natsuho
夏ホラー2007への出品作品です。真夏の恐怖の祭典。いろんな作家さまが参加されています。詳しくは特設サイトで!
それでは、常夏の島へのフライトから、お楽しみ下さい……。
いつもの機内食。
見た目は悪いが味は良い。
コンソメスープはシンプルだが深い味がするので特にお気に入りだ。
僕は今、ハワイ行きの旅客機に乗っている。
今回のツアーで、ハワイはちょうど30回目になる。
プライベートではない。仕事だ。
夜の空を飛んでいると、自分がいるのは確実に、地上よりも宇宙に近いと感じる。
長時間聞こえ続けているので気にはならなくなるが、機は絶えず轟音を発しながら、地上を遥か離れた中空を移動している。
フライトアテンダントが食べ終えた食器を片づけてくれる。僕はペットボトルの水を口に含み、ゆっくり呑みこんだ。
今回のハワイ4泊5日のツアーの参加者は58名。担当する添乗員は僕一人だ。
お客の中に具合の悪そうな人がいないか定期的に観察する。
特に異常はなさそうだ。
ただ、さっきからちょっと気になる女性客がいて、僕は周囲を確認するふりをしながら僕の席の斜め後方に座っている彼女の様子をうかがった。
彼女は、一心不乱な表情で週刊誌を読んでいる。そしてときおりこの世の終わりのような表情をしてため息をついている。
地味な眼鏡をかけている、若い女だ。
服装や髪形は決してダサくはない。むしろ控え目でオシャレだと僕の目には映る。
暗めのこげ茶色に染めた髪は、無造作な印象を与えるが丁寧にセットしているし、部分的にレースが使われた服は適度に女の子らしくて素直に可愛いと思う。
前の座席の小物入れに差していたお客さま名簿を取り出し、眺める。
Natsuho Miyamoto (23)
宮本夏穂。23歳。1984年8月14日生まれ。
つまり、明日で24歳の誕生日を迎えることになる。
彼女はこのツアーに一人で参加していた。
僕は基本的に、群れる女性が嫌いだ。
そして、一人で行動がとれる女性が好みだ。
宮本夏穂さんは、物静かな印象をたたえながらも、その瞳は常に何かを考えているように見える、そんな人だった。今日はじめて見た女性だが、変に目で追ってしまっていた。
彼女は、ときおり週刊誌から目を離すと、周囲を注意深く見渡す素振りを見せていた。なにかを探しているのだろうか。
あきらかに挙動不審だ。
「なにかお困りのことでも?」と声をかけようかと迷った。しかし、しばらくすると自然な動作で薄い毛布をあごの辺りまで掛けて、眠る体勢に入ってしまった。
僕も、彼女にならってしばらく眠ることにした。
なにせ、ハワイには朝の7時に着くのだ。時差には職業柄慣れている方だが、今日という1日――8月13日は、連続で43時間も続くのだ。休んでおくに越したことはない。
僕は冷える機内の空気から逃れるように毛布を肩にかけて、目をつぶった。
約7時間のフライトを終え、僕たちは“常夏の島”に到着した。
空港での手続きを経て、ツアー客の一団を誘導する。
ハワイ、オアフ島。
ホノルル国際空港に降り立つ。
日射しの眩しさが日本とは全く違う。ハワイの太陽に比べたら、日本の太陽は夏風邪を引いた病人みたいなものだ。
強烈に輝く太陽。だけど、空気は驚くほど爽やかだ。風は涼しくさえ感じる。
人数確認や、これからの行程の簡単な案内を行い、皆を誘導する。
出迎える現地スタッフが、ハイビスカスで作ったレイを客たちの首にかける。そして、ハワイの大地に降り立った記念撮影をする。
僕は添乗員としての役割を果たしながら、58名いる客の中にまぎれている宮本夏穂の姿を追っていた。
すごく嬉しそうな、表情を輝かせている夏穂の姿が見えた。
日本からハワイにやってくると、旅行客はまず19時間の時差に直面する。
19時間感覚がずれていると云うより5時間ずれていると云った方がわかりやすいか。
身体の感覚的には深夜2時なのに、着いたハワイの時刻は朝7時なのだ。よって、初日の、バスによるハワイ市内観光がはじまると、海外旅行に慣れていない客は強烈な睡魔に襲われ、パタパタと眠っていく。
しかし、夏穂は違っていた。
何かを確かめるように、思い詰めたような、でも真剣に楽しんでいるような複雑な表情をして、女性バスガイドの案内に耳を傾け、流れゆくハワイの景色を見つめていた。
正午、ショッピングモールに到着。3つの店から客が好きな店を選ぶスタイルで昼食を食べてもらう。
そして午後からもハワイのめぼしい観光名所をバスで回り、午後4時、ツアー客と僕が泊まるホテルに到着した。
各人それぞれの部屋にチェックインし、しばらくの時間、日本からの長旅の疲れを取ってもらう。
「しかし、恐れ入りますが、お休みになられる場合は、ほんの短い時間の仮眠になさってください。その方が明日からのハワイ時間に身体が馴染みやすくなりますので。皆さま、集合時間の6時に必ずお集まりいただきますようお願い致します」
僕はツアー客にそう念を押した。
僕は仕事柄、時差には慣れているし、寝ようと思ったらいつでもどこでも寝れるコツを身につけている。僕はホテルの部屋に入ると着替えなどを済まし、これからの行程の確認をして、集合時間の20分前に集合場所へと向かった。
年配のお客さんから次々と集まってくるので、「しばらくはこの辺りでお待ちください」と案内してまわる。
このツアーの初日の夕食は、ポリネシアンダンスショーを見ながらのディナー。これで本日のスケジュールは最後となる。
集合時間5分前に、宮本夏穂も現れた。
ディナーハウスに到着したころはもうすでにとっぷり日は暮れていて、入り口の松明に揺れる炎が辺りを幻想的に照らしていた。
薄暗がりの店内。
半裸と云ってもよい露出度の民族衣装を付けた男女のダンサーがステージ上で踊る。お客たちもこの頃になるとお互いにうち解け、おしゃべりを楽しみながら食事を取っていた。
僕は、夏穂がどうしてるか気になって、店内を見渡した。……姿が見えない。
おかしい。いないはずはない。待ち合わせ場所には確かに58名全員いたし、店内に入る際も人数の確認はしている。しかし、6時の集合以降、夏穂の姿を見た記憶が、僕にはなかった。
「誰かお探し?」
女性の声がした。
少し低めの、ささやくようなやわらかい声。
数秒の間、僕はそれが誰だかわからなかった。
オレンジの、花柄の大胆なパレオを身に纏った、肌もあらわな女性。髪にはハイビスカスをあしらった髪飾り。
「こんばんは、添乗員さん」
耳から入ってくるというより、肌に直接染みこむように聞こえてくる、ウィスパーヴォイス。
「あ……っ。こんばんは、――宮本さん」
それまでとはまったく印象の異なるたたずまい。扇情的ないでたち。魅惑的な視線。
そこにいたのは、信じられないが、宮本夏穂だった。
「アロハシャツ、すごく似合ってるね」
いきなりのため口だった。面食らった。こんなキャラだったのか? それとも、南国気分でテンションが上がって開放的になっているのだろうか?
