第六十四話
村編クライマックス
戦闘パートたるい
心の声は緊迫した場面―――で通常時()にしようかな
村長の家
「さあさあ、ごゆっくりとしていってください」
「……」
クロノは目の前に出された果実酒を不機嫌そうに眺める。
今いるのは村長の家。
他の民家と比べて、造りが新しく調度品も整っている。
並べられた家具の一つ一つは、おそらく一般の村人のものよりワンランク上だろう。
少し堅いソファーの上に腰をかけるクロノ。
テーブルを間に挟み、向かいの椅子に村長も腰を下ろした。
「…用件はなんだ?」
「用件と呼ぶほどに大層なものではありません。ただ、お礼としてこちらにお呼びしただけです」
柔和な笑みを浮かべ、慇懃な態度で語る村長。
ステージ上にいたときとは別人のように落ち着いた雰囲気。
首には紐に括られた牢屋の鍵がぶら下がっている。肌身離さずということらしい。
「…そんな礼よりも、もっと実のあるものが欲しいんだがな…」
「勿論、依頼の報酬はしっかりと払いますよ」
「なら、いい…」
そうは言うが、クロノは一向に果実酒に手をつけようとはしない。
「そちらはお飲みになられないのですか?」
挑発するようにクロノは言った。
「…貴様の皺くちゃの顔でも肴にして、飲めと?」
「これは失礼…何でしたら若い女子でも呼んできましょうか?」
これ以上何を言っても無駄だと判断したクロノ、は本当の理由を口にする。
「…酒は嗜まんのでな…」
「そうでしたか…誰か、水を持ってきてくれ」
村長が部屋の外に向けて叫ぶと、間もなく小間使いの男が水の入った木製のコップを持ってきた。
クロノの前に置かれたコップは、置かれた衝撃で波を作り出す。
「さて、そろそろ本題に入ってもらいたいものだな。」
「なんのことです?」
「今資源的にも経済的にも疲弊しているこの村で、報酬とは別に一介の冒険者である俺をもてなすなど、金の無駄遣いだ。所詮一回限りの関係だからな。まあ、つまり俺が言いたいのは―――」
コップの波が収まる。
「早く話せよ。本題を。これ以上無駄な時間を浪費させるつもりなら、俺はもう聞かんぞ?」
村長は首を何度か振ると、困ったように溜息を吐いた。
「…率直に申し上げますと、貴方にこの村に残っていただきたいのです。」
村外れ
(村長さんの話ってなんだろう…?)
若い男に連れられたクロノを見送ったメアリーは、中心部から少し外れた人気のない場所に来ていた。
(あと少しだったのに…)
見計らったような最悪のタイミングで出て来た男に恨み言の一つでも吐きたくなるが、村長の用であればしょうがない。
(大丈夫、まだチャンスはある…よね…?)
無理やり自分に言い聞かせ、何とか心の平静を保った。
中心部から外れたこの場所は、光といえば月以外に見当たらず、暗闇に閉ざされている。
こんなところにずっと居てもしょうがない、と思い、家へと戻っていった。
家に戻ろうと、薄暗い民家を歩いていると、遠くに二つの人影が見えた。暗く、誰なのかまでは判断できない。
今日はほぼ全ての村人が祭りに行っているはずだ。
気になって近づいてみると、丁度月明かりが人影を照らす。
そこに見えたのは両方知っている顔――――チェスとトーリであった。
身長差のある二人は、チェスが背伸びをする格好でなにやら話し込んでいるが、よくきこえない。
(…面識あったっけ…あの二人…)
聞き耳を立てようと、ひっそりと二人に近づいていく。足音を殺し、一歩一歩。
他に目立った音のないここでは、足音ですらも目立ってしまうのだ。
メアリーが後少しまで来たところで、二人はどこかへと歩き出す。
その後を、気づかれないようにメアリーもついて行った。
村長の家
「断る」
迷いなく、簡潔にあっさりと即答するクロノ。その声には呆れといった感情が込められていた。
「即答ですか…お話だけでも聞いてもらいたいのですが…」
クロノは先を見越したように言った。
「ハッ、時間の無駄だと思うがな? 大方この村の防衛が手薄であるからとか、そういう理由だろう?」
図星なのか村長はぐっと黙り込む。
