手を繋ぐ二人
俺は大人しくニーダーの腕におさまっていたのに、ニーダーはすぐに抱擁を解いた。暴れん坊の仔猫が腕の中から逃げ出しちまったみたいな、諦め顔で苦笑いしてさ。
俺はニーダーが妙に素っ気ないのは、親愛の情を行動で示すことに不慣れだからだと思っていた。ブレンネンの男が女子供の頭を撫でて褒めたり、抱きしめて愛情を伝えたりすることは、めったにないだろう。
名残惜しく感じたのを気取られるのが嫌で、俺は眉根を寄せて、わざとぶっきらぼうに、話の穂を継ぎ変えた。
「良い名前かも、しれないけどさ……おれの名前だけ聞いたらきっと皆が、草に手足が生えたみたいな姿を想像するだろうな」
ニーダーは愉快そうに瞳をきらめかせた。
「それって、面白い。君の肖像画を、そんな風に描いてみようかな。手足だけじゃ誰かわからないから、頭もちゃんとつけて描こう」
「バカ、描くなら真面目に描け!」
鋭く言い返す。眉間の皺をさらに深くしようとして、俺は見事に失敗したよな。忍び笑う俺を見て、俺の顔色を窺っていたニーダーが頬を緩めた。詰めていた息を吐く。
ニーダーは俺を楽しませて、喜ばせるべきだと感じていた。例え理由が何であろうとも、この上なく喜ばしいことだった。
俺は少しの間、意地悪な気持ちと愉快な気持ちを天秤にかけていた。その間、ニーダーが描いた海の絵をなんともなしに眺める。
寂しい絵だ。見ていると気持ちが落ち込む。すごく綺麗なのに誰もいない、寂しい海。
そこで閃いた、ふとした思いつきが、俺には名案に思えたんだ。うきうきと弾む心に弾き出されたみたいに、俺は身を乗り出して、絵肌に触れる。未踏の新雪に覆われたような、真っ白な砂浜を指差したまま、身を捩ってニーダーを振り返えった。ニーダーは俺の言葉に耳を傾けようとしたんだろう、腰を屈めて顔を寄せてくる。ニーダーが傾聴の姿勢を示したことに気を良くした俺は、上機嫌で言った。
「そんなにおれを描きたいならさ、ここに描いて良いぞ」
ニーダーは狐に摘ままれたような表情で、俺を見た。俺はニーダーが俺の提案に戸惑っているのに気付いて、ちょっとイライラしながら……俺の言葉が足りなかったんだ。ニーダーは悪くない……俺は出来る限り噛み砕いて説明しようとした。
「こんなに綺麗な景色なのに、誰もいないのは寂しいだろ。だから、ここに俺を描くんだ。あんたは俺の絵が描けるし、この絵はもっと良い絵になる。一石二鳥だ」
ニーダーは相槌をうった。でもそれは、お義理でしたことで、如何にもおざなりだった。俺が喋っている途中から、余所事を考え始めていたのは明らかだった。
細い顎に手を添えて、ニーダーは海の絵を見つめていた。眉根を寄せて、描かれた空より美しい双眸を眇めて、難問に挑むような顔つきで。俺でもなく、目の前にある海の絵でもなく、何か別のところへ注意を向けていた。
ニーダーの無関心ほど、俺の心に反発を引き起こすものは無い。ニーダーがあともう少し長く物思いに沈んでいたら、俺はぱっと立ちあがってニーダーの耳を掴んで、無理やり俺の方に向かせていたかもしれない。その手前の、本当にぎりぎりのところで、ニーダーは口を開いた。蝶番を軋ませる重い扉が開くみたいに。
「それは……良い考えだ」
たったそれだけの発語が、酷く難しい事のように、ニーダーは言った。
俺は何度も頷いた。当然の判断だと思っていたから、ニーダーが結論を紡ぎだすまでに辿った思考を知る必要性を感じていなかった。
ニーダー、あんたが俺の姿を海の絵に描き足すことを承諾してくれて、俺は嬉しかった。あんたの絵はあんたの心だから。俺はあんたに、受け入れられたと思ったんだよ。
俺ははりきって、ポーズをとろうとしたよな。あんたは面食らったようだった。気取って前に立つ俺を見て、おかしくて堪らないって、腹を抱えて笑ってた。
俺の肖像画は何人かの画家に、いくつか描かれていた。画家は俺を前に立たせて、あらゆる角度で眺めまわし、スケッチして、鏡に映したような絵を描いた。だから俺は経験則から絵の価値は「魂を閉じ込めたような、禍禍しい程の写実性」だって考えていたのさ。
