第百三十三話
隷属の首輪はベイポート辺りのものです
どういう予定だったのか見返さないと当時を思い出せない
士官学校は良くも悪くもない成績で卒業した。今まで特別何か功績を上げたわけでもない。ただただ、怠惰に兵士として言われたことをこなしていただけだ。
今回の遠征は思えば始めからおかしかった。
だって、彼女の下に何のとりえもない私がつくなんてことは、まずあり得ないことなのだから。
彼女は静粛で絢爛で知的で完璧な存在なのだ。そんな彼女の周りには選ばれたものだけが存在し、そこに私の入る余地なんてないのだ。
なぜ今回私みたいなやつが選ばれたのかなんてことは考えず、ただただ浮かれていた。そこに何があるのかなんて考えもせず。
そう――普段親衛隊なんて呼ばれている直属の部下を連れずに、今回なぜ私たちみたいなやつを選んだのかを考えもせず。
喧騒と嬌声の響く戦場の中、彼女はゆっくりと目を覚ました。寝覚めは実に最悪だ。強制的に起こされるなんて経験は、今までの人生の中でなかった。彼女の世界は常に優雅な目覚めを提供してくれていた。
けたたましい足音をして入ってきたのは、誰だったか、ちょっと記憶にはない下っ端らしき人物だった。
精一杯異常を伝えようとしているのは、その顔の焦燥具合から分かったが、口から漏れる言葉はどうにも支離滅裂だ。
促されるまま外に出ると、そこはより一層うるさい。醜い獣と耳障りな雑音が飛び交っていた。耳を軽く塞ぎながら獣を見る。
「随分とまあ、品のない」
獣の首についている見慣れた首輪を見やる。大きさはともかく、あれが隷属の首輪であることは推察するまでもないことだった。
隷属の首輪が魔物に効くという話は聞いたことがないが、敵のことを思えば常識は通用しないだろう。
通常、異種族の魔物たちが群れをなすことはない。だからこれは明らかに人為的なもので、敵の攻撃でしかあり得ない。どこから引っ張ってきたのかは知らないが、兵士たちと互角以上の戦いを繰り広げている。
この先の展望を描きながら、ぼんやりと思った。
――凄惨な戦いだった。と、言えるようになればいいのだけど
壊滅までは行かないにしても、多少の被害は受けることになるだろう。
だが、軍の中でも中央に位置するこの位置に被害が及ぶまでは、まだ時間がかかりそうだ。最前線では派手に暴れん坊が敵をなぎ倒しているのがここからでも視認出来た。最悪、肉壁はまだ大量にある。
彼女はしばし思案した後――もう一回寝ることにした。
⇔
リルは隣をちらりと見やった。既にそこには先刻まであったクロノの姿はない。リルにだけ分かる残り香だけが漂っていた。
前方へと視線を戻す。月だけが照らすはずの暗闇で、まず目につくのは天高く降り注ぐ火炎と火柱。空を飛ぶ小型の飛竜種から吐き出された炎は、地を這う全てを焼き尽くす勢いで広がっていた。風下のこちらにまで焼け焦げた臭いが漂ってくる。
兵士たちもやられるばかりではなく、土や水で壁を造り攻撃に備え、空へと無数の魔法を放ち、いくつかの飛竜を地上へと叩き落としていた。ここからみる限りでは、兵士たちが優勢のように見えた。
特に2箇所ほどでは、いくつもの巨大な影が蠢いては崩れ去り、まったく前線が下がっているようには見なかった。その内の1箇所では巨大な土の建造物が出来たり消えたり、きっと土属性持ちの相当強い誰かがいるのだろう。
リルはそれらを軍の背後から見ていた。
こういった時、本当に風属性とは地味だな、としみじみ思った。炎や光と違って光を持たず、土や水のように実体さえもない。常に風は無色透明だ。クロノの無属性と共通点を見つけたような気がして、ちょっと嬉しくなった。
一方風属性にはデメリットも多い。特に攻撃手段のなさは致命的だ。炎や水、土とくらべて直接的な攻撃が難しい。多くの人間には人を切り裂く風の刃など作れはしない。発生させるだけで攻撃になる他の属性と比べて魔力コストがかかりすぎる。ゆえに多くの風属性持ちは、空を飛ぶ偵察要員になりがちだ。実際に戦闘を行えるレベルの人間は少ない。
