第七十九話
エスカレーターは歩いたらだめですよ
後半は適当
次回は朱美戦
――なんだこりゃ? レイピアの亜種か?
それが握ってみた最初の感想。刀身は奇妙に細長く、血に染まったような朱色。握りやすくはあるが、ひどく軽く、耐久性に関しては疑問が残る。
しかし、それでも無いよりはマシだ。レイピアであれば専門ではないが、使ったことがないわけではない。リーチの差に関してはこれで埋められる。
ルークは半信半疑で、背後から襲う一撃に向けて、振り向きざまにその奇妙な剣を振るった。壊れなきゃいいな、と思いつつ。
クロノは知らなかった。紅朱音が見た目どおり細身で、速度を重視したものであるとしか。持ち主のクロノでさえ、脆いと考えていた。
だが、今考えればそれは間違いであったといえる。ここまで使った数年の中で、傷どころか刃こぼれした覚えすらもない。
ここに来てクロノはようやく知る。紅朱音の耐久性がエクスなんたらを遥かに凌ぐものであると。
朱美に紅朱音が折れた――いや、傷がついたなどと言ったら、おそらく彼女はこう言うだろう。
「あんの爺……、最高傑作とか吹かしてたくせに……。墓場から引っ張り出してでも文句言ってやる!!」
クロノのエクスなんたらを弾けたことにルークは驚いていた。苦肉の策で、レイピアらしき剣を払うのに使ったが、まさか押し勝てるとは。
押し勝てた要因には、クロノが一瞬躊躇ったということもあるのだが、ルークはそんな事を知る由も無い。
――あれ? これレイピアじゃなくね?
よくよく思い返せばこれで突かれた覚えはない。刺突がメインのレイピアだとすれば、そんなことはありえない。
――思い出せ。コイツはどう使ってた?
どう、と考えてみたが、自分の剣を防いでいた印象しかなかった。かといって、使い慣れたロングソード系統のものかと聞かれたら、形状からしてそれはありえないだろう。叩くとか、潰すとか、そういった事には向いていないように思えた。
結局の所、考えてみても分からなかったので
――まっ、適当にやっか
と、単純な思考に切り替えた。
右手ごと弾かれたクロノは、衝撃に耐え踏みとどまる。踏ん張った足で地面が削れる。
押し負けた原因は分かっている。自分に言い聞かせる。躊躇いをなくせ。目の前の男はもう死んでいる。殺さなければ自分が死ぬだけだと。
交錯する剣。一々衝突する度に5、60mは離れている朱美の元まで風が吹き込む。風で長い黒髪を揺らしながら、戦況を眺める。耳栓をしつつ。正直金属音がうるさい。
不快感は別にして、第三者の眼から見て現状は均衡しているように見えた。
単純な無属性のレベルは同じ。他に勝敗を分けるものがあるとすれば経験。単純な戦闘経験では、人生長い分、ルークの方が上だろう。
だが、そのルークは使い慣れない紅朱音に苦戦中。クロノもルークに勝っている点がないわけではないが、それ自体今は役に立っていない。結果、両者の現状は均衡している。
どちらかが何かを起こさなければ、この現状は崩れない。
そしてそれは、当人たちも痛いほど分かっていた。
――埒が明かん。この剣どう使うんだ?
――考えろ。このままじゃ負ける…。考えろ。何かあるはずだ
先に現状を変えたのは、ルークだった。
――なーるほど。こんな感じか?
手首を返すだけで、手軽に剣の軌道が変わる。相手の剣をすり抜けて、服を掠める。それだけでは終わらない。右手から左手に放り投げ、同じように手首を返す。今度は刃先が身体まで届いたらしく、僅かに左胸から血が飛び散った。
――小回りは利くな。斬るのがメインってわけだ
微妙に間違ってはいるが、ルークは確かに扱い方を掴みかけていた。
一方のクロノは、未だ策を思いつきそうも無い。
両者の差は歴然と身体に現れる。僅かではあるが、裂傷を増やしていくクロノ。対してルークには傷一つついてはいない。
――考えろ。考えろ。考えろ。考えろ
頭は警報を鳴らしながら高速で回転していく。
――まず認めろ。俺は弱いのだと。驕るな。俺は弱い
紛れもない現実を並べる。知る。己の弱さを。
――相手は強い。俺よりも
一瞬、男が消える前の、意識が溶けていくような感覚さえあれば、と考えもしたが、本能がそれをしてはいけないと告げる。
――知っているはずだ。俺は無属性の敗北を。俺自身の敗北を
溺れそうなほどに激しい記憶の奔流を遡る。記憶の流れに逆らって、徐々に過去へと舞い戻っていく。
途中で蓋が出現した。大きく開きそうもない蓋が。
知っている。この蓋がなんの記憶を封じているのか。
――見たくない
それでも、開けなければいけない。分かっている。
――眼を背けるな。現実を直視しろ
自分に言い聞かせて、強引に重い蓋を開け、中へと飛び込んだ。
ほんの数週間前の、あの出来事の中へ。
「どけよ」「殺す覚悟もねえゴミが、俺の邪魔してんじゃねえぞ!」
――違う。もっと先だ
「あ…あ…ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
――まだだ
深く底に潜っていく。あと少しで、あの場所にたどり着く。
次々と再生されていく記憶。止め処なく溢れる記憶を抑え、クロノは更に奥へ。
そして、クロノはようやくたどり着く。
『そして、赤い、生肉を、紅い、心臓を、尖った、石柱が、真っ直ぐに、貫いた。』
この場所に。自分が敗北したこの場所に。
叫びそうな自分がいる。その前には身体を貫かれたメアリーの姿。
あの日以来ようやく、思い返した。眼を背けていた現実。
負ける戦いではなかった。守れたはずだった。
後悔で自己嫌悪に陥りそうになる。だが、今はそんな場合ではない。
――なぜ俺はこの時、間に合わなかった?
