第九十三話
割と適当
暗闇の中に蠢く影。生い茂った草。光源が遠い。北の山の上に君臨する月。
軍隊の行軍は著しく遅くなっていた。
彼らを包むのは恐怖。
目の前で仲間が惨たらしくやられる様を見てしまった。幸い死者はそこまで出なかったが、再起不能者は多い。
ああなりたくない。
その感情は至極当然で、人間として、生物として当り前の感情だ。
戦闘経験が豊富ならば、これも割り切れたかもしれない。よくあることだと。
しかし、彼らには足りなかった。戦闘経験よりも遙かに、敗者のメンタリティが。
挫折。
戦勝続きだったここまで。初めての大きな敗北と言えたかもしれない。
これが『勇者』や三姉弟ほど強ければ、敗者のメンタリティなんてものはいらなかっただろう。事実、そういった彼らには必要が無いものだ。生まれながらに絶対的勝者なのだから。基本的に負けることがない人間にそんなものは必要ない。
だが、残念なことに、今いる兵士たちはそんな存在ではなかった。あえて言えば、所詮凡人の域を出ない存在。天才と凡人の間に創られた壁を永遠に越えられないような存在だった。
そんな彼らに追い討ちをかけるように去ってしまった大きな戦力。
出発前、高揚していた気分は、どん底まで落ち込む。
歩み寄る死への恐怖が彼らの歩みを遅めていた。
そして、それは、惨状を作りだした人間の狙い通りであった。
ナナシにはまったく、相手を全滅させる気などない。出来るのならしたいところだが、不可能だ。
そもそも、この戦争の勝利条件はクロノの『勇者』撃破であって、それ以外では成し得ない。きっと全ての軍隊を壊滅させても、『勇者』が生きている限り、戦いは終わらないだろう。
撃破するのはどう足掻いてもクロノ以外不可能だ。情けないと言われようが、それは客観的事実だ。
自分たちのやるべきことは、あくまでその間の時間稼ぎ。
陰惨な仲間の死に様を見て恐怖させる。それがあの川での目的。
それでも、この国の「最強」が使えない現状、やはり敵を多く殺しておくに越したことはない。この国の「最強」は諸刃の剣。動かした瞬間に、実質的敗北が決まる。
作戦の成功を、平原に火柱が上がっていたのを確認した兵士から聞いたナナシは、髪の下で密やかに笑い、誰にも聞こえない声で呟いた。
「私の手のひらで踊り狂って死んじゃえよ」
⇔
恐怖に身を震わせた軍隊は、著しく行軍を遅めながらも、何とかといった体でようやく二つ目の川へとたどり着く。予定は既に一時間以上オーバーしていた。
当然、彼らも先の出来事で何も学ばなかったわけではない。足元にも草陰にも細心の注意を払うようになっており、警戒心は一層高く持つようになっていた。予定より大幅に遅れたのは恐怖だけではなく、こういった慎重さもあったからかもしれない。
ここまで来ると、どうして部隊を分けなかったのか、という後悔が生まれるが後の祭りだ。驕りと慢心の結果である。
目の前には平原のど真ん中に位置する川。
川幅は三つの川の中でもっとも大きく、500m近い大河。ただ、深さはミナリス川と大して変わらない。苦もなく歩いて渡れる。橋はあるが、少なくともそこを通る気にはならない。
なぜなら――
「よう。こっちからのプレゼントはどうだった?」
その上には、敵と思しき人影が並んでいたからだ。
真っ先に足元に撒かれた砂に目を向ける。足で踏んだ感触からして先ほどの燃えた砂と同じものだ。集中すれば微かに臭う異臭。
「ん? 報告より人数減ってねえか? どうした?」
あからさまな挑発。ここで挑発に乗ってはいけない。
「いやいや、そちらのプレゼントに感激したらしくてな。子供のように早く帰って開けたいと駆けていってしまったよ」
平静を装い返答を返す。警戒は解かない。むしろあげるべきだ。
「そいつぁ、よかった」
含み笑いをして、橋の上に立つ敵の先頭は手を掲げた。悪寒が走る。よぎる死。
「じゃあ、もういっちょくれてやるよ!」
振り下ろすと同時に、火が木製の橋を伝い河原に撒かれた砂へと奔る。
脳裏に浮かぶ、さきほどの光景。燃え盛る炎が全てを飲み込んでいくイメージ。全てを燃やし尽くす絶対的炎が出現する――かと思われた。
だが、その通りには全くならない。
炎が河原を伝う。撒かれた砂のようなものの上を奔った。
しかし、それだけだ。音はしない。炎は勢いを増さない。逆に衰えていく。軍隊の前にある炎だけが。
終いには炎は二つに分かれ、軍隊を避けるようにして横に広がっていった。
「同じ手が通用するとでも?」
炎が自分たちを避けていったのを確認してから、一歩河原へと踏み出す。
靴に染みる冷たさ。足に入ってくる水。