ニーダーの絵は違った。
ニーダーは、俺をじろじろ眺めまわしたり、あれこれ注文したりしない。ニーダーの視線は、花から花へ飛び回る蝶みたいに、あちこちへ向けられる。本を山ほど引っ張りだしてきて、丹念にページを捲ったり、時には天井の隅を凝視したり、目をつぶってじっとしたりもする。
面白くなかったよ。じっとしていられない、落ち着きのないガキには、画家に拘束される時間は苦痛でしかなくて、マリアにしょっちゅう
『じっとしてなきゃいけないなんて、嫌だ。俺は蝶の標本じゃない』
なんてぼやいていたけどさ。あんたには、俺を見ていて欲しかった。優しいようで、鋭いその視線で留められるなら、蝶の標本になっても良かったのに。
ニーダーは俺を殆ど見なかった。俺はそのことを喜ぶべきだったって、気付いたのはずっと後だった。あんたが俺を見なかったのは、俺の姿はあんたの心の中にあったからだ。ニーダーが描くのはその心の中で、大切に育てた夢なんだ。
ニーダーは現実を描きたかったんじゃない。夢を描きたかった。なぁ、そうだろ、ニーダー。
ありのままの現実なんて描きたくなかったんだよな。あんたにとって現実は、ものすごく残酷で、あんたを悲しく、惨めにさせるだけだった。
あの頃の俺には、それがわからなくってさ。癇癪を抑えようとして、足元に注意しつつ、ニーダーの部屋をうろうろ歩きまわっていた。ニーダーの目を盗んでこっそり、本の並びを変えてみたり、挟んだままの栞を抜いてみたりしたな。後でニーダーが困れば良いと思って、せっせと意地悪をしたんだ。
笑っちまうだろ? そんなことをしなくても、俺の心臓が鼓動しているだけで、ニーダー。あんたの胸は焼け焦げているって言うのに。
そんな幼稚な悪戯で無聊を慰めていたんだけど、それもすぐに嫌になった。俺は真剣にカンヴァスに向き合うニーダーにズンズン歩み寄って行って、画架の脚を蹴った。目を丸くして見上げる、あどけない表情を一瞥して、俺はつっけんどんに訊ねた。
「描けた?」
「いや、まだ」
俺は怒りに胸を波打たせた。俺にしては涙ぐましい努力の甲斐あって、ニーダーを呆れさせるような、汚ない言葉で罵ることは、辛うじて避けられた。
「とろくさいなぁ、ニーダーは」
なんて嫌味を言わずには、いられなかったけどさ。この程度は、ニーダーは笑って受け流してくれる。俺の幼稚な皮肉に、軽い調子で言い返した。
「せっかちだなぁ、ノヂシャは。そんな、ポンポン判を押すみたいに手早く描くなんて、僕にはとても出来ない」
笑いながら、ニーダーはカンヴァスに視線を戻す。ニーダーを睨みつけていた俺だったけど、そうしているうちに、腹の底で煮えたぎっていた苛立ちは、たちどころにおさまった。
ニーダーは楽しそうだ。筆を運ぶたびに、ニーダーの目が喜びに煌めく。光り輝く青い星みたいに。
俺はニーダーの隣に並んだ。ニーダーが操る筆の先から、湧き出るように綺麗な色が踊りだす。色は帆布の上で踊り、意味をもつ形を為していった。
夕日にも染まらない輝きを誇る銀色の髪と、好奇心に満ちた青い瞳をもつ、生意気そうなガキが、白い砂浜に現れた。
俺だけど、俺じゃない。俺の姿が、特徴を捉えながら、変形、湾曲して表現されている。だけど、違和感はない。ニーダーが描く世界にふさわしい、俺の姿だ。一目で気に入った。
だけど、完璧じゃない。少し考える。答えは簡単に導き出せた。
俺はニーダーの背中に飛び付く。肩に顎をのせたら、不思議そうなニーダーの顔が間近にあった。俺はにやっと笑って、腕を伸ばす。そしてニーダーに指図した。
「おれの隣に、あんたを並べて描くんだぞ」
「……どうして、僕を?」
ニーダーは怪訝そうに眉をしかめる。俺は素直に答えた。
「ひとりじゃ、つまらないだろ」
俺は、至極当然のことを言ったつもりだ。同調を得られると確信していたんだが、ニーダーは俺の期待したような反応を示してくれなかったんだ。ぼんやりしているように見えた。或いは、途方に暮れているようにも。
ややあって、ああ、だか、うう、だか呻くように返事をして、キャンバスに向き直ったけど、筆を動かす気配はない。
