第八十一話
後半めんどくさくなりました
後、エピローグ書いて回想終わり
爆煙を見る直前、クロノの頭はようやく、一つの解決策、或いはその場凌ぎと呼ばれるものを思いついていた。
前に行けないのなら、後ろに行けばいい。
単純な話だった。
だが、背後は結界の壁。朱美が本気で造ったのなら、到底自分の力で割れるものだとは思わない。
しかし、ここでふと、思い返してみる。
思い返すのは先ほどの水槍。自分に向けて掃射された夥しい水の群れ。そして、その最期。『結界の端に衝突する前にただの水へと成り果て』
なぜ、ただの水へと成り果てたのか。なぜ、そうしたのか。
翼は空を飛ぶためにあるように、エラは水中で生きるためにあるように、全てには理由がある。
自分に当たらなかったから? それもあるだろう。
だが、クロノはこうも考えた。『当てたくなかった』のではないかと。結界に当てるのを嫌ったために、朱美はあえてただの水に戻したのではないかと。
なぜ、当てるのを嫌ったのか。それは、結界が思いのほか脆く、砕けてしまうことを懸念したのではないかと。水槍で壊れる、までいかなくとも、ヒビが入るのであれば、自分の一撃なら確実に砕ける。
確証はない。不確定な賭けだ。それでも、それ以外の選択が思い浮かばなかった。
結果としてその考えは正しく、爆煙が洞窟内を包む前に離れることには成功した。
⇔
クロノは、降りしきる雨の中、泥に塗れながら必死に距離をとっていた。逃げたのではない。あくまで距離をとっただけだ。
森の中は、雨の音以外何も聞こえない。本当は何か聞こえるのかもしれないが、それすらも雨の音にかき消されているようだった。地面は草が生えているというのに、沼のようにぬかるみ、足をとられてしまいそうだ。
「………ハァ……ハァ……」
乱れる息を抑え、身体を泥の中に投げ出す。グチャリと、何とも粘着性のありそうな音が聞こえ、身体を汚い泥のベッドが迎え、上から降ってくる雨の毛布が包む。ひんやりとした冷たさが、熱くなっていた身体を急速に冷やしていく。
無傷ではない。右肩は依然、血を流し続けている。その上、爆発からも逃げ切れたとは言い難く、余波を思い切り喰らってしまった。それ以前の戦いの傷跡も疲労も癒えてなどいない。
――近づかなきゃ勝てない…。分かってる。でも、どうすれば…
疲労と痛みが思考を邪魔する。本当に正常に思考できているのか、自分でも分かりそうになかった。
べっとりと泥がついた身体を起こす。普段であれば、気持ち悪さですぐに水でも浴びたくなりそうだが、不思議とそんな考えは浮かばなかった。
その時、紫の閃光が轟音と共に眼前を覆った。太陽の光でも、朱美の光属性でもない。それらとはまた別種の光。今まで感じたことがないような、圧力を感じる光。
光はけたたましい轟音を響かせ、ぐずぐずとした地面を貫いた。地面に大穴を開け、ぷすぷすと焦げたような燻ったような匂いと音を残して去っていった。
奪われた視界が回復したことを確認し、目の前の大穴を眺める。草が焦げ、茶色く変色している。
この光の正体は、朱美からの攻撃でも何でもない。つくづく自分は、神様ってやつに嫌われているのだと思う。
自分よりも速く、強大な力。何者も抗うことを許さない力。
クロノは恐る恐る上を見上げる。
天には暗雲が、第二撃を放とうと鎮座していた。
「勘弁してよ…」
⇔
クロノに第二撃が加えられている頃、クラウンは一人高い針葉樹に登り、天に君臨する暗雲――その先にいる相手に向かって子供を諌めるように言った。
「止めときなよ。今更そんなことをやったところで意味はないさ。君は彼女を放置しすぎたんだよ。認めな。彼女が去ることを。大体、君が今落としている相手は違う人だからね…? 誰かも分からないほど耄碌したのかい? しかも外してるし」
誰かに言ったその言葉は返ってくることはない。
代わりに雨は怒ったように更に激しさを増し、クラウンを冷たく濡らしていく。眼も開けていられないほどの豪雨が、だだっ広い森を黒く染め上げていく。
クラウンはこれ以上の『会話』を諦め、今度は本当の独り言を呟いた。
「結局、僕が認識錯誤張ることになるのか…。認識されたら駄目なんだよ、彼に邪魔される。はぁ……だーから、結界破っちゃ駄目なのにさ。まっ、今回は餞別ってことでサービスしてあげるけど」
⇔
――何かしたわね…クラウン…
