第百二話
リルのメンタルはボロボロ。基本メンヘラで打たれ弱いからしょうがない。
結局クロノとリルは似たもの同士。
ガタンガタンゴトン
頭が揺れている。視界は暗く、何も見えはしない。それもそのはずで、そもそも瞼が開いていない。今見えているのは瞼の裏にある闇。
固まった身体に感触が戻ってくる。この感触が久方ぶりと思うほど懐かしく感じる。どうやら頭だけではなく、身体ごと揺れているらしい。
背中に感じる堅い感触。体勢は仰向け。背後は地面ではおそらくない。左手は他の箇所と違い、誰かに握られている。
動かそうとしても身体が重い。全身の筋肉が断裂しているような錯覚を覚える。
どこか動く場所はないかと探ってみると――
瞼と口だけが開いた。
見えたのは低そうな白い天井。それと端に見える燃えるような赤。紅白で覆われる視界。
「どこ……ここ…?」
思ったより声が出ない。
消え入りそうな掠れ声で尋ねたその声に返ってきたのは、何の回答にもならない回答。
「クロノ起きた! 起きた!?」
リルの心配したような大声がやたら耳に響く。声が身体に染みて痛い。
とりあえず自分が寝ていたことは分かった。しかしどれくらい寝ていたのか、全く予想が出来ない。
――そもそも、なんで寝てるんだっけ?
頭で考えてみるも、記憶が整理しきれていないらしく、イマイチ出てこない。地面は未だ揺れていて、そのお蔭で脳みそが揺さぶられる。
クロノはなんとか記憶にあるところから思い出してみる。
――ああ…戦争があっ、て………!
「そうだ……! そういえば………アガッ!!」
興奮のまま無理矢理身体を持ち上げようとするも、過度の筋肉痛で痛みしか感じず、素っ頓狂な声しか出てこない。
苦しそうな声を上げたクロノを慌ててリルが制止する。
「だっ、駄目だよ! まだ動いちゃ」
リルの瞳には分かりやすい涙。その下には腫れた眼。おそらく長いこと泣いていたのだろう。
涙を滲ませながら言うリルを見て、クロノの記憶が完全に蘇る。同時に、敗北とは別の情けなさを感じた。
――何やってんだオレは…。リルをこんな泣かせて、何やってんだよ。
15にも満たない少女をこんなにも悲しませたことに対する自責の念が渦巻く。自分のせいだということが痛いほど分かった。
だが今は謝罪をしている場合ではない。後でしっかりと謝ろうと思いながら、状況の理解に務める。
仰向けのまま見える白い天井はおそらく幌。揺れていることから、ここは馬車の中だろう。集中して耳を澄ませると、蹄が地面を闊歩する音が聞こえる。
身体が動かず、視線だけを別の方向に向けると、わずかに見える空の青、草の緑。
ほぼ馬車と見て間違いはない。
馬車の中を見渡していて、クロノはふと、ごく自然な疑問を覚えた。いつもあるはずの、いるはずの、誰かがいない。
「そういえば…ドラは?」
自然に口をついたその疑問に、リルは途端に顔を俯かせ、何も答えることはしなかった。
⇔
たとえ余所でどんなことが起こっていようとも、信憑性の欠けた噂は今日も暢気に噂好きの間を駆け巡る。噂に信憑性など大して必要はないのだ。廊下トンビのように意味もなく彼らはそれらを収集し、他人へと垂れ流す。それがまるで自分の仕事であるかのように。
(最近、マリア様が王子殿のところに足繁く通っている、と)
(つーか、王子なんて齢じゃねえだろ。もう三十路手前だぜ。むしろ王子の嫡男が王子と呼ばれてもいいくらいだ)
(王がなかなか王位をお譲りになられんからな)
(…不謹慎な話だが、近頃王の体調が思わしくないから、そろそろだと思うんだがな。……どちらにせよ)
(…どちらにせよ…か。そうだな。結果は変わらん。……まあ、王の現在の状況についても、幾分か怪しい噂はあるが)
(下手なこと言って首が飛ぶのは勘弁だぜ?)
(まったく持って同意しよう)
(話を戻すとして…、どうしてそんな頻繁に通っていると思う?)
(普通に考えてまあ、ゴマすりだろうな。次期王の最有力候補である王子殿に早くから近づいておく。王の体調を鑑みてそろそろ交代せざるおえんだろうしな。…強制か任意かは別として)
(普通に考えてゴマすりなのかよ…)
(なんだ? 懸想しているゆえ、とでも言って欲しかったか? マリア様がそんなことで動くたまか?)
