第九十六話
竜巻が跡も残さず消え去った。
当然それをかき消したのは『勇者』以外の何者でもない。
風属性というのは、一般的に空気に働きかけるものとされている。世界に漂う空気を魔力で使役するといった感じだ。
彼はリルの使役した風に魔力で干渉した。例えば、同程度の魔導士が同じ空気を操ろうとした場合は、魔力が拮抗しどちらも使役できないが、今回はケースが違う。魔力量は『勇者』の方が圧倒的に多い。
結果。干渉された空気はリルの元を離れ、『勇者』のものになったというだけの話。
傭兵が金によって寝返ったといった表現が正しいだろうか。
とにかく、そういったことが目に見えず行なわれ、リルの竜巻は消えてしまった。
その後で最も冷静であったのはドラだった。
他の人間が動き出す前に、いち早く地面を駆けた。目指すのはクロノ。
現在図らずも注意はリルに向いている。あれこれ考えるよりも、早くクロノを回収しなければならない。遠目に一人の金髪の男も見えたが、気には留めなかった。
判断は早かった。クロノの元へと辿りつけはした。問題はここからだ。
『勇者』の黒い眼が近くに来たドラを見下ろしながら視認した。同時に光剣が飛んでくる。昔であれば反応は出来なかったであろう速度。
だが今は違う。クロノを見慣れているお蔭で何とか紙一重で一撃ならかわせる。
小さい体躯をわずかに動かすと、切っ先は耳を掠めただけで済んだ。すり抜けた剣はそのまま地面に穴を開ける。
相手が次の体勢に入る前にクロノを右手で持ち、地面を蹴った。小さい身体のどこにそんな力があるのかというくらい舞いあがり、距離をとる。
ドラを追おうとする『勇者』に上からの追撃。風の刃が死とともに迫る。
決して打ち合わせたわけではない。これはリルの暴走だ。
そんなものは『勇者』に通るわけもなく、再びかき消されてしまう。それでもリルの暴走は止まらない。
その間にドラは燃えていない茂みの中に身を隠し、クロノの容態を冷静に見つめる。
意識はないが息はある。左手の手がありえない方向に捻じ曲がっているところを見るに、左手の骨は完全に折れている。他の箇所もおそらく幾つかは折れている。
肝心な出血部分はというと、右胸に大穴が開き、肉が露出していた。左でなかったのは不幸中の幸いか。
ただ、血は際限なく溢れており、このままでは出血多量で5分と持たないことは明白だ。そしてそれを止める手段をドラは持ち合わせていなかった。出来ることと言えば、自分の天衣の霊装を千切って包帯代わりにすることくらいだ。それも気休めにしかならない。
一秒でそこまで判断は出来たものの、結局対処方が見つからなければ意味がない。あまり時間をかけていたら今度はリルが持たないだろう。現在リルは『勇者』を相手にしている。勝てるわけはない。
端からリルを身代わりに置いていくという選択肢はなかった。そんなことをすれば、たとえクロノが生き残ったとしてもどうするかは想像に難くない。それにドラにとっても、少なからずリルという少女は大切な存在になりかけていた。
とりあえず包帯代わりに、天衣の霊装をクロノの身体に巻く。
その時だった。何かが蠢いている感触が伝わってきたのは。
布越しにどろっとした血の温かさと共に、何かが蠢いている感触がした。血管の流れとか、筋肉の動きとかそういったものとはまた違う感触。
咄嗟に布を外し、じっと傷口の奥を覗き込んだ。血に塗れた肉。
よくみると肉が蠢いている。いや、肉が増えている。
「なんだこれは……!」
それは紛れもなく再生。貫かれ死んだはずの肉が、再生し始めていた。
明らかに不自然で奇怪。完全に人間の行なえることではない。何かが不味い気がした。人知を超えた領域。
だが、ドラはここで思い直す。
――だからどうした。
この現象は現時点で間違いなくクロノにとって+だ。このペースなら出血多量で死ぬ前に傷はふさがるだろう。それでいい。それ以上には何もいらない。この現象がたとえ悪魔によるものであろうとも、クロノの命が繋がるのであればいい。悪魔が対価を求めるというのなら自分の命を差し出してやろう。
そう考えた。そう考える自分に驚きさえした。
天衣の霊装を包帯代わりにクロノに巻いて、ドラは一旦その場を離れた。
いくらクロノが無事だとしても、少なくともすぐには戦える状態にはならない。失った血は戻らないし、全ての骨が再生するのかどうかも怪しい。