「今回のこれも接待というわけだ。言っておくが無駄だぞ? 大体俺にメリットが無さすぎる」
「ちゃんと報酬は―――」
「払うか? いくらだ? 疲弊したこの村でいくら払えるというんだ? 一生ここに縛り付けておく気なら、最低でも俺の持ち金の10倍はもらわないとな? 約500億ほど」
「それは……」
「無理だろう? 交渉の余地は無いんだ。」
500億―――ギール帝国の国家予算が毎年50億ほど、それを考えれば当然こんな村に払える額ではない。
自分でも、なかなかに酷い言い方だとクロノは思った。
だが、ここまで言わなければ、しつこくエスカレートしていくだろう。
だから、現実的な問題を村長に突きつけて諦めさせようとした。
村長は唇をわなわなと震わせている。
ようやく、諦めたかとクロノが思ったとき、ドタドタと足音が部屋に近づいてきた。
部屋に入ってきたのは若い男。
「村長…少々お話が」
「今忙しいんだ、後にしてくれ」
忙しくないだろ、とクロノは内心ツッコミを入れる。
「しかしですね…」
男は村長に何事かを耳打ちすると、ほんの数秒前のセリフを忘れたのか、男と部屋から出て行った。
「ここは…」
二人の後をつけてきたメアリーの目の前に広がるのは、村の民家の中でも一際大きい村長の家だった。
最近改修したらしく、真新しさが木造の壁にも匂いとなって現れている。
(こんなところに何の用なの…?)
今村長はクロノの相手をしているはずだ。
となれば、二人の目的は村長に会うことではない。
呼ばれもしないのにこんなところに来るのだろうか?
メアリーがあれやこれやと考えているうちに、二人は村長の家へと入っていった。
「失礼野暮用がありまして」
柔和な笑みを浮かべながら、村長がクロノの元へと戻ってきた。
その笑顔を見ていると、なぜだか不安になった。
クロノは好々爺という評価を下方修正する。
「さて、どこまで話しましたかな」
「貴様の下らん妄言を吐き捨てたところまでだな」
「ああ、そうでしたな」
村長の顔にはさきほどのような焦りは見られない。
何かが違う。さきほどまでとは。
違いは目に見える変化として現れていた。
―――何が違う?
脳裏に浮かべるさっきと今の村長の姿。
頭、顔、手、腕、足、順を追って記憶と照らし合わせていく。
表情の筋肉の張り具合、右手の血管の浮き。
―――違う! もっと分かりやすい何か
村長は暑いのか、服を胸元で何度も引っ張りながら、風を発生させていた。
ようやくクロノは思い当たる。違和感の正体に。
そこに在るべきものがないことに。
遅すぎた。気づくのが。
在るべきもの――――牢屋の鍵が無いことに。
確かめることもせず、クロノは部屋を飛び出した。
村長の家には離れがある。
何のことは無い。ごく普通の一般的な物置のようなものだ。
中は藁がこれでもかと並べられており、変わった様子は見られない。
そんな物置だが、藁を全て避けると、突如として不気味な地下への入り口が出現する。
薄暗い地下を進むとその先には、黒く塗り固められた箱が二つ。
これが牢屋だ。
牢屋というよりもそれは黒い箱だ。
穴など開いておらず、外から中の全容を知ることは出来ない。音すらも外には漏れない。
空気は上の僅かな隙間から入れ替えているようだ。
開けてはいけない黒箱のように置かれている。
ここの存在を知るものは村人でも僅かで、表向きは牢屋となっているが、実際の用途を知るものとなれば片手の指で足りる数しかいない。
「……!」
途中若い男が増え、三人についてきたメアリーは、予想外の箱の出現に思わず驚きの声を上げてしまいそうになった。
何か見てはいけないものを見てしまったような感覚。
三人がいる牢屋がある部屋のドアの裏にメアリーは隠れている。
幸いまだ気づかれてはいないようだ。
ここからでも三人の会話はよく聞こえない。
ひゅうひゅうと地下通路を吹き抜ける風の音が邪魔をする。
チェスがメアリーに聞こえる音量で声を上げた。
「じゃあ、そろそろ開けようか! この―――」
(開ける? 何を?)
