第百二十四話
主人公編。遅れすぎて笑う
遠足前の子どものような心で、「勇者」もとい白井は、今日も無駄に着飾られた城内を気後れすることなく、堂々と闊歩する。観察してみると、自分のいた世界の西洋城とは細部の造り方が僅かに違うように見える。その辺りも文化の差というやつなのだろうか。いや、細部しか違わないことに驚くべきなのだろうか。どの進化の経路を辿ってもこの手法に行きつくのならば、それは優れた建築方法ということだ。あるいは、人間という種の考えることはどこの世界も同じということか。
人間の傾向や本質といったものは、どの世界でも大して変わらない。この世界に来て、そんなことを思う。どこにだって悪人はいるし、善人もいる。上流階級は権力を追い求め、庶民は日々の安定した暮らしを求める。まあ、あまりにも違いすぎたのならば、それは人間ではないと言われてしまいそうだが。
基本的に人の少ない城内ですれ違うことは少ない。同じ城の中でも明確に生活圏は分けられているため、あまりにも場違いな人間には出くわさない。上流の場所にはそれ相応の人間、下級層の場所にはそれ相応の人間という風に分けられている。
勿論、白井は上流に位置するわけで、この様に人とすれ違うことは珍しい。
一瞬、視界の外から視線を感じて立ち止まるが、背後に人の気配は存在しない。むしろ前方の、それもすぐ近くに人がいる気配がある。
視線を少し下に落としてみると、海のような青い眼の少女が飛び込んでくる。どうやら相手との身長差がありすぎて視界に入らなかったらしい。
その眼は、傍目には綺麗に見えるものの、どこか澱んでいて、何かに汚染されているような印象を受けた。眼だけではない、黄金のように輝いているはずの髪も言いようのない不純物が混ざっており、身体全体が見えない負のオーラで覆われているように見える。
眼が合った瞬間、相手の生気が膨れ上がり、その無表情とは裏腹に、活き活きとした殺意が、鋭利な刃物となって白井の身体を念入りに何度も突き刺してくる。視線で人を殺すとはこういう事を言うのだろう。
視線は一瞬、自分の頬に向いたかと思うと、再びじっとこちらの眼に殺意を向けてくる。
「……ユーリか」
三姉弟の末妹――ユーリ・ユースティアはそれに答えることなく、そっと凶悪な視線を外し、身を少し屈め、頭を下げて横を通り過ぎていった。
毎回、視線が合うたびにこうだ。言葉を交わすことはなく、表情が極端に変化するわけでもない。その視線だけが、他の誰よりも強い殺意を伴って白井を襲ってくる。姉や兄とはまったく違う理由で、比べ物にならない強さで、その視線は打算の入り混じらない殺意をこちらに示す。この女は、マリアのように殺したことで起こる何かを求めてはいない。殺すこと自体が目的なのだ。
よく、常日頃から無表情で何を考えているのか分からない、と言われるユーリだが、白井にはよく分かる。あれは、24時間365日自分を殺すことしか考えていない。思考の全てをそれに費やしても構わない勢いだ。
だが、白井にはそこまで恨まれるような覚えがない。この世界に来て、彼女の不利益になるようなことをした覚えはない上に、あの殺意は一朝一夕で出来上がるレベルのものではない。何年も何十年も、相手を恨み続けて、それでもなお恨み足りないといった様子だ。この世界に来て5年も経っていない自分に向けるにしては、少々重過ぎる。
ここまで見当違いだと、自分の気のせいとして片付けるべきなのだろうが、なぜか白井にはあの視線に見覚えがあった。どこで、と聞かれても思い出せないが、確実にどこかで見覚えがある。いくら記憶を掻き回しても合致するものは浮かんでは来ない。
――そういや、俺の頬見てたな。
今までは視線を合わせて、何かあるまで向こうからは外さなかったものだが、今日は頬に視線を移した。
何かあったか、と頬を指でなぞってみると、一箇所通常の肌とは違う感触を感じた。そこには治りかけのかさぶたが張り付いていた。クロノに付けられた傷を放置していたらこうなったようだ。
よくよく思い返してみると、この世界に来て目立った外傷を負ったのは初めてかもしれない。
物珍しさに気をとられただけだろう。そう思って気にしないことにした。
白井は心なしか足早にそこを立ち去り、足取り軽やかに城の裏口を目指す。
ついさっきまで殺意を向けられていたことを忘れてしまったかのように、はやる冒険心が彼の心を支配していた。