(………ゴメン、訊いた俺が悪かったわ…)
(マリア様が懸想することは、間違いなくないだろう。逆に王子殿がすることがあってもな。まあ、そうなったら、彼女はそれすらも利用するだろうが)
(怖ぇよ……。つまり、取り入りってことでいいのか)
(多分な)
(これ以上権力手に入れてどうする気なんだろうかね。今だって十分だろうに)
(さてな、彼女の考えなど我々では到底理解できんだろう。他人には理解出来んからこそ、彼女はあそこまでの高みにいるのだ)
(ほんっと天才すぎて怖いね。あーあ、どうして神様ってやつは天才に二物も三物も与えるんだか。なんだよ、俺らみたいな凡人は難しいことせず、せっせと働いてろってか)
(そういうことなんだろうな。そろそろ持ち場に戻れ)
(っけ、世界ってやつは才能のないやつに厳しいねえ。まったくよ)
⇔
兵士たちが下らない噂話を流している頃――
渦中の人物は、王子と会い、目的の人物との面会を終え、げんなりした気持ちで自らの家へと戻っていた。
――めんどくさい。
正直な感想がそれだった。別に王子になど用はないというのに、目的の人物と会うためには、毎回王子と話さなければいけない。
話しているときに感じる視線の中に、どうにも劣情の色が見える。舐るような視線とでも言えばいいのか。全身を舐めまわされているような感覚を覚えるのだ。
それがどうしようもなく気持ち悪い。
自分の容姿が他より秀でていることは分かる。うぬぼれではなく、純然たる事実として、彼女は自分をそう理解している。
受けなれている視線ではあるが――だからといって、妻も息子もいる王子がそういった視線を向けるのは、どうかと思う。
更に付け加えると、王子の話は自分をどれだけかっこよく見せるかというものばかりで、実につまらない。下らない話を聞かされる自分の身にもなれと言ってやりたい気分だ。
それでも聞かなければ目的は果たせない。しかし、聞きたくない。相反するジレンマがマリアの中で波となって押し寄せる。
そして波に浮かぶ黒い感情。
――どれもまだ早い…か。
自分を諌めるように心中で呟き、一旦その考えを頭の片隅に置いておく。削除はせずに。
――ペース的に考えて、このまま行くと一ヶ月で大陸は制覇出来るわね。
頭の中で大陸の地図を思い浮かべ、制覇した地区を黒く塗りつぶしていく。やっていくと、純粋な黒が大陸の半分以上を塗りつぶした。
――主要な国は大体潰した。後は――
意識を向けるのは、黒く塗りつぶされていない、これまで戦った国と比べると狭く小さい国。それでいて、マリアがもっとも警戒している国。
――シュガーだけ。
⇔
クロノが起きたその日の夜――リルはぼんやりと夜空を見上げていた。
起きた後、クロノはリルがドラについて何も答えないのを見て悟ったのか、そのまま眼を閉じ、何も言わなくなってしまった。すぐに寝たというわけではないだろうが、それ以降は何にも反応を示さなかった。
言った瞬間、圧倒的失望感がクロノの顔には見えた。
リルが今現在思い浮かべるのは、ドラとの最後の会話。
後悔している。情けないと思っている。
あの場面で、なぜ、自分が残ると言えなかったのか。
言ってもきっと結果は変わらなかっただろうけれど、言えなかった。少年の身体が震えていることを知りながら。
ドラがクロノを連れて一旦離れた時、ドラには生き残る選択肢があったはずだ。クロノの為だけならば、一度戻る必要はない。そのまま自分を置いて逃げればよかった。その方が確実だったはずだ。
であれば、あの時戻ってきたのはクロノの為ではなく、他ならぬ自分の為だ。
少年は自分の命を捨てて二人の命を守ったというのに、なぜ自分の心はあの時、死にたくないという感情に抗えなかったのか。
少女の心中を後悔が包む。
「私が残る」
もしあの時、それを一つ言えたらこんな感情にはならなかっただろう。もしかしたら、そうして自分が残ることになって、ドラが生き残ったかもしれない。そうすればクロノは、ここまでのショックは受けなかったかもしれない。
たとえば、クロノはリルが死んだとして、きっと大いに嘆き悲しんではくれるだろう。でもリルの頭の中では、こういう結論も出している。
きっと、ドラ君が死んだ時よりは、ショックが浅いだろう、と。
前々から気づいてはいた。あの二人の間に、他者が入る隙間がないことに。
どれほど自分がクロノを愛したところで、ドラと同じところまでは行けない。彼がいる限りは。クロノの隣にいるのは、常に彼なのだ。
クロノを連れて十分離れて落ち着いたとき浮かんだ感情は、自分でも吐き気がするほどに汚くて醜いものだった。
『これで邪魔者がいなくなった』
微かな声で、自分の心がそう囁いた。
少女は自分の汚い感情を自覚して思う。死ぬべきは自分だったと。こんな卑しい自分など死んでしまえと。
気づけば夜の馬車の中でリルは泣いていた。
「なに泣いてんだお前は」