だけど僕も職業柄、社交的な会話や臨機応変な対応には自信がある。昔から人見知りもしない方だし、おしゃべりは大の得意だ。いつまでもあっけにとられているような僕ではない。
「宮本さんこそ、昼間お見かけしたときと印象が違って、また一段と素敵ですね。柄にもなく見とれてしまいまして、失礼致しました。そのパレオは日本から持ってこられたんですか?」
と、さらりと受け答える。
「現地調達です。昼間ショッピングモールに寄ったときに買いました」
夏穂は今度は僕に合わせてですます調で答えた。
僕も大人の男性だ。女性が化粧の仕方で見違えるほど印象が変わることぐらい、頭ではわかっている。
だけど夏穂の変化は、“印象が違う”という次元のものではなかった。
「へぇ、お昼に。あの短い時間でよくそんなにご自分に似合うものを見つけられましたね」
「はい。……上原さん?」
夏穂が、僕の胸の名札を見ながら呼んだ。
「下の名前は、なんて読むの?」
またため口に戻った。
「楯です。上原楯」
「ジュン。上原、ジュンか。いい名前ね。――ね、こちらの席に来ない? 一緒に食べましょ」
夏穂に誘われ、僕は席を移動した。
僕らは向かい合って、民族音楽の流れる薄暗いディナーハウスの中、厚みのあるジューシーなステーキにかぶりついた。
誰かが云っていた言葉を思い出した。「食事とSEXは似ている」と。
食も性も、本能であり文化である点。
マナーや人間性が大切である点。
回数や量が人それぞれである点。
そして、男女ともにそれが必要である点。
ステーキの脂でテカった夏穂のくちびるは淫猥に光り、そこから覗く赤い舌は肉食獣のそれを思わせた。
ディナーハウスの夕食は、僕の食欲を満足させた。
次は、もう一方の欲求を満たしたい気分になっていた。
そしてどうやらその気分は、夏穂も同様であるようだった。
バスでホテル近くまで戻ってくる。今日はそこで現地解散だ。
各自飲み足りない者は夜のバーやラウンジにくり出すだろうし、長旅と時差でくたびれてしまった者はホテルの自室に戻るだろう。
僕の、添乗員としての本日の業務は終了した。
そして僕と夏穂は、ホテルの僕の部屋に一緒に入り、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。
もちろん、睡眠を取るためじゃない。
むさぼるようにお互いのくちびるを合わせた。舌を絡ませる。口元がお互いの唾液でべとべとに濡れる。
夏穂の汗ばんだ首筋を舐めあげた。汗の浮かぶ肌の味を味わい、汗と薄く匂う香水の混じり合った匂いを吸いこむと僕の身体の芯は溶岩が流し込まれたような感覚が吹き上がってくる。
お互い、服を一枚ずつ、少しずつ脱がせていった。露出が増えるごとに、気持ちの段階も上がってくる。
夏穂の身体は美しかった。服を着ているときより脱いで乱れた今の方が綺麗だった。
熱い息を股間に感じ、僕は夏穂を見る。悪戯っ子のような瞳と目があった。
夏穂の赤い舌は息の熱さに反して冷たく感じた。僕が異常に熱を発しているからそう感じたのかもしれない。
この圧倒的な快楽と愉悦に比べたら、ストイックな恋愛感情なんて薄っぺらで絵に描いた駄菓子みたいなもんだ、そんな風にも思えた。
ハワイの夜が――いや、夏穂の身体が――ぼくの頭と身体を狂わせていった――。
熱帯夜の熱さと嵐の激しさのような僕と夏穂の肉体の交わりが絶頂を迎え、部屋に漂う満足感と脱力感に浸っていると、夏穂がゆっくりとベッドから身を起こした。
「楽しかったわ。……それじゃ、私、戻るわね」
下着を身につけながら夏穂はそう云った。
「もう少しゆっくりしていけばいいのに」
僕の言葉に夏穂は微笑みで答えると、そのままてきぱきと服を身につけ、髪を器用に整えると、軽い口づけをして「またね」とだけ云った。
夏穂は、南国の通り雨のように一気に僕をずぶ濡れにすると、あっという間に消えていなくなってしまった。
その晩僕は、泥のように眠った。
ハワイ4泊5日のツアー、二日目。
今日はクアロア牧場行きがメインだ。クアロア牧場では、四輪バギーで広大な渓谷や山道を走ったり、馬に乗って雄大な風景を楽しんだりと、様々なアクティビティが楽しめる、人気のあるコースだ。
午前8時30分、いつもの集合場所に参加希望者が集まってくる。若いカップルなどの参加率は高いが、年配の女性などはこの日から本腰を入れてショッピングに集中する者も多くなるので、クアロア牧場に行く参加者は31名だった。
夏穂も参加してきた。
今日の夏穂は、昨晩の色気がしたたり落ちるような夏穂とはうって変わって、控え目な、どちらかといえば地味な格好で現れた。眼鏡もかけている。
なんだかとても顔色が悪いように見えた。
お客と特別な関係になってしまったことが他のお客にバレるような下手はしない。だけど、何らかの目配せくらいはあってもいいだろうと思い、僕は自然な素振りをキープしながら夏穂に近づいた。
ところが、夏穂は僕の接近に気づいてくれなかった。無視しているという感じではなく、本当に気づかなかった感じだった。
体調を崩したのだろうか?
