第七十話
クラウンは一人で頑張る
月明かりが、開いた障子の向こう――日本庭園のような庭から差し込む。今日は一際大きい満月の夜。幽玄の月が、和室を明るく照らしていた。
「ひっさしぶりやな~」
「ほんとなんだよう」
「お久しぶりです」
三者三様の声が、こじんまりとした和室に響く。声の主は、メイ、ユイ、ユウの三人だ。
声を向けられた朱美は、にっこりと笑顔を作って言葉を返す。
「ひさしぶり~って、メイちゃんは昨日会ったでしょ」
思わぬ口撃を受け、メイはなんとも微妙な表情を見せる。
「な、なんのこっちゃ…さっぱりわからんわ~」
昨日の恐怖に身を震わせる。メイの脳裏に浮かぶのは、朱美のお願いという名の脅迫。
そんなメイを見て、朱美はやりすぎたかと反省しかけたが、やってしまったものはしょうがないと、開き直ることにした。他の二人も、あまり聞くべきではないと悟ったのか尋ねることはなかった。
空気を読んだユウがとりあえず、と前置きして三人に提案した。
「立ち話もなんですから座りましょうか」
和室らしく、畳の上には四角い紫色の座布団が積み重なって置かれている。その山から、ユウは四人分の座布団を引き抜き、全員の足元に敷いた。
四人は目線と共に腰を下に下ろす。皆一様に正座だ。躾として慣れている三人は、まったく乱れそうもない。(聞こえは悪いが)一番汚い正座をしているのが、本来一番うまくあるべきの朱美という有様だ。
朱美の場合はなぜか、赤い着物を着ており動きづらいというのもあるが、それを考慮しても三人の整えられた姿勢には敵わない。
足が痺れる前に早めに話しを終わらせようと、朱美がいきなり本題を切り出した。
「今日はお別れを言いにきたの」
先の言葉を待たず、三人はどういうことなのかを悟った。
メイとユイは口ごもる。喜びと戸惑いが入り混じった表情。
三人の中でいち早くユウが言葉を発した。
「見つけたんですね、帰る術を」
朱美は自分の頬に手を当て、短く肯定する。
「ええ」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
二人だけで黙々と会話は進んでいく。
ここでようやく、メイが会話に混じった。
「…いつ帰るつもりや…?」
「明日にでも」
「急な話ですね…」
「色々あってね。これ以上こっちにいると、気持ちが靡いてしまいそうだったから」
朱美は暗い微笑を浮かべ、月を仰ぐ。
ここまで黙っていたユイが尋ねた。
「それは…クロノ君のこと?」
「そうね。いなかったら、迷わなかったわ」
後悔、迷い、その二つが朱美の心を埋めていく。
いっそ、クロノと出逢わなければ、と思いかけた脳に不快感を覚えた。
一度暗くなる話を打ち切って、四人はユウが持ってきた酒をあおる。酒場の店主が選ぶだけあって、飲みやすく後味も悪くない。良い酒ね、と朱美が褒めると、気恥ずかしそうにユウは頬を掻いた。
酒が入るとたちまち姿勢は崩れ、だらしなくなってしまう。変わらないのはユウくらいのものだ。
メイはまだいい。姿勢を崩してはいるが、正気を保っている。朱美も同様だ。
問題は一人酒瓶に絡みつき、ブツブツとうわ言を呟いている少女(のような大人)。
「……う……う…にゃーーーーーーーー!!」
突然猫のような叫びを上げたり、
「にゅへへえへええへえへへえへえええ」
笑っているのか、分からない声を漏らしたりしている。
ユイの酒癖の悪さは有名で、いきなり喜怒哀楽が激しくなったり、意味不明な言葉をよく口走る。
ユウが、ユイに水を飲ませ背中をさする。前後不覚に陥ったユイは立ち上がろうとしても、うまく立ち上がれない。見かねたユウはユイをおぶってどこかへと消えていった。大方、吐かせにでもいったのだろう。いつもの光景だ。
そんな見慣れた光景を、朱美は微笑みながら見ていた。飽きるまでずっと。
空が白みかけた頃、ついにメイも酔いつぶれ、だらしなく和室に寝転んでいた。
本来は小休止の予定だったのだが、いつの間にやら飲み比べへと発展してしまった。
別段朱美は酒に強いわけではないが、あまり飲んでいなかったので、幸い歩いて自室に帰れそうだ。
いびきもかかず、スウスウと寝息を立てるメイの横を通り和室を出ると、ばったりとユウに出くわした。背中には、雄たけびのように大いびきをかくユイを背負っている。
「大変そうね…」
ユウにしては珍しく、うんざりといった表情で答える。
「もう慣れましたよ…」
青年の声色には諦めの色も混じっていた。
朱美は苦笑しつつ、ユウの横を通り過ぎる。
「お帰りですか?」
ユウの言葉にメイを指さして、無言で宴の閉演を告げる。
「ああ…メイさんもですか…」