唐突な声。
少女にあまりにもあっさりと声を掛けたのは、夜の月明かりの中でも鈍い輝きを失わないスキンヘッド兼乗っている馬車の持ち主。
リルがクロノを連れて王都に帰ったとき既に魔力は尽きかけ、丁度避難するところだったユリウスの馬車に乗せて貰ったのだ。
リルは慌てて顔から涙を消し、気丈に表情を取り繕う。
「泣いてないっ! それよりた、た、た、……」
「手綱か?」
「そうそれ! 離したら駄目なんだよ!」
「もう暗いから今日はこれ以上進まねえよ」
確かに馬車の揺れは収まっており、幌の中から見える景色に変化はない。
「で、何でお前は何で泣いてんだよ?」
「泣いてないって言ってる!」
「そうかよ。じゃあ俺の知らない間に雨でも降ったってことか」
馬鹿にしたように笑うユリウスの言葉に、リルははっとして自分の頬を指でなぞる。ひんやりとした水滴が指についた。
「似合わない顔してんじゃねえよ阿呆。いつも通り馬鹿っぽい笑顔浮かべとけ。お前がそんな顔したまんまだと、このまま連れて帰ったときにアイツらに俺が色々言われるだろうが」
散々な言いようだったが、ぶっきら棒な言葉の端々には密かな心配の色が見える。
普段であればリルは笑い飛ばすか、憎まれ口を叩くのだが――
今回は、少し違った。
「私は……私は…」
意識せずとも口につく言葉。
たった一言を皮切りに、堰きとめていた堤防が決壊し、言葉が洪水のように一気にあふれ出す。
「私は最低なんだよ! 私を生かすために残ったドラ君が死ぬって分かって真っ先に思ったのは「これで邪魔者がいなくなる」だったんだよ!? 最低でしょ!? なんなの私は!? なんなの、なんで私みたいなのが生きてるの!? なんでドラ君が死んで、私が死ななかったの!? ねえ! なんで、あの時私が死ぬって言えなかったの!? 気づきたくなかったよ! 私がこんな汚い人間だなんて! 私が死ねばよかったんだよ……! こんな最低な私なんて死ねばよかったんだ!!」
鬼気迫る形相で、自分に言い聞かせるように叫んだ少女は、誰の眼から見ても正常ではなく、明らかな異常。
抑えこんでいた自分が表面に露出する。
自己嫌悪。それこそが誰にも気づかれない、常にリルの根底に渦巻く暗い感情。この感情はクロノに会った時から何も変わってはいない。今回のことに限らず、リルにとって自分は、無力な自分は、嫌悪する対象なのだ。
だからこそリルは、自分が永遠に届かない強さを持ったクロノに憧れた。自分と違って無力ではない彼に。クロノがすぐ追い抜ける程度の強さであれば、リルはクロノをここまで愛さなかっただろう。
少女の狂乱を冷静な眼で見ていたユリウスは、実に馬鹿にしたような顔で少女へと短い言葉を返す。
「知るかよそんなこと」
おおげさに溜め息を吐き、呆れたといった顔でユリウスはつまらなそうに言葉を続ける。
「お前が戦場で何を見て、何を経験したのかなんざ俺には分かんねえ。まあ分かんのは、お前の言うドラ君ってやつが、お前の代わりに死んだんだなーってことくらいだ」
落ち着いた調子で、相変わらずつまらなそうな顔のユリウス。
「お前が思った感情は確かに汚いし、人間として多分間違ってる。でもな――人間誰だって汚いもんだ。完全に清廉潔白な心の人間なんていねえよ。いたとしたら、ソイツは人間じゃあないと俺は思う。それに、死ねばよかったって、今更思ってどうすんだよ。あの時死ねばよかった、だからどうしたってんだ。お前、過去に戻ってその場面で死ねるのか? 過去に戻れんのかよ? それとも今死ぬか? 今死んで何の意味がある? 今お前が死んだらソイツの命は無駄になるがな。結局、いくらお前みたいなガキが悔やんだって意味ねえんだよ。死ねばよかったって……お前は生きてんだろうが。死んでおけば、なんて、もしの話なんざしても現実は変わらねえよ。今目の前にあることだけが現実だ。お前に出来るのは、お前の代わりに死んだって奴が無駄死にだと思わないような人生を送ることだけだ」
力強くではなく、どこまでも冷静にそう語ったユリウスは、最後に馬鹿にしたように言った。
「まあ、つまり――いつも通りお前は馬鹿っぽい笑顔浮かべてろってことだ」
リルはユリウスの、どの言葉にも答えることはなく、堅い木の床にごろりと寝転がり、それ以上何も動かなくてなってしまった。
その様を見てユリウスは自然と大きく溜め息を吐き、一人馬車の外へ出た。
王都壊滅から二日。あの日満月だった月は若干欠けている。
馬車から少し離れたところで、ユリウスはひとりごちた。
「あークッソ、似合わねえな。こんな役割はヘンリーかメリーの役目だってーのによ」
その二人と合流するまでの道筋を頭に思い浮かべ、目的地への日程を弾き出す。
「三日ってとこか。シュガーまで」
実際はクロノがドラを失ったショックで、リルとの肉欲に溺れていくというストーリーもあったけど、流石に汚いので止めました。




