば、バカなガキにも、脅されてるってことが理解出来た。俺が駄々をこね続ければ、ヨハンとマリアの身に、大変な災難が降りかかる。
俺はあの女が大嫌いだ。あの女の良いようにされるなんてまっぴらご免だ。だけど、ヨハンとマリアを酷い目にあわせてまで、回避したいのかと迫られたら……俺は観念するしかなかった。