考える。弱者は考えるしかないのだ。
『右足も右手も左手も使った。咄嗟に戻しても間に合わない。身体を支える左足は使えない。』
――体勢が崩れていた? じゃあそれはなぜだ?
答えはシンプルだ。”タイミング”がずれた。それだけだ。それだけのことで、自分は彼女を守れなかった。
だが、自分にチェスのような戦いは出来ない。
――自分に出来る事はなんだ? 自分はどうやったら勝てる?
緩急。加速。減速。初速。終速。タイミング。様々なキーワードが浮かび、やがて一つの答えを導きだす。
クロノは、無属性を覚えてから味わった、朱美以外との初めての敗北を、ようやく受け入れる。後悔と共に。
後悔はしてもいい、立ち止まってもいい。だが、決してそれに囚われてはいけない。いくら後ろを向いたところで、過去は変えられないのだから。
前を向いて歩き出すしかない。
ルークはほぼ、紅朱音の使い方を理解していた。普段使っているものよりも数段軽く、速く振ることが出来る。単純な剣のスピードではこちらの方が上だ。
切れ味という点でも勝っている。一撃が少々軽いというのが難点だが、些細なことだった。相手の攻めをカウンターの要領で避けつつ斬ればいい。それくらいの事は自分に出来る。
クロノの正面から振り下ろしたエクスなんたらの剣速を肌に感じつつ、何でもない様子でルークはその一撃避けた。対象を失った一撃は地面へと衝突し、地響きと共に直径1mほどのクレーターを刻む。
避けられたと見るやいなや、クロノは即座に右へと地面を蹴ろうとする。
その動きをルークは見逃さない。クロノが蹴る直前に先に右へと飛び、待ち構えた。
そして、クロノが地面を蹴る。ルークは自然と、クロノが自分のところに来るであろうタイミングで、紅朱音を振るった。着地と同時に殺すために。
スカ
そんな音が聞こえた気がした。
振り切った後で、ようやく、クロノが一撃を伴って目の前に現れた。
「終わりだよ」
鋭く重い一撃が、無防備なルークの身体を襲った。
人は無意識の内に逆算する。この程度のスピードであれば、このタイミングが丁度いいだろうと。
例えば、動いているエスカレーター。あれも、知らないうちに、どのタイミングで足を出せば踏み外さず昇れるかというのを、知らないうちに頭の中で逆算しているわけだ。わざわざ考えて歩く人間はほとんどいないだろう。
しかし、速度を一瞬、ほんの一瞬だけわずかに遅くしてみる。すると、昇ろうとする人間は踏み外す。ほんの少しの変化に人間はついていけない。
ルークの読みは間違えてはいなかった。確かに通常のクロノであれば、その場所にそのタイミングでたどり着いたはずだ。
だからこそ、クロノは一旦、地面を蹴る直前に、レベルを下げた。5から3へと。
こうすることで、脚力は下がり、スピードも下がる。
クロノが自分の敗北の原因を考えたときに、気づいたのはタイミング、緩急の重要性だ。チェスに負けた根本的な原因もそれだ。
今まで考えたこともなかった。それは一重に、無属性を使った時点で勝敗は決していた為。考える必要がなかったのだ。苦戦する相手など、朱美以外には存在しなかった。
ルークもそれは同様で、工夫する必要がなかった。無属性を使って負けたのは、最後の朱美だけだ。
結果として、二人の勝敗を分けたのは無属性での敗北経験の差。クロノが唯一ルークに勝っているその差が、明暗を分けた。
クロノが振るった一撃は、ルークの身体にめり込んでいく。手に肉を抉る感触が伝わる。人間の命を奪っているのだと実感がある。それら全てを受け入れて、クロノは更に力を込めた。
これで文字通り終わらせるために。
身体から感覚がなくなっていく中で、ルークはぼんやりと考えていた。
――こりゃ、確かに勝てねえわ。ハッ、俺の子孫ってやつもやるねえ
原理は何となく分かった。自分が考えたことがないだけだ。もう一戦やれば負けることはないだろう。
そんなことを言っても、負け惜しみにしかならないのだが。
――「あの日」、俺もこれが使えたらアイツを殺せたか…?
静寂に包まれた室内。天蓋つきのベッドに彼女は寝ている。そして、その彼女に刃を向けている自分。
だが、いくら考えても、殺せるヴィジョンが浮かばなかった。
――んだよ。結局無理じゃねえか
力が足りなかったわけじゃない。寝ているその顔に、喉に、刃を突き刺せばよかった。それが出来なかった。ただ、自分が躊躇っただけ。彼女を殺すことを。
――あーあ、結局俺は中途半端だったわけだ。そんなんで、国もアイツも守れるわけねえだろ
もう感覚はほとんどない。身体がどうなっているのか、見なくても分かる。
最後に、顔を背後にいる彼女に向ける。
「ごめんな」
その言葉を最後に、ルーク・ユースティアの身体は霧散していった。
「馬鹿……」




