第九十五話
殺気全否定クラウン
道化師はただ一人――月下の下で佇んでいた。
頭の中には夥しい数の声が鳴り響き、喧しいことこの上ない。常人であれば気が狂いそうな実に統一性のない耳障りな合唱を次々と聞き流す。
自分が聖徳太子のような存在であれば、この言葉たちを全て聞き逃すことなく、言葉を返すことが出来るのだろうか。
「結局、聖徳太子っているんだっけ? いないんだっけ? 僕がいた時代ではまだ結論が出てなかったんだったっけ?」
誰に訊くでもなく吐き出したその問いは、暗闇の中へと消えていった。
頭の中では依然、うるさい声が幾重にも重なって聞こえる。
しかし道化師はそんな声など気にも留めず、下を見下ろしながら淡々と言葉を吐き出していく。
「僕はさー、殺気ってあんま信じてないんだよね。感じたことないもん。魔法よりオカルトだよ。まあ、半径10km全員の声が聞こえるからかもしれないけどさ」
ふざけた調子でケラケラと笑いながら道化師は飄々と空に居座り続ける。
「殺気ってオカルトみたいなもんだよね。言い換えれば出来の悪いテレパシーじゃない? 殺すっていう感情しか伝えられない出来の悪いテレパシー。人の眼を見て感情を推測するのは誰だってある程度出来るけど、それとは違うだろ? 何の情報もなくいきなり殺気を感じるなんて、僕には理解出来ないな」
殺気に怨みでもあるのかと思うほど、好き勝手に扱き下ろしていく道化師。
「僕が殺気を心の声として感じている可能性もあるけど、それにしたってねえ…。曖昧で不確定すぎると思わない? そんなものに頼って戦うなんてアホらしいね。ねえ、そう思わない?」
ここでクラウンはある特定の人物に、決して届かない言葉を皮肉気に投げかけた。
「クロノ君?」
⇔
――どれだけ火薬撒いたんじゃ……。
顔を顰めながら疾走するドラ。
どれほど走ろうと火薬の鼻につく臭いから逃げ切れない。平原全体が異臭を漂わせる。
――財政が傾きかねんぞ…。
ベイポートで見た火薬の値段は決して安くはなかったはずだ。カイが大量に買うのを見て財布を心配したほどだ。ここまでの量となるとクロノの報酬何回分必要なのだろうか。想像するだけで顔が引き攣った。
上空では未だ飛行物体が見える。最早気には留めない。
歩きづらい平原を駆け抜けると、少し小さい川が見えてきた。ミナリス川だ。
河原から脚力を最大限に使って思いっきり飛び、向こう岸に着地する。
再び酷くなる刺激臭。どうやらここにも火薬は撒かれているらしい。早くこの場から離れようと一層速度を上げていく。
やがて見えてきたのは四角い光の壁。平原の中には似つかわしくない。それ自体が発光していて、淡い燐光が暗闇の中で異彩を放つ。
ドラはその内部へと眼を向けた――。
そこで見たのは――
⇔
ドラが二人の元へとたどり着いた時、クラウンの目の前を飛行物体が横切った。それはクラウンが一方的に視認しただけだ。そもそも、現在のクラウンは傍目には見えない。
飛行物体はクラウンに気づいた様子なく、下降していった。
光の壁へと。
それを見送った後で道化師は、『彼女』を憐れむように呟いた。
「ああ……実にうるさくなりそうだ」
⇔
ドラがそこで見たのは――血を流しながら地面に倒れる――――自分の主の姿であった。
⇔
二人の戦いの終わりを告げる、深紅の断罪の刃が無慈悲に振り下ろされた。
が、その刃は最後まで振り下ろされなかった。ピタリと――刃が手前で止まってしまったのだ。
理由は単純だ。クロノの力が抜けた。
クロノは集中しすぎていた。
「意識はどこまでも敵に向け、自分が今いる位置も何も確かめない。他のことに意識を向けている余裕はなかった」
この言葉通りだった。故に気づけなかった。背後に忍び寄った第三者の殺気に。地面の中から湧き上がるそれに。
「二人」の戦いは確かに終わりを告げた。遅れてきた第三者によって。
振り下ろす途中、クロノを衝撃が襲った。背後から。硬く、強い衝撃。
歯を食いしばるも、予期せぬ衝撃で行動が一瞬キャンセルされる。来ると知っていれば耐えられたはずの痛みだった。
だが、クロノはこの衝撃を知っている。昔何度も味わった感触だと。
だが、クロノはこの正体を知っている。自分を襲ったのが、きっと拳の形をした地面であると。
だが、クロノはこの人物を知っている。これは三姉弟の一人――ディルグ・ユースティアによるものだと。
姿は見えずとも確信を持って言えた。
大方、光の壁の外から地面を操っているのだろう。
しかし、分かったところでどうしようもない。痛みによって僅かに鈍った動き。時間にするのもめんどくさくなるほどに僅かな時間。それでも動きが鈍った。
そして、それを見逃すほど目の前の男は甘くはなかった。
直後。
クロノを光剣が貫いた。
⇔
ドラの目の前から突如として光の壁が霧散していく。おそらくこれは戦いの終焉を告げるものだ。そして同時にクロノの敗北を告げるものでもあった。
真っ赤な血が流れている。クロノの身体からそんなものが流れるのを見たのは何時以来だっただろうか。考えてみても一年近く遡りそうだった。
