4 壁際に潜んでいたのは
「…副長の事は、信頼しています」
不可解な感情を押さえつけて、できる限り部下らしい言い回しはどんなだろうと考えたら、口から出てきたのは自分で聞いても白々しいと言いたくなるようなお粗末な人間評価だった。
自身でそう考えるのだから当然先生だって感じることは一緒だ。
「それはそうでしょうね。厳しい訓練も命がけの戦場も、貴女たちは四年も一緒だったのよ。しかも補佐官になってからの二年は、起きている時間のほとんどを少佐と過ごしたのではなくて?」
「…おそらく、そうでしょう」
同じ隊の所属になれば、隊員は家族よりも長い時間を共に過ごす仲間になる。
そんな中でも隊長と副長、副長と補佐は夫婦よりも強い絆で結ばれると昔から言われるほど、濃密な時を重ねる間柄になることが多かった。
あたしもご多分に漏れず、一日の大半を副長の隣で消費している。
「中でも三隊は特殊だわ。戦場での成果は中隊でありながら大隊にも匹敵するというのに、功労を認められて出世していくのは歴代の隊長や隊員ばかり。戦闘能力の高さでは軍一と評判の副長も、衛生兵と呼ぶには上げた実績がありすぎる補佐も、何がいいのかいつまでも同じ隊に居座り続けている」
先生の指摘は、これまでもお嬢様方から何度も詰め寄られる原因になったものと同じだった。
つまるところそれは、誰の目にもあたし達が長くあの隊にいたことが異質に写っていると言うことで、今更それに他意がないと言い訳ても信じてもらえないのと同義である。
もう隠し立ては無駄だろう。
穏やかに微笑むレネー先生にいろいろを諦めて、押し込めてあった本音を引っ張り出した。
「居心地が、よかったんです。副長は優しい人ではあるけれど、甘い人ではない。女の体力ではどうしても男性隊員に遅れをとる場面では周囲に気づかれないよう手を貸してくれますが、一人前以上に働ける救護所では鬼のようにこき使ってくれます。おかげでわたしが補佐の地位を与えられても、文句を言った者はいませんでした。寧ろ戦場や裏方での働きを踏まえて当然だと、祝福してくれたほどです。度々変わる隊長は露骨に女性幹部を煙たがるか、過剰に気を使って仕事を取り上げるかのどちらかでしたので、間に立って上手く上官をいなしてくれる副長の手を離したくなくて、何度か頂いた昇進と異動のお話しは全部お断りしました」
あの感情をなんというのか、あたしは知らない。いや、知らないふりをした。
初め誰にでも向けられる優しさを勘違いして密やかに芽生えた恋心は、同じ時間を共有して徐々に彼を知ることではっきりとわかるほどの恋情に育ってしまった。
けれどそれは同時に、絶望も生んだのだ。
記憶を無くし己の出自もわからない孤児と、貴族の嫡男。
いつまで軍にいられるかわからない女兵士と、出世を約束された優秀な軍人。
掃いて捨てるほどいる平凡な容姿の女と、美貌と立派な体躯を誇る男。
どれ一つとっても、あたしが副長に釣り合うものはない。いや、まかり間違って想いを通わせ共にいたいと結婚を決めても、周囲の反対に必ず想いを諦めることになるだろう。
現実はおとぎ話のように婚姻を結んだらお終い、ではない。そこから先長い人生を生きていかねばならず、それには周り人達の努力と協力、なにより理解が不可欠なのだ。
自分勝手な感情だけで突っ走っても、誰も納得はさせられないと、数年の軍生活で女性達を見て学んだあたしは、早々に恋を封じ込めた。
部下でいようと努めたし、実際ほんの少し前までは厳格すぎるほどに公私を分けていられたのに。
「それは、恋?少佐から離れたくなかったのは、特別な感情?」
ずばりと切り込まれれば誤魔化せないほどに、隠すことを止めた気持ちは溢れ出た。
「…きっと、そうなのだと」
「ではどうして求婚を受け入れなかったの」
「上手くいきませんから」
「なぜ?何も始まってすらいないのに、どうして決めつけるの」
「何もかもが違うからです。どれひとつとっても釣り合っていません」
一つ先生の言葉を否定するたび、一つ巡らせた防壁が消える。