未だ洞窟の中にいた朱美は、自分の意にそぐわない何かが、姿も見えない道化師によって行なわれたと感じ取っていた。
今までであれば、邪魔するなと言ってやりたいが、この後に及んでそんなことはないだろう。あの道化師は、自分の知らないところで、自分の知らない目的を持って何かをやっているのだ。そういう奴だ。
ここで考えるべきはクロノのこと。近づかなければ戦いにもならないことは分かっているはずだ。さすがにこのまま逃げる気はないだろう。そんなこと許す気もないが。
しかし、クロノは傷を負っている。暫く身体を休めるということはあるかもしれない。
が、そこまで考えて、朱美は意地の悪い笑みを浮かべた。
「暇なんて与えないって言ったはずでしょ?」
⇔
轟く雷鳴と激しい閃光。降り注ぐ紫電。それはまるで怒りを示しているようにクロノには思えた。
二撃目は背後に降り注ぎ、これまた大穴を開けた。よくこの至近距離で当たらないものだと、自分の悪運に感心したくなる。
大穴を二つ見た後でようやく我に返り、ここにいては危険だと駆け出した。なぜかはよく分からないが、あの場所は雷に狙われやすいということはなんとなく分かったからだ。
痛む身体を無理矢理動かしながら、がむしゃらに雷から逃げ続けた。どれほど泥に塗れようとも気にせず、ただ走った。
泥に足をとられそうになる。それでも、泥を払いのけて深い森の中へ進んだ。
ようやく、背後での雷鳴が収まったところで立ち止まる。木々の端に見える洞窟が視認すら厳しく、枝よりも細く小さく見えた。
両膝に手を置き、呼吸を整える。
すると、足がぬかるんだ泥に埋まった。ここは一段とぬかるんでいるらしい。
しょうがなく、この場も離れようと足を振り上げる。
が、上がらない。よほど上手く嵌ったのか。
何度も力を込め抜け出そうとするが、一向に抜け出せる気配はない。それどころか、更に深く沈んでいく。まるで底なし沼だ。
そろそろ背中のエクスなんたらを棒代わりにして抜け出そうかという時、自然と悪寒がしてきた。
ふと、考えてしまったのだ。
これは、自然のものなどではないのかもしれないと。であれば、これは拘束具のようなものではないかと。
そして、その予感は辛くも的中することとなる。
「みーつけた」
木々の端から出てきたのは、血のような紅を身に纏った最強の姿。
顔を引き攣らせ、苦笑いを浮かべながらクロノは尋ねる。そこには恐怖の色がほんの少し宿っていた。
「どうしてここが分かったの…? かーさん」
「んー? あら、知らなかった? 地属性の上位者はある程度の範囲まで、意識すれば地面を歩く人の感触が分かるのよ。私は半径200kmちょいってとこかしらね」
世間話のようにあっけらかんと答えながら泥の大地を踏みしめ、一歩一歩クロノへと近づいていく。
あっさりと上位者などと言ったが、そんな者はこの世界の住人のわずか1%にも満たないだろう。今までの相手にそんなことを出来た人間はいなかった。
呆れたようにクロノが呟いた。
「簡単に言うね…ホント…」
「だって事実だもの。さて、とーちゃっく」
このやりとりだけなら、暢気な母親との親子の会話に聞こえるかもしれない。
朱美は最後の一歩を飛び跳ねて、軽やかにクロノの元へとたどり着く。
「ああ、よく見える…」
愛おしそうに朱美はクロノの頬へと手をかけ、雨に濡れた冷たい頬を温かい右手で擦る。その眼には、狂気の色など映ってはおらず、どこまでも優しい光が宿っているようにクロノには見えた。
微動だにせず、クロノは怪訝そうな表情で眺める。
何をしたいのか分からない、というのがクロノの本音だ。
だが、不思議と悪い気はしない。改めて、やはり自分はこの人を嫌いになどなれないのだと実感させられる。
朱美はひとしきり弄った後、右手をクロノの心臓付近へと伸ばす。
「どう死にたい? 希望があれば聞いてあげるけど?」
「そうだね…。出来れば死なない方向で」
「無理」
ばっさりと生きる希望を斬って捨てる朱美。なら聞くな、と言ってやりたい衝動に駆られる。どちらにせよ自分に選択権がないことは分かっているのだが。
朱美は会話を止め、眼を閉じて伸ばした右手に意識を集中させていく。時を同じくして、クロノの胸の辺りには鋭い痛みが奔った。
ナイフでわざと傷を刻んでいるような感覚。
通常の人体ではありえない、ピシピシという、ヒビが入るような音が身体から聞こえる。
――ヤバイ…ヤバイ…! これは何か知らないけどマズイ…!