呟くユウに対し、つくづく苦労人だなと思う。子供の時から知っているが、ユウという男はいつも損な役回りにあって、それでも愚痴一つ言わない。それが自分に対する諦めなのか、それとも別の何かなのか、朱美には分からない。
朱美は真剣な口調で、ユウにこれからについて告げた。
「…アナタたちは、これから何年も生きることになる。きっとね。長く生きるっていうのは辛いものよ」
ユウはあっけらかんと、それに答える。
「ええ、承知しています」
本当に分かっているのか、疑問に思ってしまうほどにあっさりとした返答。
何といえばいいか、迷う朱美にユウは続ける。
「承知した上で私とユイさんはここにいます。これから先、人間兵器として、いくら悲しみを背負っても、いくら人を殺すことになっても、後悔はしません。もう、決めましたから。私たちはこの国で生きていくと」
ケイの言葉を思い出す。忠告か…自分には出来そうもない。自分よりずっと、この二人は強いのだ。悲観も何もしてはいない。幼かった少年と少女は、いつの間にか大人になったようだ。それも、そうか。彼らの時間はもう進んだのだ。止まっているのは自分だけ。
朱美は一層深く苦笑を浮かべた。これでは、どちらが大人か分からないじゃない、と。
朱美が部屋に戻ろうと薄暗い廊下を歩いていると、小さな人影を見つけた。暗く、よく見えない廊下でも、すぐに誰だか分かるサイズの人影。それは正確には『人』影ではないのだが、些細なことだ。
近づいてみると、輪郭と共に緑とギリギリ判別できる髪が見えた。言うまでもなく、それはドラだった。ドラは窓から外を眺め、怪訝そうな表情を浮かべている。
朱美は少し驚かしてやろうかと、忍び足で影に迫っていくが、真後ろに立ったところでドラの方から声をかけられた。
「なにやっとるんじゃ…」
振り返ることもせずにかけられた声に、朱美はどうしてバレてしまったのかを考える。正面を見ると、窓に自分の顔がくっきりと反射していた。(勿論ドラはそれで気づいたのではないが)
「驚かせてみようかな~って」
間抜けな主に呆れるように溜め息を吐くドラ。
呆れられた主はムッとした顔を見せつつ、真面目な疑問を口にした。
「そっちこそ何やってたの?」
一瞬ドラは口ごもるが、隠してどうにかなるものではないと思い、言葉を返す。
「外がな…騒がしい気がしたんじゃが…気のせいじゃったようじゃ」
「外?」
窓から外を眺めるが、白みかけた空が夜の終わりを告げるだけで、別段変わった様子は見受けられない。どうやら本当に気のせいらしい。珍しいこともあるものだ。
朱美は暗い壁に寄りかかりながら、ここで出会ったのは丁度いいと思った。話すことが新たにあったのだ。
「ドラちゃん、ここで今…アナタとの主従契約は切るわ」
ドラは眼を鋭く光らせ、射抜くような視線を朱美に送る。
「理由は?」
「私がこの世界から消えるから。クロノを仮の主として扱う命令も解除するわ」
主から告げられた一方的な契約の解除。ほとんど主として機能はしていなかった気もするが。
ドラは一言、そうか、と言った。分かっていたことだ。
「後は、ドラちゃんの好きに生きなさい」
それだけ告げて朱美は、ドラの前を去っていった。
同時刻 アース市外
雨が降っていた。痛いほどの大粒な雨が。白みかけた空など、どこにも存在せず、暗雲が空を覆う。雨は土を浸食し、川に流れ込む。流れ込んだ川は下流で氾濫さえ起こしていた。雷鳴が轟き、その度に動物たちは恐怖する。
そんな、土砂降りの中に道化師は立っていた。顔のメイクはこんな時でも、乱れることなく飄々と彼の狂気を演出している。周りには誰もおらず、一人で雨に濡れていた。
クラウンはまるで誰かと会話しているように呟いた。
「最後の夜くらいは静かに過ごさせてあげなよ。最後がこんな大荒れの夜じゃ、駄目だろう?」
当然周りには誰もいない。返答も帰ってはこない。
それでも、なお、クラウンは『会話』を続ける。
「怒ってるのかい? まったく、こうなる前に邪魔すればよかったのに」
諌めるように言うクラウン。依然として、誰の姿も見えはしない。
「彼女は自力で見つけたんだ。僕は彼女の努力を否定させない」
雨は強くなる。それでも、アースに降り注ぐことはなかった。雨が何かに弾かれている。
「ほら、怒るなら僕に八つ当たりするといい…うぉっ!」
一閃。一筋の稲妻が、意思を持った生き物のようにクラウンに降り注いだ。クラウンは避けることもできず、身体に電撃が直撃する。鳴り響く轟音。クラウンがいた場所には、不自然な穴が空き、煙が燻った。完全に死んだことは明白。
だが、クラウンはいつもと変わらないメイクで、姿で、依然そこに両の足で立っていた。
「ごめんね。僕は死なない。『死』っていう概念がないんだ」
言ってから、クラウンは付け加えた。
「本当に来るとは思わなかったけど…」
道化師は整える。同胞の最後のショーを。




