第七十二話
朱美さんの回想書かないと
そこは、端的に言えば洞窟だった。何の変哲もない。それほど深くもなく、浅くもない。特徴がないことが特徴のような、そんな洞窟。
何か特別なことを言うとしたら、これは自然に出来たものであり、人為的ではないということくらいのものだ。
中に棲んでいたのは百足、蜘蛛といった節足動物に加え、小型の蝙蝠であった。
であったというのは、もうこの洞窟内にそんな生物たちは存在しないことを示す。彼らは死んだわけではない。簡単に言うと追い出されたのだ。絶対的強者によって。
今洞窟の中にいるのは、男女、あるいは親子と表現される者たち。
クロノは訝しみながら、目の前にいる朱美を見つめた。黒く伸びた長髪が洞窟内の暗さと同化している。油断すると髪と洞窟の壁が見分けがつかなくなりそうだ。
早朝、いきなり起こされたと思ったら、有無を言う暇すら与えず転移でこの洞窟に連れてこられた。
寝起き含め機嫌など色々とよろしくなかったクロノにしてみれば、この状況はただ億劫なだけだ。
クロノは一度視線を外し、洞窟内へと眼を向ける。入り口から差し込む光によってそれほど視界には困らない。結界の術式でも張っているのか、膜のようなものがうっすらと洞窟を覆っているのが見える。
大体の構造を把握したクロノは再び朱美へと視線を向けると、視線が合った。黒く深い吸い込まれそうな瞳。
慌てて視線を外し、朱美の格好を確認してみる。服は赤い着物という服。赤といっても完全な赤ではなく、ところどころに花の絵が描かれている。手にはハンデのつもりなのだろうか、クロノが初めて見る剣らしきものが握られていた。
らしきものとクロノが判断した理由は、その見た目にあった。形は一般的な騎士が使うようなロングソードなのだが、肝心の刀身部分が酷く錆びており、まったく剣として機能しそうになかったのだ。
おそらく、手合わせする際のハンデなのだろうが、生憎クロノにはやる気がない。適当に負けてしまおうとさえ考えていた。
そんなクロノの考えを知ってか知らずか、朱美は念を押すように言った。
「真面目にやらないと死ぬわよ?」
クロノがそれに答えることはない。どうせ、嘘だと知っている。むしろ、いっその事死んだ方が楽かもしれない。
「準備はいい?」
クロノは剣をとりあえず握る。やる気などなくても、一応やっている体はみせようと。
二人は距離を空ける。
朱美は穏やかに告げる。手合わせという名の殺し合いの始まりを。
「じゃあ、始め」
開始と同時に二人の言葉が重なった。
「レベル5」
最初に仕掛けたのは朱美だった。というより、クロノに攻める気がなかったのだが。
目の前にいたはずの朱美はいつのまにか姿を消し、クロノの眼前に錆びついた切っ先が迫る。軌道からして、袈裟切りでもする気なのだろう。
右手で紅朱音を抜き、受け流すように刃先と刃先を合わせ、手首のスナップを聞かせて刃を返す。人を不快にさせる耳障りな金属音が響き、互いの剣を弾いた。朱美が一瞬よろめく。
この時点で有利なのはクロノだ。後は左手でもう一本を抜けばいい。
だが、やる気のないクロノはそれをしない。まあ、元より朱美にそんな単純な手が通用するとも思ってはいないが。
よろめいた朱美は弾かれた方向に身体を捻り、そのまま一回転し再びクロノに斬りかかる。回転しただけで風が巻き起こる。それほどのスピード。これではどちらにせよ左手の剣を抜いたところで無理だっただろう。
右手の紅朱音で、横一文字に襲う錆びた剣を再び弾く。
ここ数年で色々な相手と戦ってみて思ったが、思いの外朱美の剣捌きは拙い。剣捌きだけなら自分の方が上だと、クロノは確信を持って言える。しかし、それでも倒せないという事実が朱美の強さを示す。
二人は剣を交え続ける。攻めるのは依然として朱美だ。クロノは相も変わらず最低限守るだけ。
ここでクロノを疑問を覚えた。それは自分を襲う錆びた剣に。砕けない。全力とは行かないまでも、相当の負荷がかかっているはずであるというのに、その剣はまるで傷つく素振りすら見せない。最初はハンデかと思っていたが、どうやら違うらしい。
二人による剣戟は続く。