瞬時にそう判断したクロノは、必死に沼から抜け出そうと足をばたつかせる。
すると、足に硬い何かが当たった。何かは分からない。前からあったのか。
確かめる暇もなく、それを足場に全脚力を持って跳び上がる。まとわりつく泥をすり抜け、斜め後ろに跳びあがるクロノの身体。
泥の重みからだろうか、いつもよりは跳ばなかったが、今となってはそれも好都合だ。空中での時間は短い方がいい。
着地する直前、クロノは朱美を見た。赤みがかった口元がうっすらと動き、何事かを呟いたように見えた。
「これで終わり…」
⇔
跳び上がったクロノを見て、朱美は驚くことなく、冷静に頭を働かせていた。しっかりと自分が今さっき沼の中に用意した石を足場に跳んだようだ。ここまでは完璧。
胸には隠蔽もかけ、こちらの準備は終わった。
ここに来るまで色々なことがあった。たくさんの人を殺した。少ない友人を作った。一人の子供を拾った。
長かったと思う。この二百年以上に渡る人生がようやく終われる。
そう思うと、自然と口にでてしまう。
「これで終わり…」
――私がね
⇔
クロノは自分の胸の辺りに手を当ててみるが、別段変わった感触はない。泥の感触だけだ。血が出ているわけではなく、当然身体にヒビが入っているわけでもない。
不思議がるクロノだが、考えたところで分かるわけもなく、そんな暇がないことは痛いほど分かっていた。
朱美は温かみのある微笑みを見せる。
「あらあら、そのまま身体を砕いてあげようと思ったのに」
優しいその顔からは想像もつかないほどに物騒な言葉を吐く。
背筋が寒い。視線が痛い。逃げ出したい。
彼女が最強だと知っている。だが、勝たなければ前には進めないことも知っている。
――迷うな…視線を逸らすな…しっかりと相手を見据えろ…
心の中で何度も反芻する。相手は最強だと。迷っていては勝てないと。もっといえば――
――殺す気で行く…!
そして、クロノは柔らかい泥の地面を蹴った。
朱美は手に光剣を握り、静かに身構える。
今、考えると、この時点でおかしかったとクロノは思う。剣術では勝てないと朱美は知っていたはずなのに。それでも、朱美は静かに剣を構えた。
必死だった。勝ちたかった。身体は痛みと疲労でもうそろそろ悲鳴を上げかけ、猶予はなかった。
朱美は、眼前に迫るクロノに向けて、光剣を横薙ぎに振るった。素人の振り。クロノは光剣を斬りにかかる。玄人の振り。
結果、光剣は紙でも斬ったかのように音もなく、あっさりと切断された。
そのまま、紅朱音はスピードを殺すことなく、朱美に紅い刀身を剥き出しにして襲いかかる。
これでも朱美ならば足りない。光剣を砕いた瞬間に次の魔法への準備を始めている――はずだった。少なくともクロノはそう、思っていた。
だからこそ、クロノは安心して殺す気で剣を振るえた。あくまで”気”だ。
殺す気だったからこそ、光剣を斬った上で、なおも紅朱音の剣速は衰えない。
無抵抗に気づいた時にはもう遅い。直前で手首で軌道を変えようともがくが、刀身は主の意思とは無関係に突き進む。
鮮血が舞う。手に感触がやってくる。今度こそ、肉を抉り、生きている人の命を奪ったと間違いなくいえる。
眼に映る鮮血。それらは水滴に混じって、地面へと降り注いでいった。
「…これ…で…完…せ…い…」
刹那、掠れるような声が聞こえ、クロノの視界は光で覆われた。
⇔
クラウンはぼんやりと、どこかから二人を見つめていた。
白化粧の怪人はその顔に似合わない、哀しげな表情で肩を竦める。
「わざわざあそこまでさせなくてもいいのにねぇ…。下手したらトラウマもんだよ。まあでも、これで術式の起動に必要なものは揃ったかな」
言いながらクラウンは、何かに気づいたのか首を傾げた。
「ん? アレ? あー、何か聞こえると思ったら今結界の外だった。道理で君の声がするわけだ」
ペラペラと独り言を連ねる。傍から見たら怪しい人間である。元からかもしれないが。
「さあ? 少なくとも君には分からないだろうね。君、人間ドラマとか嫌いだろ? お好みは戦争映画みたいだし」
この世界にはそぐわない例えを持ち出し、既知の相手との”会話”を続ける。
「多分、彼女が”殺す”って言うのにこだわったのは、それがあの日の引き金だと思ってるからだろうね。根本的な要因は君なんだけど」
怨むような表情で、誰もいない天を睨む。天には雨雲が静かに鎮座するだけだ。
己の暗さをかき消し、視線を二人へと戻す。
