3 逃げたところで
「それが異動が早まった理由なの」
「はい。無理をお願いして申し訳ありません」
「それはいいのだけれどねぇ」
医局の奥、レネー先生の個人執務室でお茶をいただきながら、これまでの経緯を説明し終わったところで先生は短くため息を吐かれた。
「後悔するわよ、本音に気づかないふりをすると」
「…どういった意味でしょう」
「わかっているくせに、困った子ね」
苦笑に彩られた優しい口元が、意地を張ってもいいことはないと聞き分けのないあたしを諭してくる。
白銀に染まった髪が物語る重ねた年が、先生の言葉に重みをもたせた。様々な人生を見つめてきた柔らかな視線が、あたしの浅慮を緩やかに咎めた。
「何がいけなかったの。求めた相手から望まれたのに、逃げてくるなんて」
「求めてなどいません」
「本当に?」
「本当に」
誰かとお付き合いしたり結婚したいと思ったことなど、ない。
探る様子にレネー様に断言して、再び笑顔で咎められた。
「嘘おっしゃい。有名な話しよ、貴女があの子を追って三隊に入れて欲しいと懇願したというのは」
「…また、随分古い話題を引っ張り出しましたね」
それ、結構黒歴史です。笑うこともできずに顔をひきつらせながら、あたしは消し去りたい過去を持ち出されて困り果てた。
新兵として強制的に振り分けられた隊で一年を過ごした後、自分の適性に合った所属に再度組み分けられる段になり希望を聞かれたあたしはキーファ・オルビィ中尉(当時)の隊と答えた。
理由は単純で、軍の入隊前も後も、特殊な事情と相まってあたしには気にかけてくれる人も声をかけてくれる人もほとんどいなかった中、新兵訓練担当教官だった当時の副長が優しくしてくれた、それだけのことだったのだ。
もちろん自分だけが特別扱いされていたなんて自惚れはしなかったが、皆に変わらぬ優しさを振りまいた副長のおかげで、女性兵士のほとんどが彼が所属する隊への配属を希望するという事件が起こったのは予想外だった。
各隊新兵枠が一人しかないところに三十人近い応募が集中なんて、ありえない。人事部は混乱するし、自分だけが好かれていると勘違いした女性たちの骨肉の争いが起こるしで、一時軍内部は嘗てないほど混乱を来した。
どうしても副長の隊に所属したかったわけではないあたしは、殺し合いかねない同期達に怯え早々に戦線離脱を図ろうと人事へ希望の取り消しを申し出に行ったのだが…遅かった。既にあたしの三隊配属が決定した後だったのだ。
そこに含みはない。あるのは需要と供給だ。
副長を巡って睨みあっているお嬢さん方は体力勝負が得意な方がほとんどで、三隊が望んでいた衛生兵として働けるものがいなかった。戦闘力に加え、専門知識と事務方としての能力も必要とされるマルチな隊員は意外に少数なのだ。
それでも何とか候補に挙げた三名の中で、あたしが一番適性を示したため入隊させた、だけの話しだったのに、その後に流された噂は”副長をしつこく追いかけた”だの”体を使って人事を誑し込んだ”だの、レネー先生が引き合いに出された話しが可愛らしくし思えるほどあたしの人間性を貶めるものばかりだった。
まさしく黒歴史。以来、結婚相手として女性が飛びつく様な男性とは極力関わりをもたず、これまでやってきたというのに、四年も経ってまだこの話題に悩まされようとは。
「先生のご期待にお応えできず申し訳ありませんが、真相はただの消去法です。他に適任者がいなかったので三隊に配属されたに過ぎません。人事に問い合わせていただけば証明されるはずです」
ああ女の嫉妬は恐ろしいと、こめかみを押さえながら誤解を解こうとしたというのに、白状しろとばかりに視線を外されないレネー先生は持論を覆すつもりは爪の先程もありそうにない。
「ええ、確認はしましたよ。チホの言う通り、適所に適材を配しただけだと事務的な返答をもらいましたとも。でもね、わたくしは気持ちの話しをしているの。無責任な噂でも、建前でもない、貴女の正直な気持ちを教えてちょうだいな」
「気持ち、ですか」
「ええそう。医局から推薦した兵士兼軍医を断ってまで、貴女を手元に置きたがるキーファ・オルビィをどう思っているのか、教えて」
戸惑うあたしに落とされた爆弾は、強力だった。
一中隊の衛生兵が賄うには増えすぎた怪我人に限界を感じたあたしは、一年ほど前から司令部に配置換えと軍医の派遣を要請する報告書を上げている。どれほど窮状を訴えても返事もくれない上の対応に、怠慢が過ぎると副長に愚痴を零したのは記憶に新しいできごとだ。
難しい顔で何度も頷いていた彼が、あの男が、まさかあたしを騙していたなんて!
