第一章 -38-
翌朝――、
週明けの月曜日。
「おはよ」
教室に入って自分の席にカバンを置くと、佐保が何か言いたそうな顔で俺を見上げた。
「……おはよう」
とりあえず、挨拶を返す。
「昨日の人って、この間もHappy-Go-Luckyのライブに来てたよね?」
「昨日の人って?」
多分、いや……絶対東野先輩の事を言っているのだろうけれど、一応訊き返す。
「小暮先輩と一緒に現れた人」
ほら、やっぱり。
ちなみに佐保がシンの事を“小暮先輩”と言ったのは彼が三年生になったのを機に
“東野”姓に変わった事を知らないからだ。
「あぁ、東野先輩の事ね」
「先輩って……詩音の先輩なの?」
「うん、中学の時のな。ちなみにシンのお姉さん」
「苗字が違うじゃない?」
「あそこの家庭はちょっと複雑なんだよ」
「ふーん……てか、あの人、すごい美人だったね」
「中学の時も学校一の美人で有名だったからなー」
「……」
佐保は黙ったまま俺の顔をじっと見る。
とても何か訊きたそうに。
「……言っておくけど、東野先輩にはちゃんと彼氏がいるよ?」
「え、そうなの?」
「あぁ、今ウィーンに留学中らしいけど」
「う、うぃーん?」
「バイオリンやってる人なんだよ」
「ほぇー……」
「で、シンが遠距離恋愛になって寂しい思いをしてる姉貴の気を紛らわせてやって欲しいって。
そーゆー訳で昨日は四人で遊びに行ってたんだ」
「そうなんだ……」
佐保が少しホッとしたように言う。
「じゃあ……また、遊びに行く事もあるの?」
「んー……どうかな? あるかもしれないし、ないかもしれない。
でも、もしもまた一緒に遊ぶ事になったとしても東野先輩と二人きりって事は絶対にないよ」
「どうして?」
「だって、もし自分が東野先輩の彼氏さんの立場だったら、いくら遠距離恋愛で彼女に寂しい思いをさせてるのが
わかってて、それが仕方のない事だとしても、他の男と二人で遊びに行ったって知ったら……、
いい気はしないだろ?」
「うん……そかも」
「何かのっぴきならない理由があるならともかく、そんなのが何回も続いたら……って考えると、
変に波風が立つような事をするより、他に誰か誘って“二人きり”っていうシチュエーションは
回避したいかな」
「じゃあ、そこにあたしが入るのも有りな訳?」
「うん、全然有るんじゃないか?」
だって、例え二人きりでまたどこかへ遊びに行ったとしても東野先輩の心の中にはいつも柳沢さんがいる。
それが昨日、嫌って程よくわかった。
綺麗な夕陽を見れば彼にも見せてあげたい。
美味しい物を食べれば彼にも食べさせてあげたい。
楽しい事があったら彼に聞いて欲しい。
東野先輩の心の中はいつも“彼”でいっぱいなのだ――。
◆ ◆ ◆
その日の放課後――、
本日の部活内容は学園祭の野外ステージで演奏する曲についてのミーティングだ。
「今回から『Your Song』は外したいんだけど、駄目かな?」
俺はそのミーティングの場でそう申告した。
「えっ、どうして?」
俺の目の前に座っている美希が首を傾げる。
「あの曲はオリジナルを始めてからずっとやってるし、そろそろ違うバラードに切り替えた方が
いいと思うんだ」
「……確かにバラードはもう一曲出来てるし、切り替えても問題はないね」
愛莉は少し考えて口を開いた。
「あの曲、人気あるのにー?」
「だけど、詩音が乗り気じゃないんなら……やめとこうか」
美穂が納得いっていないかのように口を開く中、リーダーの千草が言った。
「……まぁ、詩音がまた歌う気になったらやればいいんじゃない?」
俺の隣に座っている愛莉は柔らかい口調で言った。
「うん、ごめん……」
『Your Song』を歌う度、東野先輩の事を思い出していた。
だから諦め切れていなかったというか、吹っ切れていなかったのかもしれない。
佐保と付き合っていた時は“頑張っていた”から思い出しても平気だった。
けれど、今はせめて俺の心の中に別の誰が存在するようになるまでこの曲を封印したいんだ――。
◆ ◆ ◆
それから数日が過ぎ――、
学園祭一日目の今日は去年とは違い、外部のバンドによるライブイベントが野外ステージである。
もちろんシンのバンド・Arrogantもトリで出場する事になっていて彼等の出番までは
俺達・Happy-Go-Luckyのメンバーはそれぞれ模擬店に出ていたり、友達と校内を回っていた。
「詩~音っ♪」
そして、俺が自分のクラスの模擬店を手伝っていると美穂がやって来た。
「おぅ、あれ? 一人?」
美穂は一人で来ていた。
他のメンバーの姿も見えないし、友達も一緒ではないようだ。
シンの姿もない。
「うん、シンへの差し入れを買いに来たの」
俺達のクラスはお好み焼きの模擬店をやっている。
関西風の具材を混ぜて焼くだけの少し小さめの物だからおやつには持って来いなのだ。
「シン、もう楽屋に入ってるのか?」
「ギリギリに入るより、早めに入って落ち着いていたいんだって」
「確かに、押すのがわかってても早めに楽屋に入っておきたいよな。
ほい、これメンバーの人数分用意したから」
俺はArrogantのメンバー四人分のお好み焼きを袋に入れて美穂に手渡した。