気にはなったが、夏穂はしかしすばやくバスに乗り込んでしまったので、声をかける機会を逃してしまった。
僕は点呼を取って、最後にバスに乗り込んだ。
クアロア牧場についてからはいろいろと案内や注意事項の説明に忙しく、夏穂に話しかけるゆとりなどなかった。特に四輪バギーは無茶な運転をする若者がまれにいて、以前事故も発生したことがあるので念入りに注意を行う必要もあった。
夏穂は、映画『ジュラシック・パーク』や『ゴジラ』のロケ地にもなったこのクアロア牧場をバスで見てまわるアクティビティと乗馬を選んだようだった。
夏穂の表情は、やっぱり複雑だった。心から楽しもうとしているように見える。事実楽しそうに見える。だけどどこか深刻そうな影が浮かんでいるように見えた。
お客がそれぞれのアクティビティを満喫して、集合場所である食堂に集まってくる。ここで昼食のビュッフェランチをとるのだ。
夏穂が食堂に入ってきた。食堂ブースに行列ができているのを見て、食事の前に土産物が並んでいる一角をぶらぶら歩いているところに声をかけた。
「昨日はよく眠れましたか?」
一応用心して、丁寧口調で話しかけた。ところが、夏穂は僕の挨拶にとても驚いた様子で目を見開いて僕を見たあと、きょとんとした表情で「あ……はい」とだけ答えた。
一瞬別人に話しかけてしまったのかとさえ思った。しかし、いくらなんでも他人の空似のはずがない。彼女は間違いなく宮本夏穂だ。
「乗馬は楽しかったですか?」
僕が続けて質問するが、夏穂はぎこちない笑顔で「そうですね。……馬が、すごく可愛かったです」と、なんだか奇妙に当たり障りのない返答をして、「……それじゃ……」と云うとまだ人がたくさん並んでいるビュッフェの方に行ってしまった。
クアロア牧場での行程が終わり、僕たちはワイキキへのお迎えのバスに乗り込んだ。
夏穂はというと、バスに乗り込んでしばらくすると器用に小首をかしげたまま寝入ってしまったようだった。
ワイキキへ到着。僕は、客が三々五々散っていくのを見届けた。
午後からは自由行動だ。つまり、不測の事態が起きない限り、僕はこれからフリーとなる。
どうやって過ごそうかなと考えていると、後ろから「……あの……」という声がかかった。
振り返ると、夏穂が立っていた。
彼女は突然、意を決したような表情で僕にこう云った。
「あの、……すみません。ひょっとして昨日の夜…………私に会いませんでした?」
今度は僕が、きょとんとする番だった。
夏穂に「あとで、ちょっとお時間いただけませんか?」と頼まれ、僕は承諾した。そして、3時間後にホテルの近くのレストランで待ち合わせることにした。
僕は大事な要件を思い出したので、タクシーでアラモアナショッピングセンターまで出かけた。ついでに夏穂との夕食のときに恥ずかしくないようある程度ちゃんとした服を上下購入した。なにせワイシャツとスラックス以外にはアロハシャツと短パンしか持ってきていなかったからだ。2時間程度で要件を済ませると、またタクシーでホテルの自室に戻り、着替えを済ませて待ち合わせの場所へと向かった。
宮本夏穂は約束の時間前に来ていた。
店内は、ハワイアンの音楽をオシャレなジャズ風にアレンジしたピアノ曲が流れている。
夏穂は、薄いレモンイエローのブラウスを着て、首からじゃらっとしたネックレスをかけていた。髪は無造作な感じでサイドでひとつ結びにしていた。ヘアピンでおでこを少し見せている。ヘアゴムに着いてるコサージュも可愛かった。
でも、夏穂の表情は、硬かった。
夏穂はこう云った。
「昨日上原さんが会ったのは……私じゃないんです」
ということは昨日の色っぽい派手な印象の夏穂は、夏穂の双子のお姉さん? と思ってそう質問しようとしたら、店員が注文を聞きに来たので先にオーダーを済ませた。
数秒間の沈黙。先に口を開いたのは夏穂だった。
「……こんなこと云うと、変なヤツって思われると思うんですけど……」
肩をすくませて、テーブルの上の水の入ったグラスを凝視しながら、そう前置きを口にして、しかし夏穂はそのまま黙ってしまった。
「…………昨日僕があったのは、夏穂さんじゃなくて、誰だったんですか?」
僕の方から、そう質問した。
夏穂は、云いにくいのか、唇をかみしめたりくちびるを舐めたりしながら、どう説明すべきか、といった仕草で言葉を探している様子だった。
沈黙が30秒ほど続いた。
そして意を決した様子で、夏穂はこう云ったのだ。
「こんな話、とても信じてもらえないと思います。――信じないでしょうけど……、あなたが昨日一緒にいたのは、……私のドッペルゲンガーなんです」
…………?
ドッペルゲンガー……?
