愚かなままの3
強い衝撃を受けると、少しの間、何も感じなくなる。痛みも苦しみも、怒りも悲しみも、遅れて襲ってくる。きっと、それらの歓迎出来ない刺激が許容量を超えたときに、このような感覚に陥るのだろう。
「なぜ、そんなことを?」
そう問いかけたとき、ニーダーは自分でも驚くほどに冷静だった。じわじわと、腹の底から恐ろしいものがせりあがってくるのを感じながら、ニーダーは泣きじゃくるラプンツェルの、弁解じみた言葉にじっと耳を傾けていた。
「もう、あなたに嘘をつけない」
ニーダーはラプンツェルの手首を捕まえて、顔を隠す手を退けさせた。ラプンツェルがぱっと顔を上げた拍子に、真珠のような涙が睫に払われ頬を滑り落ちる。
濡れた瞳を覗き込み、ニーダーはラプンツェルの思惑を推し量ろうとした。澄んだ水のように青い瞳はどこまでも深い。ひきずりこまれ、溺れそうになる。魔性の瞳だ。ニーダーをどうしようもなく狂わせる。ラプンツェルの前では、自制心など何の役目も果たさない。いつか、野に放たれた獣のように、ラプンツェルを蹂躙してしまいそうで、とても恐ろしい。
「君は、この子を愛していないのか。私を憎んでいるから?」
ニーダーは努めて冷静に、自らの心を切り裂く言葉を口にしなければならなかった。
嘘でもいいから、否定の言葉が欲しかった。それで、ニーダーは荒れ狂う感情を、ひとまずは鎮めることができただろう。
それなのに、ラプンツェルはうんともすんとも言わない。ラプンツェルの瞳を覆う涙の膜が揺らいで、また一滴、頬を滑り落ちる。
嘘をつけないラプンツェルの愚直さが、ニーダーをふんわりと甘い砂糖菓子のような夢から、乱暴に現実に引き戻した。
「まさか君は……その憎しみを晴らすために、この子を犠牲にするつもりで、ノヂシャのもとへ行ったのか?」
ラプンツェルが瞠目する。ニーダーは総身が氷のように凍えていくのを感じていた。
ラプンツェルはニーダーを憎んでいる。家族を辱め惨殺した張本人を、許すわけがない。そんなことはわかりきっている。だからこそ、ニーダーはラプンツェルを暴力と恐怖で支配しようとした。そうすれば歪んだ容であれ、愛を手元にとどめておけると考えた。
一度は、それではいけないと考え直した。父王がすべてにおいて正しいわけではない筈だ。脅かし強制するより、もっと良い方法がきっとある。ひたむきに慕うことで伝わる愛もあるのだと、信じてみたかった。
ところが、所詮は、甘ったれた夢物語に過ぎなかったようだ。
腕のなかでラプンツェルが身じろぐ。拘束を振りほどき、逃れようとするかのように。
「それは違うわ!」
ラプンツェルが身を切るように叫んだが、ニーダーにはとても信じられない。どう言い繕おうとも、ラプンツェルは逃げようとしている。もしもニーダーが、彼女を気遣って、腕の力を緩めたら、彼女はたちまち逃げ出してしまうにきまっている。
そんなことは、絶対にさせない。
ぎりぎりと締め上げるような抱擁に苦しみ身を捩り、喘ぎながらラプンツェルは悲鳴を上げた。
「待って、ニーダー……お願いだから……話を聞いて……!」
「その必要があるのか?」
ニーダーは冷笑した。心を冷たく閉ざさなければ、崩れ落ちてしまいそうだ。
「延々と恨み言を聞かされたところで、私にはどうすることも出来ない。君は私を決して許さず、命ある限り憎み続ける」
「それでもいいと、あなたが言ったんじゃない!」
ラプンツェルがきっとニーダーを睨みつける。険しいまなざしに心を抉られたけれど、傷つく資格がニーダーにはない。ニーダーは残酷で、冷酷で、非道な怪物だ。しかし、心はある。ラプンツェルを愛する心は、ちゃんともっている。
「そうとも。私は愛されず、憎まれても構わないのだ」
ニーダーは喀血するように、自虐の言葉を絞り出す。
「優しさよりも痛みが、心に食い込む。愛より憎悪が、心を捕える。今の君が、それを証明している」
ラプンツェルが喉を振わせ、唇を戦慄めかせる。ニーダーは発作的に、ラプンツェルを突き飛ばし、仰臥した彼女に馬乗りになった。ニーダーを押しのけようと肩をつかんだ両腕を、彼女の頭の上で一纏めに拘束し、空手で喉を扼する。さほど力を込めたわけではなかったが、ラプンツェルを怯えさせ、黙らせるには十分だった。
これでいい。あんな目をしたラプンツェルには、何も語って欲しくない。
ニーダーは時間をかけて、乱れた呼吸を整えた。そうすることで、心の乱れをも落ち着かせようとしていた。
暴力でラプンツェルの復讐心を摘み取り、愛を植え付けることが出来る確信があるのなら、すぐにでもそうしよう。だが、ニーダーにはうまく出来る自信がない。それに、彼女の腹には、待望の我が子が宿っているのだ。万が一のことがあってはならない。
ニーダーは激情を押し殺し、掠れる声で言った。
「私は良い。もとより覚悟の上だ。しかし、この子は違う。この子には何の罪もない。君の憎しみに、この子を巻き込むべきではない」
