第九十二話
姉らしき人物初登場
自軍の炎によって包まれた人間たちは、熱さの中で身を焦がし阿鼻叫喚の地獄絵図を作り出す。
皮膚が肉が骨が焼けていく。熱が痛みが身体の芯まで駆け抜ける。
無駄だと分かっていても、人間は叫ぶ。熱くて。痛くて。そして何より、苦しくて。
だが、炎に包まれて少しすると、叫び声は消える。死んだのではなく、喉が焼けたのだ。
人間の自殺の中で焼死は比較的苦しい部類に入る。
炎に包まれたからといって、簡単に灰になるほど人間の身体は脆くない。たとえ身体が全身燃えたとしても、少しくらいならば命を繋ぐことが出来る。後遺症が残る可能性は否めないが。
実際、通常の火災では純粋な焼損が直接的な死因になることは実は少ない。死因として多いのは、炎に伴って発生する有毒ガスの吸引である。
自殺する場合は逆に、自分の身体に火をつけるだけで、密閉空間でもなく大して有毒ガスが発生しないので、身体が焼損するまで待つしかない。その間というのは、他人からすれば短く思えるかもしれないが、本人にとっては非常に長く感じるものだ。だからこそ、自殺の中では苦しいとされる。
現在彼らがいるのは、だだっ広い平原だ。密閉空間ではない。彼らにとってそれは幸か不幸か。
言い方次第では、苦痛が長いとも言えるし、生きる可能性が高いとも言える。
敵に牙を向くはずだった炎は激しさを増し、先頭集団を飲み干して隊の中盤へと差し掛かる。
流石にここまで来ると、炎が暴走していることに気づき、ほとんどの人間が各々自分の前に風や土で壁を作った。それくらいの時間的猶予はあった。
中盤でせき止められた炎は当然、それ以降には広がらない。
真っ先に炎に包まれた最前列は、考えるよりも、半ば本能で川に飛び込んだ。当然火薬は河原にもあったが、死に物狂いでそれを抜けていった。
本当に悲惨なのは、先頭集団の真ん中から最後尾辺りである。味方の炎の暴走なんて非現実的な現象に対処するには時間がなく、川に行くには遠すぎた。それでも何人かは川に飛び込めたが、大半はそのままのた打ち回るか、川に行く前に力尽きるかである。
平原に漂う火薬の臭いと、焼けた肉の臭い。焼けた肉といっても、それは焼肉とは全く別種の臭いで、嗅ぐ者全員が顔を顰める。
炎は依然、前方を燃やし続けている。150年前を再現するかのように。
しかし、ここで水が降った。月がはっきりと見える空から。雨ではなく水だ。
雨と呼ぶには、粒が大きい。というよりそれは粒ではない。湖を炎の上からぶちまけたような、そんな水だった。
続いて兵士の奥の奥から声が聞こえた。
「早く誰かが消火すればいいと思ったのだけれど、誰もやる気配がなかったから、しょうがなく私がやる羽目になったわ。その事について、皆反省なさい」
それは女性の声。この隊――ひいては国で、誰もが知っている人間の声。
生き生きとした声ではなく、どこか億劫そう、それでいて言葉の端から溢れ出る自信と不遜。
誰も何も答えない。発言することを許さない空気をかもし出す女性。
「私は眠たいから帰って寝させてもらうおうと思うのだけれど―――よろしい?」
本当に眠たいのだろう。生あくびをしながら、目の前の惨状を見ているとは到底思えない暢気な言葉を吐く。
集団の回答は無言の肯定。はいかYESすらも許さない。つまりこの問いに意味はない。基本的に彼女の言葉には沈黙の肯定しか許されないのだ。
女性は集団から抜け出すと、腰まで垂らした宝石のような金髪を輝かせながら、虫の息の兵士が多い川へと向かった。
兵士たちを助ける為ではないことは皆分かっている。
苦しさから呻き声を上げている兵士を尻目に、戦場には似つかわしくないロングスカートの裾をまくり、鼻を押さえながら川へと降り立った。
「ああ、めんどくさい」
眠たそうな青眼をしばたかせ、一秒ほど固まった。
かと思うと、彼女の足から波紋が広がる。不自然に水の量が増えていき、川が流れない。
女性が湧き上がる水に腰を降ろすと、まるで椅子のように水が形作られた。豪奢な飾りから彼女のこだわりが、ただの水であるはずの椅子にも窺える。
「安心して。愚弟も暫くしたら来るでしょうから。あんな愚弟でもある程度は役に立つでしょう。それまで頑張っておいてね。では御機嫌よう」
この場にいない実の弟に散々な言葉を投げつけ、女性は優雅に椅子に座ったまま、洪水かと思う速度で川を下っていった。
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平原に金属の音が響く。大気を震わせる。不自然に明るい壁の中。
炎の気配など、どこにも感じさせない。仮にあったとしても、きっと彼らは気に留めないだろう。
その内の一人、『勇者』は笑っていた。近くから味方が過ぎ去ってから、たがが外れたように常に狂相を浮かべている。これが本来の姿のようだった。
クロノも当然その事には気づいていて、目の前の人間が何か崇高な理念なんて持っていない、肉を貪るためだけのただの獣に思えた。
それは若干合っているとも言えたし、若干間違っているとも言えた。
互いの背格好は似ている。平均より背は少し高い。大体180cmほどだ。髪は黒く、この世界には珍しい。