僕が困惑するのは夏穂の想定の範囲内だったようだ。夏穂は続けた。
「ドッペルゲンガー。本人と同じ顔、同じ姿をした――偽者です。昨日上原さんが会ったのは、私のドッペルゲンガーなんです。私も、ハワイに来てから、アイツの姿を見かけました」
夏穂は、額に浮かぶ汗をハンカチで拭いた。
「……疑ってますよね、私のこと」
「い、いや……」
僕は正直、返答に窮した。
ドッペルゲンガーという存在のことは聞いたことがある。真偽のほどは定かではないが、歴史上の人物の中でも己と同じ姿をした者を見かけたことがあるという者はけっこう数多くいるらしい。
ドッペルゲンガーとは妖怪みたいなもので、ドッペルゲンガーを見たものは、そのあと必ず死ぬという。そういった伝承というか妖怪話だったはずだ。
だがそれはやっぱり、フィクションの世界の話のはずだ。現実にはもちろんいるはずはない。
「ドッペルゲンガーを見たものは、ひと月以内に必ず死ぬんです」
夏穂はそう云った。
「上原さんはご存じないようですけど……今年に入ってドッペルゲンガー事件は日本で多発してるんです。……まぁ、テレビとかでおおっぴらにやってるわけじゃなくて、内容が内容だから、インターネットとか週刊誌とかでしか取りあげられてないですけど、ドッペルゲンガーを目撃して、ひと月以上生き延びれた人は誰もいないそうです」
飛行機の中で一心不乱に読んでいた週刊誌にも、ドッペルゲンガー関連の記事が載っていたということか。
「……その、自分のドッペルゲンガーを見た人の死因って、なにか決まってるの? みんながみんな謎の死とか、突然の心臓発作とかでどんどん死んでいったら、さすがにマスコミや警察も注目するんじゃないの?」
僕は疑問点を尋ねてみる。
「それです。そこが一番やっかいなんです。……見た本人が死んでも、ドッペルゲンガーが本人の死体を処分しちゃって、そのまま本人と入れ替わって、何喰わぬ顔で生活しているケースが多いから、回りでも気づく人が少ないんです。……ただ突然“人が変わった”ってだけじゃ、事件としては取りあげられないから……」
作り話としては、出来がいいのか悪いのか。
もしこのような荒唐無稽な話をしているのが宮本夏穂じゃなかったら、僕は「最近はいい薬があるらしいですよ」みたいな無責任なことをいって席を立っていたかもしれない。
しかし悲しいかな、宮本夏穂は僕の女性の好みに根元的にマッチしていた。何が気に入っているのか自分でもわからないのだが、彼女のために自分に何かできることはないか、なんて柄にもないことを考えていたんだ。バカバカしいとは思うけど――自分でも。
「……それで、夏穂さんがご自分のドッペルゲンガーを見たのは、いつだったんですか?」
「7月17日。職場の窓から外を見たときに。……視線を感じたんで。その日はちらっと見かけただけだったから、他人の空似だと思ったんです。でも次の日、職場から自宅に帰る途中で向こうから話しかけてきました。『次はアンタだ』……って。私怖くなって、ネットとかで調べたら、そういう事件がすごく増えてるって知って……」
今日はツアー二日目。つまり8月14日。最初にドッペルゲンガーを見てから確かにもう1ヶ月が経過しようとしている。
「それでも最初のころは手の込んだイタズラだって思いたかったんです。だけど、さらに次の日、今度は私の部屋の中に――鍵はちゃんとかけてたのに――あいつが現れて、『もうあとのことはあたしにまかせて、アンタ死ねば?』って云ったんです。私びっくりしたけど、『あなた一体誰なのよ!』って聞きました。そしたら私の顔をしたそいつは、『私はあなた。このさい、どっちがオリジナルかなんて野暮なことは云わないで、入れ替わらない? アンタみたいな地味な人生じゃなくて、ハッピーでゴージャスな人生を私が代わりに送ってやるわよ』って云いました。私すっごく頭にきて、怒りが恐怖を上回っちゃって、思わずそいつに殴りかかっちゃったんです。だけど……」
夏穂はそのときの様子を思い出しているのか、無表情な顔をさらに青ざめさせて続けた。
「……そいつは私の目の前で消えました。煙みたいに、すっと」
夏穂はコップのグラスをちびりと飲んで、さらに続ける。
「仕事の疲れやストレスとかでノイローゼになったのかなとも思いました。だけど、私がやっている知的障害者の福祉施設での仕事は比較的簡単な事務がほとんどで、回りのスタッフもいい人ばかりだし、休みも十分取れてるし原因が疲れやストレスとは思えなかったんです。だからカウンセリングとかクリニックとかには行きませんでした。それよりもネットで噂になっている“ドッペルゲンガー現象”の方が自分には信憑性があって……」
「だから信じることにして、対策を考えはじめたのよね」
「!?」
横から突然声がして、僕も夏穂も驚愕した。
「あらあら。そんなに驚かないでよ失礼ね。……ジュン、昨日はとっても素敵だったわ。また今夜も、どう?」
そこに立っていたのは、髪をゴージャスな巻き毛にした、ピンクのドレスを身に纏った、もう一人の“夏穂”だった。
「なによぉ、そんな化け物を見るような目で見ないでよ。失礼ね」
「どっか行ってよ!」
「私はアンタが手に入れきれなかったものをなんでも手に入れる。だから、アンタの方がこの世からドロップアウトするの。それが、運命なんだから!」
「うるさい! うるさいっ!!」
同じ顔をした女が、おんなじ声で云い争いをしている。あきらかに、二人とも今、僕の目の前に存在している。
「今日で24歳よね。一応、おめでとうを云いに来たの。ハッピーバースデイ夏穂」
「――っ!!」
激昂した夏穂(本物)が、偽者に向かって水の入ったグラスを投げつけた。しかしその攻撃をすばやく身をひるがえしてかわした偽者夏穂は、隠し持っていたナイフで(!)本物夏穂に切りかかった!
