第一章 -43-
そうして――、
明日から冬休みに入るという十二月のある日の放課後、少しだけギターを弾いて帰ろうと
第一スタジオに入ると愛莉がいた。
今年は愛莉達が受験生だから休みの間は練習の予定も全然入れていない。
だから、年明けまで会えないと思っていただけにスタジオのドアを開けて
愛莉の顔が見えた瞬間、すごく嬉しかった。
しかし、表情が暗い。
「おう」
「……」
サブのソファーに座っている愛莉に声を掛けると、彼女は無言で俺に顔を向けた。
だいたいこんな反応の時はご機嫌斜めだ。
「どうしたんだ? 月曜日でもないのにここに来るなんて珍しいじゃん」
俺は愛莉の向かい側に腰を下ろした。
「……明日から冬休みで当分ドラムに触れないから」
「つーか、なんで機嫌悪いんだ?」
愛莉はあまり顔に出さないようにしているみたいだが、スタジオに入った瞬間から
気になっている事を訊いてみた。
「……」
「言ったろ? 全部俺が受け止めてやるって」
「そう言うことは“彼女”に言えばいいのに」
「“メンバー”に言っちゃ駄目なのか?」
「誰にでもそういう事言ってるから陽子が勘違いするんだよ」
「誰にでもって……『全部俺が受け止めてやる』って言った相手は愛莉だけだぞ?」
(なんか今日はやけに突っかかるなぁー?)
「なんで?」
「なんでって……んー、力になりたいって思ったから、かな?
俺が話を聞いてやる事で少しでも心の中がすっきりするなら……楽になるならって思ったから」
「……」
「で? 何があったんだ? シンと普通に友達同士になってからは、
こんな風に機嫌が悪くなる事なんてなかっただろ?
少なくとも……俺の前では」
「……」
「無理には訊かないけどさ……話すのが嫌だったら、なんか演るか?
思いっきりドラム叩けばスカッとするだろ?
そもそも、その為にここへ来たみたいだし」
「……そんな風に優しくされたら……」
「うん?」
「……勘違いするだろ?」
(勘違い?)
「……あたしの事、好きでもないのに……なんでそんな風に……『俺が全部受け止めてやる』とか……」
「俺、愛莉の事、好きだよ?」
「そ、それは、友達としてだろ?」
「……」
(友達? いや、俺は“友達”として愛莉と接した事なんてない……、じゃあメンバーだから?)
「もしくはメンバーとして」
「……」
(メンバーだからかな? でも、俺は……もし、これが愛莉以外のメンバーだったら?)
俺はどうするんだろうか?
例えば美穂だったら?
千草だったら?
美希だったら?
てか……、そもそも俺は彼女達の不機嫌顔を見た事がない気が……。
しかし、そんなはずはない。
だって、いくらなんでもこれだけずっと一緒にバンドをやっていれば一度くらいは
俺の前で不機嫌な顔や悲しそうな顔、辛そうな顔をしていたはずだ。
でも、俺は見ていない。
「否定しないって事はやっぱりそうなんじゃん」
「違う」
「今更否定しても遅い」
「じゃなくて」
「?」
「俺……愛莉しか見てなかったんだ……」
「はぁ?」
「今、愛莉に“友達”として好きなんだろって言われて……でも、俺は今まで愛莉の事、
“友達”として接してた訳じゃないし、じゃあ“メンバー”としてか? って、
考えたんだけど……」
「うん?」
「メンバーとして接してたなら、他のメンバーの不機嫌そうな顔とかも見てると思うんだ」
「うん」
「けど、俺……見た覚えがないんだよ。みんなのいつもと違う表情」
「そんな訳ないだろー」
「俺もそう思った。でも、やっぱり見た事がないんだ。というか、見た覚えがないんだ」
「まぁ、確かに詩音があたし以外のメンバーに『機嫌悪そうだな?』とか『何かあったのか?』なんて
声掛けてるトコ見た事がないな……」
「だろ?」
「千草が大学の事で親と揉めてた時も、美希が彼氏と別れた時も、美穂のブログが炎上した時も
詩音は特に気に掛けてなかったしね」
「え……、その話、俺、全部知らないんだけど?」
「……マジで言ってる?」
愛莉が呆れた顔で言う。
「うん、何? その千草が親と揉めてたって」
