第百十五話
ちょっとバージョンアップした迷いの森。
ここに来た理由とかは後々。正直隠す意味もないけど。
その森は――秘境にして魔境。
黒々とした木々が絨毯のように敷き詰められ、不気味な雰囲気を漂わせている。それに、時折森の奥から聞こえる心の芯まで震わすような野獣らしき叫び声も加わって、この中に入ることを躊躇わせる。
逆に考えれば、そんな様相を呈しているのは親切なことか。これが妖精の出てきそうなファンタジックな森であれば、子供が興味本位で入ったりするかもしれない。
森の中央には、天を貫くような山がぽつんと存在するが、その山肌にも木々が侵食しており、山肌を見ることは叶わない。
広さだけなら大陸に存在する小国と比べても遜色はなく、むしろ広い部類に入るかもしれない。
森の内部には様々な動植物が存在し、資源としての有効価値も比較的高いが、その危険性の高さゆえに入ろうとする者はおらず、統治しようとする国すらも現れない。
昔、この森ごと燃やしてしまおうという計画も行なわれたらしいが、早い段階で森を追われた魔物たちが近隣諸国に尋常ならざる被害をもたらしたことにより、途中でご破算となったらしい。
放っておいても内部の魔物が近くの街に下りてくることは一年に一回あるかないかなので、現在は完全に放置されている。
そういった経緯もあり、シュガーとはまた別の意味でのアンタッチャブルと化している。公海ならぬ公土とでも呼ぶべきか。
その森の名は――迷いの森。
行きすら怖く、帰りはない。
そんな森の前で、一人の少女が思わずその雰囲気に苦笑いする。
「うわぁ不気味……」
「それは俺も思う」
目の前に広がる陰鬱な森。昼でさえ不気味だというのに、現在は夜で一層入りたくなくなる。
領主の館を出てその足でここに向かってからどれくらいたっただろうか、夕陽の影などどこへやら、既に月が高くなっていた。
クロノが全力で走れば夕陽が落ちかける手前か落ちてすぐくらいにはついたのだろうが、リルを連れて行くとなると本気で走るわけにも行かず、リルを抱っこしながらその身体に付加を掛けない程度のレベル3で走ってきたため、こんな時間になってしまった次第だ。無論、領主の館と1000km以上離れたここに数時間でやってくるというだけで、十分な早さではあるのだが。
抱っこにしたのは、背中が背丈の三倍はあろうかという大荷物で覆われていたからだ。
普段クロノは荷物など剣以外持っていないのだが、今回はメイから貰ったこれがないと仕事にならないのでしょうがない。
「そういえばクロノって普段荷物って持ってないよね。服とか食料とかお金とか、どうしてるの?」
「食料は必要になったら現地で買うかな、自分で調達もするけど。服は普段から何着か持ってるよ? 新しいの作ったりもするし」
「作るの!?」
「裁縫するわけじゃないけどね。俺の服って全部「天衣の霊装」だから……って分かる?」
「ちょっとまって……えーっと……ドラ君が言ってたやつ?」
「そうそう。自在に伸び縮みして形も変えられるからさ、形を考えるだけで新しいの作れるんだよ。しまう時は小さくすればポケットに入るし」
「あれ? でもドラ君がこの前着てたような……」
「伸び縮み出来るってことは、ちょっとした切れ端でも大きく出来るってこと。切って伸ばしてを繰り返せば無限に増えてくんだ」
そんなことを「天衣の霊装」を貰った当時――2年程前言ったら、ドラには「罰あたりめ」と言われたものだ。しかしその後「まあ、もうそれでもいいか」と言ったのもクロノは覚えている。
貰ったのはかーさんと別れて少しして、ドラと本気で戦った時だったか。今では懐かしい記憶だ。
「それと、金も現地調達かな。そこのギルドで仕事するだけでいいし、ギルドがない街に行く時は最低限の金も持ってくけど……。基本的にいっつも金は持ち歩かないよ。ていうか、多すぎて邪魔になるだけだしね」
「多すぎて邪魔になる量って……」
「Sランクの依頼になると優に百万は超えていくからなぁ……。あれ持ち歩くのはちょっと……。余ったらそこらへんに埋めてるよ」
「埋め、る……?」
「預ける場所もないし、そんなにお金も必要ないし、色んな街の近くに埋めてるな。極端に必要な時はそこから掘り返してる。数は1000箇所くらい」