俺は辛抱強く待った。ところがニーダーは描かない。描くのを躊躇っていた。俺は待ちきれなくなって、ニーダーの手から絵筆を引っ手繰る。
呆気にとられるニーダーの前に回り込んで、背を向ける。振り返らずに、どっかり腰を下ろした。ニーダーの膝の間に。
ニーダー、驚いた? それでもあんたは、俺が落っこちないように、受け止めて支えてくれたんだ。
ニーダーをクッション代わりにして、俺は生まれて初めて、カンヴァスに色をのせた。
俺の瞳を彩るのと同じ青で、荒々しい線で、俺はニーダーを描いた。ニーダーが丁寧に描き出した世界に、俺の下手クソな絵が上塗りされる。あの時感じた高揚を、俺はあんたの世界に踏み込めた喜びだと思っていた。
だが、今になって思えば、あれと良く似ていた気がするんだ。綺麗な蝶を捉えて羽を毟る、あれに酷似していた。良心を切り裂くことでしか得られない、甘美な味がした。
俺は迷いのない線で、ニーダーを描いた。俺とニーダー以外の奴には、ニーダーだってわからなかっただろうけど、それで良いのさ。俺たちに二人だけが、わかっていれば良い。
俺が描いたニーダーはにっこり微笑んでいた。左右で長さの違う腕をひろげて、左手を俺に向かって伸ばしている。さらに、波打ち際で遊ぶ俺の体に、三本目の腕を描き足して、伸ばす。ニーダーの手と繋ぎ合せて、俺は満足した。のけぞるようにニーダーの顔を仰ぎ見て、俺は笑った。
「ほーら、おれの言う通りにしたら、良い画になった」
ニーダーは目をぱちくりさせた。繊細に作り上げられた綺麗な世界を、俺の稚拙な落書きが台無しにしている。だけど、ニーダーは怒らなかった。
「そうだな。良い絵になった。ノヂシャのお陰で、この絵はついに完成する」
ニーダーはとりとめない口調で言うと、俺の頭をよしよしって撫でて、俺を褒めた。
得意の絶頂にいた俺は、ニーダーの顔が暗く翳っていることに気付かなかった。そして、とびきり尊大な調子で言った。
「おれが王様になったら、一緒に海を見に行こうな。ニーダーは、海が好きだろ? おれが連れて行ってやるよ」
ニーダーはきょとんと目を丸くする。首が痛くなるくらい、ニーダーと見つめ合ってから、俺はぶすっとむくれた。
「なんだよ、信じてないな?」
俺はぴょんと跳ねるように立ち上がった。くるっと反転して、ニーダーに向かい合う。俺は積み重なった本の上に置きっぱなしの、野ヂシャの花を摘まみ上げると、ニーダーの鼻先につきつけた。
「約束を守る誠実な花の名にかけて誓うよ、絶対にあんたを海に連れて行ってやる」
ニーダーは緩慢な動作で、俺が差し出した野ヂシャの花を受け取った。
「ありがとう。僕は……僕には、その優しい気持ちだけで十分」
俺はニーダーの首っ玉に飛びついた。ニーダーを思いやる俺の好意を受け入れてくれたと思ったんだぜ。……滑稽だと思うだろ? あんたは、端から俺の愛情を受け取るつもりなんて、なかったってのに。
だけど、それでも良い。あの女の仕打ちに比べれば、あんたの仕打ちは優しいもんだ。あんたは俺を見てくれる。あんたは俺が俺としてここにいることを認めてくれている。だから、俺はあんたのことが好きなんだ。
好きだから、俺はあんたを許す。欺かれ、嘲られ、真心を踏みにじられようが、構いやしない。この俺を、可哀そうなあんたの、やり場のない怒りと悲しみの捌け口にすれば良い。
あんたは俺を騙していた。俺を好きなふりをしていた。
あの頃はまだガキだったから、俺は裏切られたと深く傷ついたが、愚かだったよ。あんたは俺に夢を見せてくれていたんだ。とっておきの甘い夢は、あんたは、あんただけは、俺自身を好きになってくれるって、俺に思いこませた。
夢が醒めても、あんたは俺を見てくれるんだ。あんたが憎しみをぶつけているのは、他の誰でもない。この俺だ。なぁ、そうだよな、ニーダー?
あんたは俺のすべてを奪ったつもりだろうが、それでいて、あんたは素晴らしい贈り物をくれたのさ。この愛しさには、すべてを差し出すだけの価値がある。