「あたしと美希は大学で勉強したい事があるけど、千草って特に勉強したい事がないらしくて
その分余計に“プロになりたい”って思いが強いからなんだろうけど……、
進路相談の時、大学へは行かないって言ったんだ」
「大学に行かずにどうするつもりなんだろ?」
「本人はバイトしながらプロを目指すって言ってたんだけど、親はそんな夢みたいな事を言ってないで大学へ行きなさいって。
けど、千草としては別に行くつもりもない大学へ通うのはお金の無駄だから、それなら働くって言ってたんだけど、
みんなも進学はするけど一応プロ志向だってわかったし、だったら自分も真剣に大学で勉強したい事を探すって言って
解決したんだけどね」
「へぇー……つーか、美希って彼氏いたんだ?」
「いたよ。五つ年上の社会人で彼氏の浮気が原因で別れたけど」
「ほぇー……で? 最後の美穂のブログが炎上したって何だよ?」
「シンと付き合い始めた頃に美穂の記事のコメント欄に『シンと別れろ』とか『どうやってシンを騙したんだ?』とか
そういうのが書き込まれて大変な事になったんだ」
「それってシンのファンがやったのか?」
「うん、多分」
「俺、数日置きにしかブログ書いてないから全然知らなかった。
てか、ブログのコメントが承認制になってたのもメッセージを受け取らないように設定を変えたのも
そう言う事だったのか……」
「ホントに知らなかったんだ?」
「うん……で、話は戻るけど……俺は愛莉の事、“友達”でも“メンバー”でもなく好きだよ」
だって……愛莉だから嬉しかったんだ。
いつも練習の時だってそうだった。
スタジオのドアを開けて、愛莉の顔が見えると嬉しかったし、彼女が掃除当番や日直で遅い時も
『早く来ないかな?』って思ってた。
受験で部活を引退する時も“寂しい”って思ったのは愛莉に会えなくなるから寂しかったんだ。
最近は月曜日の放課後がすごく待ち遠しかったし。
「じゃあ……“先輩”として?」
「ううん」
「……なら……何?」
「普通に“女の子”として」
「……そ、それって、こ、こ、告ってる……?」
愛莉は少しだけ目を見開いた。
「うん」
「……からかうなよ」
「からかってないよ」
「……」
愛莉は信じられないのか無言で俯いた。
「俺が愛莉に嘘吐いた事ある?」
「ある」
「ないよ?」
「あるよ。去年の後夜祭の時、『トイレに行く』って言って実は天宮さんと会ってたじゃん」
「う……そ、それはー、その……つーか、何があったんだよ? 今日はやけにやさぐれてるけど」
「……」
そして、また無言になる愛莉。
「……」
俺は愛莉が話す気になるまで待った。
すると……、
「……クラスメイトから気持ち悪いって言われた」
愛莉がぼそりと呟くように言った。
「男?」
「うん……なんか、ずっと男っぽかったのに……最近、髪も伸ばし始めて、
言葉遣いとか変わって来たのが……しっくり来なくてキモイって言われた……」
「それでまた言葉遣いが微妙に男っぽく戻ってんのか……」
実はさっきからずっと気になっていた。
あの“元カレ事件”以来、少しずつだけど女の子っぽくなっていた言葉遣いがなんだか今日は戻っている気がしていた。
「愛莉……そいつの事、好きなのか?」
「全然好きじゃない」
即答する愛莉。
「好きじゃないんなら、気にする事もないだろ?」
「……でも、周りにそんな風に思われてるんだと思ったら……なんか……だから、『好き』だとか、
そんな事言われても……信じられないって言うか……」
「じゃあ、どうすれば信じるんだ?」
「……」
黙り込む愛莉。
「言葉だけじゃ足りないなら……愛莉が俺にして欲しい事を言って?」
「……証拠、見せて」
「証拠?」
「詩音が……“あたしの事を本当に好きだ”っていう証拠……」
愛莉は少し俯いて、俺を上目遣いに見ながら言った。
「わかった」
俺はソファーから立ち上がり、愛莉の隣に移動して座り直した。
「な、何……?」
俺に警戒する愛莉。
『証拠を見せろ』とかそんな挑発的な事を言っておきながらその反応はないだろう?