「それ他の人に見つかったらどうするの……?」
「おめでとうってことであげるよ? 一応全部場所は覚えてるけど、あんなに使うこともないしねえ……。今まで4回見つけられたかな? 埋めてから1回も見に行ってない場所もあるから、もっと見つけられてるかも」
クロノの人並み外れた金銭感覚を見せつけられたリルは何も言えなくなったのか、それ以上言ってくることはなかった。
これから世にも名高い魔境に入ろうというのに、緊張感のかけらもない会話。
と言っても、住み慣れたクロノに緊張する要素などほぼなく、リルにとってもクロノがいることで外敵に対して緊張することはなにもないのだが。
クロノは背中の大荷物を持ち上げて、リルから暗い森へと向き直る。
「さて、そろそろ入ろうか」
「これクロノの家見つけられるの?」
森の中はまさに一寸先は闇状態。こんな中に今から入って一つの家を見つけるなど、誰の目から見ても自殺行為も甚だしい。
しかし、クロノは不安など感じさせない軽い声で言った。
「余裕余裕。今いるのが南東の端だって分かってるし、これからどれくらいの速度でどれくらい走れば着くかなんて感覚で分かるよ」
リルを右手で抱っこして、森へ入ろうと足を進め、何か思い出したのか一旦立ち止まる。
「ああそうそう、家に着くまでは眼閉じててね」
「なんで?」
「途中色々あるからさ、眼開けてたら結構危ないんだよ」
リルは言っている意味がイマイチ分からない様子だったが、とりあえず言われたとおりに眼を閉じた。
それを確認してからクロノは走り出す、先の見えぬ暗い森の奥の奥へと。
⇔
冷え切った森の中。
身体が高速で揺れているのが分かる。ガサガサと草にぶつかる音が聞こえる。道が均されていないのだろう、揺れと音が止むことはない。
上下左右に揺れ視界を遮られた状態でも、リルは安心しきっていた。
疾走することによって発生している風はクロノが本気で走っていないといっても本来小柄な少女に耐え切れるものではないのだが、自分で風を操作することによって心地よい風になっている。それに加えクロノに抱っこされているということもあり、リルの心は揺れなどものともせず幸福感に包まれていた。
当然不満はない。
――が、気になることはあった。
――どうして眼を閉じててなんて言ったんだろ?
言われた通り眼を閉じていて視界はさっぱりであるが――閉じなくてもこの暗闇では何も見えないと思うのだ。
もし見せたくないものがあるとしても同じこと。開けていても見えない。
――というより、そんなものがあるならば逆に見たい。
これから一生クロノについていくと決めた少女には、自分とクロノの間に隠し事があるのが許せなかった。
クロノの全てを知って、それらを全て分け隔てなく愛していきたい。その為には隠し事などあってはいけないのだ。
そう考えた少女は、悪いことだと分かっていながら、暗闇の世界から眼をひっそりと開けた。
無論、眼を開けても月明かり以外の光がない森では明るさなどさして変わ――った。
「え……?」
思わずリルは短く声を漏らした。
確かに、眼を閉じているよりは明るいに決まってはいる。完全な暗闇の世界と月明かり射す森を比べれば月明かりが射している分、森の方が明るいだろう。
――だとしても、暗いことに変わりはないはずだ。
しかし目の前の光景は明らかに違った。
まず、視界にはクロノが見えた。それはいい。
クロノの青い瞳と眼が合った。それもいい。
いや、もうこの時点でおかしいかもしれない。リルは合っているクロノの瞳が青いと断言出来る。決して普段のクロノを知っているから青い瞳だと言っているわけではなく、視界の中で青い瞳に見えるのだ。今のリルの視界を他人に見せてもこれは青だと断言されることだろう。
つまり――しっかりと色を認識出来る。暗いはずの森で。
――だがそんなことはまあいい、と言えた。そんなことが些細に思えるほどおかしな点があった。
現在リルの視界にはクロノがいる。クロノがいる。クロノがいるのだ。――クロノしかいないのだ。
暗くて他のものが見えないのではなく、本当に視界がクロノで覆われている。視界にクロノ以外が存在していなかった。
そして――更に言えば、視界の中にいるクロノは――五人。
