愚かなままの(2015.04.13加筆修正しました)
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進むべき道はひとつしかない。
ニーダーはなめらかな白い壁を見上げた。どこにも手を、足をかけられる凹凸が見当たらない。振り仰ぐ母の部屋の窓は、はるか雲の上にあるかのように感じられる。
今が盛りと咲き誇る美しい花々を俯瞰すれば、景色が霞む高さに、眩暈がした。
恐怖が北風のように、小さな胸に吹き込んでくる。臆病ものの体が震える。それでも、進むべき道はただひとつ。この壁を登るしかない。それ以外の選択肢は、残されていない。
緊張と高揚で震える指先で壁に触れてみる。固く冷たくつるりとしていて、氷のようだ。初めて触れたのに、その感触をよく知っている気がした。ニーダーを寄せ付けない、拒絶し跳ね返す、この壁の感触を。
窓から身を乗り出す。風が強く吹き上げてくる。窓枠にしがみつき、慎重に立つ。
壁をまさぐるが、手をかける凹凸はない。焦るニーダーの耳に、冷笑を含んだ声が聞こえる。
「私を憎んでいるのだろう」
静かな激情にかられた、凍える炎のような声調。燃え盛る炎に薄い肌を焦がされるように、苦痛と焦燥を覚える。壁に掌をなすりつける。汗でしっとりと湿っているけれど、吸いつきはしない。
「その憎悪が私の……を奪う前に」
ごう、と風が吠える。よろめきながらも背伸びをして、腕をいっぱいに伸ばして、壁を探る。震える爪先では支えきれず、体が揺れるたびに血が凍るようだったが、諦められない。
はやく。一刻もはやく。はやくしなければ。はやくしないと、手遅れになる。
閉ざされた窓の向こうから低い声が、大きな風の音に掻き消されることなく、ニーダーの耳に届く。
「私がお前を殺す」
非情な宣告がニーダーの胸を深々と射抜く。意識が砕け散るような衝撃が、ニーダーを襲う。呪わしい言葉は石壁に反響する轟音のように、いつまでもニーダーを責め苛んだ。
ぐるぐると渦を巻く、その言葉の恐るべき意味を理解するまで、しばらくかかった。
壁に爪をたてた。五指に渾身の力を込める。もちろん、小さな柔らかい爪では、堅強な壁に傷すらつけられない。傷を負うのはニーダーの方だ。爪が剥がれかけ、皮が剥けて血が滲む。白い壁に血の赤い線がはしる。何の意味もなさない。すがりつく当てもない。
大きな音をたてて母の窓の硝子が揺れる。はっとして見上げると、がたがた揺れる窓硝子に、繊細な掌が押し当てられている。なにかしらの衝撃に耐えるように、びくびくと震えていた。
母の手が力なく落ちるまで、もう一刻の猶予もないと悟ったとき。ニーダーの体に、生まれて初めての感覚が駆け巡った。怒りのように熱く、絶望のように冷たい。そして、なにものにも例え難いほどに、激しかった。
ニーダーの指が壁を穿ち、突き立つ。ニーダーは彼を拒絶する壁に、躊躇いなく、抉り込んだ。
「母上!」
***
荒れ狂う夜の海に投げ出されたような目覚めだった。海をその目で見たことがないニーダーだけれど、想像はできる。高波にのまれ、深い海の底に沈められ、苦しみもがき、死に物狂いで水面に顔を出す瞬間は、ちょうど、このようなものだろう。
上体を起こし、肩で息をする。悪夢に魘され跳ね起きたという、この状況を理解してはいた。ただし、ここが現実なのか、それとも、夢の続きなのか? という疑心暗鬼の混乱から立ち直るまでには、しばらくかかった。
混乱の波がひき、落ち着きを取り戻すと、ニーダーは自己嫌悪に陥った。重く苦しいため息を落とし、右手に顔をうずめる。
悪夢に恐れをなして逃げ出すとは、情けない。なんという有り様だ。ある人々にとっては、このニーダー・ブレンネンこそが、悪夢の化身であるだろうに。