敵の姿を見る。ところどころ傷がついているがどれも致命傷には至っておらず、身体は至って元気そうだ。
しかし、その眼は限りなく淀んでいて、どこか不服そうにイラついている印象を受ける。
ここまでを省みると、ドラは冷静に見えるだろう。敵を把握し現状の理解に努めている。
だが、内心は燃え滾るような激情が昂ぶっていた。
悲痛に叫びたい。今すぐにでもこの現実全てを消してしまいたいほどの激情を必死に堪える。今やるべきことは違うのだ。決して激情に任せて怒り狂うことではない。
分かっている。分かっているからこそ、ドラは表面上平静を保てた。精神が何とか体裁を繕えた。長い一生を過ごしてきたことによって、精神の抑え方を知ったのかもしれない。ほんの百年前のドラであればここまで冷静ではいられなかっただろう。
まずは策を考えねばならない。クロノが負けたということは自分でも十中八九負けるということだ。
そんな相手から、クロノを引き剥がして戦闘から離脱する。
既にクロノが死んでいるという可能性は考えなかった。いや、考えたくなかった。考えてしまったらそれが現実になってしまう気がして。
ドラは頭の中をフル回転させる。戦闘経験に関してはクロノより上なはずだ。様々な策が浮かんでは消えていく。
その時だった。強烈な悪寒が走ったのは。
殺気――。
全身の毛が逆立ち、鳥肌が浮かぶ。根源的恐怖。背筋が凍るとはこのことを言うのかもしれない。
それは今までの生涯に感じた殺気が、所詮偽物だったのではないかと思うほどの重さ。暗く重い絶望感。まるで深海の底のような感覚。
それはそのまま、殺気を放っている人間の心情が内部に入ってきているのではないかと思う。
きっとこれは敵の放つものではなく、自分に向けられたものではない。だというのにこれほどのプレッシャー。
ドラは気づいた。考えた。思い出した。
上空の飛行物体。進行方向が同じ。敵意はない。この三つが意味するのは、ある人物だ。
やってしまった。今更自分の失態に気づいた。
あの「少女」が目の前で自分が消えたとすれば、どういった行動をとるか容易に想像できたはずなのだ。
ドラはゆっくりと上を見上げる。自分の予想が外れてくれていればいいと思いながら。
だが、世界は、その甘い考えを粉々に打ち砕く。
光の中に燃えるような赤髪。それとは対照的に、どこまでも暗く沈んだ――死人よりも虚ろな眼をした一人の少女が空に浮かんでいた。
⇔
爛々輝く太陽が世界から消えた。
太陽消えた世界はどこまでも暗く、先の見えぬ死の世界に成り果てた。
この世界は舞い戻る。太陽と出会う前へ。何時かの雨の日へ。ボロ雑巾以下の日々へ。
見えない。見えない。見えない。先も後も今も。
光を失った世界にはひたすらに漆黒が広がり、何も見えなくなってしまった。
細波すらたたない、風一つない静かな世界。きっとこれは前触れだ。大きな災害の前の一時の静けさ。
この世界は太陽によって成り立っていた。それが無くなった今――全てのバランスは崩壊し、暴走を始める。
誰だ。誰だ? この世界から太陽を消し去ったのは。
世界は許さない。消し去った人間を。
この世界の主は許さない。消し去った人間を。
少女は許さない。クロノを傷つけた人間を。
そして、世界に漆黒の闇が訪れた。
⇔
音がする。その場にいた全員がその音を感じた。微かな風の音。
風の音は徐々に音量を上げていく。同時に見える。渦を巻いた風。
全員が少女の存在に気づき上を見上げた。
少女の濁った瞳には何も映ってはおらず、ただ暗澹とした闇がそこにあるだけ。
首から落ちようとする頭を、右手で抑えるようにして、頭を抱えている。
うわ言をぼそぼそと呟いているが、最早なにを言っているのか分かりそうもない。
「……あ……死? 死………死死死死死死死死死死……」
きっと自分でも何を言っているのか分かってはいないだろう。
その間にも風はうねりを増し、渦を巻くようにして際限なく広がっていく。先ほどの光の壁の範囲などゆうに越えた。
そして、少女の言葉が純粋な殺意へと変わった。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
次の瞬間。
風の音は轟音に変わり、全てを飲み込むような竜巻が平原を支配した。
吹き荒れる暴風。
何者の抵抗も許さない、凄烈なる自然の力。味方であるドラすらも巻き込む気だ。いや、おそらく存在に気づいてすらいないのだろう。
ドラが声を上げるよりも早く、周囲を飲み込んだ竜巻。天に届くのではないかと思うほどに巨大。そして強大。
ドラの元に竜巻の一端が触れた。瞬間、ドラは覚悟する。いくら自分でも無事では済みそうにない。
軽い自分の身体が舞い上がり、地面へと叩きつけられるイメージ。
そしてドラの身体は舞い――上がらなかった。
いや、風がこの場からなくなっていた。風という風が瞬間的にこの場から消えた。
「おいおい……お痛が過ぎるんじゃないか?」
竜巻の消え去った跡には、『勇者』を顔に張りつけた殺人鬼が立っていた。
クロノをこのまま殺すか考えちゅー