「あぶないっ!」
僕は偽者の腕をつかまえようとしたが間に合わず、偽者のナイフの一撃はブラウスの肩口を切り裂いた。
夏穂が身をすくませる。
僕は「やめろっ!」と叫んで偽者を取り押さえようと動いた。が――、
「それじゃまたね、お二人さん――」
そう云い残すと、夏穂のドッペルゲンガーは煙のように一瞬で、その姿を消したのだ。僕の目の前で。
キツネにつままれたみたいだった。……いや、実際にキツネにつままれたことはないが。
消える瞬間に見えた偽者は、勝ち誇ったような表情を浮かべていた――。
僕らの騒ぎを聞きつけた店員がやって来た。夏穂はショックで頭を抱えたまま震えている。僕は英語で問題ない、うるさくして申し訳ないといった旨のことを伝え、戻ってもらった。
「……あの……、肩、大丈夫?」
「……平気です。……ごめんなさい」
夏穂の肩の切り傷からはわずかに血が滲んでいた。
偽者は、本当にオリジナルの夏穂を殺そうとしているのだ。
寝ぼけているのではないし、これで夏穂の「二重人格説」も否定された。
「……ドッペルゲンガーも、さすがに外国までは着いてこないんじゃないかって……そんな風に思ってたんだけど、……甘かった」
夏穂がぽつりとそうつぶやいた。
「……ハワイに来たのには、二つ理由があったんです。ひとつは、もし本当に一ヶ月以内に死んでしまうんだったら、死ぬ前にもう一度、ハワイの風景を見て、気持ちのいい風に吹かれたかったんです。特に……子どものときに親に連れてきてもらったときに見た、あのダイアモンドヘッドの頂上からの朝日が……もう一度見たいと思ったんです」
ダイアモンドヘッド。ハワイで一番有名な観光スポットだ。僕も数回登ったことはあるが、朝日は一度も見たことがない。
「そしてふたつ目の理由が、あのドッペルゲンガーから逃げるため、でした。あんなにはっきり実体のあるヤツだから、なんていうか、空港のチェックとかに引っ掛かって、着いて来れないんじゃないかって思って。……相手はあんな化け物なのに、そんな常識的な考えは逆にバカバカしい浅はかな悪あがきだったみたいです」
夏穂は自虐的に微笑むと、ため息をもらした。
僕は、まださっきの動揺も残っていたし、突然の展開に頭がついていっていなかった。気の利いた言葉も浮かばなかった。
人間、このような土壇場で、化けの皮が剥がれて真意が問われるのだ、と痛感した。僕は薄っぺらな人間だった。
「……まだ、死ぬって決まったわけじゃないし……」
僕の声は、我ながら頼りない声色だった。
「あきらめちゃ、駄目だよ」
僕の言葉は夏穂の耳には入っても、心には入っていかなかった。
夏穂は、顔を上げると、今まで見た表情の中で一番冷たい顔をして、僕にこう云った。
「……昨日、あの人と寝たんですね」
……痛いところをつかれた。
言葉が出てこなかった。
「別に、責めてるわけじゃないです。……ただ」
彼女は、そのあとの言葉を云わなかった。代わりに別の言葉を口にした。
「……一人にしてくださいませんか」
「…………うん」
僕は自分の名刺の裏にホテルの部屋番号をメモして、「なにかあったら僕の部屋はここだから」と告げて、席を立った。
僕のズボンのポケットには夕方買った、赤と白の石でできたロングネックレスが入っていた。
24歳の誕生日プレゼントとして、渡すつもりで準備してきたのだ。
さすがに、このタイミングで渡すのは気まずいしみっともないのは僕だってわかっていたけど、そのままポケットに入れっぱなしで帰るのは惨めすぎると思った。
だから、
「あの……24歳の誕生日、おめでとう……」
とだけ云って、夏穂の前にネックレスの入ったリボン付きの小箱を置くと、僕はその場を立ち去ろうとした。
「……あの、上原さん」
5,6歩進んだところで、夏穂が声をかけた。
「……ごめんなさい、巻き込んでしまって」
悲しげな表情だった。
僕は無言で微笑んで、首を横に振り、軽く手を上げてその場を立ち去った。
一人のホテルの部屋。僕は寝苦しい夜を過ごしていた。
明け方に見た夢は、自分の分身――ドッペルゲンガーに追いかけられる夢だった。
ハワイツアー三日目。美しいビーチで泳ぐ客、本場のフラダンスを見たり教わったりする客、ショッピング三昧に耽る客。それぞれに常夏の島の休日を味わっている。
僕はこの日、夏穂を見かけることはできなかった。
ハワイは太陽が近くにある。
ハワイに何度か来たことのある客は通ぶって、「本当のハワイの魅力を知りたいなら、オアフ島以外の島に行かなくちゃ。オアフ島の魅力を知りたい場合も、まずはワイキキを離れなくちゃ」といったことを云いたがる。
それはある意味正解だし、事実ワイキキ以外の場所にはハワイの真の魅力に溢れるスポットがたくさんある。それはツアコンの端くれである僕もわかっている。
だけど僕はそれでもワイキキが一番好きだ。
ハワイが持つスピリチュアルな空気とか、大自然の壮大さとか、古代の人々の叡智とか、そんなたくさんの輝きに満ちた魅力をわかった上で、再びワイキキに立ち戻ってみると、また違う深い懐と複雑な味わいを感じることができる。
僕の中で、一番ハワイらしい場所であり、世界で一番“楽園”という言葉の似合う場所は僕にとってはここ、ワイキキだ。
おそらく、宮本夏穂にとってもこのワイキキいう場所は特別なのだろうと思う。己の分身がもたらす死の恐怖に怯えながらも、彼女はこの想い出の場所、ハワイを心から楽しもうとしていた。
中でも、ダイアモンドヘッドには特に強い思い入れがあるようなことを云っていた。
明日は、陽が上がる前から――午前5時に集合して、夜明け前のダイアモンドヘッドに登る。僕も同行する。
夏穂が来てくれることを祈りながら、僕はハワイ三日目の夕食を、一人で食べた。
ダイアモンドヘッド。
標高232メートル。
30万年目の噴火によって出来た山だ。
朝日が昇る前にダイアモンドヘッド登頂を果たし、山の頂から神秘的で雄大な景色と日の出を望むという今日のこのコースに、参加者は21名いた。
夜明け前のこの時刻はまだ真っ暗で、なんとか時差になれてきたお客たちも、眠そうに大きなあくびをついている。
そこに、夏穂が現れた。
レトロな雰囲気の白地に赤のプリントTシャツにジーンズという、シンプルな格好。白い帽子をかぶって、スニーカーも白だった。
夏穂は、まっすぐに僕の方へと歩いてきた。
僕はその勢いにちょっと押され気味になって「……お、おはよう、ございます……」と挨拶した。夏穂は僕の目の前までやって来るといきなり