どんな夢だったか、内容を思い出せないのはきっと、精神の逃避という、臆病の為せるわざなのだ。
そう考えると、唇の端が捲れた。自嘲を、自己嫌悪を、己に禁じる理由が今ここにはない。ニーダーが正真正銘の、威風堂々とした王であるかどうか、見極めようとする猜疑の目も、流石に寝室にまでは及ばない筈だ。
遠くの人々は、ニーダーがつくりだした虚像を実像だと、無邪気に信じている。しかし、すぐ傍にいる人々の目を誤魔化すことは、難しい。
古い家臣の中には、忠臣を装いつつ、背に隠した猜疑の刃を研ぎ澄ませている者もいる。悲劇の王子が、実は名王を降ろしその座についた簒奪者であると、うすうす感づいている者さえ、いるかもしれない。
夢なんて、曖昧模糊としたものにかかずりあっている暇はない。現実は確実に肉薄してくる。
厳めしい表情をつくり、次の手を講じなければ。
疑いの眼を欺いて、疑心を交わして、なんとかして若き良き王ニーダー・ブレンネンを保たなければならない。
いま、幸福の梯子を、ついに登り始めたところなのだ。
ずっとずっと求めてきた幸せの天使を、愛しいラプンツェルを、ようやく手に入れた。それだけで、天の国に招かれるよりも喜ばしいことなのに、ラプンツェルはその先の喜びまでもたらしてくれた。ラプンツェルのおなかには、ニーダーとラプンツェルのこどもがいる。
苦しみに満ちた生は、きっと、この先の為にあったのだと、ニーダーは確信していた。どうしようもなく愚かで弱く、愛に値しない故に不幸せだったニーダーを、ラプンツェルが変えてくれる。この先はきっと、喜びと幸せに満ちていると、生まれてはじめて信じられる。
だから。つまらないことで躓いていられない。
「ニーダー……?」
か細い声で名前を呼ばれて、ニーダーは我に返った。ラプンツェルが、細い指で寝ぼけ眼をこすっている。
「すまない、起こしてしまったか」
言ってしまってから、己の愚鈍さに舌うちしそうになった。確認するまでもない。なぜ、もっと気のきいたことを言えないのだ。
ニーダーは俯き、隠れて顔をしかめた。隣で眠っていたニーダーが、上掛けを撥ね退けとび起きれば、いくらこどものように深く安らかに眠るラプンツェルでも目を醒ます。身重の彼女に負担をかけまいと気を張っているのに、無意識のうちに失敗してしまうなんて、きっと意識が低いのだ。
ここのところ、ラプンツェルは毎晩のように悪夢に魘されているようだった。眠れぬ夜が続いているようだった。可哀想に、感じやすいラプンツェルは、ルース公爵とルナトリアの悲劇に心痛めているのだ。
今朝、ルナトリアとノヂシャの狂気に脅かされ、散々に泣き疲れ、ラプンツェルは酷く消耗した。その代わりと言っては難だが、久し振りに深い眠りを得られたのだ。それなのに、ニーダーが台無しにしてしまった。
くよくよしても仕方がない。ニーダーは気を取り直して、ラプンツェルを寝かしつけることにした。二人分の命を預かる体には、十分な休息が必要な筈だから。
ところが、顔を上げたとき、ラプンツェルの花の顔が目の前にあって、ニーダーはするべきことを失念した。
ラプンツェルの小さな掌が、ニーダーの額にそっと触れる。汗で額に張り付いた髪を払う指先に迷いがなかった。ニーダーの心には喜びとともに小さな不安がきざす。
ラプンツェルは、ニーダーを恐れていない。少なくとも、今、この瞬間は。親密になれた証だと、素直に喜んでいいのだろうか。
そんな都合の良いことがあるものかと、心のなかでもう一人のニーダーが冷笑する。
これは不吉な予兆だ。恐怖による支配という枷が、緩み始めている。枷が外れたら、引き留める術をなくしたら、ラプンツェルはきっと逃げてしまう。