リルが意識を集中させて風をコントロールしようと試みると、やはり邪魔する魔力はほとんど存在しない。
さて、どうしようか。考えていたところ、人影が一つ、こちら――魔物のいる側とは反対側――に走ってくる姿が見えた。
炎による逆光に照らされたその姿は、シルエット――よりも鈍さでクロノではないことが分かった。
近付くに連れて顔がうっすらと見えてきた。顔には大量の汗と怯えの色が浮かび、声は聞こえないが口はパクパクと魚のように動いていた。なぜ走っているのか、なんてことは考えるまでもなかった。
意識を風へと集中させる。頭の中でイメージを作りだす。まっすぐに――全てを貫くイメージを。
ふと、クロノに直前言われたことを思い出す。
「今まで散々言ってきたことだけど、今回に関しては殺すな、なんてことは言わないし、言えないよ。人を相手に殺さないで生き残るのは難しい。そして、今の俺にリルを守ることもできない。だから、俺がリルに頼めることは一つだけだ。――生きてくれ。殺したって、逃げたっていい、とにかく生きてさえくれればいい。それだけが俺のリルへの望みだ」
謝るようにクロノはそう言った。
素直にこの言葉を言われた時は嬉しかった。クロノがここまで言ってくれたこと、クロノの中でここまでの存在になれたこと、クロノがここまで自分を必要としてくれていること、全てが合わさってその場で天にでも昇ってしまいそうな気分だった。
クロノの全てを理解したいと思うし、理解しなければならないと思っている。感情思考人生全てを理解し、受けとめた上で彼の側に居続けたい。
その思いはきっとこれから先どれほどの時が流れたとしても、きっと変わることはないだろう。
今回だってそうだ。本当はこんなところに来てほしくはなかったし、二人だけの世界で永遠に外の世界に干渉もせずに生きていきたい。たとえ他の全ての人類が亡くなったとしても。
でも、それでは駄目なのだ。今のクロノはアイツを殺さずにはいられないのだ。アイツを殺さなければクロノはクロノでいられないのだ。
それが理解できるからこそ、今回はクロノを止めなかったのだ。
そんなリルだが――ただ――ただ一つ――理解出来ないことがあった。
イメージが鮮明になって思考の上へと浮き上がってくる。後はもうこれを手放して外へと発射するだけだ。
今までクロノに散々言われてきたし、それを守ってもきた。疑ったことはない、ただ理解できなかっただけだ。理解しようとしても理解できなかっただけだ。
標的は迫っている。相手に視認されるわけにはいかない。今が発射のタイミングだ。
リルには前々から理解できなかった。なぜ――クロノが殺人をいけないというのか。
無差別に殺すわけじゃない。手配犯を殺すのは悪ではない。それはきっと善だ。
それでも人を対象にする依頼は受けるなと、何度も言われた。破ったことはない。
きっと私が人を殺すことで、何かショックを受けるんじゃないかと思ってくれてのことなのだろう。その気持ちは嬉しいし、そこまで考えてくれていることが嬉しい。
謝るように言ったのも、それが理由なのかもしれない。その優しさだけで嬉しい。
だが、リルは知っていた。きっと私は人を殺したところで、ショックを受けることはないのだろうと。
だってリルは自分にとって魔物も人間も変わらないと知っていたから。
リルから放たれたそれは、寸分の狂いもなく標的を貫き、抵抗する間もなく絶命した。
――ほら、やっぱり――
何の感慨も湧きはしない。そこにあったのはいつも通りの、魔物を殺したときと同じ、ちょっとした達成感だけだった。
逃散兵はまだまだ増えそうだ。リルは淡々と次の標的を狙い定めていた。