「おとといはごめんなさい」と、そう云ってぺこっと頭を下げた。そして続けた。
「昨日も、アイツ私の前に現れました。『アンタが死ぬのは明日だ』って云ってました。……もう私、逃げません。アイツが何をしてこようが、私はせっかくやってきたこのハワイを楽しみます。そう決めました」
力強い、宣言だったと思う。声がわずかに震えていたのを差し引いても、そう云って差し支えない立派な宣言だったと思う。
「……僕に、できることがあったらなんでもする。君を守るよ」
僕も、想いを言葉にした。
我ながらクサイ台詞だったが、意外と不自然には聞こえなかった。
「上原さん。……プレゼント、ありがとうございました。……すごい可愛くて、気に入りました」
夏穂が、Tシャツの胸元から、僕が上げた赤と白のネックレスを取り出した。
「つけたところ、一番に見せたくて……胸元に忍ばせてきました」
微笑んでそう云った夏穂の照れた顔を見て、僕は恋におちた。
もう僕は、添乗員という立場は忘れることにした。夏穂の恋人、兼、夏穂を守る騎士。そんな気分だった。
夜明け前だったが、懐中電灯などは必要ない程度に空は明るさがあった。
ハワイの太陽に照らされた夏穂の白い肌は赤く灼けていた。特にほっぺたはまっ赤だった。
「日焼け止め、きちんと塗ってたのにこれなんですよ。日射し強すぎ」
屈託なく微笑む夏穂のとなりを歩く僕。
山道はとてもなだらかで、広々している。朝が来る前のこの時間帯に吹き抜ける風はとても涼しくて、僕たちの身体を冷やしてくれる。
「夏なのに“穂”ってつくの、おかしいと思いませんでした? 思わないか、別に」
「え、どうしておかしいの?」
「だって稲穂とかって普通秋でしょ? 秋穂とかならわかるけど。おなじ“ナツホ”でも、船の帆の帆をとって夏帆とか。それが自然なはずなんですよ、一般的には」
ダイアモンドヘッドの山道を歩きながら、夏穂はとてもおしゃべりだった。僕は彼女との会話を楽しみながら、ときどきあのドッペルゲンガーが現れないか周囲を警戒しながら歩を進めた。
「それで親に名前の由来を聞いたら『夏穂の“穂”は炎の“穂”からとったんだよ』って答えてくれたんです。“炎”って漢字はもともと“火の穂”――“ほのほ”が訛って“ほのお”になった言葉らしいんです」
日本にいる夏穂の両親は、娘の帰りを待っているのだろう。そんなことにも思いをはせた。なんとしてでも無事に日本に連れて帰りたい。
「なんでも、太陽のことを“夢の炎の花”って表現した詩があって、――私もその表現すごいって思ったんですけど――その詩の“炎”の部分が“ほのほ”って標記されてるのを見て、両親も“炎”って言葉の由来を知ったらしいんです」
夏穂は笑うと花がほころぶような可愛さを溢れさせる女の子だった。表情がすごく豊かでくるくる変わる。無邪気な笑顔――文字通り、瞳に邪気がない。
毒の華のような光をたたえた偽の“夏穂”の瞳が脳裏に蘇った。
今思うと邪悪な光だったように思えた。
「だから私、夏の夢のほのおの花なんです」
夏穂はご機嫌だった。その気分が僕にも乗り移り、警戒心はキープしながらも、このダイアモンドヘッドのハイキングをだんだんと心から楽しめるようになってきていた。
夏穂が話してくれた「ほのお」という言葉の由来話のお返しに、僕もひとつうんちくを語ってみせることにした。
「フラダンスとかの“フラ”って、どんな意味だか知ってる?」
「ううん、知らない」
「フラダンスはもともと、神々に捧げられる聖なる踊りだったんだけど」
そう前置きをして続ける、
「hulaの“hu”はね、“昇る”っていう意味なんだ。そして、“la”は“太陽”を意味する言葉。つまり“hula”は“昇る太陽”とか“昇る火”って意味があるんだよ」
「へぇ……!」
夏穂は感心してくれた。
「今の夏穂の話を聞いて思い出したんだ。なんか、夏穂ってやっぱりハワイと浅からぬつながりがあるって感じがするね」
「浅からぬつながりって……上原さんってけっこう古風な言葉遣いする人だったんですね」
そう云って夏穂はまた屈託なく無邪気に笑った。僕も笑った。
空の色が、夜の暗い色から次第に青い色へと変化していく。
だんだんと、のぼり道の傾斜が急になってきて、足元も岩がゴツゴツしてきた。
ダイアモンドヘッドのハイキングコースは、所要時間こそ長くないが、変化にとても富んでいることで有名なのだ。
そして――
「でた……すっごい急勾配……!」
夏穂が嬉しそうな声でつぶやいた。
目の前には、人工的に作られた、長い長い階段がまっすぐに伸びていた。
「この階段は、てっぺんからの神聖な景色を見るための、最後の試練なんですよ」
口をぽかんと開けているツアー客に僕はそう声をかけた。
「さあ、登ろうか」
「うん。……この階段、すごく覚えてる。懐かしいなぁ」
夏穂が先に登りはじめる。僕がそのあとに続いた。
まさに天空への階段だ。
階段の上に覗く空には、明るい色が混じってきているような気がした。夜明けは近そうだ。
「上原さんのこと、日本を発つときから、ちょっといいなって思ってたんですよ」
前を行く夏穂がさらっとそんなことを口にした。
「……え?」
僕の方を振り返る夏穂。半開きの口から覗く白い歯。汗ばんで上気した顔。胸元で揺れるネックレス。
収穫前の稲穂畑をそよがせる風のような、爽やかな笑顔。
時間が止まったような感覚だった。
「だから、クアロア牧場で声かけられたとき、びっくりしたけどけっこう嬉しかった」
僕は、その告白に中学生のように動揺して、返事ができなかった。
「はいはい。前見てないと危ないわよ」
「え――っ?」
「あ……?!」
夏穂の上に、夏穂がいた。
ドスッ
僕の前を行く夏穂の、さらに数段上の階段に、アイツが立っていた。
夏穂の邪悪なる分身――ドッペルゲンガー。
そいつが夏穂を勢いよく蹴った。
蹴られた夏穂は階段を踏みはずし、一瞬からだが宙に浮く。
「夏穂っ!」
僕の右手が夏穂の二の腕を捉えた。そのまま自分の身体で受けとめる。良かった、左手でしっかりと手すりを掴んでいなかったら僕も階段を転げ落ちていた。
「殺しに来たわよ、オリジナルの夏穂ちゃん。彼氏にお別れの挨拶を済ませちゃいなさい」
偽夏穂は帽子をかぶり、灰色のパーカーとハーフパンツを着ていた。これまでの格好と比べるとずいぶん活動的な格好だ。
「夏穂! 下に逃げて!」
僕は夏穂にそう指示した。しかし、夏穂は僕の言葉に反して、階段を一気に駆け上がりはじめた!
