第百九話
凄い短め
リルメイン
リルがクロノの精神安定剤化してる
短いのはめんどくさくなったのが理由
もっと互いに依存させたい
真夜中の孤児院は、まるで人がいないつい先日までの古ぼけた洋館に戻ったかのような静けさを取り戻していた。人が一人歩けば、その音が現在のこの館で最も大きな音となることだろう。
そして今、足音が密かにしていた。密かなはずの音が、最も大きく聞こえるという、なんとも不思議な状況。
その音を立てているのは――一人の少女。
リルは慎重に歩きながら、クロノの寝ている部屋にようやくたどり着いた。
時刻は既に一日が終わり、新たな一日に入った辺り。当然クロノも寝ていることだろう。
これまた音を立てないように、慎重さを持って立て付けの悪そうなドアを開けた。
埃被った部屋の中では、当たり前のようにクロノがベッドの壁側で寝ていた。
この部屋のシングルベッドは左側が壁に隣接している。頭は窓側にあって、朝方は窓から漏れ出る朝陽によって一日の始まりを知ることが出来る。
クロノが壁側に寝ているのは自分の為だろう、とリルは思った。朝方、クロノが狭くないかと心配していたので、わざわざ壁際に寝て自分の寝るスペースを作ったのだろう。
クロノの寝相はいい。有り得ないくらいに寝た位置から朝まで動かない。
そんな配慮を嬉しく思いながらも、リルはそれを無駄にする。
もぞもぞとクロノの寝るベッドに入りこみ、壁際で寝ているクロノにピッタリと張り付く。結果、ベッドのスペースは多分に余る。
別にリルは寝やすさなど求めていないのだ。ただ、ずっとクロノの傍らにいたいだけ。
クロノの温かい右手を握って、規則的に寝息を立てるその顔を覗き込む。
滑らかな黒髪と、赤みがかかった唇。微かに出会った頃の幼さが残る。案外女顔かもしれないとも思う。
閉じた眼元は穏やかで、夕暮れ時に見た、平坦で冷たい重厚さはどこにもない。
こうしていると、戦いとは無縁のただの優しい17歳の青年だ。
穏やかな寝顔にとりつかれるように魅入りながら、リルは隣にクロノがいるという多幸感――と、また別種の憤りも覚えた。
思い出す。立て看板を見た時のクロノの無表情。内に秘めた燃え盛る激情を抑えるような無表情。どうして、この世界はクロノにあんな表情をさせるのだろうか。どうして、この世界は何の罪もないクロノから全てを奪うのか。
あの夜に聞いたクロノの過去。聞くだけでリルの心を引き裂くような話だった。それを実際に体験したクロノは、どれほどだったのか、想像するのも嫌になった。
単純に身体の傷だって酷い。この綺麗な顔の下には、傷ばかりだ。
身体の傷は前から知ってはいた。ただ、それはあくまで戦いでついたものだ。そう、リルは思っていた。それなら、まだよかった。
だが、現実はもっと残酷で、傷の殆どは10歳までに家族につけられたものだった。主に兄や、父親からの虐待の痕。
なんとも見事に服の下に隠れるように、背中や腹につけられた傷跡は治っても消えることはない。
信頼出来るはずの、家族からの虐待とは、どんなことなのだろうか。家族がいないリルには、完全には分からないけれど、それでも聞くだけで嫌になった。分からない自分でさえ嫌になる、それほどの絶望をクロノは味わった。
それすらも許容して家にいたのに追い出され、朱美という女性に拾われて、ようやく信頼出来る家族が出来たかと思ったら、その女性を殺すことになって、その後唯一残ったドラですら失った。
世界は理不尽で不条理だ。クロノにとって大事な人間は根こそぎ奪い、クロノに害を与えた家族を生かす。
何度も何度も失って失って失い続けて、それでもクロノは休むことなく独りで戦い続けている。
心にも身体にも一生癒えない傷を負って、それでもクロノは休むことなく独りで戦い続けている。
だが、傷を負うにも限界はある。傷は負いすぎたら死ぬ。
そして、最近のクロノは既に限界が見え始めている。どこか不安定で今すぐにでも壊れそうな脆さが最近のクロノには見える。
もしかしたら、とっくにクロノの心は限界を迎えているのかもしれない。そうなっていてもおかしくはない。
静かにクロノの穏やかな寝顔を見ていると、リルはなぜか――涙が出た。消え入りそうに言葉を吐き出す。
「……もう、クロノはこんなにボロボロなんだよ………ねえ、なんでまだ………クロノに戦えっていうの………ねえ………!」
立て看板を見た瞬間、リルは何となく、まだこの世界がクロノに、戦え、と言っているような気がして、底知れぬ不安感を感じた。
本音を言えば、この穢れた世界からクロノを隔離してあげたい。ひっそりと、誰もいないところで、静かに暮らさせてあげたい。
けれど、クロノは今、それを望まないだろう。だからリルはそれをしない。少なくとも、今現在は。
自分に出来る事は、ただ、クロノが壊れないように支えることだけ。
それしか出来ない自分の無力さを痛切に嘆いて、リルはようやく眠りについた。
⇔
「ふあ~ぁ」
手で口を覆っても隠しきれない大きな欠伸をしたリルに、クロノが心配そうに声をかける。
「寝不足? 別に深夜にわざわざ俺の部屋忍び込まなくてもいいのに……。起きてる時来てもいいよ」
「違うからだいじょーぶ! でも、起きてる時行っていいなら行こうかな」
眠気を吹き飛ばすように元気な返事を返したリルの眼には、小さな隈が浮かんでいた。
二人は、一日の始まりを告げる朝陽が照らすアース市内を歩いている。
朝陽に照らされた街並みは綺麗とは言い難い。雑多な文化がごちゃ混ぜされたこの街の建物には統一性がないので、それが原因かもしれない。
現在目指しているのは、昨日の立て看板に記された宿屋。実は昨日行ったのだが、「また明日来てください」と店主のユイに言われてしまい、しょうがなく昨日は帰ったわけだ。
というわけで本日、ユイのいる宿屋ビッグマウンテンに向かっているわけだが――
朝方のアース市内は――いつにも増して騒がしかった。
ここ数日は確かに騒がしい。だが、その騒がしいここ数日以上に、今日という日は騒がしかった。
地鳴りのような行列の足音が、そこら中から鳴り響き、怒声と叫喚が響き続けている。
原因は、これまた昨日の立て看板。
街中のありとあらゆるところに配置された看板は、瞬く間に民衆に広まった。
この国に人が多く集まったのは、この国ならば安全だろう、という考えからだ。もっと言えば、この国は攻められないだろう、という考えからだ。誰も戦って勝てるとは思っていない。
それが昨日、この国の意思表示として戦いの意を示した。つまり――ここは安全ではない。
生命の危機を感じた無力な民衆たちは、更なる逃げ場を求めて大移動を始める。それが今の混乱した状況を作りだしていた。
多くの無力な民衆は逃げ惑う。まるで巨大な波から逃げ惑うように。