そもそも今日は、城を出て冒険でもしに行こうかと思って部屋を出たのだった。未知のものに対する好奇心は二十歳を越える年齢になっても、大いに持ち合わせていた。
もし、街中を歩いていて、目の前から来た高そうなコートを着た美女がいきなり熱いフランスパンをこちらの手に持たせ、意味ありげに「ユーカリ!」と叫んで立ち去ったとして、その先を追う人間は多くない。きっと、周囲からの視線に顔を背け「関わらないほうがいい」と思い、手に持ったフランスパンをゴミ箱に入れ、再び雑踏に消えていくだけだろう。たとえそこに、得体の知れない未知の匂いを嗅ぎ取ったとしても、それに混じった危険の匂いを恐れ、進んでその先を知ろうとは思わない。
その辺りが一般人と冒険者――よく言われる主人公――の違いなのだ。
そして、白井は主人公だった。今日も今日とて未知の匂いに心躍らせ身を委ねる。後先は少し考え、それらを無視して。
裏口が見える位置になって、まるでどこぞのスパイのように壁に張り付き身を隠し、そっとみやる。
出口は正面口以外にも複数ある。その中でもここは普段から通る人間が少ないことを事前のリサーチで知っている。
堅く閉ざされた扉の前に見張りの姿はない。時刻は昼時。丁度交代の時間のはずだ。
――計画通り。
内心ほくそ笑み、クックックと三流悪役のように笑いたい衝動を寸でのところで抑えて、獲物を追う獣の如く扉を駆け抜けた。
マリアはどうやら、自分を軟禁状態にして勝手に出歩かせないようにしたいらしく、どこもかしこも見張りで塞いでいることが多い。
おかげでこんなスパイのような真似をする羽目になったが、今回もしっかり抜け出せたので何も言うまい。
勝利の拳を軽く握り、白井は未知の匂いを求めて更に足を加速させる。目指す先は秘境「迷いの森」。
「迷いの森」には予想より早く、一時間足らずで着いた。国自体、東部が「迷いの森」に隣接しているためだろう。
どこの国のものでもなく、前人未到の領域であり、立ち入りがタブーと化している。内部の詳細は不明で、危険であるという認識だけが独り歩きしている。そんな煽り文句を聞いては、白井としては行くしかない。彼にとってここは未知の塊であり、好奇心を満たす甘い果実である。
「何じゃありゃ」
目の前に立ってまず目を引いたのは、切り立った崖のように背の高い木々の向こうに見える、その親玉とでも言うような山。木々に覆われた山は肌すら見えず、その高さだけを悠然と示している。それも生半可な高さではない。雲など余裕を持って貫き、頂上は遥か天の上に微かに見えるだけ。
この世界には空の標とかいう、これよりも高いと思われる山もあるらしいが、ここだけでも白井にとっては理解の外だ。まず、元いた世界ではお目にかかれない。
高さを競うように聳え立つ木々は、譲り合いの精神を教えたくなるほど、密度がおかしい。木同士の間隔というものをまるで考えていない。これでは日光の恩恵を受けられない木々が多くあるに違いない。更にそのお陰で森の中に日光はほとんど射していないらしく、昼間だというのにおどろおどろしい暗闇が漂っている。
「シュヴァルツヴァルトでもここまでじゃなかったぞ」
黒い森と異名をとるドイツの森を思い返し、呆れたように呟くが、その顔はむしろ笑みさえ零れていた。
一歩また一歩、感触を確かめるように薄い暗闇へと歩き出す。
しかし、意気揚々と中へ入りかけて、すぐさまちょっとした異変に気づく。
――誰かいる。
殺意とか勘とか、そういった曖昧なものではなく、足音がする。それも背後から。小さな歩幅でざりっざりっと音を立て、こちらの後ろをつけてきている。
城からここまで自分の速度についてくることは有り得ない。だとすれば、予め行き先がバレてたのか。それとも行きそうなところ全てに兵士を配置していたとでも言うのか。あの女ならやりかねない。
いくらか可能性を思案したところで、おもむろに振り返ってみると、そこにいたのは予想とは違い、年端も行かぬ少年であった。
「誰だ、お前?」
少年は突然の振り返りにびくっと身体を震わせたが、白井の問いには答えようとせず、気弱そうな顔を下に向ける。
十代に満たないと思しき少年は、生来なのかどこか気弱そうで、覇気というものを感じられない。特筆すべき特徴も大してなく、ぱっと見て特徴を訊かれたならば真っ先に気弱そう、という単語が出て、その先の言葉に詰まることだろう。
「おーい、何か言えよ。その耳は飾りか?」
ずかずかと少年に近づいてみるが反応はない。煮え切らない様子にイライラし、襟口を掴みひょいっと持ち上げる。