「なんだってそんな真似を…過労死でもさせる気だった、とか?」
「そんなわけないでしょうに。どうして素直に、自分と離れたくなかったんだとは思えないの」
独り言である呟きを拾ったレネー先生は呆れ顔だが、こっちはそれどころではない。事は個人の勝手、ではすまない問題なのだ。
「人命がかかっているからです。戦地に出れば、足らない衛生兵の分までわたしが一人で負傷兵を診ることになります。軽傷であったり簡単に処置が終わる者ばかりならいいのですが、万が一重傷者が運び込まれた場合、後の手当てが遅れ助かるものも助からないかも知れない。そんなことは共にいたあの人が一番良くわかっているはずなのに」
だから専門知識と技術を取得した軍医をと、願い出たのだ。最近境界線で争っていた隣国と和睦がなったので少々気が抜けているのかも知れないが、万が一に備えるのが軍人である。個人的感情で重要な職務の人事を決めて貰っては困る。
渋面を作ったあたしに尤もだと頷きながらも、しかしレネー先生はしつこかった。
「それは少佐が悪いわね。後できつく叱っておくけれど、それと恋は別物よ。さ、白状なさい」
「公私を分けてるようで分けてませんね…」
溜息は、本音を吐き出さなければ許して貰えないことに対する苛立ちか、諦めか。
自分でも良くわからないが、腹を括るしかないことだけはなんとなくわかった。
「…確かに、新兵の頃には淡い恋情もありました。でも同じ隊になって、お嬢様方から派手なものから地味なものまで様々な嫌がらせを仕掛けられたり、殺伐とした忙しさと事務的なやり取りを繰り返すうちにそれどころではなくなってしまったんです。三度も一緒に死線をくぐれば、立派な戦友ですよ」
弱ったところに優しさを流し込んだ相手を、好きになるなと言う方が無理だ。ひよこのようにしっかり好意を刷り込まれ、配属になってしばらくは浮かれた勢いのまま目で姿を追ったり、手伝いと称して付きまとったことも認める。
でも、そんなもの日常に忙殺されて消えて無くなったときちんと気持ちを告白したのに。
ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた先生は、それだけじゃないわよねとまだまだあたしを追い込んでくる。
「短い休息時間や、執務の間のお喋り、何気ない接触だってあったでしょう。憧れの教官が同じ隊の隊員になれば、会話も交流もぐっと頻繁になる。オルビィ少佐を嫌いになった?」
「なりません。より親しくなったのに、嫌いになるなんておかしいじゃないですか」
「そんなことないわ。一緒にいる時間が長くなったら余計に相手を嫌いになることだってあるの。親しくなるばかりじゃないのよ、貴女達はなったようだけど」
「…誘導尋問ですか」
「違います。素直じゃない新しい部下に、後悔の無い人生を歩んで欲しいっていう、老婆心じゃない」
そんな好奇心丸出しの顔で親切を説かれても、信憑性が全くありませんよ。
そう、言ってやりたかったのに。このまま意地を張り続けた先にあるだろう未来をちらりと想像してしまったあたしは、何故だか喉奥で言葉を詰まらせたのだった。