であれば、今やるべきことは一つしかなかった。
⇔
ドラがいなくなって時間にして数十秒。
『勇者』は変わらずそこにいた。何かするわけでもなく、単純にそこにいた。
上空ではリルが相変わらず、届かない力を奮い続けていた。狂乱したリルは届かないということにすら気づいていないらしく、ひたすらに風を操ってはかき消されるといういたちごっこ。
『勇者』に、離れていたディルグが近寄った。同時に『勇者』は表情に『勇者』の顔を貼り付ける。
「差し出がましいとは思いましたが、自分の判断で手を出しました」
「いやいい…。礼を言わなければいけないのはオレの方だ」
確かに助けがなければ間違いなく死んでいたであろう。
あの時点でディルグには『勇者』を見捨てるという選択肢はあった。
そうしなかったのは、まだ『勇者』が戦力として必要だと考えているからである。たとえどれ程気に食わない人間であろうとも、重要な戦力を無闇に削るような真似をする気はなかった。その程度には彼も冷静だ。
まあ、見捨てるといってもディルグが視認出来たのは、クロノが勇者の元にたどり着いたことくらいで、その中でどんな攻防が行なわれていたかは分からない。魔法を使用し始めたのはクロノが『勇者』の元にたどり着いた時であり、それがたまたま紅朱音を振り下ろす直前になって発動しただけなのだが。
「先ほどの人間は…どこへ……?」
「さあな……分からん。ただあの傷ではそう長くは持たないだろう」
ここで『勇者』の顔に僅かな暗さが宿る。
平然と会話しながらも、『勇者』は少女への注意を切らさない。
未だに目に見えぬところで魔力によるいたちごっこは行なわれている。
『勇者』はある程度時間が経ったのを確認してから、そろそろ終わらせようかと少女を鋭い視線で射抜く。
少女は臆するということをしらないように、更に強い憎しみの視線で『勇者』を睨んだ。
受けなれた視線だ。死の間際の人間の一部はああいった眼を自分に向けて来る。その全てを殺して彼はここにいるのだ。
右足一本で宙へと舞い上がり、少女への距離を一気に詰める。空中でも風の使役は怠らない。
少女は視線を憎しみと共に『勇者』へと向け、必死に風を操作しようとするがどうにも上手くいかない。
右手に光剣を発生させる。
視認は出来ても反応は出来ない速度で、少女の首めがけて光剣を振るった。
衝撃――。
肉を抉る感触――ではない。
何か硬いものに当たった感触が手を痺れさせる。
少女ではない。反応できていないのだ。
内心の驚きを隠しつつ光剣の先を見ると、そこにあったのは――爪。大型の肉食獣よりも更に大きく鋭そうな爪。何となく、そこら辺のナイフよりも切れそうだなと思う。
そしてそれを着けているのは、いかにも似合わない不釣合いな緑髪の少年だった。
⇔
ドラは何とか『勇者』の一撃を龍化した右手の爪で弾く。連撃でないなら何とかはなる。衝撃で爪の一部が剥がれたが、わずかに顔を歪めただけで気には留めない。そのままリルの元へと一直線に跳んだ。
「死ね死ね死ね死ねシネシネシネシネシネシネシネ死ね死ね――」
未だ壊れた人形のようにうわ言を繰り返しているリル。明らかに正気ではない。接近したドラにすら気づいてはいない。
ドラはそんなリルを
ゴツリ
と殴った。まだ人間の左手で。まるで拳骨を落とすように。
突然の衝撃に、『勇者』の魔力に対してかろうじて自分を浮かせるだけの風を確保していたリルは、それすらも失い地面へと落下する。
ドラはリルを空中で抱え、地面へと降り立った。
それでもリルは収まらない。
「離せよ!! 私は!! アイツを殺さなきゃいけないんだよ!! 私のクロノを殺したアイツを!!」
見たこともない表情。歪んでいる。何かが。心の根底でこの少女は歪んでいる。いつものリルという天真爛漫な少女の面影はどこにもなかった。
それだけクロノの敗北が少女の世界に与えた影響は計りしれなかったのだろう。
しかし先に言っていた言葉が事実――だと思っているならまだ、この少女は修復出来る。ドラは確信を持ってそう言えた。
ドラは小声で確信と共にその言葉を囁いた。
「阿呆が。クロノはまだ生きておる」
威力は絶大で劇的。どんな魔法よりもリルにとっては魔法の言葉だっただろう。
この世の全てを怨むような凶相は薄れ、徐々に顔に生気が戻る。
「……ホント……?」
信じられないといった様子のリルにドラは呆れたように言葉を返す。