「夏穂!」
僕の制止は間に合わなかった。夏穂は――腰に隠し持っていたナイフを取り出し――偽夏穂の胸に一撃を食わせた。
「あ、――アンタ……! やってくれたわね……!」
偽夏穂の灰色のパーカーに、血の色が滲んでいく。
夏穂は、突き立てたナイフを呆然と見ながら、階段を後ずさってくる。足元がおぼつかない。僕は階段を駆け上がり夏穂の肩を抱きとめた。
怒りの形相を浮かべるドッペルゲンガーは、これまでにも姿を消すときにそうだったように、煙のようにその身をかき消した。
血の付いたナイフが、音をたてて階段に落ちた。
「……やった……!」
夏穂が震えながらつぶやいていた。
ドッペルゲンガーとはいえ、人を一人殺したようなものだ。夏穂は「もう大丈夫……さあ、朝日を見に行きましょう」と気丈にそうつぶやいていたが、足や腕はまだ震えていた。
しかし夏穂の云うとおりだ。もう日の出までは少しの時間もない。せっかくハワイまでやって来て、決して楽ではない山道を歩いてきたのだ。頂上から、水平線に朝日が現れる瞬間をなんとしても見なければ――。
僕と夏穂は階段を登りきり、ダイアモンドヘッドの頂上へと足を進めた。
そして。
「とうちゃ〜く!」
夏穂がつとめて明るくそう云った。
僕たちは、ダイアモンドヘッドの山頂にたどり着いたのだった。
眼下に見えるワイキキの摩天楼は夜明け直前の静寂に包まれている。
広がる大パノラマ。
水平線の向こうがオレンジ色に染まってきていた。
「うわあ……綺麗……!」
夏穂の声の表情がさっきまでの素直なものに戻っていた。
「水平線が……丸い……。やっぱり、地球って丸いんだ……!」
「……そうだね」
僕も柄にもなく感動していた。
絶景だった。
もともとハワイには神聖なもの、神秘的な空気が流れていると感じるときがある。それは特別信心深くも感性豊かでもないこの僕でも、何度も訪れるたびにそう信じるようになったほど、不思議な力や伝説が息づいていると思える場所だったのだ。
だけど、このときほど――こう云うとバカバカしいだろうか?――僕は神々の世界に近づいたような錯覚を覚えていた。
僕をしてそう云わしめるほどの、神々しい風景だった。
すでに海の上に浮かんでいる雲たちは、水平線の下にいる朝日のまばゆい光を受けてオレンジと黒の陰影を美しく作りだしている。
「間に合ったね」
「うん」
炎の色をした新しい太陽が、海の向こう側から顔をのぞかせた。
ハワイに、新しい朝がやってきた。
「……上原、さん」
「ん?」
横に立つ夏穂が僕を呼んだ。
つま先立つ、夏穂。
僕の目の前に、夏穂の顔が接近してきて――。
僕のくちびると、夏穂のくちびるが触れあった。
数秒の間をおいて、今度は僕から夏穂に身を寄せた。
夏穂の腰に手を回し、自分の方に引き寄せる。少しのけぞり気味になる夏穂。
「……好きだ」
「……私も……」
頭では何も考えてなかった。ただ、やわらかい夏穂のくちびるにもう一度自分のくちびるを合わせたかったのだ。
しばらくの間、僕たちはキスを交わしていた。
そして、身を離すとお互いを見つめ合った。
同じツアー客が、僕たちのことを驚いた表情で見ていた。
気恥ずかしくなって僕と夏穂は慌てて離れると、おかしくなって二人で笑った。
どんっ
「――え?」
しまった――!
何度同じ不意打ちを食らえば気がすむんだ――!
