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黒い鵺の影

「……ほら、イタチさん。怖がらないで。もう痛いお札もないし、意地悪な先生もいないからね」


奉行所からの帰り道。私は着物の懐にカマイタチの三匹目を抱き抱え、優しく撫でながら歩いていた。三匹目は泥と鼠の匂いにまみれた私を嫌がるどころか、むしろ安心してすり寄ってくる。


「おい。さっきから聞いてりゃ、ただの害獣相手に随分と甘ったるい声出してんな」


隣を歩く榊が、キセルをふかしながら呆れたように言った。


「害獣じゃありません! こんなに小さくて可愛いのに。それに、この子がいないと江戸の辻斬り事件は解決しないんですよ?」

「分かってるよ。俺の屋敷には、人魂の案内で残りの二匹も集めてある。……お前はもしかしたら妖を安心させる体質かもな。ずいぶんなついている」

「……私の体質は関係ありません。私の日頃の行いが良いからです!」

「はいはい。そりゃよかったな、雛」


榊は投げやりに返しつつも、私の名前を呼んだ。さっき屋敷で初めて呼ばれてから、なんだかそれが当たり前になりつつある。


……まあ、木偶人形と呼ばれるよりは、百倍マシだ。


「ところで、榊さん、さっき玄安の屋敷で言っていた『黒鵺』についてですが」


私は、ふと気になっていたことを口にした。


「鵺というのは、猿の顔にタヌキの胴体、虎の手足に蛇の尻尾を持つという、あの恐ろしい妖怪のことですよね? それが、犯罪組織の名前になっているのですか?」

「……よく知ってるな。その通りだ」


榊は夜空を見上げ、細く煙を吐き出した。


「黒鵺。……正体不明の組織だ。あいつらは、妖を狩り、呪具として悪用するための札を裏社会で売り捌いてる。その札には決まって、黒い鵺の紋様が描かれているんだよ」

「……そんな危ない札が、出回っていると?」

「あぁ。一度だけ、寺社奉行所にいた頃に、同じ入れ墨を入れた小悪党を捕まえたことがあってな。ただの喧嘩で御用になった奴だったが、後から凶悪な押し込み強盗の一員だと判明した」


榊の声が、不意に冷たく、そして苦いものへと変わった。


「事情を聞き出そうとしたんだがな。……そいつは、堅牢な牢屋の中にいたはずなのに、翌日には正体不明の妖に殺されてやがった。……まるで、口封じのようにな」

「……牢屋の中で、妖に?」


私は息を呑んだ。奉行所の牢屋といえば、厳重な警備が敷かれているはずだ。そこへ侵入して、囚人だけを確実に殺すなど、人間の業ではない。


「……ッ!」


その瞬間、榊の足がピタリと止まった。


彼の顔から余裕が消え、サングラスの奥の瞳が見開かれる。


「……しまった。すぐに戻るぞ、雛!」

「えっ? 戻るって、どこへ!」

「奉行所だ! 玄安が危ねえ!」


榊は、私の返事を待たずに、今来た道を猛烈な勢いで引き返し始めた。私は慌てて懐のカマイタチを抱き直し、彼の後を追う。


「どうしたんですか、突然!」

「俺としたことが、大きな見落としをしてた! 玄安が最後に使おうとした、あの『発火札』だ!」


榊は走りながら、声を張り上げた。


「妖力もねえ一般人でも、あんな強力な妖術札を使える。だが、代償として使用者の『生命力』を急激に奪う。……あんなものを、おいそれと医者風情に渡したってことは、黒鵺の連中にとって、玄安の命なんて最初からどうでもよかったってことだ!」

「……じゃあ、あのお札は」

「玄安に妖を操らせて金を稼がせつつ、いざ奉行所の手が回ったら、あの札を使わせて自滅させるための『仕掛け』だったんだよ! ……だが、お前が札を斬ったせいで、玄安は生き残った」


榊の言葉に、私は背筋が凍るのを感じた。


「……つまり、黒鵺の連中は、自分たちの情報漏れを防ぐために……」

「あぁ。玄安の口を、直接塞ぎに来るかもしれねえ!」


私たちは、息を切らせて奉行所の門へと駆け込んだ。


だが、門番の様子がおかしい。彼らは慌てふためき、中へ中へと人を呼んでいる。


「……遅かったか」


榊が舌打ちをして、奉行所の中へと踏み込んだ。私もそれに続く。


案内された仮牢の前に立つと、そこには既に、役人たちが人だかりを作っていた。


そして、その中心。


玄安は、冷たい床の上で事切れていた。


外傷はない。だが、その顔は恐怖に引き攣り、両目は見開かれたまま、虚空を睨みつけている。


……先ほど話に聞いた、牢屋で殺されたという黒鵺の小悪党と同じように。


「……畜生っ!」


榊が、牢の鉄格子を力任せに殴りつけた。鈍い音が奉行所に響き渡る。


「……榊さん。玄安は……」

「あぁ。……完全に、やられた」


榊は壁に背中を預け、キセルを取り出そうとして、やめた。


彼の瞳には、かつて見たことがないほど深い、怒りと後悔の色が沈んでいた。


「……黒鵺。連中、どこまでも江戸の理をコケにしやがる」


榊は低く、地を這うような声で呟いた。


「……雛。お前、昼間『西園寺家の娘が逃げ出したなんて言われたら先祖に顔が立たない』って言ってたな」

「……はい」

「だったら、覚悟を決めろ。……これからは、辻斬りなんて可愛いもんじゃ済まねえ。江戸の闇の底に巣食う、底知れねえ化け物どもと殺し合うことになるぞ」


榊の言葉は、脅しでも冗談でもなかった。


私は、懐の中で震えるカマイタチをそっと撫で、仕込み杖の柄を強く握りしめた。


「……望むところです。私は、誰かの血が流れるのを黙って見ているような、木偶人形じゃありませんから」


月明かりが、私たち二人と、冷たい亡骸を静かに照らしていた。江戸の夜は、まだ始まったばかりだ。

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