疑問符を浮かべるメアリーに解答を示すように、チェスは続けた。
「盗賊が入った箱をね」
「……!?」
考えるよりも先に、メアリーの身体はドアの裏を抜け出していた。
三人の前に姿を現すと、トーリは眼を丸くし、チェスは歪んだ笑みを浮かべ、男は無表情のまま、メアリーへと眼をやった。
真っ先にトーリが声を上げ、それにチェスが答える。
「お前…! なんでここに…」
「ついて来てたさ、最初から。俺とお前の後を、へったくそな尾行でな」
「気づいてたなら…なんで…」
愉快そうに笑いながら、チェスは人差し指をピンと立て、口元に当てた。
「それを教えるのはまだ先だ。」
―――そろそろか?
喋りながらチェスは風を感じる。
まだ、流れに乱れは無い。
「どういうこと…?」
「そうだな。分かりやすーく、馬鹿でも分かるよーに、噛み砕いて答えてあっげよーか?」
心底ふざけた調子でチェスは語る。
「かーんたんにいうと、しゅりょうがじつはぼくでしたーで、いまろうやのかぎをもってここにきましたーってこと。OK? 理解した?」
「…あれを、アナタがやったの…?」
思い出す村人の死体。
事態をようやく理解したメアリーは、鬼のような形相でチェスを睨み付ける。
「そうだよ、そうそう。で、今ここに鍵があるわけだけど、止めてみる?」
鍵を持った左手を見せ付けるようにチェスは振った。
―――来いよ。早く
チェスは待ちわびていた。
誰かの登場を。
もう、後少しだ。
その時地下通路の風が、流れを変えた。
わずかな違いではあったが、チェスはその微量な変化を見逃さない。
―――来た!
会話の途中に溜めていた魔力を土へと一気に流し込む。
「まっ…!」
トーリが制止の声を上げるがもう遅い。
魔力は先の尖った一本の石柱へと変貌を遂げ、メアリーを襲う。
幾人もの命を奪った、石柱は止まることを知らないかのように、ただ進んだ。
少女の身体が貫かれる様が、容易に想像出来た。
メアリーは恐怖から眼を背け、視界を閉ざす。
訪れる死の恐怖。
鈍く低い衝撃音が部屋の中を満たす。
舞う。
鮮血が―――ではなく、粉々に砕けた石の破片が。
パラパラと大小さまざまな形になった石が地面へと着地する。
衝撃がやってこないことを不思議に思ったメアリーが眼を開けると、視界が黒く覆われていた。
知っている。これが誰のものなのか。
その誰かは振り返ることもせずに言った。
「ごめん。遅くなった」
クロノの姿を認めたチェスの行動は早かった。
間髪入れず石柱を生成し、チェスとメアリーの間に出現したクロノへと放つ。
―――こんなもの…!
当然のようにクロノはそれを剣の柄で砕き、再び欠片が宙を舞った。
まるで石柱が脆いクッキーのようだ。
チェスはクロノに一息つかせる暇を与えない。
三度石柱を放つ。
一瞬避けるという考えがクロノの脳裏に浮かんだが、すぐにかき消した。
三度石柱を砕きにかかる。
その様を見てチェスはあざ笑う。
「ほら、避けてみろよ。お前なら楽勝だろ?」
子供らしからぬ歪んだ笑み。
クロノはここに至り、ようやく理解する。この少年が敵であることに。
「避けるまでもないだけだ…」
「そうかい。じゃあ全部砕いてみろよ…!」
言いながら砕くクロノと生成するチェス。
気丈に言ってはみるが、このままではいたちごっこにしかならない。
チェスも同じことを思ったのか、石柱の生成ペースが上がる。
それに加え、これまで前からだけだったものが、四方八方から放たれる。
しかし、そのどれも―――いや、ここまでのすべてがクロノを狙ったものではなかった。
だからこそ、クロノは避けられない。
「ほらほら、次々!」
チェスは更に生成のペースを上げる。
一つ一つ出てくるのに一秒とかかっていない。
右斜め下から出てきた石柱を柄で砕き、左斜め下には左手を叩き込む。
両手を戻す間もなく、今度は中央から来た石柱を右足で蹴り飛ばす。
両手片足が上がったまま、残った左足と腰を使って、身体を無理矢理後ろへと回転させた後、右足で地面を蹴りメアリーの背後へ。
そのまま、さきほどと同じような手順でまた前方へと戻り、正面から来る石柱を砕く。
この繰り返し。
ここまで長々と手順を書き連ねたが、時間にしてわずか2秒ほどの出来事である。
常人にはクロノが分身しているようにすら見えるかもしれない。
回転の摩擦に耐え切れなくなった靴は溶け、地面には黒煙とともに焼け焦げた痕がくっきりと残る。
そんなクロノに、平静を保ちながらチェスは挑発するように言った。
「持久戦と行くかぁ?」
「俺が先にくたばるとでも?」
挑発を挑発で返すクロノ。
この間ですらも、互いに攻撃の手は緩めない。
「そうだな、このペースだとこっちは持って5時間ってとこか。それ以上耐え切れるならお前の勝ちだけど?」
嘘だった。こんな異常なペースでは1時間どころか、30分持てば良いほうだ。
対するクロノは、その言葉を鼻で笑う。
「余裕だな。一日はいける」
こちらは嘘とも言えるし、嘘でないとも言える。
そもそも、レベル5の状態を5時間も維持したことはない。
一日1時間使うだけで、翌日は疲労でろくに動けないのだ。
それを5時間など、後日どんな後遺症があるか分かったものではない。
最悪使用中に動けなくなるかもしれない。
簡単に言えば未知数。
―――ハア!? 一日とかざけてんじゃねぇぞ!