炎が彼らの前で失速した原因は水だ。単純に水属性を使える者を先頭に置き、あらかじめ進むであろう道を濡らしただけ。火薬は湿っていると使えない。
濡らしていない方向には炎が広がり、けたたましい爆音を響かせるが何ら影響はない。
近づいてくる軍隊に慌てたのか、敵の先頭に立っていたうろたえたように声を上げた。
「クソッ……!! 引くぞ!!」
この言葉で圧倒的優位がこちらにあると判断した軍隊は、歩みを早める。
敵が橋の上から慌てて走り去る後を追いかけようとするも、橋の先は燃えているので使えない。迷わず川の中へ入り、追撃を始めた。
爆音は激しさを増しているが、炎はまったく襲っては来ない。どこまで広い範囲に火薬を撒いたのだろうか、という疑問が浮かぶがこちらに来ないのならどうでもいい話だった。
長い大河を多くの軍勢が走る。走るのに苦はない。
敵を追いかけていた先頭が、ようやく川の真ん中に差し掛かった。
相変わらずドドドと爆音がうるさい。しかし、彼らはそちらを向くことなくひたすらに敵を追いかけて走った。
これは火薬による爆音だ。
そう、思った。思ってしまった。先ほど聞いた経験が、そう彼らに判断させた。火薬とはこういったけたたましい音を響かせるのだと。
だからこそ、彼らは気づかない。その音の中に別種の轟音が混ざっていることに。
耳劈く爆音。爆音が火薬だと判断させる経験。暗い闇の中。炎が上がっていても視界は広くない。渡るのに時間がかかる長い大河。昨日の嵐。全てが整った状況。
これらから導き出される結論は一つ。
先頭がようやく向こう岸のたどり着こうかという時。
轟音と共に、膨大で純粋な水が彼らを飲み干した。
⇔
孤児院
暇を持て余していた少年と少女は、何となく空を眺めていた。空に散りばめられた星々は、昨日本当に嵐だったのかと思うほどくっきりと見える。
リルは一際目立つ星々を指差しながら、何か色々と違う単語を口にする。
「えーっと、アレがデブで、アレが尻で、アレがペテ……ン師? だよ」
「絶対間違っとるじゃろ……」
リルの星に関する知識はクロノから(元をたどれば朱美から)だが、あまり興味が無いのではっきりとは覚えていない。そもそも、覚えるということ自体が得意ではない。
「それで星は馬だったり、魚だったりするんだってー!」
何か間違った知識を誇らしげに語るリルを見て、ドラは呆れつつ内心溜め息を吐いた。
――こう暇じゃとな……。
リル同様ドラも星になど興味はなく、このままだとぼんやりと一夜を過ごす羽目になりそうだった。
退屈は人生を色褪せさせる劇薬だ。このまま、この暗闇と同期して溶けていってしまう。そんなのはつまらない。
ドラはおもむろに立ち上がる。
「でー、あれが羊でー、魚はー……あり?」
リルが振り返った時、そこにはただ暗澹とした暗闇があるだけだった。
⇔
洪水。
それが侵攻を強めていた軍隊を襲ったモノの正体。
この時期、ギール王都周辺は記録から見て雨が降りやすい。
ナナシがまず最初に目をつけたのはそれだ。この時期に降りやすい雨と平原の川、この二つから導き出されるものは簡単だった。川を堰きとめ、洪水を作り出す。
さしあたって、数日前に適当な人選をして北の山に送り、川を堰きとめる準備をさせた。
だが、問題があった。洪水はそれに伴って、大きな轟音を響かせる。それに気づかぬほど相手も間抜けではない。事前に察知されれば、敵の実力からして防ぐのは容易だ。
だからこそ、直前まで悟らせない。防ぐ暇を与えないようにしなければならなかった。
洪水に匹敵する爆音を響かせ、そしてその音を決して不思議に思わせないモノ。そこで思いついたのが火薬。
火薬の爆発音に紛らせて決壊させる。すると、轟音は爆音に混じる。火薬という存在を知らない人間も多いだろう。だから、事前に使っておく。これはそういった音を響かせるモノだと、意識に刷り込ませる。この音は不自然な音ではないと。
合図としても火薬は優秀で、火柱が上がったことを合図にすれば、暗闇でも北の山から見える。
川ということで真っ先に思いつく洪水という作戦、敵も同じだ。きっと最初はそれを警戒する。そこであえて、2番目にそれを持ってくる。
人間は学習するものだ。一度喰らったものには警戒を強める。しかし、全てに警戒は出来ない。あることに集中すれば他のことが薄れる。洪水を警戒していた脳は、途端に火薬を警戒するように切り替わる。再び火薬が撒いてあったとすれば尚の事。同じ失敗はしないと、それだけに意識を向けてしまう。
ナナシは言った。天変地異でも起きてくれないと。
言葉通り、ナナシは起こしたのだ。自然の力を借りて、洪水という災害を。
そろそろ地味な勇者戦は終わらせようっと