ニーダーはそう言い捨てて身を引いた。ラプンツェルに背を向けて、寝台の淵に腰掛ける。額を抑えて項垂れていると、跳ね起きたラプンツェルが背にとびついてきた。肩越しに振りかえると、銀色の小さな頭が揺れている。柔らかい拳でニーダーの背中を叩きながら、ラプンツェルは泣き崩れた。
「わかってる……そんなことは、もうわかってるの!」
ラプンツェルはニーダーの背に額を押し付け、細い肩を震わせる。熱い涙がシャツに染みる。あまりに儚げな様子に、ニーダーは俄かに憐憫と後悔を覚えた。
ラプンツェルが混乱するのも無理はない。不倶戴天の仇の子を孕み、育てなければならない。葛藤はどれほどのものだろう。
しかし、ラプンツェルは優しい女性だ。憎い男の子どもとは言え、憐れむ心を持ち合わせている。生まれてくる我が子を、愛することが出来るのか否かと、不安になって涙するということは、いくらかの望みがあるということだ。
ニーダーは体ごと、ラプンツェルを振り返った。泣き顔を見ていられずに、頭を抱え込むようにして抱き寄せる。ラプンツェルは抵抗せずに、ニーダーの胸に体を預けた。
「私を憎んでいても、この子を愛することは出来る筈だ」
ラプンツェルを諭すつもりの言葉は、祈りのように切実な響きをもっていた。
両手で顔を覆うラプンツェルの両手をそっと外し、顎に指をかけて上向かせる。ニーダーは今一度、暗示をかけるように繰り返した。
「出来るよ、君になら」
高い塔の狂人たちは、ラプンツェルにはそのおぞましき正体を明かしていなかった。ニーダーの母、ミシェルに逃げられた過去を反省し、彼らは偽ることを覚えたのだ。
彼らは愛情深い家族として、ラプンツェルを慈しんでいた。愛に包まれて育ったラプンツェルだから、我が子を愛することも出来る筈だ。
ラプンツェルは母とは違う。
ラプンツェルは消え入りそうに小さな声で何か言っている。ラプンツェルの口元に耳を近づけると、微かな悲鳴が聞き取れた。
「わからない……私には……わからない」
ラプンツェルが、睫がからまりそうなほど近くから、ニーダーの瞳の奥を覗き込む。心の奥底に鍵をかけてしまった筈の、記憶のふたをこじあける。
『わからない。私にも、わからないの』
床に仰臥する母。その細い体に馬乗りになり、母の細頸を締め上げる父王。うつろに濡れた瞳で父王を見上げ、か細い声で母は言う。
『なぜ、愛する貴方の子を』
どくん、と固い心臓が脈打つ。しびれるような痛みが全身をかけめぐる。
聞きたくない。これ以上は聞きたくない。幼い日の心の叫びが、耳元で鳴り響く。警鐘のように。
(陛下は母上を疎み、殺めようとしている)
(それでも、母上は陛下を愛している)
(僕は母上をお守りしたい。だって、母上には僕しかいないように、僕にも母上しかいないのだから)
(母上をお助け出来るなら、僕はどうなったって構わない。たとえば、二目と見れない醜い化け物になったとしても、それで母上をお助け出来るのなら、僕は後悔しない)
(ああ、でも、母上は僕を……!)
耳を劈くような叫びがひび割れる。涙を流してほほ笑む母の白い顔に、闇のような黒髪がまとわりついている。母のひび割れた唇が静かにゆっくりと、言葉を紡ぎだす。
『憎まずにいられないのか』
初めて、ニーダーの目を見てほほ笑む、母の言葉ははっきりと聞こえた。けれど、理解はできない。なぜ? なぜ? わからない。なぜか、涙が出る。
(ああ、痛い。ああ、ああ、とても痛い!!)
「痛っ……!?」
すがるように抱きしめていたラプンツェルの体がびくりと跳ねた。悲痛な悲鳴があがる。はっと我に返ったニーダーは、慌ててラプンツェルの肩をつかみ、体をはなした。
「ラプンツェル? どう……」
ニーダーは目を疑った。肩を掴んだ手が、血に染まっている。
反射的に手をひく。何かの鉱物のように固い手が、血に濡れててらてらと光っていた。
ラプンツェルはニーダーの挙動不審に気がつかない。酷く痛むのだろう、背に手をった。ぱっくりと割れた傷口に触れた彼女は、恐れるよりも、驚いていた。
「え……なに、これ……どうして……?」
驚愕に見開かれたラプンツェルの双眸が答えをもとめてうつろう。ニーダーは咄嗟に、血まみれの右手を背に隠した。
今度こそ、ラプンツェルはニーダーの挙動不審に気がついた。訝しげに眉を顰めている。その瞳の凍える色は、母のそれと同じ色をしている。
ニーダーは考えるより先に、まくしたてていた。
「違う、違うんだ、そんなつもりではなかった。傷つけるつもりはなかった。僕は、あなたを……違、違う、ラプンツェル。わ、わた、わたし、は……」
ニーダーは、何を口走っているのかわからなくなってきた。わからない。何を言っているのだ? 誰に許しを乞えばいい? 誰を傷つけてしまったのだろう?
いったい、何をどこから、間違えていた?
ニーダーは弾かれるように寝台から飛び降りていた。突進するように扉を押し開き、裸足のまま、駆け出していた。
「ニーダー……!」
ニーダーを呼ぶ声が遠ざかっていく。しかし、ニーダーを糾弾する声はどこまでもついてくる。
『あなたさえ生まれなければ、私は幸せだったのに!』