―――5時間か…厳しいね…
互いに相手の実力を若干過大評価し、頬を引きつらせた。
どんな間も、二人は手を緩めない。
チェスがスピードを上げると、クロノは踊るような足捌きで全てを砕く。
時が進むに連れて、生成スピードの限界に達した石柱は下だけではなく、上からも放たれる。
「上だよ」
チェスがそう言うと石柱は真下からクロノを襲う。
そんな言葉に騙されること無く、クロノは冷静に対処する。
「やっぱ騙されねーか。ったく、本当その身体はどーなってんだか!」
「教える義理はないな」
短くそう答え、右足で石柱を蹴り飛ばす。
攻め手が無い。
このままでは本当に持久戦になってしまう。
クロノとしては5時間もやり続けるのは不安がある。
だが、この現状を打破する術がない。
そしてそれはチェスも同じだった。
もう既に石柱の生成スピードは限界に達している。
地下で上にも土が存在し、奇襲できるという利点も、クロノには通用しない。
これ以上は策がないことはないが、出来ればここで仕留めておきたかった。
埒が明かない現状に嫌気が差したチェスは、少し仕掛ける。
「あーあ、やってらんねえ。その石柱さー、1秒の半分の半分のペースで作ってんだぜ? あー、秒って分かる? 俺の部下は全員知らなかったけど。学ねーから」
1秒の半分の半分―――0.25秒。
その事実にクロノはにわかに驚いた。
魔法の発動の基本工程は、イメージ、抽出、放出、の三要素。
まず、何をしたいかというイメージをする。
当然イメージすれば何でも出来るわけではなく、自分の属性、魔力量にあったものでないと発動はしない。
魔法を使うとき何かを言う人間もいるが、それはイメージしやすくするためだ。
次に抽出。
自分の身体に眠る、必要な分の魔力を抽出する。
必要な魔力が多ければ多いほど、抽出に時間はかかり、複雑な技であればあるど、必要な魔力は多くなる。
最後は放出。
抽出した魔力を放出し、世界に具現化する。
当然”例外”も存在はするが。
チェスの言葉通りであれば、この全工程をチェスは0.25秒以内に全て行なっていることになる。
いくら単純な石柱の生成だけとはいえ、驚異的なペースである。
「何が言いたい?」
「お前のそれはどうなってんのか、っつう話だよ。普通の人間が生身でついてこれるスピードじゃねえ」
誤魔化すようにクロノは言う。
「さてな…教える義理は無い…」
クロノのこのスピードは魔法によるものであるが、通常の魔法とは発動条件から異なっている。
さきほどの”例外”というのはまさにクロノが今使っている無属性。
通常の魔法は何かをするために一々イメージから始めなければならないが、無属性は一度発動したら自ら止めるまで、自動で持続し続ける。
本来無属性は意識しなくても、勝手に身体を強化している。
クロノはそこにレベルを設定し、調整しているだけ。
この世界で魔力はよく、蛇口付きの樽に入った水に例えられる。
魔力は水。樽は人間だ。
樽が大きければ大きいほど、入る水は多くなる。
大きいというのは身長ではなく、魔力容量の差。才能の差だ。
魔法を使うために蛇口を捻り、水を出す。
蛇口が一度に出せる最大量も個人差があり、それはそのまま抽出にかかる時間の差になる。
おそらく、チェスは蛇口から出せる容量が多いのだろう。
一方無属性はというと、通常に比べ欠陥品といえるかもしれない。
蛇口は壊れ、止めるという事が出来ない。おかげで水が垂れ流しになっている。
ただ、蛇口は止められないだけで、調整は出来る。
クロノは勝手に溢れる樽の水の量を、蛇口の捻り具合によって、調整しているようなものだ。