止まない斬撃の雨に晒されていたクロノは、そろそろ負けてしまおうかと考えていた。
やればやるだけ空しさが積もるだけだ。ここまでやれば十分だろう。
真下から振り上げられた剣に、さきほどまでと同じように剣を合わせる。ほんの少し力を抜いて。
抜かれた力の分だけ、剣が押し負け、クロノの右手だけが上に弾かれた。その拍子に紅朱音を握り零す。
普通であればここで、左でエクスなんたらを抜くのだが、今日はその抜くタイミングをわずかに遅らせる。どうせ終わらせるのが目的だ。
弾かれた右手を見て、朱美は上に振り上げた剣を今度は振り下ろし、まだしっかりと握っていないクロノのエクスなんたらを叩き落す。衝撃と共に腕を電流を受けたような痺れが走った。
右手と左手ががら空きになったクロノに打つ手はもう、ほぼない。
朱美はそのまま、錆びた剣をクロノの喉元に突きつける。刃先がわずかに肌に届く。小さく傷を刻み微量の血を刃に滴らせる。クロノは両手を上げ降参の意を示した。
「負けだよ…負け」
目を伏せたまま朱美はクロノの前を避けようとしない。刃を下げることなく、喉元に突きつけたままだ。
クロノは朱美の返答を待った。
しかし、朱美から返答が返ってくることはなかった。
代わりに来たのは痛み。喉を裂くような鋭い痛み。
――な、に、が…
クロノが考える間にも、痛みは強くなっていく。
原因は分かっている。だが、どうしてこうなっているのかが分からない。
痛い。痛い。痛い。
喉元に刃がゆっくりと埋まっていく。
まだ、大丈夫。まだ、死なない。
朱美の表情は依然として見えない。
死の境界へと刃は迫る。
動かないクロノに朱美は淡々と冷静に現状を告げた。
「死ぬわよ、避けないと」
その言葉でクロノは自覚する。死を。このままだと死ぬ。
突然の死に直面したクロノには、死んだ方が楽、などという考えは消え去っていた。
動物的本能が告げる。死にたくないと。
右手で刃を握り強引に引き抜く。朱美はそれに抵抗することもなく、あっさりと引き抜けた。左足で硬い地面を蹴る。後方へと飛び、朱美と距離をとった。
喉から溢れる血は、微量よりも少し多いくらいで、致命的なものではない。ただ、あのままいると確実に殺されていただろうことは本能的に理解出来た。
痛みに顔を歪めながら、信じられないといった顔で朱美を見つめる。
当の朱美はというと、俯いていた顔を上げ平然とそこに立っていた。
「言ったでしょ。真面目にやらないと死ぬって」
悪びれた様子もなく、さも当然のように錆びついた剣をクロノに向ける。
眼が、雰囲気が、それが冗談でも何でもないことを物語っていた。
――怖い
率直にそう思った。
間違いない。間違いなく自分を殺す気だ。
理由? そんなものは知らない。むしろクロノ自身が聞きたいくらいだ。
気づくとクロノの身体は震えていた。
いつもの魔物や盗賊といった弱者からの殺意ではない。自分よりも上の強者からの殺意。それも既知の人間からの。
思えば人間相手にここまでの恐怖を感じたことはないかもしれない。自分が弱かった頃といえば、兄から度々痛めつけられてはいたが、さすがに死ぬほどではなかった。奴隷商人から逃げるときも、相手の意識は殺すではなく捕まえるであった。
人間から初めて感じる死の恐怖が、身体に染み込んでいく。
震えるクロノに、朱美はやはり平坦と、平然とした表情で錆びた剣を向けた。
「私はアナタが嫌い。心底嫌い」
唐突な拒絶の言葉。
クロノが疑問を挟む暇もなく、朱美は続ける。
「アレを知ってたら! アナタなんて拾わなかったのに!」
激昂と後悔が入り混じった声。
自分を見る朱美の視線に既視感を覚える。あの眼はいつだっただろうか。記憶の引き出しが開きかける。同時に開いてはいけないと警鐘が鳴った。
「ねえ? クロノ? アナタの生まれた家はどこ?」
この言葉で視線の正体をクロノは思い出す。
ああ、アレは侮蔑だ。絶対的嫌悪。蔑みの視線。自分がまだ、あの家にいたときに散々向けられた視線。
朱美は告げる。捨てたはずの名前を。苦い記憶の引き出しが開いた。
「言わないなら私が言ってあげましょうか。クロノ・ユースティア。私の大嫌いなユースティア家の人間よ」