「君はさ、勝手にどっかの世界から連れてくればいいけど、連れてこられた僕たちは自分の世界に戻らないと意味ないんだよ。自分の世界を指定しないといけない。だから、君の術式とは大幅に違うし、術式以外にも必要ものがあるんだ。座標指定のために、行きたい世界の人間の血っていうものがね…。まっ、君にはそんなことどうでもいい話だろうけど」
誰とも分からない相手との”会話”を締めくくった後で、最後にこう付け加えた。
「なあ、世界?」
⇔
止め処なく溢れ出る血と光。光は円を描き、辺り一面を包む。
膝から崩れ落ちるようにしてその中心となった朱美は倒れこんだ。
クロノはなんとか、完全に地面に落ちる前にそれを受け止める。その拍子に深紅の血がべっとりと手についた。手が震える。現実が迫ってくる。自分が殺したのだという現実が。
クロノは震える声で、感情に任せて叫んだ。
「なんで…なんで…避けなかったんだよ!! かーさんならどうにでもなったはずだろ…!?」
自分に言い聞かせるように叫んだクロノの言葉。その間にも光は収まらず、朱美の血も治まらない。
直前で軌道を変えようと足掻いたせいか、傷は即死するようなものではないが、このままでは出血多量で死ぬことが用意に想像できた。逆に言えば、即死できない分、痛みが長く続くとも言える。
それでも朱美ならば光属性で治癒が出来るはずだが、まったくそんな素振りはない。
焦燥しきったクロノに、よく通る澄んだ声で優しく喋りかける。
「…いいんだって…。ようやく…帰れる…」
ゆっくりと身体を起こし、ほとんど感覚がなくなった手でクロノを引き寄せる。
そして耳元で囁いた。
「ゴメンね…こんなことさせて…ゴメンね…ゴメンね…」
うわ言のように謝罪の言葉を連ねる朱美。なぜ、自分が謝られているのかクロノは理解できない。分かるのはこのままだと死ぬということだけだ。
「早く…早く治さないと!」
狼狽えるクロノは必死に治す術を探すが、そんな術はどこにもありはしない。
「いいの…どうせあっちの世界についたら自動的に死ぬんだから」
「何を言って…」
「貴方にもう、殺せない人間はいないわ…私を殺せるなら…誰だって殺せる…」
クロノには何を言っているのかは分からない。ただ、なんとなく、これまでの全てが自分の弱さのせいなのだと悟った。きっと、村でのことも彼女は知っているのだろう。だからこそ、彼女は自分を殺させたのだ。
光はより一層強くなる。光は範囲を狭め、確実に朱美の元へと収束していく。
「…この世界は理不尽だよ…殺さなきゃいけない時は必ず来るの…」
自分に言い聞かせるように朱美はそう呟き、そっとクロノの頬を撫でた。頬に当たったその手はまだ温かい。
「ゴメンね…最低な母親で…こんなことさせて…」
何度も何度も、自分を否定し、謝罪の言葉を口にする朱美。否定の言葉でどんどんとクロノの中の朱美が染まっていく。強さの象徴、太陽のように眩しかった朱美が地に堕ちていく。
――これが正しいのか。本当にそうか?
「…違う……」
小さくも力強く、クロノは声を上げた。降りしきる雨に負けぬように、その声は徐々に大きくなっていく。
「違う…! かーさんは最低なんかじゃない!! 最低なのは、かーさんにこんなことさせた俺だ…」
「ありがとう…優しいねクロノは…」
他にも言いたいことはいくらでもある。が、ありすぎて言葉として上手く言えそうにはなかった。
円は範囲を狭め、中にいるのは二人だけとなった。
時間がない。
朱美は自分の左手の薬指から、朱く光る指輪を外し、クロノに差し出した。
「あげるわ。これ…私には相応しくないもの…。これはいつか、クロノが一番大事だと思える人に渡しなさい」
しかし、クロノはそれを押し返す。
「なら、かーさんが持ってて」
「駄ー目。私には合わないわ…」
半ば強引に朱美は指輪をクロノに渡した。黒と朱で彩られた指輪は光を浴び、より一層の輝きを見せていた。
円は既に範囲を朱美を包むだけに留めている。
朱美は最後に、クロノを思い切り抱きしめた。
「これでさよならよ…ありがとう…クロノと会えて、ようやくこの世界も悪くないかなて思えたわ…」
はにかんだ笑顔を見せる朱美。
クロノは泣きながら言葉にならない呻き声を上げ続けていた。
だが、光の円は待ってはくれない。朱美はクロノから身体を離す。
そして、閃光が瞬いた。
「さよなら。ありがとう」
クロノは必死に光の中へと手を伸ばしたが、何も掴むことは出来ず、消えていく朱美の姿をただ見送ることしか出来なかった。
後に残されたのは雨と血に塗れた独りの青年だけ。