あれほど結婚なんかしない、一人で楽しい老後を過ごすんだと息巻いていたくせに、本当は副長との未来をあたしは望んでいたんだなと、恥ずかしくなるほどに押し込めた想いは成長していた。
「本人がそう言ったの?」
「…いえ」
「では、誰が?」
「…誰も」
「じゃあ、認められねぇな」
気配すらなかった人の声に、心臓を掴まれたほど驚いて振り向くと、扉に背を預けて仏頂面の副長が立っている。
「え、ど、どうしっ」
「わたくしが聞いているように言ったの。チホの異動などさせない、返せと騒々しかったものだから、それなら自分の耳で彼女の真意を確かめなさいと部屋に潜んでいることを許したのよ」
「いつですか?!」
「お茶を用意しているときに」
しれっと答えた先生が、そういえば話しを始める前に少し席をはずしていたことを思い出す。
レネー先生は不合理を嫌う。手が空いているならともかく、仕事中の秘書官に個人的な客の茶を淹れさせるのは作業効率を下げるだけだと主張するのが常で、勿論今回もそうされていた。
あたしもその考えには大いに共感していたけれど、現状では”オーマイガーッ”と叫びだしたい気分だ。
「レネー様の入室許可がいつ出たかなんて、どうだっていいだろうが。そんなことより釣り合わないって何だ」
話しをそらすなとこちらを睨んできた副長に、厄介なことになったと顔を顰めざる得ない。
さっきまでは意外にしつこい…いや粘り強い先生の質問攻めに晒され、これからは己の望む答えを引き出すまで諦めることを知らない面倒な…いえ根気ある副長に尋問されるなど、どんな嫌がらせなんだ。あたしが一体、どんな悪さをしたって言うの。
「…隊長はどうされたんですか?さっきまでの様子では、あの方もここにいらっしゃるのが自然な気がするんですけど」
「午後の仕事を押しつけて執務室に閉じ込めてきた。だからな、そんな下らないことに気をとられる前に、俺の質問に答えろと言っているんだ」
「…チッ」
万が一にも話しをそらすことができるんじゃないかと振った問いかけは、いともあっさりたたき落とされて地を這っている。
こうなりゃ思わず舌打ちも出るってものでしょ?だって今後の上司の前で目を逸らしてきた恋愛感情を告白しなくちゃいけないとか、社会的地位の公開処刑に近いものがあると思うんだ。もちろん本人にお断り理由を説明するのだって、非常に罰ゲームくさい。分からず屋の副長を納得させられるだけの言葉なんて、あるわけないんだもの。
だけどあたしがこれをやり遂げなければ、明るい明日は来ないのだ。
開き直って副長を振り向くと、できるだけ落ち着いて恐かったり恥ずかしかったりな感情を顔にのせないようにしながら、慎重に口を開いた。
「わたしに十五より前の記憶が無いことはご存じですよね?六年前、道に突っ立っていたところを拾われ孤児院に入れられた孤児なんです。対して副長は子爵家の嫡男。何れはお家を継がれる貴族ともなればわたしなんかと結婚できるはず無いと思いません?」
「思いませんね」
噛んで含めるように言ってやったのに鼻で笑った副長は、扉に預けていた体を起こすと数歩で近づいたソファーへどかりと腰を下ろす。空席がまだあるというのに、わざわざあたしのすぐ横に沈んだ彼は、真剣な顔で初めて聞くお家事情を暴露し始めた。
「あの家には母親違いの弟が三人いてな、どれも俺より頭の造りが余程優秀なんだ。領地の運営や社交術に長けたあいつ等が家を継ぐのが一番だと、入隊を許されてすぐあそこを出たんだが母親が何年経っても諦めてくれなくて、この宙ぶらりんな状態を続ける羽目になっている。だが最終的には”子爵家嫡男”じゃなく”一軍人”で終わることは確かなんで、お前の心配は全く無用のものだな」
この調子であたしの引っかかりを一つずつ、あっさりと潰し終えた副長は、ぐうの音も出ない相手にに口端を上げるだけの人の悪い笑みを浮かべて、いったものだ。
「さて、問題は無くなったわけだが、これでもまだ往生際悪く足掻くつもりか、チホ・アーン?」