その五人全員と眼が合っていた。
「なにコレえええぇぇぇぇぇ!?」
リルはついに脳内の処理が追いつかなくなり驚愕の声を上げた。
そんな声もクロノに覆われた世界を振り払うことは出来ずどこかへと消え去ってしまう。
続いて聞こえるクロノの呆れたような声。
「何叫んでるの……って、眼開けたのか……」
声にいつもと変わった様子はない。リルの聞きなれたクロノの声だ。
ついでに視界を覆うクロノの表情にも変わりはない。――口元すらも。言葉を発するような動きはどこにもなかった。
「どんなの見てるかは知らないけど……それ全部幻覚だから」
「幻覚……?」
「視覚だけに作用するやつだから、直接害は、っと……まあ、詳しい説明は家についてからするよ」
途中何かあったのか、身体が大きく揺れた。
その揺れは、未だ自分の身体は抱っこされままで、クロノは走り続けているということの証明。意識して風を操ってみると、やはり同じ結論に達した。
おかしいのは視覚だけ。
「ずっと幻覚見てるとおかしくなるけど、とりあえず眼さえ閉じれば大丈夫だからさ」
クロノに言われ、リルは静かに眼を閉じた。この夢のような世界を少し名残惜しく感じながら。
二人は進む、まだまだ先へ。
⇔
迷いの森は、奥に進むにつれて徐々にその凶暴な本性を現す。
迷いの森が迷いと呼ばれる所以の一つ――名前すらつけられていない花の花粉による幻覚作用。
視覚だけとは言っても、見る内容によっては人間はそれだけで息を止めることもある。そう考えるとリルが見た幻覚は幸運なものであったと言えるだろう。
他にも多種多様の動植物たちが混在する暗い森の中をクロノは迷いなく進んでいた。――眼を閉じながら。
実はクロノにここの幻覚は効かない。特別な何かをしているわけではなく、長く住んだことによって耐性が出来ていた。幻覚以外にも麻痺毒などがあるがそれらも慣れによって耐性がある。(本当はとある女性につけさせられたという方が正しいが)
幻覚が効かなくてもなお眼を閉じているのは、その方が慣れているからだ。
耐性があると言っても、当然最初からあったわけではない。最初、幻覚を見ていた頃は、眼を閉じなければこの森の奥地は歩けなかった。
百聞は一見にしかずなんて言葉があるように、人間の情報収集において視覚は最も多くの情報を得られ、他の五感よりも重要な位置を占める。見えている情報が嘘だと分かっていても、それを無視して行動することは難しい。たとえばナイフが自分に飛んでくる幻覚を見ていたとして、避けないという選択肢を選ぶことはなかなか出来ることではない。条件反射で避けてしまう。それが幻覚だと分かっていても。
であれば、見ない。自ら視界を閉ざす。
無属性を得て、この森でまともに戦うようになってから、クロノは最初にその結論に達した。
今、眼を閉じているのはその頃の名残だ。
眼を閉じていても、どこに何があるかは身体が経験でおおまかに知っている。
しかし暫くここに来ることはなかったので、たまに予想外の場所に木が出っ張っていたりもする。それが先ほどリルが感じた大きな揺れ。
敵の接近は耳で分かるので、苦にもなりはしない。今は戦いはしない。避けるだけだ。
そうして幾分か走ったところで、クロノはふと足を止めた。
――ここら辺かな。
傍目には今まで走り抜けてきた場所となんら変わりはない、木々が生い茂り月明かりすら遮断する密集地帯。
周囲を埋め尽くす木々、その内の一つの幹にクロノは触れる。
左手を目一杯広げ、何かを確かめるようにざらざらとした幹の上を滑らせていく。
「ついたの?」
「待ってね……」
頭の上の高さから徐々に手を下に、頭と同じ、首の辺り、そして胸の位置まで来たところで手を止めた。
「ここだな」
そう言うと同時に、無人だった森にベキベキと何かヒビが入る音が二人の背後からし始める。
ガラスが割れるような高い音が何度か響き、最後に一際大きな音を森に響かせた。
音が止んだのを確認してからクロノは背後へとくるりと身体を回し、右手に抱かれたまま眼を閉じている少女に言った。
「もう眼開けていいよ」
リルがゆっくりと眼を開けるとそこには――破れた光の結界の残滓が舞う中にひっそりと佇むログハウスがあった。
「ようこそ、俺とかーさんの家に」




