そして僕は失った。
視点の固定。してんのこてい。転んで立ち上がったらまたずっこけた、みたいな響きのこやつは小説書きにとって避けては通れないスキルです。が、こんなもの知らなければよかった、と最近よく思います。
いえ、知らなきゃ困るんです。もちろん。新機軸を! と意気込んだって、基礎は一応知っておかなきゃいけません。そしてこれは小説書きの基礎中の基礎。誰の目線から語るか一つに絞る、ということですね。目線がぶれると物語に入り込みづらくなる、という理由で視点の乱れは嫌われます。例外もあるのですが、まあそれはそれ、応用編としておいて。
さて、そのすっ転んでばかりのどじっ子ちゃん、視点の固定をどうして知らなきゃよかったと思うのか。それにはこんな訳があるのです。
まずは視点の固定の意義とは、というところから。映画や漫画などは主人公が誰であろうと、カメラ=視点が外部にありますね。なので主人公がその場にいないシーンも自然に入れられちゃいます。ついでにモノローグで登場人物それぞれの心理まで語れてしまう。だから読者・視聴者は神の様に何でも知っている。しかし小説にはそういった万能のカメラ、いわゆる神の視点は使いづらい。あるんですよ、そういう神視点の小説も。でも、読者が主人公と同化して読み進める事ができないから、圧倒的な筆力が不可欠になる。で、大抵は登場人物の誰かの目を通してストーリーを進める事になります。そしてそれこそが小説の特徴であり、魅力なのであります。語らない美学とでもいいましょうか。
さて、映画や漫画と小説の視点の違いが定義できましたね。画像のあるものは読者・視聴者は何でも知っていて、小説は誰かの目線で読み進めるから、その人物の見ているものしか分からない。そしてそれこそが最近の私を悩ませる問題なのであります。
漫画ばかり読んでいたのですよ、一時期。小説を読めなくなって。だから漫画の多視点にどっぷり浸かりきっていた。それが小説をく書く様になって視点の固定を意識し始めた途端、漫画の楽しさが半減したんです。そう、あまりにも視点が変わりすぎるのに付いていけなくなったんです。ふーん、だからー、ではない、これは由々しき事態なのであります。
小説書きは小説だけ勉強していればいい訳ではありません。もちろん小説の先行作品も読まなければいけませんが、漫画、映画、舞台、音楽、とにかくあらゆるものを吸収しなければならない。そしてそれらを楽しめなくなるなんて、そんな苦行はない。少なくとも私には耐えられない。嗚呼、あの漫画との蜜月を返してお呉れ。
視点の固定には白鵬ががっぷり四つに組んでも動かせない重み、価値があります。が、多ジャンルを愛する一愛好家にしてみれば朝青龍並みの暴れ者。何でどすこいな話になってしまったのかは不明ですが、ともかく私は今、このどじっ子に猫だましと張り差しを食らわせてやりたい気持ちで一杯なのでありました。