チェスからすれば、話をしながらイメージの集中力を失って欲しいところだったが、イメージを必要としないクロノには意味が無い。
むしろ、喋ることによってチェス自身の集中力が危うい。
互いの手は止まらず、それ以降衝撃音だけが部屋の中を支配していった。
トーリがうわ言のように呟いた。
「なんだよ、これ…」
二人が作り出した戦闘空間は他者が入ることを許さない。
同じ部屋にいる三人はただ、その成り行きを見守るだけ。
もう何本目か分からない石柱を砕きながら、クロノは思う。
―――確かに…偽ってはいなそうだ
0.25秒――正確な時間は勿論計れないが、確かにそう思えるほどには速い。
最初はこのスピードに若干戸惑ったが、慣れてしまえば難しくはない。
タイミングは掴んだ。
もう、負けは無い。
パラパラと舞う砂礫を見つめながら、チェスは眼を鋭く光らせる。
―――そろそろ仕掛けるか
自分の最高速でも仕留められないことは、ある程度予想はしていた。
だからこそ、無謀ともいえる持久戦をするフリをするしかなかった。
もう、時間は十分だろう。
クロノは相変わらず四方八方から来る、石柱を砕いていた。
右足を使い右手を使う。
破片が宙を舞い、視界が狭まる。
それでも、困ることは無い。
砂煙の中に影が見えれば十分。
慣れたタイミングで、残った左手を前へと拳にして突き出す。
スカッ
そんな音が聞こえた気がした。
実際にはそんな音は響いていない。
感触がなかったことによる、擬音がクロノの中で鳴っただけ。
突き出したはずの、左手に感触がなかった。
チェスが行なったのは単純なこと。
力を抜いただけ。もっと言うと、石柱のスピードをわずかに下げただけだ。
最高速を続けたクロノが、慣れてくる頃。砂煙が舞い始め、視界が狭まる頃。
クロノは見ずとも、感覚で対処するだろう。
だからこそ、ここでスピードを下げる。
最高速だと思って砕きにくるクロノのタイミングをずらした。
右足も右手も左手も使った。咄嗟に戻しても間に合わない。身体を支える左足は使えない。
最初から最後まで狙い続けたのはここ。
ここ以外チャンスはない。
石柱は左手をするりと抜けて、心臓めがけ一直線に突き進む。
―――! やめ…!
クロノが”それ”に気づいたときにはもう遅い。
叫ぼうとするクロノの声は、声に鳴らずに喉の奥へと飲み込まれていった。
そして、赤い、生肉を、紅い、心臓を、尖った、石柱が、真っ直ぐに、貫いた。
数分前
戦闘空間の中心に囚われたメアリーは、何が起こっているのかもわからないまま混乱の中にいた。
衝撃音ばかりが、耳に反響する。
姿さえもみることが出来ない。
それでも、これだけは分かった。
―――私はあの人の邪魔になっている
狙われているのは自分だ。
自分を守っているからクロノは攻められない。
きっと、自分さえいなければクロノはもっと楽に勝てるだろう。
でも、しょうがない。自分には守る術が無いのだから。
思えば最初に会った時から、守られてばかりだ。
何度も、何度も。
クロノには何かをしてもらったことしかない。
ここで、メアリーの頭に何かが浮かんだ。
―――なんだ、あるじゃない
それは絶対に気づいてはいけない考え。
どうしようもないくらいに暗い考え。
―――そうだよ簡単だ、私が
本日二度目となる勇気を限界まで搾り出す。
それは果たして、勇気か蛮勇か。
砂煙が多く舞い始めた地下。
不思議と怖くは無かった。
何が起こっているのかはわからない。
見えるのは石柱だけ。
それで十分。
「ごめんね。止めなくて」
遠くにいるトーリに一度小さく謝ってから、メアリーは一歩戦場へと足を踏み出した。
―――死ねばいいんだ
四人の眼に映ったのは鮮血、抉られた肉。
そして倒れる少女の姿だった。