身体は特別細身ではないし、特別太いというわけでもない。露出した筋張った腕は、針金を束ねたような頑強な印象を受ける。
鍛えられていると言えば、確かにそうなのだが――それにしてもありえない。この程度の筋肉であれば、普通に鍛えている者とさして変わらない。
だというのに、彼らの速度は常軌を逸していた。簡単に言えば、それは人間ではないと他人に思わせるような速度、そして力。風よりも速いと言われても違和感はなく、事実その通りだった。
怪物――そんな表現がしっくりきそうな二人。
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クロノは戸惑っていた。今の現状に。
純粋な剣の勝負に持ち込めばこちらに分はあると思っていた。
自分の母親を鑑みるに、彼らの世界はどうやらこっちの世界とは大分違うらしく、剣なんてものは普段使わないらしい。それは平和ということなのか、或いは別の何かが発達しているのか、クロノには分からない。つまるところ――普段から剣を使っている自分とは差があるはずだ。
間違ってはいない。当たっている感触からして剣に関しては自分の方が上だ。極端なギアチェンジもしている。
それでも――致命傷には至らない。
思ったよりも数段、相手が剣を使い慣れている。少なくとも並以上だ。
しかし、魔法に必要なイメージする時間も、抽出する時間も与えはしない。
このまま押し切れはするだろうが、予定より大分時間がかかりそうだった。
ふと、盲目の参謀から言われた言葉を思いだす。
「こっちは時間稼いでおくので、その間にお願いします」
――あっちが持ちこたえられればいいけど……。
⇔
唐突に現れた予想外のイレギュラーに、この世界の人間にとってのイレギュラーは
――あー怖い怖い。
などと、いつも通りの調子で考えていた。
眼前に迫る死という名の刃。滑らかな動きでそれをかわす。
かわしざまに剣を振るってはみるものの、さっぱり当たらない。どころか、振ったことによって隙が出来るので、振らない方が安全なのではと思ってしまう。
冷静に敵を分析してみる。
自分と同じ黒髪だが、眼は青い。自分の世界でも珍しくはあるが、ハーフであれば無い話ではない。
ふざけた身体能力にしても、差はなさそうだ。
――日本刀……か…?
自分に死という制裁を下そうとしているのは、刀身が鮮やかな血のような紅に彩られた、この世界には存在しないはずの日本刀らしき物体。細身なのだが、中々硬い。
最初に使っていた、どこぞの神話に出てきそうな名前のついた剣は折られた。何とも使えない宝剣である。現在は自分で生成した光剣で闘っている状態だ。
――いや、宝剣ってそもそも実用性皆無だよな…。
そう思いなおす。
自分の世界でも実際そうだった気がした。多分この世界では意味合いが違うだろうが、そうでも思わなければやっていられない。
――我流っぽいな。
剣筋に決まった型は見受けられない。自分の世界でいう達人というわけではなさそうだ。自分よりは上だが。
彼が簡単にそう判断できたのは経験だ。
一時期、日本刀で人を殺すことにハマっていた時期があった。その時、ひっそりと道場に通ったのと、辻斬りという時代錯誤的行為をしていた経験がこの場で活きていた。
単純な殺し合いの経験も多々ある。
磨かれた危機察知本能が迫る刃一つ一つを見て「喰らったら死ぬよ」と告げていた。
――ほんっと、あの親には感謝だわ。
とある遺族を思い出して内心苦笑する。
やっていたことの関係上、何度か命を狙われたこともある。
端から捕まえる気などなく、自分を殺そうとしか考えていないであろう警官。死ぬくらいなら、と自分を殺しにかかる被害者。どこぞの誰に雇われたのか分からない殺し屋なんて者もいた。
だが、最も厄介だったのは殺した人間のとある遺族――母親だった。
警察でも察知しずらい自分の居場所を一ヶ月以内に必ず見つけ出す執念。容赦なく自分の手で殺そうという強い決意。どんな汚い手でも使う貪欲さ。その全てが実に素晴らしかった。
お蔭で大分、危機察知能力というか、生存本能が研ぎ澄まされた気がする。何とも頭が下がる思いだ。
相手との力量差を察知した上で彼は考える。
――どうすっか…。
剣で勝ち目はほぼないだろう。
だけれども、真面目に魔法なんてものを使う気は端からなかった。精々かく乱程度である。
真面目に魔法なんてものを解禁するなら、そもそもこんなことをせずとも、遠くから国全土を火の海にでもすればいい。
彼がそれをしないのは、単純につまらないからだ。殺したという実感がイマイチ湧かない。
殺すのならば手に感触が残る形で。
それは彼のこだわり。自然と育まれた感覚。歪んだ彼の哲学。
――考えてもしょうがねェか。
楽しい。
今、彼が感じている感情はそれだけだった。湧き上がる興奮。それ以上、何も必要はない。
そう考えると彼がやるべきことは只一つ。純粋に楽しむだけ。
ただ、間違ってはいけないのは、決して彼は戦闘中毒者ではないということ。
これは殺すという料理の下準備――味付けの段階。あくまで殺すまでの過程として、これを味わうのだ。 彼は、あらゆる思考を放棄して、目の前の戦闘へと、本能だけを傾けていった。
焼死に関しては、あんまり詳しく書きませんでした。
それだけで一話が終わりそうだったので