……とか思ったが、とりあえず愛莉が逃げないように手首を掴んだ。
「詩音……?」
背中を反らせて逃げる愛莉の肩に腕を回して俺は掴んでいた手首と共に引き寄せた。
「し……っ!?」
そして愛莉の桜色の唇にキスを落とした。
「……ん……っ」
少し苦しそうに声を上げる愛莉。
それでもまだ唇を重ねたままでいると愛莉が空いている手で俺の肩を押した。
離れる唇。
「も……苦し……」
唇が完全に離れると愛莉が肩で息をしながら言った。
「鼻で呼吸すればいいのに」
いきなりキスをされ、口を塞がれて驚いたのか愛莉はキスの間、呼吸をしていなかったようだ。
「……てかっ、なんで、いきなり……」
少し怒ったような口調の愛莉。
「だって、『証拠を見せろ』って言ったの、愛莉の方じゃん?」
「そ、そうだけど……っ」
「俺、愛莉の事、本気で好きだ」
好きだから、こんなにも彼女の事が気になるんだ。
「詩音……」
「愛莉が好きだ」
「詩音、離して……?」
俺は愛莉の手首をまだ掴んだままだった。
そして肩も抱いたままだ。
「嫌だ」
「……詩音……あの先輩の事が好きだったんじゃないの? 同情で簡単にキスなんか……」
「確かに東野先輩の事は好きだったよ……否定はしない。でも……、先輩の事はあくまで“憧れ”だよ。
それに……俺、佐保にすらキスしなかったんだぜ? 同情でキスなんか出来る訳ないだろう?」
「……」
「東野先輩の事が本当に好きなら……あの時、告って無理矢理にでもキスしてた……」
「……そうしなかったのは、先輩に嫌われたくなかったからじゃないの?」
「それは違う。先輩への憧れが強かったから中学の時も……再会してからもずっと告れなかったんだと思う。
……というか、告る気があったら今みたいに自分の気持ちを素直に話してるよ」
「……」
「俺、愛莉が思ってるほど、意気地なしじゃないつもりだけど?」
そう言って愛莉をじっと見つめると、彼女はどうしていいのかわからないといった表情をしていた。
「先輩には彼氏がいるって言うだけで諦められるけれど……俺はもしも愛莉に……というか、
愛莉の元カレが現れた時も気が気じゃなかった」
「じゃあ……もしも、あの時……優一が無理矢理あたしを……どうにかしようとしていたとしたら……?」
「もちろん、全力で愛莉を守ってた」
「嘘……っ」
「嘘じゃない。だから、あの時も俺は愛莉を背にしてただろ?