「こんなところで冗談を言ってどうする」
死人だったような顔は、完全にいつもの元気すぎてうるさいリルへと戻っていた。
戻った代わりにリルの眼に涙が滲んだ。
「…よかった…よかったよ…クロノが死んじゃってたら……わたし……」
泣きじゃくるリルを地面に下ろし、ドラはよかったと思いつつすぐさま思考を切り替える。
ここまでなぜか、何もしてこなかった『勇者』を睨みつける。『勇者』の顔には待ってやってんだぞ? という言葉が浮かんでいた。これは余裕だ。何が起ころうとも、どうにでもなるという余裕。
ドラはこんな状態のリルに頼らなければいけない自分の力を嘆きながら、冷酷な現実を突きつける。
「生きている、と言ってもクロノも今すぐは動けん。傷は酷い。早めにどこかに連れて行かなければならん」
急に真剣な調子になったドラに、リルは涙を拭って向き直る。こういうところは本当に成長したのだと思う。
リルが現状を理解していることを確認してから、ドラは静かにこれからを告げた。
それは――決死で必死の逃走。賭け以外の何物でもない。あまりにもお粗末で危険。だがやるしかない。
リルの反論を力づくで抑え込み、ドラはそれを押し通した。
たとえその先に、どんな結末が待っていようとも。結末を知っていたとしても。
⇔
「さて、子供だから待ってやったが、そろそろいいか…?」
『勇者』は白々しい嘘を吐きながらゆっくりと二人に近づいた。彼が待ったのは決して子供だからなんて、人間味のある理由からではない。女子供だろうが、容赦しない人間だ。
ドラもそのことは十分に分かっていた。きっと、待っていたのは別の理由だろうと。
一歩一歩近づく『勇者』。
「行くぞ!」
唐突にドラが叫んだ。それを合図にくるりと踵を返し、リルを引っ張って走り出す。
『勇者』はディルグに待っているよう告げると、こんなものかと呆れながら後を追った。
追いつかれる。分かっている。それでもドラは走った。
数秒でたどり着く、クロノを寝かせた場所へ。今さっきいた場所から100mほどの草の中。同時に『勇者』が二人へと追いついた。
「逃げ切れるとか思ってないだろ?」
ドラは『勇者』へと向き直る。背後にはリルと寝たままのクロノ。背後の二人を庇うようにしてドラは立つ。
「さてな」
短い返答を返し、射殺すように鋭い視線で『勇者』を威圧するが、意味はなさそうだ。
ドラの顔には冷や汗が伝う。失敗したら全滅。
意を決する。やらなければ全滅だ。唾を飲み込んだ。
心臓の高鳴りが、身体の奥底から鳴り響く。やめておけと、ある本能が囁く。足が一瞬、笑った。
それら全てを抑え込み、ドラは目の前の敵と対峙した。
痺れを切らした『勇者』が動き出す。
直前。
ドラは、自分の身体を人間から、本来の姿――ドラゴンへと変貌させる。急激に肥大する身体。
小柄な体躯は、何者にも負けぬ巨躯へと成り変わり、少年だった身体は――見るもの全員を震わす威圧感を伴った鮮やかな緑青色のドラゴンへ。
一瞬、『勇者』がその変貌に意識をとられた。湧き上がる好奇心。目の前でありえない現象が起こっている。
しかし、すぐさま冷静さを取り戻し思う。これだけの為じゃないだろう? と。
そこで気づく。
そういえば、背後の人間はどこに行った?
気づいたときには遅い。クロノとリルはどこまでも広がった暗闇の空へと消えてしまっていた。
目くらまし。
ドラがドラゴンへと変貌した理由はそれだけだった。自分の巨躯で二人を隠し、注意を引いている間にリルがクロノを連れて、空へと飛び去る。
一人が残って、時間を稼ぐ。
これしかなかった。それ以外の術は思いつかなかった。
残った方に待っているのは確実な死。
そしてドラは知っていた。残るのは自分でなければいけないと。これは臣下である自分の務めだと。
生存本能が拒否した。身体が震えた。それでもやるのは自分以外にはありえない。
死ぬと知っていても、自分がやるしかないのだ。
死ぬのが怖い。そう思った。生物として当然の感情を思った。それでもやるしかない。
ドラは戦いに身を投じる。死が約束された絶望の戦いへと。
ドラは突き進む。自分の死という結末に向けて。
「ここは通さんぞ人間?」
さよーならドラ。
次回は多分ドラ視点の過去話かな。
ぶっちゃけ、人を殺しなれてる『勇者』様が即死の場所貫けないわけはないんですよねー。
クロノの謎の再生は大体馬鹿親のせい。胸に亀裂入れたアレのせい。