「代金は俺が持つよ。でも、シンに渡す時は美穂からだって言いな?」
「わぁ、ありがと♪」
美穂は嬉しそうな顔で受け取った。
「冷めないうちに持って行ってやれよ」
「うん♪」
美穂はとても可愛らしい笑みを浮かべて返事をすると俺に手を振ってシンの楽屋へと向かった。
シンと付き合い始めた頃の美穂にはあまり変化がなかった。
それに対してシンの方はと言うと、移動授業なんかで廊下ですれ違う時も以前にも増して
表情が柔らかくなっていた。
だからきっと告ったのもシンからなんだろう。
でも、今は美穂の方も段々と幸せそうな顔になってきている。
余程二人の仲が順調なのだろう。
俺は美穂の背中を見送りながらそんな事を思った。
すると……、
「おーい、ボーッとしてたら焦げるぞ?」
突然すぐ傍から声が聞こえ、ハッとした。
「あ……愛莉」
お好み焼きを焼いている俺の視界に愛莉が入ってきた。
「それ、そろそろ引っくり返さないとヤバいよ?」
愛莉は俺の目の前の鉄板でジュウジュウいっているお好み焼きを指差した。
「あ、あぁ」
「詩音、後どれくらいで交代するんだ?」
「んーと、後もう少し。これ焼いたらあがるよ」
「じゃあ、二つ買っとくから部室で一緒に食べようぜ」
愛莉はニカッと笑った。
「うん」
俺はその言葉に素直に返事をした――。
そして店番が終わり、一緒に部室でお好み焼きを食べていると――、
「そういえば、さっき美穂も何個か買って行ってたけど、シンに差し入れでもすんのかな?」
愛莉が言った言葉に俺は驚いた。
「だって付き合ってるんだろ? シンと」
「……知ってたのか?」
「そりゃ、シンの噂なんて何にもしなくても耳に入って来るよ」
苦笑いする愛莉。
「もしかして、ダブルデートしたあの日から?」
「あぁ、観覧車に乗る時にさ、『四人だと狭いから二人ずつに分かれよう』ってシンが言ったから
その時はそれもそうだなと思って、俺と東野先輩、シンと美穂とで分かれて乗ったんだけど、
観覧車から降りた直後にシンが『俺達、付き合う事になった』って宣言したんだ」
「それってシンにしてやられたんじゃないの?」
「俺もそう思う。つーか、これがホントに計算した上での事ならシンのヤツ……、策士だな」
「そういえばー、この間シンに『美穂って彼氏とか好きなヤツはいるのか?』って訊かれたなぁー」
「へぇー、それで? 愛莉はなんて答えたんだ?」
「『いないんじゃないの?』って言ったよ? いたらあんな毎日ブログばっかやってないでしょ?」
愛莉は笑いながらまた一口お好み焼きを食べる。
「確かにシンと付き合い始めてから美穂のブログの更新回数が減ってるしな」
……と、言いながら愛莉の表情を窺う。
「……何? 詩音」
そんな俺の様子に愛莉が怪訝な顔をした。
「いや……」
「もしかして、あたしがシンの事をまだ好きなんじゃないかって思ってる?」
「……うん」
「もうなんとも思ってないよ。そもそもまだ好きだったらシンに美穂の事を訊かれた時に
『彼氏がいる』とか『好きな人がいるみたい』とか適当に言ってるし。
流石に美穂と付き合ってるって聞いた時はびっくりしたけど、別にショックじゃなかった」
「そ、そか」
「それより……」
すると、今度は愛莉が俺の顔を窺いながら言った。
「詩音が『Your Song』を歌いたくないのは……もしかして、あの日、先輩と何かあったのか?」
「……」
「……まさかとは思うけど……、今更告ったとか言わないよね?」
「告ってはない。けど……」
「けど?」
「改めて失恋した」
「何それ?」
「観覧車に乗ったのって夕方だったんだけどさ……、そこで一緒に夕陽を見てたらなんか……」
「忘れかけてた想いが一気に湧き上がったってか?」
愛莉は呆れたように言った。
「……かな。でも、先輩はその夕陽を見て『賢悟さんにも見せてあげたいなぁ……』ってさ。
その時に先輩の心はいつも柳沢さんの事でいっぱいなんだなーって思い知らされた気がした。
それに『Your Song』を歌い続けてる限り、俺は先輩の事をちゃんと諦める事が出来ないと思うんだ」
「詩音て、案外未練たらしいヤツだったんだね」
「ぅぐ……、せめて“一途”だと言ってくれ」
「ま、そういう事にしておいてやるよ」
「……」
「けど、逆を言えば好きになったらずっと想い続けるって事だから浮気はしないのかもね」
「浮気をするくらいならちゃんと別れるよ」
「するつもりなんだ?」
「違う違う、そーゆー意味じゃなくて」
「なんか詩音て、難しいヤツだなぁ」
「お前がそれ言うかぁ?」
「あたしは単純だもん」
確かに元カレに言われた一言が原因で髪型や言葉遣いまでガラリと変えてしまったという点では
俺よりも……いや、普通のヤツよりも単純だ。
まぁ、これを言うときっと怒るだろうし、昔の話をして元カレの事を思い出させるのもなんだから言わないけれど。
「……けど、俺も単純だよ。夕陽一つで気分が盛り上がっちゃうんだから」
「盛り上がってホントに女を口説いたもっと単純なのがシンだけどな」
愛莉はそう言うと大きく口を開けて最後の一口を美味しそうに食べて笑った。