ようやく足をじたばたさせるといった反応を見せた少年は、吃り気味に言った。
「……ま……「迷いの森」に入るんでしょ……?」
「そうだが」
「僕も、なんだ……」
「アァ? お前みたいなのが何か用でもあんのか?」
「えっと……と、とっ、友達に肝試ししてこいって……。それでお兄さんを見つけて、それで……後をついてけば少し安心かなって……」
言葉を聞いて、何となく前後関係を理解する。同時に、やっぱり人間はどこの世界でも変わらないなとも思う。
きっとこの少年は気弱さにつけこまれ、何かグループの中心的少年辺りに、からかい半分でここに行って来いなどと言われたのだろう。危機察知能力が足りない彼らにとってここは、夜の学校や幽霊屋敷感覚なのだ。
さて、どうしたものか。ついてこさせるか、置いていくか、あるいは――。答えを出すまでに1秒とかからなかった。
ぐるりと周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから、少年を下す。
「ついてくるなら勝手にしろ」
瞬間、少年の顔がぱぁっと輝いた。
再び暗闇の中へと歩き出す白井の後を、少年も同じように、先ほどより軽い足取りでついていく。
二人は一歩、また一歩と、引き返せない魔境へと足を踏み入れる。
異変があったのは数秒後。少年の耳に、全身に、嫌悪感が奔るような嫌な音が響いた。視界が揺れる。真っ赤な点が視界を覆っていき、終いには完全に赤く染まってしまった。声が声にならない。ひゅーひゅーと音を立てるだけだ。
まるで徐々になっているようだが、そうなるまで、実際はほんの少し――秒にも満たないくらいだっただろう。
視界に映るのは――狂気的で狂喜的な笑みを浮かべた男の顔。男が手に持っているものが、短いナイフで、そこについている赤が自分の血であるとは、少年はいよいよ最期まで気づくことはなかった。
「ギャハッ!! アアアアァァァ~~~~~~~!!」
ぐちゃりぐちゃりと音を立て、無邪気な子供のように、何度も何度もナイフを振り下ろす。まるでリズムでも刻むかのように。
脳みそが泡を吹きぼしながら沸騰する。テンションメーターは振り切って測定不能。楽しすぎて笑うしかない。今誰かに話しかけられたって、人間の言語を話すことはできないだろう。
きっと少年はとっくの昔に死んでいる。それでも気の向くままにナイフを振り下ろす。
ようやく手が止まったのは、原型がなくなった辺りの頃。それを人間の姿に戻すのは、下手なジグソーパズルを完成させるより難しい。どれが腕でどれが足であるかの判別は素人には無理だろう。
脳みそが次第に冷めてきた。この虚脱感すら愛おしい。
先ほど頭に浮かんだ選択肢の中、迷う必要はなかったのだ。誰も見ていない、相手は無傷。ならば殺そう、というのは白井にとって簡単な帰結だった。
改めて目の前の惨状を冷静な目で見てみる。死体はバラバラになっており、白い骨が露出して、その周りにかろうじて肉がついているような状態。自分の服も返り血で血まみれである。どうやって城に帰ってから誤魔化そうか。魔物の血ということにしておこうか。この死体はどうしようか。何か利用価値はないだろうか。
骨付き肉を手に持ってみると案外持ちやすい。人間の肉でなければ噛みつきたいくらいだ。
そこであることを思いつく。そうだ、魔物の撒き餌くらいには使えるんじゃないだろうか。
骨付き肉を2つほど拾い上げ、今度こそ白井は森の奥地へと足を進める。
走るのは何かもったいない気がして止めた。この暗い雰囲気を噛みしめるように、きょろきょろと辺りを見渡す。
サメの嗅覚は何億倍にも薄めた血の匂いを嗅ぎつけるという。そのレベルではないにしろ、これだけ血が付いていれば何かしらがやってくるのではないか、と期待していた。
歩き始めて半刻ほどして、ようやく最初の標的に出くわす。一言で言えば黒いオオカミ。元の世界のよりはデカイか。出現の仕方から見て、元のよりも馬鹿みたいに速い。
その出現を合図に、周りで窺っていた他の獣共も一斉に飛びかかってくる。チンピラかお前らは、と言いたくなる。
そこから先のことは、記憶にも残らなかった。
求めているのはこんな、地球上に存在する生物に大人の貧困な想像力で余計なぜい肉を付けたようなやつらではない。
一層増した血の匂いを身に纏い、うきうきとスキップ混じりに、未知を求めて再び歩き出した。