自分に怒りを覚えた。
そして、何度消えても復活し出現してくるこの化け物――夏穂のドッペルゲンガーに今度こそ僕も腹の底からの殺意を覚えた。
みたび僕らの前に偽夏穂が現れた。
「死になさいっ!」
偽夏穂はそう叫んで夏穂を突き飛ばしたのだ。
ぐらり
手すりを越えて夏穂が断崖から落ちかける。とっさに手すりを掴む夏穂。
「ちくしょおっ!」
僕は偽夏穂の首根っこを押さえて夏穂が落ちかけている場所の反対側の断崖へ偽夏穂を突き落とした。
断崖の下に、偽夏穂が落下し、そして地面に叩きつけられて血飛沫を散らすまでを、この目で見届けた。
「――夏穂ぉっ!」
とって返して夏穂のもとに向かう。
手すりにしがみついていた夏穂を、他の男性観光客が助けようとしているのが見えた。
「待ってろ!」
その男性観光客と協力して夏穂の身体を引き上げようとした。
すると。
「う、上原、さん……っ!」
夏穂の顔が青ざめた。
「私の、せっ、背中に……っ!!」
夏穂の身体が、急に重みを増した。
ちょうど二倍の重さになったのだ。
男性観光客が急増した負荷に驚きと苦悶の声を漏らす。騒ぎに気づいた他の観光客も駆け寄ってきて手を貸そうとする。
「…………よくも……私をこんな目に遭わせてくれたわね……!!」
憤怒の声が夏穂の背中から聞こえた。
夏穂の背中に、しがみつく血まみれの手が見えた。
「そ、そんな……っ!?」
顔面が裂け、頭が割れて血を噴き出させた夏穂のドッペルゲンガーの姿が見えた。
「私だけでは死なないわ……、夏穂、アンタも道連れよ。わかってるわね」
「イヤっ! いやあぁっ!!」
夏穂が悲鳴を上げる。じたばたする夏穂と、しがみつく偽夏穂の体重を、僕と観光客の手は支えきれなかった。
「上原さぁんっ! 助けてぇっ!!」
「ジュン、さよなら。あの世で待ってるわ――」
ずるっ
手が滑った。
夏穂の硬直した表情。
偽夏穂の勝ち誇った表情。
時間が止まったような感覚がした。
宮本夏穂はダイアモンドヘッドの断崖から落下して、地面に叩きつけられて死んだ。
僕は、夏穂を失った。
事件の顛末はとても不可解だった。
夜明けのダイアモンドヘッド頂上には、僕と夏穂と偽夏穂以外にも数名の観光客が居合わせた。
それなのに、誰も偽者の方の夏穂を見た者がいなかったのだ。
この事件の真相は、夏穂のドッペルゲンガーによる夏穂の殺害だ。
だが、証人がいなかった。
偽夏穂を見たという目撃者が誰もいなかったのだ。僕以外には。
事件は、単なる宮本夏穂の不注意による転落事故ということで片づけられることになった。
僕が犯人という風に疑われることもなかった。なぜなら、何人もの証言者が、僕は夏穂を救出しようと努力したと現地の警察に話したからだ。
事情聴取のために念のため一日帰国を延長することになったが、なんの罪にも問われることなく解放された。
宮本夏穂の遺体は飛行機で日本に帰国することとなった。
そして僕は、来たときと異なり、夏穂とは別の便で日本へ帰ることになったのだ。
帰りもいつもの機内食が出た。
お気に入りだったコンソメスープも、食べる気にはならない。
フライトアテンダントが手つかずの僕の食器を片づけてくれる。僕はペットボトルの水だけを口に含み、飲み下した。
目をつぶると、一心不乱な表情で週刊誌を読んでいた夏穂の様子がまぶたに浮かんだ。
(そうですね。……馬が、すごく可愛かったです)
僕の質問にぎこちない笑顔で返事をした夏穂の表情。
(ひょっとして昨日の夜…………私に会いませんでした?)
意を決したように僕にそう云った夏穂の表情。
(……ドッペルゲンガーも、さすがに外国までは着いてこないんじゃないかって……そんな風に思ってたんだけど、……甘かった)
ぽつりとつぶやいた、悲しげでなかばあきらめの浮かんだ夏穂の表情。
(つけたところ、一番に見せたくて……胸元に忍ばせてきました)
Tシャツの胸元からネックレスを取り出し、微笑んでそう云った夏穂の照れた表情。
いろんな夏穂の表情が脳裏に浮かんでは消えていった。
僕の頬を、涙がつたっていった。
「…………」
一冊の雑誌が目に留まった。
週刊誌だ。
ハワイへ向かってやって来たあの日から、まだ一週間経っていない。
あのとき夏穂が夢中で読んでいたあの週刊誌と同じ週の号だと気づいた。
僕は恐る恐る、週刊誌を開いた。
目次に記載されてある「ドッペルゲンガー現象」の文字に、心臓が冷えるような感覚が走った。
震える手でページをめくる。
そのページには、このように書かれていた。
【ドッペルゲンガー現象は伝染する!】
今日本各地で多発しているドッペルゲンガー現象!
真の恐怖はその伝染性にある。
ドッペルゲンガーは、基本的に本体である本人にしか見ることはできない。他人の目には映らない。
しかし唯一例外がある。
ドッペルゲンガーをリレーのバトンや不幸の手紙のように例えると、次にバトンを受けとる者(次に手紙を受けとる者)には、その前のドッペルゲンガーの姿を見ることができるのだ。
言い換えると、自分の分身であるドッペルゲンガー以外のドッペルゲンガーが見えた者には、前の本体が死亡したのち、新たな本体である自分自身のドッペルゲンガーが自分の前に現れることになるというわけだ。
自分以外のドッペルゲンガーを目撃した人は、ひと月以内に自分が人生の中でやり残したことをする準備にすぐに取りかかった方が良さそうだ。
全身に冷たい汗がつたっていた。
(……ごめんなさい、巻き込んでしまって)
夏穂の悲しげな表情とあのときの言葉が蘇った。
身体が震えている。
手足が氷のように冷たくなっていた。
そして。
僕は、自分の後ろに、何ものかの視線を感じた。
つばを飲み込む。
のどが鳴る。
ゆっくりと、僕は後ろを振り返った。
そこにいたのは――――。
END
本格的なホラー作品は本作が初挑戦でした。
書き終わってみると、すごく「さすらい物書きらしい作品」になった気がしています。
こんなに強烈な充足感を味わったのはとても久しぶりです。
今年の夏に、この物語が書けて良かった。
お読みいただき心より感謝いたします。