和音
新年に大学受験を控えた洋太は、学校からの帰路を急いでいた。
身を切るような風は、自由気ままに吹き荒れるので、多方面から凍えがやってくる。
洋太は、コートの前襟を口元で握りしめ直し、縦横無尽に方向を変える風の中を縫うように進む。
洋太が急いでいる訳は、勉強をするためだ。
担任からは、偏差値を下げて大学を選び直すよう言われているのだが、洋太は頑として首を縦には振らなかった。
いや、振れなかった。
一つ上の兄は、一流大学へ入り、そのまた上の兄は、一流企業への就職が内定している。
両親は、末っ子の洋太にも一流大学を通り、一流企業で働くことを切望していた。
外聞が一番重要だと話す両親に対し、洋太も同意している。
しかし、頭の出来が兄弟の中で一番悪い洋太は、どんなに足掻いても二流大学でさえも無謀というところ。近頃では、両親から呆れられ、碌に話もしてもらえない日々である。
洋太は、今以上に勉強をし、なんとか二流大学に入らなければ、居場所さえなくしてしまう、という状態に陥っているのだ。
そんな恐怖の淵に立たされた洋太には、徒歩の時間さえも無駄には出来ず、急ぎ足ながら苦手な数学の公式を空で反復確認していた。
家の近くまで来た時、北風に煽られ、ふと何かの音色が届いた。
その音色に流されるかの如く、洋太の足はだんだんと緩やかなテンポに落ち着いた。
風に乗ってやってくる音色は、洋太の少し先にある白い外壁の家から出ているようだ。吸い込まれるように、洋太の足はそちらへ向かった。
道路に面した窓から、グランドピアノと黒髪の少女が見えた。
窓は全開になっており、突き刺さるような風は部屋の中へも出入りしているのに、少女の指は吹いている風よりも自由に流れている。
洋太は、その少女の指に見入ってしまった。
「あのぉ……大丈夫ですか?」
洋太は、声を掛けてきた少女をハッとして見た。
いつの間にやら、少女はピアノを弾き終え、窓を閉めようとしているところだった。
そんな時、窓の外に立ちすくむ洋太が目に入り、不審者と思いながらも、声を掛けたのだった。
「す、すみません。奇麗な音色だったので、つい……」
「……ありがとうございます」
これ以上、変に顔を覚えらることを避けるため、立ち去ろうとした洋太は、少女に声を掛けられ、ぎこちなく振り返った。
目を合わさないように少女を見る。
「あの、なんで、泣いているんですか?」
「えっ?」
洋太は思わず少女の目を見つめ返した。
少女の顔は、どうしてか歪んで見える。視力が自慢と言ってもいい洋太には、不思議な世界だ。
「どこか、痛いところでも?」
「ち、違うんです! えっと、あなたの演奏がとても楽しそうで、自由にみえて、それで……」
洋太の中で、また何か熱いものが込み上げてきた。少女の演奏を聴いていると、どんどんと言い知れない思いが外へと溢れだしてきていたのだ。
「私の演奏は、駄目なんですって」
下を向いた洋太に少女は、話しだした。
「作曲家の意図を読み切れていない、自由に弾きすぎて曲としてなりたっていない、自分勝手、いろんなことを言われています。でも、いいんです。私は、私の思った通りに弾きたいから。私は私だけの演奏をしたいから」
苦笑いだった彼女は、最後には自信に満ち溢れた表情で語った。
「自分だけの演奏……」
洋太には少女の表情が輝いて見えた。
「誰かに言われた通りなんて、嫌なの。でも、作曲家の情景は読めるように勉強中だけど」
「俺も、嫌だったんだ、本当は」
ポツリと口から出ていた。
洋太には、やりたいことはない。それに、親の言うことを聞いていれば、見捨てられないし、いざこざもない。
ただ、そんな思いでここまで来たのだ。
しかし、少女を見ていて、今までの自分に不信感を持ったのだ。安定した生活よりも、少女のように輝いた人でありたいと洋太は思った。
スッと、真正面からフラットな視界で、少女を見つめ返した。
「ありがとう」
洋太は、来た道を駆けだした。
教務室の前まで走って来た。荒い呼吸を二、三度整えるようなことをしてから、息を切ったまま担任の元へ向かう。
「先生、俺、志望校を変えます」
洋太は肩で息をしながらも、真剣な眼差しで、初老を迎える担任にはっきりと言った。
担任は、そんな洋太に驚くこともなく、優しい笑みを返すのだった。
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