元カレが『やり直そう』って言った時だって愛莉が『うん』って言ってたら……多分……俺、
バンドも抜けて軽音部も辞めてた」
「それも嘘だって」
「ホント、それぐらいショックで立ち直れなかったと思う」
「……そんなの……っ、嘘だ……あたしなんかの事……っ」
「愛莉っ」
俺が言う言葉を全部否定して顔を背けた愛莉。
そんな彼女を再び引き寄せ、
「他の奴等が愛莉の事をどう思おうと関係ない。俺は愛莉が好きだ」
そう言ってきつく抱きしめた。
「詩音、苦しいよ……離して……?」
「嫌だ、愛莉が俺の気持ちが本気だって信じるまで離さない」
「……」
「でも……愛莉が俺の気持ちを受け入れられないなら仕方ない……」
俺は腕の力を緩めた。
「やだ、離さないで……」
すると、愛莉が小さな声で言った。
「どっちだよ? 離せって言ったり、離すなって言ったり」
「だって……さっきはびっくりしたけど……」
「けど?」
「詩音の気持ち……受け入れられなくないもん……だから……離さないで……」
「じゃあ……俺が本気だって言うのも信じてくれるの?」
「うん……」
「……てか、一つ、そのー……確認なんだけどさ……」
「な、何?」
愛莉は恥ずかしそうに俺と視線を絡ませた。
「愛莉の気持ちはどうなのかなー? と、思って……。
俺が佐保と付き合ってた時、彼女の事……好きじゃなかったから……、
結局、俺自身も辛かったって言うか……だ、だからそのー……、
告っておいてなんなんだけど……愛莉が俺の事をなんとも思ってなかったりとかだったら……」
「……そ、それは、詩音があの先輩に失恋したばっかりだったからじゃないの?」
「ん、まぁ……そうなんだけど……」
「あたしは、まだ失恋してないし」
「“まだ”? て事は、やっぱ好きな人がいたんだ?」
(誰だろ? 俺が知ってる人かな? もしかして……バイト先の人とか?)
「詩音が……また……他の人と付き合ってたら……失恋してたけど……」
呟くように言いながら視線を外す愛莉。
「俺が? それは有り得ないよ。だって、もう愛莉の事が好きなんだってハッキリわかったんだから。
誰に告られても……て、ん? なんで俺?」
「だ、だから……っ」
「?」
「……な、なんで、わかんないかな……」
「???」
「あた、あたしも詩音の事が好きなのっ! だからっ、詩音が他の子と付き合っちゃうと……、
あたしが失恋しちゃうって事っ!」
「あー、そういう事かぁー、なーんだ……って、えぇぇぇぇーーーーーっ!?」
顔を真っ赤にしながら言った愛莉の言葉に俺は度肝を抜かした。
「そ、そんな驚かなくても……」
「いやいやいや、フツーに驚くだろっ」
「ま、まぁ……そうだけど……」
「……い、いつから?」
「へ?」
「愛莉はいつから俺の事、好きだったんだ?」
「……わかんない……気が付いたら……詩音の事を目で追ってた……」
「俺と一緒だ……俺も愛莉の事、気が付いたらいつも目で追ってた」
不意に視線が絡み合い、愛莉が恥ずかしそうに目を伏せる。
「可愛い♪」
俺がそう言って笑うと、
「もうっ」
彼女はまだ赤い顔でからかうなと言うように俺の肩を軽く叩いた。
「なぁ、愛莉」
「うん?」
「もう他の奴の言う事なんかに振り回されるなよ……俺は愛莉が好きだ。
それだけじゃ駄目か?」
「こんなあたしでも?」
「俺はどんな愛莉だって好きだよ。
前みたいな男っぽいのも、今みたいに女の子っぽいのも。
どっちの愛莉も好き……なんなら、格好は男っぽくて言葉遣いや仕草が
女の子っぽいっつーのも“有り”だと思ってる」
「そ、そんなの……」
「別になんとも思っていない奴の言う事なんか気にするなよ。
俺が“可愛い”って言ったら、可愛いんだから」
「……うん」
「じゃあ、約束」
「うん」
愛莉は小さく笑みを浮かべながら顔を上げた。
俺はもう一度愛莉にキスをした。
“大好きのキス”と“約束のキス”を――。
これにて第一章は終了です。
第二章開始は未定です。
気長にお待ちくださいませ;