ニーダーはラプンツェルの瞳を見詰めた。吸い込まれそうな青い瞳を見詰めると、どうしようもなく不安になって、胸が苦しくなる。ラプンツェルはまっすぐに見返してくれているように見えるけれど、本当は、ニーダーのことなど眼中にないのではないかと、疑ってしまう。
この奇跡のように素晴らしい女性を、自分のような者が、いつまでとどめておけるのだろうか。
ラプンツェルがニーダーの頬に手を添える。その手に己の手を重ね、ニーダーはラプンツェルの掌に頬を擦り寄せ目を閉じた。
ラプンツェルはここにいる。こんなにも近くにいる。それなのに、不安が消えない。
目をきつく瞑るニーダーとは対照的に、ラプンツェルは目を丸くしていた。小首を傾げて、怪訝そうに眉をひそめる。
「ねぇ、あなた、大丈夫……じゃなさそう。ひどい顔色よ。灯りをつけなくてもわかる。真っ青だもの」
「私が軟弱ものに見えるか? 君のほうこそ、心配だ。大切な体を、もっと労って欲しい。夜はまだ長く続くのだから、眠りなさい」
有無を言わせぬ声調で言ったつもりだったが、ラプンツェルはニーダーの言うことをきいてくれない。ラプンツェルを寝台に横たえようと伸ばした腕をすり抜けて、懐にもぐりこんできた。
「ラプンツェル」
咎めるために、厳しい声音をつかって名前を呼んだけれど、ラプンツェルは反応をしめさない。難しそうな渋面をつくって、小さく唸っている。
ニーダーもまた、小さく唸った。ラプンツェルは思索にふけると、なかなか現実に戻ってこないのだ。
結局は、ニーダーはラプンツェルが戻ってくるのを、待つことにした。譲歩には慣れている。情けないことに、ラプンツェルの機嫌を損ねるくらいなら、その方が良いと思ってしまう。
せめてと思い、膝の辺りにわだかまるブランケットをラプンツェルの肩まで引き上げる。ほんのすこし触れ方を間違えただけて、砕けてしまいそうなこの細い体に、二人のこどもが宿っているのだ。信じられなくなりそうなくらい、不思議で神秘的だ。
ニーダーは、腕の中にすっぽりおさまる、最も大切で最も恐ろしい妻の顔色をうかがった。冷たい色の瞳の奥を覗きこめば、そのどこまでも深い心のなかも覗ければいいのに、なんて思いながら。
男ならば、簡単に主導権を明け渡すべきではない。ブレンネンでは、男性は強くあり、女性を導き守るべきだとされ、こどものころから、そうあれと教えられる。
ブレンネン王国を象徴する、王となるべきニーダーは、もちろん、そのように躾けられた。しかし、気の弱さと意気地の無さがたたり、年下のルナトリアに振り回されてばかりいたのだ。三つ子の魂百までもとは、よく言ったものだ。
ルナトリアのことを思うと、ニーダーの胸は剣に刺し貫かれたかのように痛んだ。
朗らかで元気いっぱいで、時々おてんばが過ぎるけれど、心優しいルナトリア。唯一無二の親友であり、実の妹のようでもあった。留学を経て、素晴らしい淑女に成長し、帰国した彼女と再会を果たしたニーダーの喜びは、言葉には言い表せなかった。きっと素晴らしい結婚をして幸せな母親になるだろう。そう、信じて疑わなかった。
それなのに、あんなことになってしまうなんて。
後悔ははかりしれない。ルナトリアが失ったものは、二度と戻らない。夫、名誉、女性としての幸せ。そこには、ニーダーとルナトリア、二人の友情も含まれている。
ルナトリアは大切な友人だった。今もそうだと、本当はそう言いたい。けれど、それはもう、無理なのだ。狂気に陥り、ノヂシャに唆されたからとはいえ、ルナトリアは最愛の妻と子に害をなそうとした。許すわけにはいかない。
ラプンツェルはニーダーに残された唯一の希望だ。
かつてニーダーは、それを求めて、足掻いて、拒絶された。ニーダーはすべてにおいて間違いをおかしすぎていた。
自分が求めるものに相応しくないことは、わかっている。それでも、今度は諦められない。




